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第五章:帝国の罠と弩級魔法
第24話:神の御業か、悪魔の戯れか
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夜という名の漆黒の帳が、帝都を中心とした広大な大地を覆い尽くす頃。俺は、その夜の闇そのものを切り裂くかのように、一条の影となって天から舞い降りた。降り立った場所は、帝都から直線距離にして数十キロは離れているであろう、峻険な山脈地帯。その連なりのうち、最も天に近い、万年雪を抱くほどの高さを誇る頂であった。
吹き付ける風は、まるで無数の氷の刃のようだ。遮るもののない山頂では、その勢いは下界の比ではなく、俺の長く伸ばした髪をまるで生き物のように掴み、容赦なくかき乱していく。肌を刺すという陳腐な表現では生ぬるい。それはまさしく、皮膚を削ぎ落とさんばかりの鋭利な冷気だった。空気が希薄なせいで、呼吸をするたびに肺がわずかな抵抗を訴えてくる。酸素の薄さと極度の低温が支配するこの場所は、生物の生存を拒絶する絶対的な静寂に包まれていた。下界の喧騒、人々の息遣い、自然のざわめき、その一切が届かない。聞こえるのは、己の内で脈打つ心臓の鼓動と、血管を流れる血液の微かな音だけ。それは、世界にただ独り取り残されたかのような、途方もない孤独感を誘発する空間だった。
ふと、夜空を見上げる。手を伸ばせば、本当に掴めてしまえそうな錯覚に陥るほど、星々の一つ一つが巨大に、そして凍てつくように冷たい光を放っていた。地上を隔てる厚い大気の層がないだけで、宇宙の真の姿はこれほどまでに鮮烈なのか。星々はまたたき、その深遠な輝きは、まるで計り知れない悠久の時を物語っているかのようだった。しかし、その美しさに心を動かされることはない。俺の心は、この山頂の空気よりもなお冷たく、静まり返っていた。
視線を下界へと転じる。眼下に広がるのは、広大な平野に刻まれた光の紋様、すなわち帝都の夜景だ。上空から見下ろすその光景は、例えるならば、漆黒のベルベットの上に無数の宝石をぶちまけたかのような、息を呑むほどの美しさではあった。しかし、その輝きを仔細に観察すれば、ある種の違和感が胸をよぎる。光はあまりにも規則正しく、整然と区画整理された街路に沿って幾何学模様を描いている。それは生命の持つ混沌とした温かみではなく、機械的に配置された冷たい光点。まるで巨大な回路基板を眺めているかのような、生命感の欠片も感じられない、無機質な光の集合体にしか見えなかった。あの光の一つ一つの下で、人々が暮らし、笑い、泣いているのだろう。だが、今の俺には、その営みすべてが、帝国の作り上げた巨大なシステムの歯車にしか思えなかった。
「……これだけ離れていれば、街に直接的な被害が及ぶことはないだろう」
俺は誰に聞かせるともなく、静かに呟いた。その声は、希薄な大気に溶けることなく、不思議なほどはっきりと響いた。そう、これは直接的な攻撃ではない。あくまで警告。目的は破壊ではなく、威嚇。俺の、そして俺の大切な仲間たちの尊厳を傷つけ、その命をまるで玩具のように弄ぼうとした、あの傲慢で腐りきった帝国に対する、最初で最後の、そして最も明確な警告なのだ。彼らが拠り所とする秩序と常識が、いかに脆弱な基盤の上に成り立っているのかを、その骨の髄まで思い知らせてやる必要があった。
俺は、静かに右手を天にかざした。黒い手袋に覆われたその手は、凍てつく大気の中でさえ、かすかな熱を帯びているように感じられた。そして、その行為を合図としたかのように、世界の根幹を成す法則が、鈍い音を立てて軋みを上げた。
