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第四章:家出魔導士と故郷の空
第19話:嵐喰らいの目覚めと父の結界
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その夜、私たちが滞在する風読みの村は、まるで世界の天井にでもいるかのような、荘厳な星空に抱かれていた。手を伸ばせばこぼれ落ちてきそうなほどの星々が、漆黒のキャンバスに無数に散りばめられ、天の川は乳白色の壮大な帯となって夜空を横断している。眼下の雲海は遥か遠くに広がり、ここが高地の隔絶された場所であることを静かに物語っていた。普段ならば、この幻想的な光景に誰もが心を奪われるはずだった。しかし、村からあてがわれた客室に漂う空気は、星々の瞬きとは裏腹に、鉛のように重く、氷のように冷たく凍りついていた。
原因は、白昼に繰り広げられた、この村の長オルドスと、その一人娘であるルーナとの激しい親子喧嘩にあった。きっかけは些細なことだったのかもしれない。しかし、積年のわだかまりが噴出したかのような二人の口論は、私たち旅人をも巻き込み、後味の悪い置き土産だけを残していったのだ。
その結果、ルーナは客室の奥にある自室に鍵をかけて閉じこもったままで、夕食の席にも姿を見せなかった。部屋の扉は、まるで彼女の固く閉ざされた心を象徴しているかのように、びくともしない。
「まあ、親子喧那なんてそんなものよ。時間が経てば、お互い冷静になるわ。放っておくのが一番よ」
アリーシアは、まるで全てを見通しているかのように、優雅にカップを傾けながら言った。その博識で常に冷静な彼女らしい言葉ではあったが、どこか他人事のような響きがあった。私は、君自身が抱える問題はどうなんだ、と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。彼女の過去に何があったのか、私たちは深く知らない。だが、時折見せる寂しげな横顔は、彼女もまた、言葉にできない何かを背負っていることを物語っていた。
バーのカウンターを陣取ったジンは、私たちの気まずい沈黙をBGMにするかのように、手にした酒瓶を黙々と煽っている。琥珀色の液体が喉を滑り落ちるたび、彼の喉仏が小さく上下する。その無表情な横顔は、この状況を「つまらない」と断じているようにも、あるいは、これ以上厄介事に巻き込まれるのを避けているようにも見えた。だが、時折鋭く細められるその瞳は、部屋の隅々や、外の闇を警戒するように探っている。彼なりのやり方で、常に周囲を警戒しているのだ。
そして、心優しい神官のセレスは、ただただ眉を下げ、心配そうにルーナの部屋の扉をじっと見つめていた。彼女の大きな瞳は不安に揺れ、何か声をかけようとしては、その言葉を飲み込んでしまう。彼女の祈りが、厚い扉の向こうにいる頑なな少女に届くことはない。
ゴウゴウと、まるで地の底から響いてくるような風の音が、村を絶え間なく吹き抜けていく。風読みの村と呼ばれるだけあって、この地に風の止む時はない。しかし、この重苦しい沈黙の中では、その風音さえもが、何か不吉なことの前触れのように聞こえ、私たちの不安をじわじわと煽っていた。
その、張り詰めた静寂を、突如として激しい衝撃が引き裂いた。
「「なっ!?」」
それは、下から突き上げるような、凄まじい縦揺れだった。予兆も何もない、暴力的な揺れが私たちを襲う。立っていることすらままならず、私は咄嗟にテーブルの脚にしがみついた。ランプが激しく揺れたかと思うと、甲高い音を立てて床に落ち、火が消える。棚に並べられていた食器類がガタガタと音を立てて滑り落ち、床に叩きつけられて粉々に砕け散った。ジンの酒瓶がカウンターから転がり落ち、中身をぶちまけながら割れる。アルコールの強い匂いが、埃っぽい空気の中に一瞬で広がった。
