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第3話:見捨てられた者の慟哭
しおりを挟むその神殿に、音はなかった。
光も、風も、生命の息吹も、ここには存在しない。あるのはただ、万物の終着点たる絶対的な静寂と、永遠と見紛うほどの昏(くら)い闇だけだった。遥か昔、神々の時代ですら忘れ去られた石材で組み上げられた柱は、天を衝くほどの高さを誇りながら、その頂きは闇の向こうに溶けて見えない。床は一枚岩の黒曜石で磨き上げられ、歩む者の姿をぼんやりと映すが、その影はどこまでも深く、まるで魂そのものを吸い込むかのようだった。空気は氷のように冷たく、肌を刺す。吸い込めば肺が凍てつき、吐き出す息は白い霧となって、すぐに闇に掻き消された。
神殿の最奥、数多の骸骨が精巧な彫刻のように組み上げられた玉座に、冥府の王ハデスは静かに腰を下ろしていた。彼の存在そのものが、この空間の静寂と闇を体現しているかのようだった。
その絶対的な静寂を破り、一つの声が傲然と響き渡った。
「この決断の、一体どこに罪があるというのだ!」
声の主は、戦神アレス。その全身を覆う白銀の鎧は、神々の手による工芸品であり、それ自体が淡い光を放っていた。だが、その聖なる輝きすら、この冥府の闇に触れた瞬間、力を失い、かろうじて彼の周囲をぼんやりと照らすのが精一杯だった。彼の背には、竜の翼をあしらった真紅のマントが揺れている。しかし、風のないこの場所で、それを揺らしているのは彼自身の内から溢れ出る、揺るぎない情熱と自負の熱波だった。金色の髪は星屑を散りばめたように輝き、その蒼い瞳は、自らが成し遂げた偉業への絶対的な確信に満ちていた。
彼は、自らが語った英雄的な決断の記憶に酔いしれていた。
――大陸全土を破滅の淵に追いやった古の魔王。その復活を阻止するためには、魔王の魂が封じられた要塞「絶望の牙」を、封印が解かれる前に破壊する必要があった。しかし、要塞への最短経路は、鬼人族の領地を突っ切るしかない。交渉の余地はなく、迂回路を選べば、到底間に合わない。残された選択肢は、鬼人族の軍勢を一点に引きつけ、その隙に本隊が要塞を破壊するという、非情なる陽動策のみ。
その陽動の「餌」として選ばれたのが、鬼人族の領地にほど近い、辺境のエルム村だった。アレスは、エルム村に魔物の大群が向かっているという偽の情報を流し、自らが救出に向かうと公言することで、鬼人族の注意を村へと向けさせた。そして、鬼人族がエルム村に殺到している間に、アレス本隊は手薄になった要塞を強襲し、見事、魔王の復活を阻止したのだ。
結果として、エルム村の五百の命は失われた。しかし、その犠牲によって、王都の百万の民、いや、大陸全土の無数の命が救われたのだ。
アレスは、冥王ハデスの反論を待っていた。彼の脳裏には、王都に凱旋した日の熱狂が鮮やかに蘇っていた。降り注ぐ花びら、天を揺るがすほどの歓声、涙ながらに彼の名を呼ぶ民衆。誰もが彼を英雄と讃えた。偉大な決断を下した救世主だと。
「ハデスよ、答えるがいい」アレスは再び声を張り上げた。「どんな論理を弄そうと、百万の命を救ったという結果は動かない。これは『必要悪』ですらない。大いなる善を成すための、最小限の、そして唯一の『コスト』だったのだ。その事実の前では、いかなる非nanも色褪せるはずだ!」
しかし、ハデスはアレスの情熱を意にも介さず、ただ静かに、ゆっくりと首を横に振った。その仕草は、まるで聞き分けのない子供を諭すかのようだった。玉座の肘掛けに置かれた、骨のように白い指先が、かすかに動く。
「それはお前の視点だ」
その声は、凍てついた湖面に小石を投げ込むように、静かだが確かな波紋をアレスの魂に広げた。低く、感情の起伏を感じさせない声。だが、その響きには、悠久の時を死者と共に過ごしてきた者だけが持つ、抗いがたい重みがあった。
「お前がそう信じ、お前の周りの人間がそう評価し、お前たちの歴史がそう記録したというだけの話にすぎない。光が強ければ、その影もまた濃くなる。お前が浴びた喝采の影で、声なき声がどのように響いていたか、考えたことはあるか? 真実は常に多面的だ。一つの面だけを見て、全てを理解した気になってはならない。勇者よ。お前が見なかった、いや、あの日、お前が意図的に目を背けた、もう一つの真実を、今ここで見せてやろう」