まるで、宇宙の中心に生まれたブラックホールのように、俺の右手が、この世界に満ちるありとあらゆる魔力(マナ)を、その源流から根こそぎ吸い上げ始めたのだ。それは、もはや単なる魔力操作の域を超えた、理そのものを捻じ曲げる行為だった。俺の周囲を漂っていた希薄な大気中のマナが、まず最初に光の粒子となって引き寄せられる。次に、俺が立つこの峻険な山脈の岩盤に、そしてその下に広がる広大な大地に悠久の時から眠り続けていた膨大な量のマナが、地中から青白い光の筋となって噴出し、俺の右手へと殺到した。それだけではない。はるか遠く、帝都の向こう側に広がる大海原に溶け込んでいたマナさえもが、地平線の彼方から壮大な光の川となって空を駆け、凄まじい勢いで俺の掲げた一点へと収束していく。
大気も、大地も、海も、世界に存在する全ての構成要素が、その内に秘めたエネルギーを俺という一点に供給し始めた。その余波は凄まじく、空間そのものが耐えきれずに悲鳴を上げる。俺の周りの景色が、まるで熱せられたガラス細工のようにぐにゃりと歪み、遠くの星々の光は奇怪な曲線を描いて流れ始めた。もはや、世界の物理法則は意味をなさず、俺を中心に新たな法則が生まれつつあった。
空が、白く輝き始める。漆黒であったはずの夜空が、まるで夜明けを通り越して、真昼の太陽が無理やり天頂に引きずり出されたかのような、眩いばかりの光に満たされていく。山頂を覆っていた雪が瞬時に蒸発し、岩肌が熱を帯びて赤く変色していくのが分かった。集積されたマナのエネルギーは、もはや人間の扱える領域を遥かに逸脱していた。
そして、その凄まじい光は、極限の極限まで高まった後、一転して、全ての光を飲み込む絶対的な漆黒の闇へと変わった。それは、単なる暗闇ではない。光が存在しないのではない。光という概念そのものを喰らい、吸収し尽くす「無」の顕現。俺の右手の上に、直径数メートルほどの完全な黒い球体が現れた。それは周囲の景色を歪ませることもなく、ただそこに「在る」だけで、圧倒的な存在感を放っていた。その漆黒を見つめていると、吸い込まれそうになるどころか、自身の存在そのものが希薄になっていくような錯覚に陥る。
俺は、その絶対的な虚無を掌に宿したまま、再び眼下のちっぽけな光の粒へと視線を落とした。帝都の夜景。その無機質な輝きの中に、俺から仲間を奪おうとした者たちの顔が浮かんで消える。彼らの傲慢な笑み、見下したような視線。その一つ一つが、俺の心の奥底に沈殿していた怒りという名のマグマを沸騰させる。だが、表情は変わらない。感情の波は、一切表に出さない。ただ、温度のない、氷のように冷え切った声で宣告した。
「少し、痛い目に遭わないと分からないらしいな」
言葉は、警告の最終通告。そして、天に掲げていた右手の指を、まるでオーケストラの指揮者が最後の一音を奏でるかのように、静かに、そして滑らかに、眼下の帝都の遥か彼方へと振り下ろした。
その次の瞬間、世界から、音が消えた。
風が空気を揺らす音も、熱せられた岩が軋む音も、そして何よりも、自分自身の体内で鳴り響いていたはずの心臓の鼓動さえも、何もかもが聞こえなくなった。完全な無音の世界。それは、鼓膜が破れたのとは違う。音という物理現象そのものが、この空間から完全に排除されたのだ。時間さえもが停止したかのような、永遠にも思える静寂。
そして―――。
帝都の遥か北方、街の人々にとっては日常の風景の一部であり、黒いシルエットとして常にそこに存在していた、あの峻険な山脈に向かって。
天から、巨大すぎるとしか表現のしようがない光の柱が、音もなく、ただひたすらに静かに、降り注いだ。
