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第五章:帝国の罠と弩級魔法
第21話:鉄の帝国とスパイの嫌疑
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風読みの村で得た新たな仲間との出会いを経て、我々の旅は、これまでの四人から一人増え、総勢五人という賑やかな体制へと移行していた。人数が増えたことによる恩恵も確かにあるにはあったが、それ以上に物理的な問題が無視できないレベルにまで達していた。一台の馬車に成人五人が乗り込むというのは、想像以上に窮屈なもので、特に体格の良いジンと私にとっては、肩や膝が触れ合わないように気を遣うだけでも一苦労であった。必然的に、馬車の中は人口密度の上昇と共に、それぞれの荷物が占める空間も増大し、足の踏み場はおろか、安楽に身を落ち着ける場所すら見出すのが困難な状況となっていた。これが私の新たな、そして地味に深刻な頭痛の種となりつつあったのだが、まあ、悪いことばかりではないのもまた事実であった。静寂を愛する私個人の心情とは裏腹に、車内に響き渡る途切れることのない会話や笑い声は、過酷な旅路における一種の清涼剤のような役割を果たしているようにも思えた。…いや、やはり訂正しよう。どれだけ賑やかさが場の空気を和ませようとも、心の平穏を求める私にとっては、静かな環境こそが至高であることに変わりはなかった。
そんな混沌とした、良く言えば活気に満ち溢れた我々一行が、次なる目的地としてその名を挙げたのは、大陸全土にその武威を轟かせる軍事大国「ガルア帝国」であった。最強という言葉の響きに、戦闘狂の気があるジンが真っ先に食いつき、アリーシアもまた、強大な国家の内情を探ることに王族としての興味を隠せない様子だった。ルーナはと言えば、どこか乗り気ではない表情を浮かべてはいたが、全体の決定に異を唱えることはなかった。かくして我々の旅は、新たな章の幕開けを告げるべく、帝国の地を目指して進路を取ることとなったのである。
しかし、帝国の国境線が近づくにつれて、我々の誰もが言葉にできない違和感を覚え始めていた。それは、これまで旅してきた数々の国々とは明らかに一線を画す、異様な風景の連続であった。思い出されるのは、生命力に満ち溢れた国々の姿だ。そこでは、木々は天に向かって自由奔放に枝を伸ばし、その緑の葉を風にそよがせていた。道端には名も知らぬ野花が色とりどりに咲き乱れ、その可憐な姿が旅人の心を和ませてくれたものだ。季節の移ろいと共に表情を変える森や、緩やかな起伏を描く丘陵地帯、それら全てが自然の摂理のままに息づいていた。
だが、このガルア帝国の領土に足を踏み入れた途端、そうした自然の営みは忽然と姿を消した。我々の目の前に広がるのは、どこまでも、どこまでも続く直線的な石畳の軍用道路であった。寸分の狂いもなく敷き詰められた石畳は、まるで巨大な定規で線を引いたかのように地平線の彼方まで伸びている。その道路の両脇には、これまた等間隔に木々が植えられていたが、その姿は自然のそれとは程遠い。まるで兵士が整列しているかのように、全ての木が同じ高さ、同じ形に、徹底的に剪定されているのだ。枝の一本一本に至るまで、人の手が加えられ、管理されていることが一目で見て取れた。その光景は、整然としているというよりは、むしろ不気味なほどの統制を感じさせ、見る者に無言の圧力を与えてくる。
じりじりと容赦なく肌を焼く夏の強い日差しが、乾いた大地から立ち上る陽炎を揺らめかせる。馬車の車輪が巻き上げる土埃は、ひどく乾いていて、喉をいがらっぽくさせた。風が吹いても、そこに花の甘い香りや草の匂いが混じることはない。代わりに我々の鼻腔を支配したのは、鉄が錆び付くような匂いと、遠くの工場から流れてくるのか、微かな石炭の燃える匂いであった。それはまるで、大地そのものが呼吸を止め、無機質な機械の一部と化してしまったかのような錯覚を覚えさせるのに十分だった。