「地震か!?」
誰かが叫ぶ。しかし、その揺れは一度きりでは収まらなかった。まるで巨大な獣が地の底で暴れているかのように、断続的な衝撃が村全体を激しく揺さぶり続ける。壁に亀裂が走り、天井からパラパラと乾いた土が落ちてくる。外からは、他の家々から上がる悲鳴や、何かが崩れるような轟音が風に乗って聞こえてきた。
「外を見て!」
アリーシアの切羽詰まった叫び声に、私たちはもつれる足で窓際に駆け寄った。そして、窓の外に広がる光景を目の当たりにし、言葉を失った。
村の中央広場、そこは普段、子供たちの遊び場であり、村人たちの憩いの場でもある。しかし、その中心には、古くから立ち入りが禁じられている石造りの小さな「封印の祠」が鎮座していた。その祠から、ドス黒いとしか表現のしようがない、禍々しい紫色の瘴気が、まるで巨大な間欠泉のように天高く噴き出していたのだ。それは単なる煙や霧ではない。見る者の生命力を根こそぎ奪い去るような、濃密な死の気配そのものだった。
瘴気に触れた草花は、その毒気に侵され、一瞬にして水分を失って黒く変色し、チリヂリに枯れていく。頑丈なはずの石畳は、まるで強酸を浴びたかのように、じゅうじゅうと不気味な音を立てて腐食し、溶けていた。鼻をつくのは、腐臭と、金属が焼けるような異様な匂いが混じった、吐き気を催す悪臭だ。
その時、地震の揺れの中からいち早く立ち直ったオルドス村長が、数人の村の男たちを引き連れて祠へと駆けつけるのが見えた。彼は祠の入り口に鎮座する、巨大な封印石を一目見るなり、その威厳に満ちた顔を驚愕に歪ませた。
「なんということだ…!これは…!封印の術式が、何者かによって根元から書き換えられている…!?馬鹿な、このような高度な古代術式を扱える者など、現代にいるはずが…!」
オルドスの絶望的な声が、風に乗って私たちの耳にまで届いた。封印が自然に解けたのではない。何者かの明確な悪意によって、破壊されたのだ。その事実は、眼前の惨状に、さらなる絶望の色を塗り重ねた。
その直後だった。
ゴゴゴゴゴゴ…ッ!
村の広場の地面そのものが、巨大な亀裂と共に、耳をつんざくような轟音を立てて砕け散った。地割れは祠を中心に放射状に広がり、家々の土台を破壊し、広場に巨大な陥没穴を穿つ。人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、足元の地面が崩れ落ちていく恐怖に顔を引きつらせていた。
そして、地の底から、それそのものが姿を現した。
最初は、巨大な竜巻に見えた。土煙と瓦礫を巻き上げ、天を突くほどの巨大な渦が、広場の中心から立ち上る。しかし、それは自然現象などでは断じてなかった。
いや、違う。あれは、竜巻という自然の猛威を、まるで衣のようにその身にまとった、巨大な魔獣だ。
実体があるのかないのか、その輪郭は常に揺らぎ、ぼやけている。ただ、荒れ狂う竜巻の中心に、二つの禍々しい紅蓮の光――目が、地の底のマグマのように不気味な光を放ち、ぼんやりと灯っていた。その瞳に見つめられただけで、魂が凍りつくような絶対的な恐怖が背筋を駆け上る。
魔獣は、この村に絶えず吹き付ける強風を、その巨大な口と思しき渦の中心で、まるで掃除機のように吸い込み始めた。ゴオオオオオッ、と空気が吸い込まれる音が、他の全ての音をかき消す。風は、この村の生命線であり、力の源だ。その風を喰らうたびに、魔獣の体はみるみるうちに膨張し、その存在感を増していく。竜巻はより激しく、より巨大になり、周囲の建物をいともたやすく引き剥がし、空へと巻き上げていった。