ハデスの言葉と同時に、アレスを包む空間が再び蜃気楼のように歪んだ。冥府の冷たく硬い石の床が、柔らかな土の感触に変わる。死の静寂は消え、生命のざわめきが彼の耳を満たし始めた。
英雄の凱旋に沸く王都の喧騒は掻き消え、代わりに、穏やかで素朴な村の風景が広がる。
そこは、エルム村だった。
季節は、夏の盛り。空はどこまでも高く、深く、吸い込まれるような紺碧(こんぺき)の色をしていた。真っ白な積乱雲が、巨大な綿菓子のようにゆっくりと空を流れ、その影が眼下に広がる大地を優しく撫でていく。
村の周りには、黄金色の麦畑が地平線の彼方まで広がっていた。収穫を間近に控えた麦の穂は、重たげに頭を垂れ、南から吹く穏やかな風を受けるたびに、さざ波のようにうねり、きらきらと陽光を反射していた。その波間を縫うようにして、赤いポピーや青いヤグルマギクが可憐な顔を覗かせている。風が運んでくるのは、香ばしい麦の匂い、土いきれの匂い、そして蜜のように甘い花の香りだった。
村の中を流れる小川は、雪解け水を集めたもので、その水は驚くほどに澄んでいた。川底の小石の一つひとつがはっきりと見え、時折、銀色の魚影が素早く横切っていく。子供たちの屈託のない笑い声が、水しぶきと共にはじけていた。彼らは服が濡れるのも構わずに、小川で水を掛け合ってはしゃいでいる。その声は、まるで夏の陽光そのものが音になったかのように、明るく村中に響き渡っていた。
家々の庭先には、色とりどりの洗濯物がはためき、屋根からは炊事の煙が細く立ち上っている。村の中心にある広場では、鍛冶屋が槌を振るうリズミカルな音が響き、その隣のパン屋からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂ってきて、道行く人々の鼻をくすぐった。
アレスの記憶にも鮮やかな、宿屋の看板が見えた。『木漏れ日の宿』と書かれたその看板は、少し色褪せてはいたが、その周りを蔦の葉が優しく縁取っており、旅人を温かく迎え入れる雰囲気に満ちていた。
ここは、世界から見れば忘れ去られたような、小さな、しかし生命力に満ち溢れた場所だった。人々は貧しくとも、互いに助け合い、ささやかな幸せを分かち合って生きていた。誰もが、この平和な日常が明日も、明後日も、永遠に続いていくのだと信じて疑っていなかった。
その平和な風景は、しかし、一瞬で引き裂かれる。
街道の向こうから、一人の男が馬を駆って、転がるように村へ駆け込んできた。彼の顔は土気色で、その目は恐怖に見開かれている。
「大変だ!魔物だ!魔物の軍勢がこっちに来るぞ!」
血相を変えた村人の叫びは、穏やかな昼下がりの空気を鋭く切り裂いた。
最初にその声に反応したのは、広場で遊んでいた子供たちだった。彼らの笑い声がぴたりと止み、何事かと不安げな顔で男を見つめる。鍛冶屋の槌の音も止んだ。パン屋の女主人が、小麦粉で白くなった手で口を覆う。
村は、瞬く間にパニックに陥った。
「なんだって!?」
「どこからだ!数はどれくらいなんだ!」
「女子供は家の中に隠れろ!」
泣き叫ぶ女、納屋から錆びついた鍬や鋤を持ち出してくる男、呆然と立ち尽くす老人。ついさっきまで平和の象徴だったざわめきは、恐怖と混乱の悲鳴へと変わった。小川で遊んでいた子供たちは、親の元へと泣きながら駆け寄っていく。
その混乱の渦の中心で、杖をついた白髪の村長が、必死に声を張り上げた。その声は老いのためか細く震えていたが、不思議なほどの威厳があった。
「皆、落ち着くんだ!落ち着いて私の話を聞け!」
村人たちの視線が、一斉に村長へと集まる。彼は一度、大きく息を吸い込み、希望を振り絞るように言った。
「大丈夫だ、我々には希望がある!勇者アレス様の一行が、この近くの森で野営されているとの報せがあった!今、早馬を向かわせたところだ!アレス様は、魔王軍を打ち破り、この世界を救ってくださったお方だ!必ずや我らを救ってくださるはずだ!」