「……なんだか、息が詰まるわね」
馬車の小さな窓から外の殺風景な景色を眺めていたルーナが、心底つまらなそうに、そしてわずかな嫌悪感を滲ませてそう呟いた。彼女の故郷であるエルフの森は、生命の息吹に満ちた場所だ。人の手によって徹底的に管理され、自然の自由が奪われたこの国の在り方は、彼女の感性とは根本的に相容れないのだろう。その横顔には、これからの旅に対する不安の色が濃く浮かんでいた。
「ああ。間違いなく酒もまずそうな国だな、ここは」
私の隣に座っていたジンが、ルーナの言葉に力強く同意するように頷いた。彼は腕を組み、厳しい表情で窓の外に広がる統制された風景を睨みつけている。彼にとって良い酒とは、その土地の気候や風土、そして人々の気質が溶け込んだものだ。このように何もかもが画一的で、遊びのない国で造られる酒が、魂を揺さぶるような美味であるはずがない。彼の経験則が、そう断じているのだろう。彼の言葉は、単に酒の味を憂いているだけでなく、この国の持つ本質的な息苦しさに対する的確な批判でもあった。
やがて、我々の視線の先に、地平線を遮る巨大な構造物が見えてきた。近づくにつれてその全貌が明らかになる。それは、鋼鉄で築かれた巨大な城門――ガルア帝国の国境検問所であった。太陽の光を鈍く反射する黒々とした鉄の塊は、それ自体が一個の要塞であり、訪れる者全てを威圧するような禍々しい雰囲気を放っている。城壁の上には無数の監視塔が聳え立ち、そこかしこに大型の弩(バリスタ)が設置されているのが見えた。この国が、いかに外部からの侵入者を警戒し、拒絶しているかが窺える。
その城門の前では、旅人たちが長い列を作っていた。そして彼らを捌いているのが、漆黒の重厚な全身鎧に身を包んだ帝国兵たちであった。彼らの動きは、驚くほどに規律正しく、一切の無駄がない。一人、また一人と旅人たちを呼びつけては、荷物を調べ、身分を尋問していく。その一連の動作は、まるで精密にプログラムされた機械のようであり、そこに人間的な感情の揺らぎは微塵も感じられなかった。彼らの兜の奥で光る目に、笑顔や温情といったものは一切宿っておらず、ただ冷徹な義務遂行の光だけが、氷のように輝いていた。その光景は、我々がこれから足を踏み入れようとしている国が、いかに冷酷で非情な場所であるかを雄弁に物語っていた。
「次!」
感情の欠落した、それでいて腹の底に響くような高圧的な声が響き渡り、ついに我々の番が来たことを告げた。馬車を降り、兵士の前に立つ。その兵士は、我々の顔を一人ひとり値踏みするように眺めると、何も言わずにいきなり荷物の検分を始めた。その手つきは乱暴そのもので、丁寧に畳んであった衣類は引きずり出され、大切に包んであった食料品は無造作に放り出される。それは検査というよりも、侮辱を目的とした蹂L躙に近い行為であった。
このあまりにも威圧的で無礼な態度に、我慢の限界を超えたのはアリーシアだった。彼女の白い頬が怒りで朱に染まり、その瞳には強い抗議の色が浮かんでいた。元来、王女として民を慈しむ心を持って育てられた彼女にとって、このような横暴は到底看過できるものではなかったのだろう。
「少しは丁寧に扱ったらどうだ!それは民の――民が汗水流して手に入れた大切な品なのだぞ!」
凛とした声が、検問所の重苦しい空気を切り裂いた。しかし、彼女の正義感に満ちた言葉は、目の前の鉄の塊には届かなかった。
「黙れ」
兵士は、アリーシアの言葉をまるで虫の音でも払うかのように、冷たく、鋭い一言で遮った。その声には、議論の余地を一切与えないという絶対的な拒絶が込められていた。アリーシアが悔しさに唇を噛みしめ、言葉を失った、まさにその瞬間だった。兵士が無造作にひっくり返した彼女の鞄の奥から、キラリと鈍い光を放つ一本の万年筆が転がり落ち、石畳の上でカシャンと乾いた音を立てた。