「あ…あ…」
「で、伝承は…本当だったのか…!」
村人たちの顔が、恐怖を通り越して、真っ白な絶望に染まっていく。膝から崩れ落ちる者、愛する者の名を呼びながら泣き叫ぶ者。長老の一人が、震える声でその名を口にした。
「古の魔獣、『嵐喰らい(テンペスト・イーター)』…!風を喰らい、災厄を撒き散らすという、伝説の魔獣が…なぜ、今ここに…!」
村に伝わる古いおとぎ話。子供を寝かしつけるための、ただの作り話だと思っていた存在が、今、現実の脅威として目の前に現れたのだ。
その絶望的な空気を切り裂くように、オルドスの雷鳴のような声が、村中に響き渡った。
「総員、家の中へ退避しろ!決して外へ出るな!私が時間を稼ぐ!」
彼は、恐怖に立ちすくむ村人たちを背にかばい、魔獣の前へたった一人で立ちはだかった。その背中は、先ほどまでの驚愕の色はなく、村を守る長としての揺るぎない覚悟に満ちていた。彼は両手をゆっくりと天に掲げ、深く息を吸い込む。
すると、信じがたい光景が広がった。村を吹き抜ける全ての風が、まるで彼の意思に従うかのように、その流れを変え、オルドスのその身へと収束していく。風が集まり、彼の周囲でエメラルドグリーンの輝きを持つ巨大な渦となり、やがて空へと駆け上った。風は一つの巨大なドーム状の結界となり、村全体をすっぽりと覆い尽くす。半透明の緑色の輝きが、魔獣の放つ禍々しい紫の瘴気を遮断し、村に一時の安寧をもたらした。
「おお…!村長様の…風神の大結界だ!」
村人たちの声に、一瞬だけ希望の色が宿った。あれこそが、代々風読みの長にのみ受け継がれる、最強の防御術。その光景に、誰もが神の奇跡を見たかのように祈りを捧げた。
直後、嵐喰らいが、その巨体から無数の風の刃を放った。ヒュンヒュンと空を切り裂く音が連続し、数百、数千の不可視の刃が結界に殺到する。しかし、風の刃は緑色の結界に激突するたびに、激しい火花を散らして弾かれ、霧散していく。カン、カン、という甲高い音が、戦いの始まりを告げていた。
だが、安堵は長くは続かなかった。嵐喰らいは、あろうことか、その結界を守る膨大な風の力さえも喰らい始めたのだ。結界を構成する風が、少しずつ魔獣の渦へと吸い寄せられていく。そして、風を喰らうことで、その巨体はさらに膨張を続けた。
ドン!ドン!と、結界を殴りつける物理的な攻撃が始まった。それはもはや風の刃などという生易しいものではない。凝縮された大気の塊、巨大な拳そのものだ。最初は散発的だった攻撃は、次第にその間隔を狭め、一撃一撃の威力も増していく。
「父様…!」
客室の窓から、固唾をのんでその光景を見ていたルーナが、悲痛な声を上げた。昼間の喧嘩のことなど、とうに頭から消え去っていた。彼女の瞳に映るのは、たった一人で、村の存亡を賭けて戦う父親の姿だけだった。
大結界を維持するオルドスの額には、びっしりと玉のような汗が浮かんでいる。その口の端からは、耐えきれなくなった内臓の悲鳴か、一筋の鮮血が流れ落ちていた。風に揺れるその体は、先ほどまでの圧倒的な威厳が嘘のように、巨大な魔獣の前ではあまりにも小さく、か弱く見えた。
パリッ…!
まるで薄いガラスにヒビが入るような、乾いた音が、風の轟音の中でもやけに鮮明に響き渡った。
見ると、村を覆う大結界の数カ所に、蜘蛛の巣のような無慈悲な亀裂が走り始めていた。緑色の輝きが、その部分だけ弱々しく明滅している。
「くっ…!ここまでとは…!この力は、伝承を遥かに超えている…!」
オルドスの苦悶に満ちた声が、弱々しく風に乗って聞こえてくる。彼の顔には、焦りと、そして自らの力の限界を悟ったかのような絶望の色が浮かんでいた。
ミシミシ…ギシギシ…ッ!