「勇者様」という言葉は、魔法の呪文のように人々の心を繋ぎ止めた。そうだ、あの英雄がいる。絶望の淵にあったこの世界を救った光の勇者が。闇を切り裂く聖剣の輝き、悪を微塵も許さないその気高い魂。彼が近くにいるのなら、何も恐れることはない。
人々の顔に、わずかながら安堵の色が浮かんだ。恐怖に震えていた心が、一つの大きな希望によって束ねられていく。
「おお、勇者様が…」
「なんと幸運なことだ!」
「神は我々を見捨てていなかった!」
その時、宿屋の中から、一人の男が幼い娘の手を引いて飛び出してきた。宿屋の主人だ。彼の顔は不安にこわばっていたが、その隣で、そばかすの浮いた顔の少女が、気丈にも父親を見上げて微笑んでみせた。少女の名は、サラ。
「お父さん、心配ないよ。勇者様なら、きっと大丈夫」
サラは、数日前にこの村に立ち寄ったアレスの一行に、野の花で作った花飾りを渡したことがあった。魔王討伐の旅の途中、わずかな休息のために立ち寄っただけだったが、少女にとってそれは一生の思い出だった。屈強な戦士たちに囲まれたアレスは、少し疲れた顔をしていたけれど、サラが差し出した拙い花飾りを受け取ると、驚いたように目を見開き、そして、とても優しく微笑んでくれたのだ。
「私、この前、勇者様に花飾りをあげたんだ。すごく優しい目をしてた。私のこと、覚えててくれるかな? きっと私たちのこと、覚えててくれるよ。勇者様は、悪い奴らをやっつけてくれるんだから!」
少女の純真な信頼は、まるで乾いた薪に投じられた火の粉のように、人々の心に希望の炎を灯した。そうだ、俺たちはただ待っているだけじゃない。勇者様が到着するまで、自分たちの手で村を守るんだ。
絶望は、闘志へと変わった。
彼らは、先祖代々使い込んできた貧弱な農具を手に取り、荷車や古い樽、材木を運び出して、村の入り口に粗末なバリケードを築き始めた。それは、本格的な軍隊の前では一瞬で蹴散らされてしまうような、あまりにも頼りない防壁だった。だが、彼らにとってそれは、希望そのものの形だった。
誰もが信じていた。
あと半日もすれば、あの輝かしい聖剣を携えた英雄が、後光のような希望の光と共に、丘の向こうから現れると。そして、この悪夢を終わらせてくれると。
#### 三
時間は、しかし、無情に過ぎていく。
太陽は、空の真上で灼熱の光を放っていたが、やがてその勢いを失い、ゆっくりと西の地平線へと傾き始めた。空の色は、鮮やかな紺碧から、燃えるような茜色へと移り変わっていく。長く伸びた家々の影が、広場を黒く染め上げていった。
バリケードの陰で待ち続ける村人たちの顔から、少しずつ希望の色が消えていく。あれほど活気のあった作業中の声も、今はもう聞こえない。誰もが押し黙り、街道の彼方を、ただじっと見つめていた。
風が吹くたびに、麦畑がざわめき、誰もが「来たか!」と身を乗り出す。だが、それはただの風の音。鳥の群れが空を横切る影に、何度も息を呑んだ。
「なぜ…」
誰かが、乾いた唇で呟いた。
「まだなのか…」
別の誰かが、不安を押し殺すように応える。
「勇者様は…道に迷われたのだろうか…」
子供たちは、母親のスカートに顔をうずめ、静かに震えている。昼間の活気はどこにもなく、村全体が、まるで息を殺しているかのような、重苦しい沈黙に支配されていた。
宿屋の主人は、娘のサラを固く抱きしめていた。サラは、父親の腕の中で、何度も何度も街道の向こうに目を凝らした。アレスの優しい笑顔を思い出しながら、必死に信じようとしていた。勇者様は必ず来てくれる、と。
太陽が、ついに西の山の端にその姿を隠そうとしていた。世界が、紫と橙の入り混じった、美しいがどこか寂寥感を誘う光に包まれる。昼の暑さは急速に失われ、肌寒い夜の気配が忍び寄ってきた。
その時だった。
地平線の向こうに、土煙が上がったのは。
「来た!」「ついに勇者様が!」
沈黙は一瞬で破られ、村中が歓喜の声に沸き立った。人々は互いに抱き合い、涙を流し、神に感謝を捧げた。ああ、やはり我々は見捨てられていなかった。信じて待っていて、本当に良かった。サラも父親の腕の中から飛び出し、背伸びをしながら、希望の光景を目に焼き付けようとした。
だが、彼らの最後の期待は、次の瞬間、ガラス細工のように無残に砕け散った。
土煙の中から現れたのは、太陽の紋章を掲げた英雄の旗ではなかった。