それは、もはや魔法という言葉で形容できる現象ではなかった。詠唱もなければ、魔法陣もない。それはただ、「存在そのものを消去する」という、純粋で絶対的なエネルギーの奔流。神が下した無慈悲な怒りの鉄槌か、あるいは気まぐれな悪魔が仕掛けた残酷な戯れか。常人の理解が及ぶはずもない、世界の理を超越した御業であった。
光の柱に貫かれた山脈は、しかし、何の前触れも、何の結果も示さなかった。想像していたような天を揺るがす爆発も、地を割る轟音も、全てを薙ぎ払う衝撃波も、一切発生しない。ただ、光に触れた部分から、静かに、いかなる抵抗も許されることなく、その存在が消えていく。まるで、最初からそこには何も無かったかのように。岩も、土も、雪も、そこに生きていたかもしれない生命も、全てが原子レベルのさらにその先、存在の情報そのものまで分解され、完全に「消滅」した。後に残るのは、不自然に切り取られた夜空だけ。その光景は、あまりにも静謐で、それゆえに恐ろしく、そしてどこか神々しいほどに美しかった。
◇
帝都を、マグニチュード10クラスという、人類の観測史上、ありえない規模の巨大な地震が襲ったのは、それからわずか数秒後のことだった。
それは、山脈が消滅したことによって生じた地殻の急激な変動が、巨大なエネルギーの波となって帝都の足元を直撃した結果だった。
「「「ぎゃあああああああああ!!」」」
最初に訪れたのは、腹の底から湧き上がってくるような、不気味な地鳴り。そして、間髪入れずに襲い来る、世界そのものがひっくり返るかのような激しい縦揺れと、それに続く、全てをなぎ倒すかのような横揺れ。帝都は一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。豪華絢爛を誇った貴族の館が、まるで砂の城のように崩れ落ち、庶民が暮らすレンガ造りの家々は、紙細工のように無惨に砕け散る。強固に舗装されていたはずの石畳の道が、巨大な口を開けて人々を飲み込み、そびえ立っていた尖塔や記念碑は、その根元からへし折れて轟音とともに倒壊した。
人々は悲鳴を上げ、泣き叫び、ただただ無我夢中で逃げ惑う。しかし、足元の大地そのものが牙を剥いている状況下では、どこにも安全な場所など存在しなかった。やがて、地震の本体が過ぎ去った後も、世界を終焉させるかのような凄まじい衝撃波が、音速を超えて街の全てを薙ぎ払っていった。窓ガラスという窓ガラスが粉々に砕け散り、建物の壁が内側から爆発するように吹き飛び、路上にいた人々は、木の葉のように軽々と宙を舞った。
どれほどの時間が経ったのだろうか。数分か、あるいは数十分か。悪夢としか思えない揺れと衝撃がようやく収まった時、奇跡的に生き残った人々は、埃と煙に巻かれながら、呆然と立ち尽くしていた。そして、誰もが、まるで何かの引力に引かれるように、一様に、空を見上げた。本能が、この惨状の原因が地上にあるのではなく、天からもたらされたものであると告げていたからだ。
そして、彼らは言葉を失った。
いつもそこにあるはずのものが、ない。
帝都の北側に、まるで街を守る黒い城壁のように、雄大にそびえ立っていた、あの巨大な山脈のシルエットが、ごっそりと、あまりにも綺麗に、消え失せていたのだ。昨日まで、いや、ほんの数分前まで、確かにそこにあったはずの、連なる峰々の雄々しい稜線が、完全に消失していた。山脈があったはずの場所には、ただ、破壊された帝都の惨状を嘲笑うかのように、不気味なほど静かな、星々の輝く夜空が広がっているだけだった。まるで、巨大な絵画から、山脈の部分だけが巨大な消しゴムで念入りに消されてしまったかのような、信じがたい光景だった。
「山が……」
「やまが、きえた……?」