結界全体が、耐えきれない負荷に悲鳴を上げている。亀裂は見る見るうちに数を増やし、長く、深く、広がっていく。緑色の光は今にも消え入りそうだ。
アリーシアが、青ざめた顔で冷静に、しかしその声には隠しきれない絶望を滲ませて分析した。
「このままでは、時間の問題よ…!あの結界のエネルギー流出量と、魔獣のエネルギー吸収率、そして結界の損傷速度から計算すると…もって、あと数分だわ…!」
彼女の無情な宣告が、私たちの心に最後のとどめを刺した。数分後、この村を守る最後の盾は砕け散り、私たちは、風を喰らう古の魔獣の前に、無防備に晒されることになるのだ。
原因は、白昼に繰り広げられた、この村の長オルドスと、その一人娘であるルーナとの激しい親子喧嘩にあった。きっかけは些細なことだったのかもしれない。しかし、積年のわだかまりが噴出したかのような二人の口論は、私たち旅人をも巻き込み、後味の悪い置き土産だけを残していったのだ。
その結果、ルーナは客室の奥にある自室に鍵をかけて閉じこもったままで、夕食の席にも姿を見せなかった。部屋の扉は、まるで彼女の固く閉ざされた心を象徴しているかのように、びくともしない。
「まあ、親子喧那なんてそんなものよ。時間が経てば、お互い冷静になるわ。放っておくのが一番よ」
アリーシアは、まるで全てを見通しているかのように、優雅にカップを傾けながら言った。その博識で常に冷静な彼女らしい言葉ではあったが、どこか他人事のような響きがあった。私は、君自身が抱える問題はどうなんだ、と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。彼女の過去に何があったのか、私たちは深く知らない。だが、時折見せる寂しげな横顔は、彼女もまた、言葉にできない何かを背負っていることを物語っていた。
バーのカウンターを陣取ったジンは、私たちの気まずい沈黙をBGMにするかのように、手にした酒瓶を黙々と煽っている。琥珀色の液体が喉を滑り落ちるたび、彼の喉仏が小さく上下する。その無表情な横顔は、この状況を「つまらない」と断じているようにも、あるいは、これ以上厄介事に巻き込まれるのを避けているようにも見えた。だが、時折鋭く細められるその瞳は、部屋の隅々や、外の闇を警戒するように探っている。彼なりのやり方で、常に周囲を警戒しているのだ。
そして、心優しい神官のセレスは、ただただ眉を下げ、心配そうにルーナの部屋の扉をじっと見つめていた。彼女の大きな瞳は不安に揺れ、何か声をかけようとしては、その言葉を飲み込んでしまう。彼女の祈りが、厚い扉の向こうにいる頑なな少女に届くことはない。
ゴウゴウと、まるで地の底から響いてくるような風の音が、村を絶え間なく吹き抜けていく。風読みの村と呼ばれるだけあって、この地に風の止む時はない。しかし、この重苦しい沈黙の中では、その風音さえもが、何か不吉なことの前触れのように聞こえ、私たちの不安をじわじわと煽っていた。
その、張り詰めた静寂を、突如として激しい衝撃が引き裂いた。
「「なっ!?」」
それは、下から突き上げるような、凄まじい縦揺れだった。予兆も何もない、暴力的な揺れが私たちを襲う。立っていることすらままならず、私は咄嗟にテーブルの脚にしがみついた。ランプが激しく揺れたかと思うと、甲高い音を立てて床に落ち、火が消える。棚に並べられていた食器類がガタガタと音を立てて滑り落ち、床に叩きつけられて粉々に砕け散った。ジンの酒瓶がカウンターから転がり落ち、中身をぶちまけながら割れる。アルコールの強い匂いが、埃っぽい空気の中に一瞬で広がった。
「地震か!?」
誰かが叫ぶ。しかし、その揺れは一度きりでは収まらなかった。まるで巨大な獣が地の底で暴れているかのように、断続的な衝撃が村全体を激しく揺さぶり続ける。壁に亀裂が走り、天井からパラパラと乾いた土が落ちてくる。外からは、他の家々から上がる悲鳴や、何かが崩れるような轟音が風に乗って聞こえてきた。
