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第六章:封印されし姫と古代遺跡
第26話:六人旅とトラブルメーカーの再会
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帝国の首都を揺るがした一連の騒動がようやく収束し、穏やかな日常が戻ってくるかと期待していた俺の淡い希望は、数日と経たずに打ち砕かれた。帝都を離れ、次なる目的地を目指す俺たちの旅は、いつの間にか総勢六名という大所帯に膨れ上がっていた。俺、アルス。剣の腕にはそこそこ自信があるが、面倒事はごめんだ。俺の相棒であり、頼れる兄貴分の戦士、ジン。魔法学院からの付き合いである、才能豊かだがどこか残念な魔法使い、ルーナ。そして、今回の帝都での騒動の中心人物であり、訳あって俺と行動を共にすることになった、剣技に秀でた少女、アリーシア。さらに、これまた複雑な経緯の果てに、俺の「所有物」たることを自ら望んだ帝国の元皇女、ソフィア。
これだけの人数が一つの集団として移動する様は、もはや冒険者のパーティというよりも、さながら小規模な移動集落、あるいは流浪の民の一団と呼ぶ方がしっくりくるかもしれなかった。そして、その朝は、これから始まるであろう新たなカオスの連鎖を、高らかに宣言するかのような光景で幕を開けたのである。
夏特有の、生命力に満ち溢れた朝だった。夜の間に大地に降りた冷たい露が、夜明けの柔らかな光を受けて、森の木々という木々の葉先で無数のダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。深く息を吸い込めば、湿り気を帯びた土の匂いと、青々とした草の香りが混じり合った、ひんやりと澄んだ空気が肺の隅々まで満たしていく。都会の喧騒から離れたこの静寂と、汚れない大気の清浄さは、何物にも代えがたい贅沢と言えた。
俺が毛布から身を起こし、まだ少しぼんやりとした頭で周囲を見渡すと、焚き火の前には、すでに完璧としか言いようのない朝食の準備が整えられていた。一体いつの間に、そしてその荷物のどこに収納していたのか、まるで貴族の館の食卓をそのまま切り取ってきたかのように、清潔な白いテーブルクロスが粗末な丸太のテーブルに敷かれ、その上には磨き上げられた銀のカトラリーが寸分の狂いもなく並べられている。キャンプという野趣あふれる環境とはおよそ不釣り合いな、しかし不思議と調和しているその光景の中心で、一人の女性が優雅に佇んでいた。
「おはようございます、アルス様。昨夜はお休みになれましたでしょうか。お目覚めはいかがですか」
静かで、それでいて凛とした声が鼓膜を優しく揺らす。帝国の元皇女、ソフィア。彼女は、ふわりと優美な笑みを浮かべると、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露しながら、俺に朝のお茶を差し出した。透き通るような白磁のカップから立ち上る湯気の温度、鼻腔をくすぐる紅茶の芳醇な香り、そのすべてが計算され尽くされている。彼女は、俺の「所有物」となることを自ら宣言して以来、まるでそれが当然の務めであるかのように、甲斐甲斐しく、そして恐ろしいほどに完璧に俺の身の回りの世話を焼いていた。その献身は、時に俺を戸惑わせ、居心地の悪さを感じさせるほどだった。
俺がその完璧な朝の光景と、完璧な一杯を静かに受け入れようとした、まさにその瞬間。その優雅な調和を粉々に打ち砕く、二つの声がけたたましく響き渡った。
「庶民の料理なら、この私の方が得意に決まってるわ!さあ、アルス!私が心を込めて焼いたパンを食べるがいいわ!」
声の主はアリーシアだった。彼女は自信に満ち溢れた表情で、まるで戦勝品を掲げる将軍のように、こんがりと…いや、こんがりという表現を遥かに超越したパンを俺の眼前に突きつけてきた。それはパンというよりも、もはや一種の芸術作品だった。表面は漆黒の光沢を放ち、その所々に見られる亀裂は、さながら火山の噴火によって生まれた溶岩石を彷彿とさせる。芸術的なまでに、完璧に炭化していた。黒い。あまりにも黒い。そして、その黒い塊を握る彼女の指先が、わずかに煤で汚れているのが見えた。