誰かが、か細い、ひび割れた声で呟いた。その言葉は、周囲の人々の絶望を代弁していた。その、常識では到底理解することも、受け入れることもできない、あまりにも現実離れした光景を前にして、帝都の全ての人間が、ただ、なすすべもなく、底知れぬ絶望に打ちひしがれるしかなかった。それは、帝国の絶対的な権威と、彼らが信じてきた世界の秩序そのものが、根底から覆された瞬間だった。
吹き付ける風は、まるで無数の氷の刃のようだ。遮るもののない山頂では、その勢いは下界の比ではなく、俺の長く伸ばした髪をまるで生き物のように掴み、容赦なくかき乱していく。肌を刺すという陳腐な表現では生ぬるい。それはまさしく、皮膚を削ぎ落とさんばかりの鋭利な冷気だった。空気が希薄なせいで、呼吸をするたびに肺がわずかな抵抗を訴えてくる。酸素の薄さと極度の低温が支配するこの場所は、生物の生存を拒絶する絶対的な静寂に包まれていた。下界の喧騒、人々の息遣い、自然のざわめき、その一切が届かない。聞こえるのは、己の内で脈打つ心臓の鼓動と、血管を流れる血液の微かな音だけ。それは、世界にただ独り取り残されたかのような、途方もない孤独感を誘発する空間だった。
ふと、夜空を見上げる。手を伸ばせば、本当に掴めてしまえそうな錯覚に陥るほど、星々の一つ一つが巨大に、そして凍てつくように冷たい光を放っていた。地上を隔てる厚い大気の層がないだけで、宇宙の真の姿はこれほどまでに鮮烈なのか。星々はまたたき、その深遠な輝きは、まるで計り知れない悠久の時を物語っているかのようだった。しかし、その美しさに心を動かされることはない。俺の心は、この山頂の空気よりもなお冷たく、静まり返っていた。
視線を下界へと転じる。眼下に広がるのは、広大な平野に刻まれた光の紋様、すなわち帝都の夜景だ。上空から見下ろすその光景は、例えるならば、漆黒のベルベットの上に無数の宝石をぶちまけたかのような、息を呑むほどの美しさではあった。しかし、その輝きを仔細に観察すれば、ある種の違和感が胸をよぎる。光はあまりにも規則正しく、整然と区画整理された街路に沿って幾何学模様を描いている。それは生命の持つ混沌とした温かみではなく、機械的に配置された冷たい光点。まるで巨大な回路基板を眺めているかのような、生命感の欠片も感じられない、無機質な光の集合体にしか見えなかった。あの光の一つ一つの下で、人々が暮らし、笑い、泣いているのだろう。だが、今の俺には、その営みすべてが、帝国の作り上げた巨大なシステムの歯車にしか思えなかった。
「……これだけ離れていれば、街に直接的な被害が及ぶことはないだろう」
俺は誰に聞かせるともなく、静かに呟いた。その声は、希薄な大気に溶けることなく、不思議なほどはっきりと響いた。そう、これは直接的な攻撃ではない。あくまで警告。目的は破壊ではなく、威嚇。俺の、そして俺の大切な仲間たちの尊厳を傷つけ、その命をまるで玩具のように弄ぼうとした、あの傲慢で腐りきった帝国に対する、最初で最後の、そして最も明確な警告なのだ。彼らが拠り所とする秩序と常識が、いかに脆弱な基盤の上に成り立っているのかを、その骨の髄まで思い知らせてやる必要があった。
俺は、静かに右手を天にかざした。黒い手袋に覆われたその手は、凍てつく大気の中でさえ、かすかな熱を帯びているように感じられた。そして、その行為を合図としたかのように、世界の根幹を成す法則が、鈍い音を立てて軋みを上げた。
まるで、宇宙の中心に生まれたブラックホールのように、俺の右手が、この世界に満ちるありとあらゆる魔力(マナ)を、その源流から根こそぎ吸い上げ始めたのだ。それは、もはや単なる魔力操作の域を超えた、理そのものを捻じ曲げる行為だった。俺の周囲を漂っていた希薄な大気中のマナが、まず最初に光の粒子となって引き寄せられる。次に、俺が立つこの峻険な山脈の岩盤に、そしてその下に広がる広大な大地に悠久の時から眠り続けていた膨大な量のマナが、地中から青白い光の筋となって噴出し、俺の右手へと殺到した。それだけではない。はるか遠く、帝都の向こう側に広がる大海原に溶け込んでいたマナさえもが、地平線の彼方から壮大な光の川となって空を駆け、凄まじい勢いで俺の掲げた一点へと収束していく。