その小さな金属音に、その場にいた全員の視線が集中した。兵士は、ゆっくりとした動作でそれを拾い上げる。そして、訝しげに眉をひそめ、その万年筆を検分し始めた。それは、アリーシアが幼い頃、父であるグランフェル国王から贈られた品だった。旅に出る際、父との数少ない温かい思い出の品として、そして一種のお守りのような気持ちで、無意識のうちに鞄の奥底にしまい込んでいた、彼女にとって何よりも大切な宝物だったのだ。
兵士の視線が、万年筆の頭頂部に注がれる。そこには、極めて精巧な彫刻で、グランフェル王家の象徴である獅子の紋章が、小さいながらも誇り高く刻まれていた。その紋章を認めた瞬間、兵士の顔から表情が消えた。いや、正確には、それまでの無感情な仮面が剥がれ落ち、剥き出しの何かが現れたのだ。
「……これは、グランフェル王国の紋章。貴様ら、一体何者だ!」
兵士たちの態度が、一瞬にして豹変した。ついさっきまであたりを支配していた威圧的な空気は、今や明確な敵意と、そして血の匂いさえ感じさせるほどの濃密な殺意へと変質していた。その殺気に応じるように、周囲にいた他の兵士たちが一斉に我々を取り囲み、槍の穂先を無言で突きつけてくる。ジンや他の仲間たちが、反射的に腰の武器の柄に手をかけた。一触即発の、張り詰めた空気が流れる。
「い、いや、これは違います!ただの記念品で…!」
アリーシアが、顔面を蒼白にさせながら、必死に弁明しようと試みる。彼女の声は上ずり、その動揺は誰の目にも明らかだった。自分の軽率な行動が、仲間たちを絶体絶命の窮地に陥れてしまったという事実に、彼女は打ちのめされていた。
「私はもう、国とは何の関係もないのです!ただの家出娘で…あっ」
そこで彼女は、自分の言葉が致命的な過ちであったことに気づいた。しかし、一度口から滑り出た言葉は、もう取り返しがつかない。それは、自らの首を絞めるための縄を、自分で差し出したようなものだった。盛大に、そして見事に墓穴を掘った瞬間であった。
「家出娘だと?」
兵士は、嘲るように鼻を鳴らした。その目は、獲物を追い詰めた捕食者のように、冷たく光っている。
「王国から送り込まれた工作員が、実によく使う言い訳だな。面白い。全員、来てもらうぞ」
その言葉を合図に、兵士たちが一斉に我々に襲いかかった。多勢に無勢、そして完全な不意を突かれた我々は、本格的に抵抗する間もなく、いとも簡単に武器を取り上げられ、体を拘束されてしまった。ジンが悔しげに歯ぎしりする音が聞こえたが、屈強な兵士たちに押さえつけられては、彼ほどの豪腕でもどうすることもできない。我々はまるで罪人のように引き立てられ、検問所の奥に設けられた、窓一つない石造りの冷たい小部屋へと連行されていった。
そこから始まったのは、執拗という言葉が生温く感じるほどの、徹底的な尋問だった。どこから来たのか、帝国内での目的は何か、グランフェル王国の誰の指示で動いているのか。同じような内容の質問が、尋問官を変え、角度を変え、言葉尻を変えて、何度も何度も、飽きることなく繰り返された。彼らは我々の言葉の矛盾や、表情の僅かな変化も見逃すまいと、鷹のような鋭い目で監視し続ける。疲労と精神的な圧迫で我々の意識が朦朧としてくるのを待ち、そこから情報を引き出そうという、実に陰湿な手口だった。
鉄の扉が閉ざされた息の詰まるような部屋の中で、我々が過酷な尋問に耐えている、まさにその時。その部屋の天井裏に潜む三つの影が、床板の隙間から、その一部始終を冷ややかに見下ろしていた。彼らは気配を完全に消し、まるでその場の闇に溶け込んでいるかのようだった。
「ビンゴだな、カゲリ殿。我々の読み通り、あの娘がグランフェル王国の第一王女、アリーシア・フォン・グランフェルで間違いなさそうだ」
低い、しかしよく通る声でそう言ったのは、ライガと呼ばれる大柄な男だった。彼の言葉には、任務を遂行する機械のような正確さだけがあった。
「ああ。皇帝陛下のご命令通りだ。これで役者は揃った。しばらくは自由に泳がせて、スパイとしての決定的な証拠を掴む。生かさず殺さず、じっくりと追い詰めていくのだ」