「外を見て!」
アリーシアの切羽詰まった叫び声に、私たちはもつれる足で窓際に駆け寄った。そして、窓の外に広がる光景を目の当たりにし、言葉を失った。
村の中央広場、そこは普段、子供たちの遊び場であり、村人たちの憩いの場でもある。しかし、その中心には、古くから立ち入りが禁じられている石造りの小さな「封印の祠」が鎮座していた。その祠から、ドス黒いとしか表現のしようがない、禍々しい紫色の瘴気が、まるで巨大な間欠泉のように天高く噴き出していたのだ。それは単なる煙や霧ではない。見る者の生命力を根こそぎ奪い去るような、濃密な死の気配そのものだった。
瘴気に触れた草花は、その毒気に侵され、一瞬にして水分を失って黒く変色し、チリヂリに枯れていく。頑丈なはずの石畳は、まるで強酸を浴びたかのように、じゅうじゅうと不気味な音を立てて腐食し、溶けていた。鼻をつくのは、腐臭と、金属が焼けるような異様な匂いが混じった、吐き気を催す悪臭だ。
その時、地震の揺れの中からいち早く立ち直ったオルドス村長が、数人の村の男たちを引き連れて祠へと駆けつけるのが見えた。彼は祠の入り口に鎮座する、巨大な封印石を一目見るなり、その威厳に満ちた顔を驚愕に歪ませた。
「なんということだ…!これは…!封印の術式が、何者かによって根元から書き換えられている…!?馬鹿な、このような高度な古代術式を扱える者など、現代にいるはずが…!」
オルドスの絶望的な声が、風に乗って私たちの耳にまで届いた。封印が自然に解けたのではない。何者かの明確な悪意によって、破壊されたのだ。その事実は、眼前の惨状に、さらなる絶望の色を塗り重ねた。
その直後だった。
ゴゴゴゴゴゴ…ッ!
村の広場の地面そのものが、巨大な亀裂と共に、耳をつんざくような轟音を立てて砕け散った。地割れは祠を中心に放射状に広がり、家々の土台を破壊し、広場に巨大な陥没穴を穿つ。人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、足元の地面が崩れ落ちていく恐怖に顔を引きつらせていた。
そして、地の底から、それそのものが姿を現した。
最初は、巨大な竜巻に見えた。土煙と瓦礫を巻き上げ、天を突くほどの巨大な渦が、広場の中心から立ち上る。しかし、それは自然現象などでは断じてなかった。
いや、違う。あれは、竜巻という自然の猛威を、まるで衣のようにその身にまとった、巨大な魔獣だ。
実体があるのかないのか、その輪郭は常に揺らぎ、ぼやけている。ただ、荒れ狂う竜巻の中心に、二つの禍々しい紅蓮の光――目が、地の底のマグマのように不気味な光を放ち、ぼんやりと灯っていた。その瞳に見つめられただけで、魂が凍りつくような絶対的な恐怖が背筋を駆け上る。
魔獣は、この村に絶えず吹き付ける強風を、その巨大な口と思しき渦の中心で、まるで掃除機のように吸い込み始めた。ゴオオオオオッ、と空気が吸い込まれる音が、他の全ての音をかき消す。風は、この村の生命線であり、力の源だ。その風を喰らうたびに、魔獣の体はみるみるうちに膨張し、その存在感を増していく。竜巻はより激しく、より巨大になり、周囲の建物をいともたやすく引き剥がし、空へと巻き上げていった。
「あ…あ…」
「で、伝承は…本当だったのか…!」
村人たちの顔が、恐怖を通り越して、真っ白な絶望に染まっていく。膝から崩れ落ちる者、愛する者の名を呼びながら泣き叫ぶ者。長老の一人が、震える声でその名を口にした。
「古の魔獣、『嵐喰らい(テンペスト・イーター)』…!風を喰らい、災厄を撒き散らすという、伝説の魔獣が…なぜ、今ここに…!」
村に伝わる古いおとぎ話。子供を寝かしつけるための、ただの作り話だと思っていた存在が、今、現実の脅威として目の前に現れたのだ。