アリーシアの挑戦的な声が森にこだまする間もなく、もう一つの声がそれに続いた。
「魔法で丁寧に沸かしたお湯は、ただのお湯とは一味も二味も違うのよ!これで淹れたお茶は、きっと体にいいに違いないわ!さあ、アルス、こっちを飲んで!」
今度はルーナだ。彼女は得意満面といった様子で、錬金術師が使うような形状のガラスポットを高々と掲げていた。しかし、そのポットの中では、ボコボコ、ゴポゴポと、まるで地獄の釜のように煮え立ったお湯が激しく渦を巻き、今にも蓋を突き破って噴出しそうになっている。パチパチとガラスが軋むような音さえ聞こえる。それは飲み物というより、もはや錬金術の実験中に生まれた危険物と呼ぶべき代物だった。彼女の善意と、それがもたらす結果との間には、いつも天と地ほどの隔たりがあった。
俺は、二人の少女から向けられる、期待に満ちたキラキラとした視線を、まるでそこに何もないかのように、そっと逸らした。アリーシアの純粋な善意と努力の結晶(炭)と、ルーナの魔法への絶対的な信頼が生み出した超沸騰茶。どちらかを選ぶなどという無粋な、そして命がけの選択は俺にはできない。俺は静かに、無言で、ソフィアが差し出してくれた完璧な一杯を手に取ると、ゆっくりと口へと運んだ。
……うまい。
口の中に広がる、絶妙な温度と芳醇な香り。苦味と渋味、そしてほのかな甘みのバランスが完璧に取れたその液体は、眠気と混沌で満たされていた俺の脳を優しく覚醒させていく。その安らぎの味を噛み締めながら、俺は背後で落胆のため息をつくアリーシアと、「むー!」と頬を膨らませるルーナの気配を、感じないふりをすることに全神経を集中させた。
◇
そんなこんなで始まった混沌の朝は、やがて騒がしい朝食の時間へと移行し、そしてようやく俺たちは旅支度を整えて森の道を進み始めた。朝の光は一層その輝きを増し、木々の間から差し込む光の筋が、まるで教会のステンドグラスのように地面に美しい模様を描いている。ジンが先頭で周囲を警戒し、その後ろを俺とアリーシア、ルーナが続く。ソフィアとクラウスは少し離れて後方を進み、全体の様子を窺っていた。
しばらく無言で歩を進めていると、前方の道の先から、やけに騒がしい、そして極めて聞き覚えのある声の断片が風に乗って運ばれてきた。
「だから、こっちの道だって言ってるでしょ!私の研ぎ澄まされた野生の勘が、そう告げてるんだから間違いないわ!」
張りのある、しかしどこかヒステリックな少女の声。
「姫さんよぉ…その自慢の勘は、昨日だけで、もうかれこれ五回は外れておるぞ…いや、待てよ、昨日の夕方に崖っぷちに出たのを加えると、六回か?」
やれやれといった調子の、年老いた男性の声。
「うっさいわね!細かいことはいいのよ、細かいことは!大局を見なさい、大局を!」
その声を聞いた瞬間、俺の眉間が、ぴく、と意思とは無関係に痙攣した。一種の警報だった。面倒事の接近を知らせる、長年の経験から体に刻み込まれたアレルギー反応のようなものだ。ちらりと後ろを振り返ると、俺の内心を察したのか、ジンも「うへえ」と、心底嫌そうな、まるで腐った果物でも口にしてしまったかのような顔で天を仰いでいた。俺たち二人の間には、言葉はなくても通じる、深い諦念と共感があった。
案の定、という言葉がこれほど似合う状況も珍しいだろう。森が開けた分かれ道で、例の一行が壮大な内輪揉めを繰り広げていた。燃えるような赤毛をポニーテールにした快活な少女が、一枚の広げられた地図の中心で仁王立ちになり、その両脇で老魔術師風の男と、屈強な鎧の戦士が頭を抱えている。リリアたち、三人組のパーティだ。以前、別の街で出会い、そして多大なる迷惑…もとい、騒動に巻き込まれた、忘れようにも忘れられない顔ぶれだった。
「あら、あなたたちじゃない!」