その言葉に応えたのは、カゲリと呼ばれる、妖艶な雰囲気を纏ったくノ一だった。彼女の声は絹のように滑らかでありながら、その響きには剃刀のような冷たさが宿っている。彼女の隣では、フウマと呼ばれる小柄な忍びが、無言で頷くだけだった。彼ら三人の目に、アリーシアたちに対する同情や憐憫といった感情の色は一切なかった。彼らにとって、我々は皇帝の壮大な計画を進めるための、ただの駒に過ぎないのだ。
結局、何時間にも及んだ尋問にもかかわらず、帝国側は我々からそれ以上の具体的な情報を引き出すことはできなかった。アリーシアの素性はほぼ特定されたものの、我々がスパイであるという直接的な証拠は何一つ出てこなかったのだ。「証拠不十分」――尋問官は心底忌々しげにそう吐き捨て、我々は一旦、解放されることになった。
しかし、それは決して真の自由を意味するものではなかった。解放された我々には、常に数人の尾行が、影のようにつきまとっているのが分かった。街のどこを歩いていても、何をしても、建物の屋根の上や、薄暗い路地の影から、無数の監視の目が光っているのを感じる。それは決して気のせいなどではなく、帝国が張り巡らせた、粘着質で執拗な監視網であった。我々は、巨大な鳥籠の中に放たれた、羽をむしられた鳥も同然だった。
重苦しい、鉛のような空気を引きずったまま、我々はついに帝都の巨大な城門をくぐる。門の内側に広がっていたのは、規律と秩序という名のペンキで、隅々まで塗り固められた、巨大な鉄の檻のような街だった。天を突くように聳え立つ建物はどれも同じような角張ったデザインで、色彩に乏しく、人々の表情もまた、街並みと同じように硬く、無表情だった。道行く人々の足音と、遠くから聞こえる工場の稼働音だけが、この死んだような街に響き渡っている。
風読みの村で過ごした穏やかな日々や、仲間たちと笑い合った旅の道中が、まるで遠い昔の夢のように感じられた。我々の平穏な旅は、間違いなく、この帝都の門をくぐった瞬間に終わりを告げたのだ。そんな確信にも似た冷たい予感が、夏の乾いた風と共に、ひどくざらついた感触で私の肌を撫でていった。これから始まるであろう、先の見えない戦いの始まりを告げるかのように。
そんな混沌とした、良く言えば活気に満ち溢れた我々一行が、次なる目的地としてその名を挙げたのは、大陸全土にその武威を轟かせる軍事大国「ガルア帝国」であった。最強という言葉の響きに、戦闘狂の気があるジンが真っ先に食いつき、アリーシアもまた、強大な国家の内情を探ることに王族としての興味を隠せない様子だった。ルーナはと言えば、どこか乗り気ではない表情を浮かべてはいたが、全体の決定に異を唱えることはなかった。かくして我々の旅は、新たな章の幕開けを告げるべく、帝国の地を目指して進路を取ることとなったのである。
しかし、帝国の国境線が近づくにつれて、我々の誰もが言葉にできない違和感を覚え始めていた。それは、これまで旅してきた数々の国々とは明らかに一線を画す、異様な風景の連続であった。思い出されるのは、生命力に満ち溢れた国々の姿だ。そこでは、木々は天に向かって自由奔放に枝を伸ばし、その緑の葉を風にそよがせていた。道端には名も知らぬ野花が色とりどりに咲き乱れ、その可憐な姿が旅人の心を和ませてくれたものだ。季節の移ろいと共に表情を変える森や、緩やかな起伏を描く丘陵地帯、それら全てが自然の摂理のままに息づいていた。
だが、このガルア帝国の領土に足を踏み入れた途端、そうした自然の営みは忽然と姿を消した。我々の目の前に広がるのは、どこまでも、どこまでも続く直線的な石畳の軍用道路であった。寸分の狂いもなく敷き詰められた石畳は、まるで巨大な定規で線を引いたかのように地平線の彼方まで伸びている。その道路の両脇には、これまた等間隔に木々が植えられていたが、その姿は自然のそれとは程遠い。まるで兵士が整列しているかのように、全ての木が同じ高さ、同じ形に、徹底的に剪定されているのだ。枝の一本一本に至るまで、人の手が加えられ、管理されていることが一目で見て取れた。その光景は、整然としているというよりは、むしろ不気味なほどの統制を感じさせ、見る者に無言の圧力を与えてくる。
