なぜ勇者は地獄に落ちたのか?

Gaku

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第4話:『手段』としての人間

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 冥府の空気は、時という概念そのものが淀み、沈殿したかのような重さで満ちていた。始まりも終わりもない黄昏が、荘厳にして冷酷なハデスの神殿を永遠に照らしている。光源は見当たらず、ただ空間そのものが、忘れ去られた記憶の色であるかのように、鈍い光を放っていた。ここでは風は吹かず、木々はなく、草花の香りの代わりに、無数の魂が発する言葉にならない溜息が、かすかな鉱物の匂いとなって漂っている。

 その神殿の中央、磨き抜かれた黒曜石の床に、一人の男が膝をついていた。

 彼の名はアレス。かつて地上で「救国の英雄」と謳われた男。だが、その肩書きは、今や錆びついた鎧のように彼の魂に重くのしかかっているだけだった。白銀に輝いていたはずの鎧は色を失い、無数の戦いで刻まれた傷跡が、まるで呪いの模様のように黒く浮かび上がっていた。

 彼の内側で、声が響き続けていた。一つではない。幾重にも重なった、五百の声。それは呪詛であり、嘆きであり、そして何より、答えを求める問いかけだった。

『なぜ、私たちを見捨てたのですか、勇者様』

 老いた村長の声が、乾いた風のように耳を撫でる。彼は最後まで、アレスの偉大な目的を信じ、村人たちを説得していた。その信頼を、アレスは裏切った。

『お母さん、熱いよ、痛いよぉ…!』

 幼い少年の泣き声が、鋭いガラスの破片となって鼓膜を突き刺す。燃え盛る家々の中で、母親を探し続けた小さな魂。

『あなたを信じたのに!私たちの祈りを、希望を、踏みつけにして!』

 若い娘の絶叫が、アレスの心臓を直接鷲掴みにする。彼女はアレスに、手ずから編んだ花冠を贈ってくれた。戦いの無事を祈る、素朴で、しかし何よりも純粋な祈りが込められた花冠を。その花々の、甘く優しい香りの記憶が蘇るたび、焼けた肉と血の匂いが上書きされ、彼の胃を捩じ上げる。

 五百の怨嗟。その一つ一つが、彼が英雄と呼ばれるために支払われた「代償」だった。彼は冷たい床に額をこすりつけ、両手で強く頭を抱えた。まるでそうすることで、内側から響く声を物理的に押し出せるかのように。だが、声は止まない。それどころか、彼の苦痛を養分とするように、ますます鮮明になっていく。

 中でも、彼の魂に最も深く喰らいついている記憶があった。

 サラという名の少女の、最期の瞳。

 エルム村が炎に包まれる直前、アレスは彼女と短い言葉を交わした。王都へ向かう街道沿いの、小さな丘の上だった。季節は初夏。空はどこまでも青く澄み渡り、ラーの陽光が新緑の葉を照らして、きらきらと輝いていた。足元にはシロツメクサが絨毯のように咲き誇り、蜜を求める蜂の羽音がのどかに響いていた。

 サラは、そのシロツメクサで花冠を編んでいた。アレスと同じ金色の髪を風になびかせ、そばかすの浮いた鼻を小さく動かしながら、真剣な面持ちで。

「勇者様」

 アレスの姿に気づいた彼女は、はにかみながら立ち上がった。その手には、完成したばかりの拙い花冠が握られていた。

「これ、王都にいるお姉ちゃんに届けたいの。でも、私一人じゃ行けなくて…」

 その瞳は、一点の曇りもない、深い森の泉のような色をしていた。純粋な信頼と、未来へのささやかな希望に満ちた瞳。

「勇者様が魔王を倒してくだされば、また昔みたいに、みんなが安心して旅をできるようになるんでしょう?」

 アレスは頷いた。もちろん、と力強く答えた。彼の言葉に、サラは太陽のように笑った。その笑顔を、その瞳を、彼は守ると誓ったはずだった。

 だが、数日後。魔王軍の別動隊がエルム村に迫っているという報せが入った時、彼は選択を迫られた。別動隊を叩けば、魔王本体のいる王都への進軍が遅れる。その遅れは、王都の百万の民を危険に晒すことを意味していた。

 戦略盤を前に、彼は不眠不休で思考を続けた。仲間の騎士たちは意見を違えた。「エルム村を見捨てることなどできない」「いや、大局を見ろ。王都が落ちれば全てが終わるのだ」と。夜が明け、東の空が白み始める頃、窓の外から入り込む冷たい空気が、彼の疲弊した精神を刺した。遠くの森から聞こえる鳥のさえずりが、まるで自分たちの議論を嘲笑っているかのように感じられた。

 最終的に、彼は決断した。非情な、しかし合理的な判断を下した。エルム村を、おとりに使う、と。

 エルム村の犠牲によって稼いだ時間で、我々は魔王の首を取る。それが、最も多くの命を救う、唯一の道だ。

 そう、自分に言い聞かせた。

 そして、王都での決戦のさなか、彼の脳裏に、炎に包まれるエルム村の光景が幻視として流れ込んできた。彼はそれを振り払うように剣を振るい、魔王を討ち果たした。世界は歓喜に沸き、彼は英雄となった。