俺たちの存在に気づいたリリアは、それまでの口論が嘘だったかのように、ぱあっと顔を太陽のように輝かせると、ぶんぶんと大きく手を振りながらこちらへ駆け寄ってきた。その屈託のなさ、悪意の欠片もない笑顔は、彼女が巻き起こすトラブルの数々を知らなければ、誰もが好感を抱いてしまうだろう。
「奇遇ね!ちょうどよかったわ!あなたたちも次の街、エトラを目指しているんでしょ?任せなさい、この私が見つけた最高の近道を教えてあげる!」
再会を喜ぶ(?)のも束の間、彼女は「最高の」という部分を妙に強調しながら、自信満々に分かれ道の一方を指差した。しかし、その指が示す先は、どうひいき目に見ても、まともな人間が選ぶべき道ではなかった。
そこには、二つの道が明確なコントラストを描いて存在していた。
片や、陽光が燦々と降り注ぎ、広く固められた明るい街道。時折、鳥のさえずりが聞こえ、道端には可憐な野花が咲いている。遠くの街へと続くであろう、安全と文明の象徴のような道だ。
そして、リリアが自信満々に指差すもう一方は、その対極にあった。冷たく湿った、まるで意志を持っているかのようにまとわりつく霧が深く立ち込める、薄暗い獣道。苔むした木々は不気味な形にねじ曲がり、まるで見る者を拒絶しているかのようだ。そして、その道の奥からは、何かが腐敗したような、微かな、しかし明確な悪臭が風に乗って漂ってくる。誰が、どういう視点で見ても、絶対に選んではいけない方の道であることは明白だった。
「リリア、その道は地図には載っていないわ。危険よ」
アリーシアが、冷静かつ的確に忠告する。彼女の真面目な性格が、リリアの無謀さを許せないようだった。
「ああ。理由はよくわからねえが、どうにも嫌な感じがするぜ。俺の剣士としての勘が、そっちだけはやめとけって、頭の中で警鐘を鳴らしてる」
ジンもまた、その鋭い感覚で道の先に潜む危険を察知しているようだった。彼の言葉には、数々の死線を乗り越えてきた者だけが持つ、重みと説得力があった。
しかし、この赤毛のトラブルメーカー、歩く災厄製造機に、常識的な忠告や経験に基づく直感など通用するはずもなかった。彼女の思考回路は、常人とは異なる法則で動いているのだ。
「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ!私の野生の勘が、こっちが絶対的な近道だってビンビンに告げてるんだから!地図なんて古い情報に頼ってるから、あなたたちは損をするのよ!」
リリアは、えっへんと効果音が付きそうなほどに高々と胸を張ると、俺たちの制止の声が耳に届くよりも早く、くるりと身を翻した。
「じゃあねー!エトラの街で待ってるわ!お先に失礼!」
そう言って、まるでピクニックにでも出かけるかのように元気に手を振りながら、彼女は一人でさっさと霧の中へとその姿を消してしまった。オレンジ色の髪が霧に溶け込み、やがてその快活な声も、不気味な静寂の中に吸い込まれていった。
「「「…………」」」
後に残されたのは、俺たち六人と、主に見捨てられたリリアの仲間である老魔術師と戦士の二人。合計八名の人間と、彼らの間に流れる途方もない沈黙だけだった。老魔術師は深々とため息をつき、戦士は兜の奥で「またか…」と呟いているのが聞こえた。
放っておく、という選択肢も、理論上は、なくはなかった。彼女が選んだ道だ。その結果がどうなろうと、自己責任という言葉で片付けてしまうこともできたはずだ。
しかし、あの底抜けの方向音痴で、トラブルを磁石のように引き寄せる体質の少女を、一人でこんな怪しい場所に放置すれば、どのような悲惨な結末を迎えることになるかは、火を見るよりも、いや、太陽を見るよりも明らかだった。良くて道に迷って泣きべそをかく程度。悪ければ、あの腐敗臭の発生源になっている何かと遭遇し、良からぬ事態に発展する可能性が極めて高い。そして、なぜだか分からないが、結局はその尻拭いを俺がすることになる、という未来まで鮮明に予測できた。
「……はぁ」
俺は、この長いようで短い旅が始まって以来、最大級の、そして魂の最も深い底から絞り出すような、長いため息をついた。それは諦めであり、覚悟であり、そしてこれから降りかかるであろう面倒事に対する、ささやかな前払いの疲労でもあった。