大気も、大地も、海も、世界に存在する全ての構成要素が、その内に秘めたエネルギーを俺という一点に供給し始めた。その余波は凄まじく、空間そのものが耐えきれずに悲鳴を上げる。俺の周りの景色が、まるで熱せられたガラス細工のようにぐにゃりと歪み、遠くの星々の光は奇怪な曲線を描いて流れ始めた。もはや、世界の物理法則は意味をなさず、俺を中心に新たな法則が生まれつつあった。
空が、白く輝き始める。漆黒であったはずの夜空が、まるで夜明けを通り越して、真昼の太陽が無理やり天頂に引きずり出されたかのような、眩いばかりの光に満たされていく。山頂を覆っていた雪が瞬時に蒸発し、岩肌が熱を帯びて赤く変色していくのが分かった。集積されたマナのエネルギーは、もはや人間の扱える領域を遥かに逸脱していた。
そして、その凄まじい光は、極限の極限まで高まった後、一転して、全ての光を飲み込む絶対的な漆黒の闇へと変わった。それは、単なる暗闇ではない。光が存在しないのではない。光という概念そのものを喰らい、吸収し尽くす「無」の顕現。俺の右手の上に、直径数メートルほどの完全な黒い球体が現れた。それは周囲の景色を歪ませることもなく、ただそこに「在る」だけで、圧倒的な存在感を放っていた。その漆黒を見つめていると、吸い込まれそうになるどころか、自身の存在そのものが希薄になっていくような錯覚に陥る。
俺は、その絶対的な虚無を掌に宿したまま、再び眼下のちっぽけな光の粒へと視線を落とした。帝都の夜景。その無機質な輝きの中に、俺から仲間を奪おうとした者たちの顔が浮かんで消える。彼らの傲慢な笑み、見下したような視線。その一つ一つが、俺の心の奥底に沈殿していた怒りという名のマグマを沸騰させる。だが、表情は変わらない。感情の波は、一切表に出さない。ただ、温度のない、氷のように冷え切った声で宣告した。
「少し、痛い目に遭わないと分からないらしいな」
言葉は、警告の最終通告。そして、天に掲げていた右手の指を、まるでオーケストラの指揮者が最後の一音を奏でるかのように、静かに、そして滑らかに、眼下の帝都の遥か彼方へと振り下ろした。
その次の瞬間、世界から、音が消えた。
風が空気を揺らす音も、熱せられた岩が軋む音も、そして何よりも、自分自身の体内で鳴り響いていたはずの心臓の鼓動さえも、何もかもが聞こえなくなった。完全な無音の世界。それは、鼓膜が破れたのとは違う。音という物理現象そのものが、この空間から完全に排除されたのだ。時間さえもが停止したかのような、永遠にも思える静寂。
そして―――。
帝都の遥か北方、街の人々にとっては日常の風景の一部であり、黒いシルエットとして常にそこに存在していた、あの峻険な山脈に向かって。
天から、巨大すぎるとしか表現のしようがない光の柱が、音もなく、ただひたすらに静かに、降り注いだ。
それは、もはや魔法という言葉で形容できる現象ではなかった。詠唱もなければ、魔法陣もない。それはただ、「存在そのものを消去する」という、純粋で絶対的なエネルギーの奔流。神が下した無慈悲な怒りの鉄槌か、あるいは気まぐれな悪魔が仕掛けた残酷な戯れか。常人の理解が及ぶはずもない、世界の理を超越した御業であった。