じりじりと容赦なく肌を焼く夏の強い日差しが、乾いた大地から立ち上る陽炎を揺らめかせる。馬車の車輪が巻き上げる土埃は、ひどく乾いていて、喉をいがらっぽくさせた。風が吹いても、そこに花の甘い香りや草の匂いが混じることはない。代わりに我々の鼻腔を支配したのは、鉄が錆び付くような匂いと、遠くの工場から流れてくるのか、微かな石炭の燃える匂いであった。それはまるで、大地そのものが呼吸を止め、無機質な機械の一部と化してしまったかのような錯覚を覚えさせるのに十分だった。
「……なんだか、息が詰まるわね」
馬車の小さな窓から外の殺風景な景色を眺めていたルーナが、心底つまらなそうに、そしてわずかな嫌悪感を滲ませてそう呟いた。彼女の故郷であるエルフの森は、生命の息吹に満ちた場所だ。人の手によって徹底的に管理され、自然の自由が奪われたこの国の在り方は、彼女の感性とは根本的に相容れないのだろう。その横顔には、これからの旅に対する不安の色が濃く浮かんでいた。
「ああ。間違いなく酒もまずそうな国だな、ここは」
私の隣に座っていたジンが、ルーナの言葉に力強く同意するように頷いた。彼は腕を組み、厳しい表情で窓の外に広がる統制された風景を睨みつけている。彼にとって良い酒とは、その土地の気候や風土、そして人々の気質が溶け込んだものだ。このように何もかもが画一的で、遊びのない国で造られる酒が、魂を揺さぶるような美味であるはずがない。彼の経験則が、そう断じているのだろう。彼の言葉は、単に酒の味を憂いているだけでなく、この国の持つ本質的な息苦しさに対する的確な批判でもあった。
やがて、我々の視線の先に、地平線を遮る巨大な構造物が見えてきた。近づくにつれてその全貌が明らかになる。それは、鋼鉄で築かれた巨大な城門――ガルア帝国の国境検問所であった。太陽の光を鈍く反射する黒々とした鉄の塊は、それ自体が一個の要塞であり、訪れる者全てを威圧するような禍々しい雰囲気を放っている。城壁の上には無数の監視塔が聳え立ち、そこかしこに大型の弩(バリスタ)が設置されているのが見えた。この国が、いかに外部からの侵入者を警戒し、拒絶しているかが窺える。
その城門の前では、旅人たちが長い列を作っていた。そして彼らを捌いているのが、漆黒の重厚な全身鎧に身を包んだ帝国兵たちであった。彼らの動きは、驚くほどに規律正しく、一切の無駄がない。一人、また一人と旅人たちを呼びつけては、荷物を調べ、身分を尋問していく。その一連の動作は、まるで精密にプログラムされた機械のようであり、そこに人間的な感情の揺らぎは微塵も感じられなかった。彼らの兜の奥で光る目に、笑顔や温情といったものは一切宿っておらず、ただ冷徹な義務遂行の光だけが、氷のように輝いていた。その光景は、我々がこれから足を踏み入れようとしている国が、いかに冷酷で非情な場所であるかを雄弁に物語っていた。
「次!」
感情の欠落した、それでいて腹の底に響くような高圧的な声が響き渡り、ついに我々の番が来たことを告げた。馬車を降り、兵士の前に立つ。その兵士は、我々の顔を一人ひとり値踏みするように眺めると、何も言わずにいきなり荷物の検分を始めた。その手つきは乱暴そのもので、丁寧に畳んであった衣類は引きずり出され、大切に包んであった食料品は無造作に放り出される。それは検査というよりも、侮辱を目的とした蹂L躙に近い行為であった。
このあまりにも威圧的で無礼な態度に、我慢の限界を超えたのはアリーシアだった。彼女の白い頬が怒りで朱に染まり、その瞳には強い抗議の色が浮かんでいた。元来、王女として民を慈しむ心を持って育てられた彼女にとって、このような横暴は到底看過できるものではなかったのだろう。
「少しは丁寧に扱ったらどうだ!それは民の――民が汗水流して手に入れた大切な品なのだぞ!」