結局、俺たちは、あの命知らずで、善意の塊であるトラブルメーカーを追いかけるという、満場一致(リリアを除く)の結論に至った。自ら、面倒事の匂いしかしない、あの濃密な霧が渦巻く谷へと、重い足を踏み入れることになったのだった。一歩足を踏み入れた瞬間、ひやりとした湿気が肌にまとわりつき、世界から音が消えたかのような錯覚に陥った。新たな、そしておそらくはとてつもなく厄介な冒険の始まりだった。
これだけの人数が一つの集団として移動する様は、もはや冒険者のパーティというよりも、さながら小規模な移動集落、あるいは流浪の民の一団と呼ぶ方がしっくりくるかもしれなかった。そして、その朝は、これから始まるであろう新たなカオスの連鎖を、高らかに宣言するかのような光景で幕を開けたのである。
夏特有の、生命力に満ち溢れた朝だった。夜の間に大地に降りた冷たい露が、夜明けの柔らかな光を受けて、森の木々という木々の葉先で無数のダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。深く息を吸い込めば、湿り気を帯びた土の匂いと、青々とした草の香りが混じり合った、ひんやりと澄んだ空気が肺の隅々まで満たしていく。都会の喧騒から離れたこの静寂と、汚れない大気の清浄さは、何物にも代えがたい贅沢と言えた。
俺が毛布から身を起こし、まだ少しぼんやりとした頭で周囲を見渡すと、焚き火の前には、すでに完璧としか言いようのない朝食の準備が整えられていた。一体いつの間に、そしてその荷物のどこに収納していたのか、まるで貴族の館の食卓をそのまま切り取ってきたかのように、清潔な白いテーブルクロスが粗末な丸太のテーブルに敷かれ、その上には磨き上げられた銀のカトラリーが寸分の狂いもなく並べられている。キャンプという野趣あふれる環境とはおよそ不釣り合いな、しかし不思議と調和しているその光景の中心で、一人の女性が優雅に佇んでいた。
「おはようございます、アルス様。昨夜はお休みになれましたでしょうか。お目覚めはいかがですか」
静かで、それでいて凛とした声が鼓膜を優しく揺らす。帝国の元皇女、ソフィア。彼女は、ふわりと優美な笑みを浮かべると、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露しながら、俺に朝のお茶を差し出した。透き通るような白磁のカップから立ち上る湯気の温度、鼻腔をくすぐる紅茶の芳醇な香り、そのすべてが計算され尽くされている。彼女は、俺の「所有物」となることを自ら宣言して以来、まるでそれが当然の務めであるかのように、甲斐甲斐しく、そして恐ろしいほどに完璧に俺の身の回りの世話を焼いていた。その献身は、時に俺を戸惑わせ、居心地の悪さを感じさせるほどだった。
俺がその完璧な朝の光景と、完璧な一杯を静かに受け入れようとした、まさにその瞬間。その優雅な調和を粉々に打ち砕く、二つの声がけたたましく響き渡った。
「庶民の料理なら、この私の方が得意に決まってるわ!さあ、アルス!私が心を込めて焼いたパンを食べるがいいわ!」
声の主はアリーシアだった。彼女は自信に満ち溢れた表情で、まるで戦勝品を掲げる将軍のように、こんがりと…いや、こんがりという表現を遥かに超越したパンを俺の眼前に突きつけてきた。それはパンというよりも、もはや一種の芸術作品だった。表面は漆黒の光沢を放ち、その所々に見られる亀裂は、さながら火山の噴火によって生まれた溶岩石を彷彿とさせる。芸術的なまでに、完璧に炭化していた。黒い。あまりにも黒い。そして、その黒い塊を握る彼女の指先が、わずかに煤で汚れているのが見えた。
アリーシアの挑戦的な声が森にこだまする間もなく、もう一つの声がそれに続いた。
「魔法で丁寧に沸かしたお湯は、ただのお湯とは一味も二味も違うのよ!これで淹れたお茶は、きっと体にいいに違いないわ!さあ、アルス、こっちを飲んで!」