血で汚れた髑髏(どくろ)と、ねじくれた獣の角をあしらった、禍々しい紋章。
掲げられていたのは、鬼人族の軍旗だった。
地を揺るがす鬨の声と、血に飢えた獣の咆哮が、夕暮れの静寂を引き裂いた。そこにいたのは、屈強という言葉では生ぬるい、まさしく鬼と呼ぶにふさわしい異形の軍勢だった。鋼のような筋肉に覆われた巨大な体躯、濁った血のように赤い肌、そして剥き出しにされた牙からは、涎が滴り落ちていた。彼らの手には、人間の胴体ほどもある巨大な戦斧や、歪な刃を持つ大剣が握られている。
「ああ…神よ…」
バリケードの陰で、誰かが呟いた。
それは、もはや祈りではなかった。
完全な絶望から漏れた、ただの、力ないため息だった。
歓喜は、絶叫に変わった。
希望は、完全な絶望へと突き落とされた。
次の瞬間、村は阿鼻叫喚の地獄と化した。
鬼人たちの分厚い刃が、村人たちの希望の結晶であった粗末なバリケードを、まるで紙でも破るかのように軽々と破壊した。荷車は木っ端微塵に砕け散り、材木は乾いた小枝のようにへし折られる。
「うわあああああ!」
「逃げろ!逃げろおおお!」
抵抗しようとした村の男たちは、赤子のように薙ぎ倒されていく。錆びついた鍬は、分厚い鬼人の鎧に当たって甲高い音を立てて弾かれ、次の瞬間には、持ち主の体ごと巨大な斧に両断された。悲鳴を上げる間もなかった。
血飛沫が舞い、肉が断ち切られる生々しい音が響き渡る。平和だった村は、一瞬にして血と炎、そして死の匂いに満たされた。
宿屋の親父は、恐怖に立ちすくむ娘のサラを庇い、その背に巨大な斧の一撃を受けた。ごきり、と骨が砕ける鈍い音が響く。彼は一言の悲鳴も上げられず、信じられないものを見るように目を見開いたまま、娘の上に崩れ落ちた。温かい血が、サラの顔と服を赤黒く染め上げた。
アレスは、目の前で繰り広げられる惨劇に、声もなく立ち尽くしていた。
ハデスが見せるこの光景は、あまりにも鮮明で、あまりにも生々しかった。これは、彼が地図の上で駒を動かし、「コスト」として計算した、ただの数字ではなかった。
一人ひとりに名前があり、家族がいて、ささやかな未来を夢見ていた、かけがえのない命の営みだったのだ。彼らが流す血は熱く、その悲鳴は鼓膜を突き破るほどに鋭い。
血だまりの中に倒れる父親の亡骸のそばで、サラは恐怖に震えていた。もはや涙も出なかった。ただ、カタカタと歯の根が合わない音だけが、彼女の口から漏れていた。
一体、何が起こっているの?
どうして、こうなったの?
勇者様は…?
巨大な鬼人の影が、彼女の小さな体を覆い尽くす。鬼人は、血に濡れた斧を肩に担ぎ、獲物を見下ろす獣のように、醜悪な笑みを浮かべていた。
少女は、その人生の最期に、力の抜けた声で、たった一言だけ呟いた。
「どうして…勇者、様…?」
その言葉は、疑問ではなかった。
裏切られた純真な信頼が、行き場をなくしてこぼれ落ちた、魂の欠片だった。
そのか細い呟きは、鬼人の獰猛な笑い声に飲み込まれて、夕闇の中に消えた。
#### 四
回想の映像が、ぶつりと途切れた。
エルム村を包んでいた茜色の空と、血と炎の匂いは霧散し、アレスは再び、生命のない冥府の神殿に引き戻されていた。絶対的な静寂と、魂を蝕むような冷気が、再び彼の体を包み込む。
彼は、冥府の冷たい床に膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。だが、彼の足は鉛のように重く、誇り高き英雄の体を支えることを拒否しているかのように、がくがくと震えていた。
サラの最期の顔が、焼き印のように魂に刻み付けられて離れない。
あの瞳に浮かんでいた、純粋な信頼。
そして、それが無残に裏切られた瞬間の、深い、深い絶望。
「どうして…勇者、様…?」
少女の最後の言葉が、耳の奥で、いや、頭蓋の内側で、何度も何度も木霊していた。
「見たか。これが、お前の『偉大な決断』の裏側だ」
玉座から響くハデスの声は、どこまでも冷徹だった。それは、動揺するアレスの心に、容赦なく追い打ちをかける楔(くさび)となった。
「お前は言うだろう。これは悲劇だが、大陸を救うためには仕方のない犠牲だった、と。五百の命で百万の命が救われたのなら、それは『善』である、と。お前の掲げる功利主義の正義は、そう囁くのだろう。だが、死者の魂は、そんな計算で納得すると思うか?」