凛とした声が、検問所の重苦しい空気を切り裂いた。しかし、彼女の正義感に満ちた言葉は、目の前の鉄の塊には届かなかった。
「黙れ」
兵士は、アリーシアの言葉をまるで虫の音でも払うかのように、冷たく、鋭い一言で遮った。その声には、議論の余地を一切与えないという絶対的な拒絶が込められていた。アリーシアが悔しさに唇を噛みしめ、言葉を失った、まさにその瞬間だった。兵士が無造作にひっくり返した彼女の鞄の奥から、キラリと鈍い光を放つ一本の万年筆が転がり落ち、石畳の上でカシャンと乾いた音を立てた。
その小さな金属音に、その場にいた全員の視線が集中した。兵士は、ゆっくりとした動作でそれを拾い上げる。そして、訝しげに眉をひそめ、その万年筆を検分し始めた。それは、アリーシアが幼い頃、父であるグランフェル国王から贈られた品だった。旅に出る際、父との数少ない温かい思い出の品として、そして一種のお守りのような気持ちで、無意識のうちに鞄の奥底にしまい込んでいた、彼女にとって何よりも大切な宝物だったのだ。
兵士の視線が、万年筆の頭頂部に注がれる。そこには、極めて精巧な彫刻で、グランフェル王家の象徴である獅子の紋章が、小さいながらも誇り高く刻まれていた。その紋章を認めた瞬間、兵士の顔から表情が消えた。いや、正確には、それまでの無感情な仮面が剥がれ落ち、剥き出しの何かが現れたのだ。
「……これは、グランフェル王国の紋章。貴様ら、一体何者だ!」
兵士たちの態度が、一瞬にして豹変した。ついさっきまであたりを支配していた威圧的な空気は、今や明確な敵意と、そして血の匂いさえ感じさせるほどの濃密な殺意へと変質していた。その殺気に応じるように、周囲にいた他の兵士たちが一斉に我々を取り囲み、槍の穂先を無言で突きつけてくる。ジンや他の仲間たちが、反射的に腰の武器の柄に手をかけた。一触即発の、張り詰めた空気が流れる。
「い、いや、これは違います!ただの記念品で…!」
アリーシアが、顔面を蒼白にさせながら、必死に弁明しようと試みる。彼女の声は上ずり、その動揺は誰の目にも明らかだった。自分の軽率な行動が、仲間たちを絶体絶命の窮地に陥れてしまったという事実に、彼女は打ちのめされていた。
「私はもう、国とは何の関係もないのです!ただの家出娘で…あっ」
そこで彼女は、自分の言葉が致命的な過ちであったことに気づいた。しかし、一度口から滑り出た言葉は、もう取り返しがつかない。それは、自らの首を絞めるための縄を、自分で差し出したようなものだった。盛大に、そして見事に墓穴を掘った瞬間であった。
「家出娘だと?」
兵士は、嘲るように鼻を鳴らした。その目は、獲物を追い詰めた捕食者のように、冷たく光っている。
「王国から送り込まれた工作員が、実によく使う言い訳だな。面白い。全員、来てもらうぞ」
その言葉を合図に、兵士たちが一斉に我々に襲いかかった。多勢に無勢、そして完全な不意を突かれた我々は、本格的に抵抗する間もなく、いとも簡単に武器を取り上げられ、体を拘束されてしまった。ジンが悔しげに歯ぎしりする音が聞こえたが、屈強な兵士たちに押さえつけられては、彼ほどの豪腕でもどうすることもできない。我々はまるで罪人のように引き立てられ、検問所の奥に設けられた、窓一つない石造りの冷たい小部屋へと連行されていった。
そこから始まったのは、執拗という言葉が生温く感じるほどの、徹底的な尋問だった。どこから来たのか、帝国内での目的は何か、グランフェル王国の誰の指示で動いているのか。同じような内容の質問が、尋問官を変え、角度を変え、言葉尻を変えて、何度も何度も、飽きることなく繰り返された。彼らは我々の言葉の矛盾や、表情の僅かな変化も見逃すまいと、鷹のような鋭い目で監視し続ける。疲労と精神的な圧迫で我々の意識が朦朧としてくるのを待ち、そこから情報を引き出そうという、実に陰湿な手口だった。