今度はルーナだ。彼女は得意満面といった様子で、錬金術師が使うような形状のガラスポットを高々と掲げていた。しかし、そのポットの中では、ボコボコ、ゴポゴポと、まるで地獄の釜のように煮え立ったお湯が激しく渦を巻き、今にも蓋を突き破って噴出しそうになっている。パチパチとガラスが軋むような音さえ聞こえる。それは飲み物というより、もはや錬金術の実験中に生まれた危険物と呼ぶべき代物だった。彼女の善意と、それがもたらす結果との間には、いつも天と地ほどの隔たりがあった。
俺は、二人の少女から向けられる、期待に満ちたキラキラとした視線を、まるでそこに何もないかのように、そっと逸らした。アリーシアの純粋な善意と努力の結晶(炭)と、ルーナの魔法への絶対的な信頼が生み出した超沸騰茶。どちらかを選ぶなどという無粋な、そして命がけの選択は俺にはできない。俺は静かに、無言で、ソフィアが差し出してくれた完璧な一杯を手に取ると、ゆっくりと口へと運んだ。
……うまい。
口の中に広がる、絶妙な温度と芳醇な香り。苦味と渋味、そしてほのかな甘みのバランスが完璧に取れたその液体は、眠気と混沌で満たされていた俺の脳を優しく覚醒させていく。その安らぎの味を噛み締めながら、俺は背後で落胆のため息をつくアリーシアと、「むー!」と頬を膨らませるルーナの気配を、感じないふりをすることに全神経を集中させた。
◇
そんなこんなで始まった混沌の朝は、やがて騒がしい朝食の時間へと移行し、そしてようやく俺たちは旅支度を整えて森の道を進み始めた。朝の光は一層その輝きを増し、木々の間から差し込む光の筋が、まるで教会のステンドグラスのように地面に美しい模様を描いている。ジンが先頭で周囲を警戒し、その後ろを俺とアリーシア、ルーナが続く。ソフィアとクラウスは少し離れて後方を進み、全体の様子を窺っていた。
しばらく無言で歩を進めていると、前方の道の先から、やけに騒がしい、そして極めて聞き覚えのある声の断片が風に乗って運ばれてきた。
「だから、こっちの道だって言ってるでしょ!私の研ぎ澄まされた野生の勘が、そう告げてるんだから間違いないわ!」
張りのある、しかしどこかヒステリックな少女の声。
「姫さんよぉ…その自慢の勘は、昨日だけで、もうかれこれ五回は外れておるぞ…いや、待てよ、昨日の夕方に崖っぷちに出たのを加えると、六回か?」
やれやれといった調子の、年老いた男性の声。
「うっさいわね!細かいことはいいのよ、細かいことは!大局を見なさい、大局を!」
その声を聞いた瞬間、俺の眉間が、ぴく、と意思とは無関係に痙攣した。一種の警報だった。面倒事の接近を知らせる、長年の経験から体に刻み込まれたアレルギー反応のようなものだ。ちらりと後ろを振り返ると、俺の内心を察したのか、ジンも「うへえ」と、心底嫌そうな、まるで腐った果物でも口にしてしまったかのような顔で天を仰いでいた。俺たち二人の間には、言葉はなくても通じる、深い諦念と共感があった。
案の定、という言葉がこれほど似合う状況も珍しいだろう。森が開けた分かれ道で、例の一行が壮大な内輪揉めを繰り広げていた。燃えるような赤毛をポニーテールにした快活な少女が、一枚の広げられた地図の中心で仁王立ちになり、その両脇で老魔術師風の男と、屈強な鎧の戦士が頭を抱えている。リリアたち、三人組のパーティだ。以前、別の街で出会い、そして多大なる迷惑…もとい、騒動に巻き込まれた、忘れようにも忘れられない顔ぶれだった。
「あら、あなたたちじゃない!」
俺たちの存在に気づいたリリアは、それまでの口論が嘘だったかのように、ぱあっと顔を太陽のように輝かせると、ぶんぶんと大きく手を振りながらこちらへ駆け寄ってきた。その屈託のなさ、悪意の欠片もない笑顔は、彼女が巻き起こすトラブルの数々を知らなければ、誰もが好感を抱いてしまうだろう。
「奇遇ね!ちょうどよかったわ!あなたたちも次の街、エトラを目指しているんでしょ?任せなさい、この私が見つけた最高の近道を教えてあげる!」
再会を喜ぶ(?)のも束の間、彼女は「最高の」という部分を妙に強調しながら、自信満々に分かれ道の一方を指差した。しかし、その指が示す先は、どうひいき目に見ても、まともな人間が選ぶべき道ではなかった。