ハデスはゆっくりと玉座から立ち上がった。その巨躯が動くと、周囲の闇がさらに深まったように感じられた。
「これだけでは足りまい。お前の『大義』の裏で消えていった魂が、死してなお、何を語っていたか。その本当の声を、聞かせてやろう」
その瞬間、アレスの世界から、再び音が消えた。
いや、違う。
外の音が消えたのではない。彼の頭の中に、直接、無数の声が濁流のように流れ込んできたのだ。
それは、囁きから始まった。
『…なぜ…』
『…うそだ…』
『…たすけて…』
だが、囁きは瞬く間に数を増し、重なり合い、やがて途方もない絶叫の洪水となった。
『裏切り者!』
一人の男の怒声。それは、錆びた鍬を手に鬼人に立ち向かい、一撃で殺された農夫の声だった。
『あれほど信じていたのに!お前は我々を見捨てたな!英雄などと、よくも名乗れたものだ!』
村を守るためにバリケードを築いていた若者の声。彼の希望は、最も残酷な形で踏みにじられた。
『助けに来てくれると、娘は最期まで信じていたんだぞ!お前のせいで、あの子は…あの子は絶望して死んでいった!許さん、絶対に許さんぞアレス!』
それは、サラの父親の、血を吐くような叫びだった。
『痛い、苦しい、寒い…お母さん…どうして、誰も助けてくれないの…』
鬼人の足元で、なすすべもなく命を落とした子供の、か細い声。
『お前の英雄譚など、我々の墓の上で踊っているだけだ!偽善者め!』
『私たちの平和な村を返せ!』
『人殺し!』
『お前を信じた私たちが、馬鹿だった!』
それは、エルム村の五百人の魂が、死の瞬間に抱いた絶望、悲しみ、恐怖、そしてアレスへの燃え盛るような怨嗟そのものだった。
感謝も、理解も、大義への共感も、そこには一片たりとも存在しない。
ただ、見捨てられた者の、純粋で、剥き出しの叫びだけがあった。
「あ…ああ…う…あ…」
アレスは両手で耳を塞ぎ、狂ったように頭を振った。だが、無意味だった。声は外から聞こえるのではない。彼の魂の内側から、脳の奥から、骨の髄から、直接響き、彼の正義を内側から食い破っていく。
彼を英雄と讃えた百万の民の声は、もう聞こえない。
彼の偉業を記録した歴史の文字は、意味をなさない。
今、彼の全てを支配しているのは、彼が「コスト」として切り捨てた、五百の魂の断末魔だった。
血の気が引いた彼の顔は、死人のように蒼白になっていた。あれほど自信に満ち溢れていた蒼い瞳は、焦点を失って虚ろに揺れ、ただ目の前の闇を見つめている。白銀の鎧の輝きも、今は見る影もなくくすんでいた。
「私…は…」
何かを言おうとするが、言葉が意味をなさなかった。唇がわななき、乾いた音だけが漏れる。
私は、英雄ではなかったのか?
いや、違う。
私が救うべきだった人々にとって、私は英雄などではなかった。
ただの、冷酷な裏切り者だった。
彼らが絶望の淵で最後に叫んだのは、魔物の名前ではなかった。鬼人の名前でもなかった。
彼らが最後に呪ったのは、信じていたはずの、英雄の名だったのだ。
自らが信じて疑わなかった正義の城が、足元からガラガラと音を立てて崩れていくのを、彼はなすすべもなく感じていた。百万の命を救ったという、揺るぎないはずだった事実。その土台だと思っていたものが、実は五百の魂の墓碑の上に築かれた、砂上の楼閣に過ぎなかったのだと、今、彼は悟った。
城壁に亀裂が走り、塔が崩れ、彼の誇りも、自負も、大義も、全てが瓦礫となって、魂の深淵へと崩落していく。
アレスは、ついにその場に崩れ落ちた。両膝が黒曜石の床を打ち、乾いた音が神殿の静寂に虚しく響いた。彼はうなだれ、金色の髪が力なく床に散らばる。
その姿は、もはや大陸を救った英雄のものではなかった。
自らの正義に殺され、消えない罪の重みに打ちのめされた、ただの一人の男の姿だった。
闇の中で、ハデスは静かにそれを見下ろしていた。
彼の顔に、表情はない。
ただ、悠久の時を映すその瞳の奥に、ほんのかすかな、憐れみのような色が揺れただけだった。
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