その絶望的な空気を切り裂くように、オルドスの雷鳴のような声が、村中に響き渡った。
「総員、家の中へ退避しろ!決して外へ出るな!私が時間を稼ぐ!」
彼は、恐怖に立ちすくむ村人たちを背にかばい、魔獣の前へたった一人で立ちはだかった。その背中は、先ほどまでの驚愕の色はなく、村を守る長としての揺るぎない覚悟に満ちていた。彼は両手をゆっくりと天に掲げ、深く息を吸い込む。
すると、信じがたい光景が広がった。村を吹き抜ける全ての風が、まるで彼の意思に従うかのように、その流れを変え、オルドスのその身へと収束していく。風が集まり、彼の周囲でエメラルドグリーンの輝きを持つ巨大な渦となり、やがて空へと駆け上った。風は一つの巨大なドーム状の結界となり、村全体をすっぽりと覆い尽くす。半透明の緑色の輝きが、魔獣の放つ禍々しい紫の瘴気を遮断し、村に一時の安寧をもたらした。
「おお…!村長様の…風神の大結界だ!」
村人たちの声に、一瞬だけ希望の色が宿った。あれこそが、代々風読みの長にのみ受け継がれる、最強の防御術。その光景に、誰もが神の奇跡を見たかのように祈りを捧げた。
直後、嵐喰らいが、その巨体から無数の風の刃を放った。ヒュンヒュンと空を切り裂く音が連続し、数百、数千の不可視の刃が結界に殺到する。しかし、風の刃は緑色の結界に激突するたびに、激しい火花を散らして弾かれ、霧散していく。カン、カン、という甲高い音が、戦いの始まりを告げていた。
だが、安堵は長くは続かなかった。嵐喰らいは、あろうことか、その結界を守る膨大な風の力さえも喰らい始めたのだ。結界を構成する風が、少しずつ魔獣の渦へと吸い寄せられていく。そして、風を喰らうことで、その巨体はさらに膨張を続けた。
ドン!ドン!と、結界を殴りつける物理的な攻撃が始まった。それはもはや風の刃などという生易しいものではない。凝縮された大気の塊、巨大な拳そのものだ。最初は散発的だった攻撃は、次第にその間隔を狭め、一撃一撃の威力も増していく。
「父様…!」
客室の窓から、固唾をのんでその光景を見ていたルーナが、悲痛な声を上げた。昼間の喧嘩のことなど、とうに頭から消え去っていた。彼女の瞳に映るのは、たった一人で、村の存亡を賭けて戦う父親の姿だけだった。
大結界を維持するオルドスの額には、びっしりと玉のような汗が浮かんでいる。その口の端からは、耐えきれなくなった内臓の悲鳴か、一筋の鮮血が流れ落ちていた。風に揺れるその体は、先ほどまでの圧倒的な威厳が嘘のように、巨大な魔獣の前ではあまりにも小さく、か弱く見えた。
パリッ…!
まるで薄いガラスにヒビが入るような、乾いた音が、風の轟音の中でもやけに鮮明に響き渡った。
見ると、村を覆う大結界の数カ所に、蜘蛛の巣のような無慈悲な亀裂が走り始めていた。緑色の輝きが、その部分だけ弱々しく明滅している。
「くっ…!ここまでとは…!この力は、伝承を遥かに超えている…!」
オルドスの苦悶に満ちた声が、弱々しく風に乗って聞こえてくる。彼の顔には、焦りと、そして自らの力の限界を悟ったかのような絶望の色が浮かんでいた。
ミシミシ…ギシギシ…ッ!
結界全体が、耐えきれない負荷に悲鳴を上げている。亀裂は見る見るうちに数を増やし、長く、深く、広がっていく。緑色の光は今にも消え入りそうだ。
アリーシアが、青ざめた顔で冷静に、しかしその声には隠しきれない絶望を滲ませて分析した。
「このままでは、時間の問題よ…!あの結界のエネルギー流出量と、魔獣のエネルギー吸収率、そして結界の損傷速度から計算すると…もって、あと数分だわ…!」
彼女の無情な宣告が、私たちの心に最後のとどめを刺した。数分後、この村を守る最後の盾は砕け散り、私たちは、風を喰らう古の魔獣の前に、無防備に晒されることになるのだ。
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