光の柱に貫かれた山脈は、しかし、何の前触れも、何の結果も示さなかった。想像していたような天を揺るがす爆発も、地を割る轟音も、全てを薙ぎ払う衝撃波も、一切発生しない。ただ、光に触れた部分から、静かに、いかなる抵抗も許されることなく、その存在が消えていく。まるで、最初からそこには何も無かったかのように。岩も、土も、雪も、そこに生きていたかもしれない生命も、全てが原子レベルのさらにその先、存在の情報そのものまで分解され、完全に「消滅」した。後に残るのは、不自然に切り取られた夜空だけ。その光景は、あまりにも静謐で、それゆえに恐ろしく、そしてどこか神々しいほどに美しかった。
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帝都を、マグニチュード10クラスという、人類の観測史上、ありえない規模の巨大な地震が襲ったのは、それからわずか数秒後のことだった。
それは、山脈が消滅したことによって生じた地殻の急激な変動が、巨大なエネルギーの波となって帝都の足元を直撃した結果だった。
「「「ぎゃあああああああああ!!」」」
最初に訪れたのは、腹の底から湧き上がってくるような、不気味な地鳴り。そして、間髪入れずに襲い来る、世界そのものがひっくり返るかのような激しい縦揺れと、それに続く、全てをなぎ倒すかのような横揺れ。帝都は一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。豪華絢爛を誇った貴族の館が、まるで砂の城のように崩れ落ち、庶民が暮らすレンガ造りの家々は、紙細工のように無惨に砕け散る。強固に舗装されていたはずの石畳の道が、巨大な口を開けて人々を飲み込み、そびえ立っていた尖塔や記念碑は、その根元からへし折れて轟音とともに倒壊した。
人々は悲鳴を上げ、泣き叫び、ただただ無我夢中で逃げ惑う。しかし、足元の大地そのものが牙を剥いている状況下では、どこにも安全な場所など存在しなかった。やがて、地震の本体が過ぎ去った後も、世界を終焉させるかのような凄まじい衝撃波が、音速を超えて街の全てを薙ぎ払っていった。窓ガラスという窓ガラスが粉々に砕け散り、建物の壁が内側から爆発するように吹き飛び、路上にいた人々は、木の葉のように軽々と宙を舞った。
どれほどの時間が経ったのだろうか。数分か、あるいは数十分か。悪夢としか思えない揺れと衝撃がようやく収まった時、奇跡的に生き残った人々は、埃と煙に巻かれながら、呆然と立ち尽くしていた。そして、誰もが、まるで何かの引力に引かれるように、一様に、空を見上げた。本能が、この惨状の原因が地上にあるのではなく、天からもたらされたものであると告げていたからだ。
そして、彼らは言葉を失った。
いつもそこにあるはずのものが、ない。
帝都の北側に、まるで街を守る黒い城壁のように、雄大にそびえ立っていた、あの巨大な山脈のシルエットが、ごっそりと、あまりにも綺麗に、消え失せていたのだ。昨日まで、いや、ほんの数分前まで、確かにそこにあったはずの、連なる峰々の雄々しい稜線が、完全に消失していた。山脈があったはずの場所には、ただ、破壊された帝都の惨状を嘲笑うかのように、不気味なほど静かな、星々の輝く夜空が広がっているだけだった。まるで、巨大な絵画から、山脈の部分だけが巨大な消しゴムで念入りに消されてしまったかのような、信じがたい光景だった。
「山が……」
「やまが、きえた……?」
誰かが、か細い、ひび割れた声で呟いた。その言葉は、周囲の人々の絶望を代弁していた。その、常識では到底理解することも、受け入れることもできない、あまりにも現実離れした光景を前にして、帝都の全ての人間が、ただ、なすすべもなく、底知れぬ絶望に打ちひしがれるしかなかった。それは、帝国の絶対的な権威と、彼らが信じてきた世界の秩序そのものが、根底から覆された瞬間だった。
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