そこには、二つの道が明確なコントラストを描いて存在していた。
片や、陽光が燦々と降り注ぎ、広く固められた明るい街道。時折、鳥のさえずりが聞こえ、道端には可憐な野花が咲いている。遠くの街へと続くであろう、安全と文明の象徴のような道だ。
そして、リリアが自信満々に指差すもう一方は、その対極にあった。冷たく湿った、まるで意志を持っているかのようにまとわりつく霧が深く立ち込める、薄暗い獣道。苔むした木々は不気味な形にねじ曲がり、まるで見る者を拒絶しているかのようだ。そして、その道の奥からは、何かが腐敗したような、微かな、しかし明確な悪臭が風に乗って漂ってくる。誰が、どういう視点で見ても、絶対に選んではいけない方の道であることは明白だった。
「リリア、その道は地図には載っていないわ。危険よ」
アリーシアが、冷静かつ的確に忠告する。彼女の真面目な性格が、リリアの無謀さを許せないようだった。
「ああ。理由はよくわからねえが、どうにも嫌な感じがするぜ。俺の剣士としての勘が、そっちだけはやめとけって、頭の中で警鐘を鳴らしてる」
ジンもまた、その鋭い感覚で道の先に潜む危険を察知しているようだった。彼の言葉には、数々の死線を乗り越えてきた者だけが持つ、重みと説得力があった。
しかし、この赤毛のトラブルメーカー、歩く災厄製造機に、常識的な忠告や経験に基づく直感など通用するはずもなかった。彼女の思考回路は、常人とは異なる法則で動いているのだ。
「だーいじょうぶ、だーいじょうぶ!私の野生の勘が、こっちが絶対的な近道だってビンビンに告げてるんだから!地図なんて古い情報に頼ってるから、あなたたちは損をするのよ!」
リリアは、えっへんと効果音が付きそうなほどに高々と胸を張ると、俺たちの制止の声が耳に届くよりも早く、くるりと身を翻した。
「じゃあねー!エトラの街で待ってるわ!お先に失礼!」
そう言って、まるでピクニックにでも出かけるかのように元気に手を振りながら、彼女は一人でさっさと霧の中へとその姿を消してしまった。オレンジ色の髪が霧に溶け込み、やがてその快活な声も、不気味な静寂の中に吸い込まれていった。
「「「…………」」」
後に残されたのは、俺たち六人と、主に見捨てられたリリアの仲間である老魔術師と戦士の二人。合計八名の人間と、彼らの間に流れる途方もない沈黙だけだった。老魔術師は深々とため息をつき、戦士は兜の奥で「またか…」と呟いているのが聞こえた。
放っておく、という選択肢も、理論上は、なくはなかった。彼女が選んだ道だ。その結果がどうなろうと、自己責任という言葉で片付けてしまうこともできたはずだ。
しかし、あの底抜けの方向音痴で、トラブルを磁石のように引き寄せる体質の少女を、一人でこんな怪しい場所に放置すれば、どのような悲惨な結末を迎えることになるかは、火を見るよりも、いや、太陽を見るよりも明らかだった。良くて道に迷って泣きべそをかく程度。悪ければ、あの腐敗臭の発生源になっている何かと遭遇し、良からぬ事態に発展する可能性が極めて高い。そして、なぜだか分からないが、結局はその尻拭いを俺がすることになる、という未来まで鮮明に予測できた。
「……はぁ」
俺は、この長いようで短い旅が始まって以来、最大級の、そして魂の最も深い底から絞り出すような、長いため息をついた。それは諦めであり、覚悟であり、そしてこれから降りかかるであろう面倒事に対する、ささやかな前払いの疲労でもあった。
結局、俺たちは、あの命知らずで、善意の塊であるトラブルメーカーを追いかけるという、満場一致(リリアを除く)の結論に至った。自ら、面倒事の匂いしかしない、あの濃密な霧が渦巻く谷へと、重い足を踏み入れることになったのだった。一歩足を踏み入れた瞬間、ひやりとした湿気が肌にまとわりつき、世界から音が消えたかのような錯覚に陥った。新たな、そしておそらくはとてつもなく厄介な冒険の始まりだった。
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