鉄の扉が閉ざされた息の詰まるような部屋の中で、我々が過酷な尋問に耐えている、まさにその時。その部屋の天井裏に潜む三つの影が、床板の隙間から、その一部始終を冷ややかに見下ろしていた。彼らは気配を完全に消し、まるでその場の闇に溶け込んでいるかのようだった。
「ビンゴだな、カゲリ殿。我々の読み通り、あの娘がグランフェル王国の第一王女、アリーシア・フォン・グランフェルで間違いなさそうだ」
低い、しかしよく通る声でそう言ったのは、ライガと呼ばれる大柄な男だった。彼の言葉には、任務を遂行する機械のような正確さだけがあった。
「ああ。皇帝陛下のご命令通りだ。これで役者は揃った。しばらくは自由に泳がせて、スパイとしての決定的な証拠を掴む。生かさず殺さず、じっくりと追い詰めていくのだ」
その言葉に応えたのは、カゲリと呼ばれる、妖艶な雰囲気を纏ったくノ一だった。彼女の声は絹のように滑らかでありながら、その響きには剃刀のような冷たさが宿っている。彼女の隣では、フウマと呼ばれる小柄な忍びが、無言で頷くだけだった。彼ら三人の目に、アリーシアたちに対する同情や憐憫といった感情の色は一切なかった。彼らにとって、我々は皇帝の壮大な計画を進めるための、ただの駒に過ぎないのだ。
結局、何時間にも及んだ尋問にもかかわらず、帝国側は我々からそれ以上の具体的な情報を引き出すことはできなかった。アリーシアの素性はほぼ特定されたものの、我々がスパイであるという直接的な証拠は何一つ出てこなかったのだ。「証拠不十分」――尋問官は心底忌々しげにそう吐き捨て、我々は一旦、解放されることになった。
しかし、それは決して真の自由を意味するものではなかった。解放された我々には、常に数人の尾行が、影のようにつきまとっているのが分かった。街のどこを歩いていても、何をしても、建物の屋根の上や、薄暗い路地の影から、無数の監視の目が光っているのを感じる。それは決して気のせいなどではなく、帝国が張り巡らせた、粘着質で執拗な監視網であった。我々は、巨大な鳥籠の中に放たれた、羽をむしられた鳥も同然だった。
重苦しい、鉛のような空気を引きずったまま、我々はついに帝都の巨大な城門をくぐる。門の内側に広がっていたのは、規律と秩序という名のペンキで、隅々まで塗り固められた、巨大な鉄の檻のような街だった。天を突くように聳え立つ建物はどれも同じような角張ったデザインで、色彩に乏しく、人々の表情もまた、街並みと同じように硬く、無表情だった。道行く人々の足音と、遠くから聞こえる工場の稼働音だけが、この死んだような街に響き渡っている。
風読みの村で過ごした穏やかな日々や、仲間たちと笑い合った旅の道中が、まるで遠い昔の夢のように感じられた。我々の平穏な旅は、間違いなく、この帝都の門をくぐった瞬間に終わりを告げたのだ。そんな確信にも似た冷たい予感が、夏の乾いた風と共に、ひどくざらついた感触で私の肌を撫でていった。これから始まるであろう、先の見えない戦いの始まりを告げるかのように。
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この世界の経済は基本的に女性のみで回っており、男性に求められることといえば子種、遺伝子だ。
前世の影響かはわからないが、日本屈指のHENTAIである達也は運よく遺伝子も最高ランクになった。
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そうして、別居婚が主流なこの世界では珍しいみんなと同居することを、いや。ハーレムを目標に個性豊かなヒロイン達と織り成す学園ラブコメディがいま始まる!
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異世界で至った男は帰還したがファンタジーに巻き込まれていく
竹桜
ファンタジー
神社のお参り帰りに異世界召喚に巻き込まれた主人公。
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