 だが、彼の魂は、あの時からずっと、エルム村の燃え盛る炎の中に囚われたままだった。サラの瞳が、今も彼を見つめている。なぜ、と問いかけている。

『あなたの正義のために、私の未来は、お姉ちゃんとの約束は、踏み潰されてもよかったの?』

 違う、と心の中で叫ぶ。そうではない。

 だが、それでも。

 このまま罪人として、黙って断罪されるわけにはいかない。まだ、信じるものが、信じたいものがある。

 アレスは、砕け散った誇りの破片の中から、最後の理性をかき集めた。震える膝に力を込め、ゆっくりと顔を上げる。その目は長年の苦痛に深く窪み、おびただしい数の毛細血管が浮かび上がって赤く染まっていた。しかし、その瞳の奥深く、消えかけた熾火のような光が、まだ抵抗の意志を示していた。

「それでも…!」

 声は掠れ、ひび割れていた。まるで、何年も使われていなかった錆びた鉄の扉を、無理やりこじ開けるような音だった。彼は、地の底から、魂の底から、声を絞り出すように叫んだ。

「それでも私は…世界を救ったのだ…!彼らの死は…そうだ、それは紛れもない悲劇だ…!だが、その犠牲があったからこそ、百万の、いや、数億の民が今を生きている!より大きな善のためだったんだ!結果が!結果が全てではないのか!」

 その叫びは、静寂に支配された神殿の巨大な空間に響き渡り、やがて虚しく吸い込まれて消えていった。それは彼の正義の最後の砦だった。彼が守り抜いた世界の、その礎となった哲学。

 目的が善であるならば、その過程で起きた悲劇は許容されるべきである。

 最大多数の最大幸福。

 彼が、その人生の全てを懸けて信じてきた、唯一の行動原理。師から授けられた王者の学問。国を、民を、世界を守るために、指導者は時に非情な決断を下さねばならないと、そう教え込まれてきた。その教えを、彼は最も過酷な形で実践したのだ。

 神殿の奥、荘厳な玉座にその身を沈めていた冥王ハデスは、アレスの悲痛な叫びを、まるで遠い嵐の音を聞くかのように、静かに受け止めていた。その表情は、影の中に沈んで窺い知ることはできない。ただ、その圧倒的な存在感だけが、空間を支配していた。

 やがて、アレスの荒い息遣いだけが残ると、冥王はゆっくりと、荘厳な玉座から立ち上がった。

 その動作一つで、神殿の空気が変わった。それまで重く淀んでいた空気が、一瞬にして鉛のように固まり、濃密になるのを感じた。アレスの肌が粟立ち、呼吸が浅くなる。見えざる巨大な何かに、全身を圧迫されるような感覚。

 玉座の影から、ハデスの姿がゆっくりと現れる。死と静寂を統べる神。その衣は夜そのものを織り上げたかのように深く、金の装飾だけが、星々の最後の輝きのように鈍い光を放っていた。

「結果、だと?」

 ハデスの声は低く、静かだった。それは嵐の前の静けさであり、大地を揺るがす地震の前の微かな予兆だった。だが、その一言は、アレスが必死にしがみついていた最後の希望を打ち砕く、巨大な鉄槌の始まりを予感させた。

 冥王は、ゆっくりとした、しかし乱れのない歩みでアレスに近づいてくる。その足音が、黒曜石の床にコツ、コツと響くたびに、アレスの心臓が不規則に跳ねた。一歩、また一歩と、ハデスの影が伸びていく。それは単なる光の遮断ではなかった。彼の存在そのものが放つ、絶対的な虚無の影。それは、床に崩れ落ちた英雄を、その過去も、栄光も、苦悩も、全て等しく塗りつ潰しながら、覆い隠していく。

 影に完全に飲み込まれる直前、アレスはハデスの顔を見上げた。感情というものが一切抜け落ちた、完璧な美貌。だが、その瞳だけが、冥府の全てを知り、全ての魂の終着点として君臨する者の、底なしの深淵を湛えていた。

「お前はまだ、自分の罪の、その本質を理解していないようだな。勇者アレス」

 その声には、何の感情もなかった。怒りも、憐れみも、嘲りもない。だが、だからこそ、その言葉は研ぎ澄まされた剃刀のように鋭く、アレスの魂の最も柔らかい部分に、音もなく突き刺さった。


 ハデスは、アレスの目の前で足を止めた。その瞳は、裁く者の冷徹さで、アレスの魂の芯を射抜いていた。アレスは、その視線から逃れることができなかった。まるで、自らの魂が透明なガラスとなり、その内側の醜い傷跡も、隠してきた欺瞞も、全て白日の下に晒されているかのような感覚だった。

「お前はエルム村の民を、王都を救うというお前の偉大な目的を達成するための**『手段』**として扱った」

 ハデスの言葉は、静かでありながら、神殿全体を震わせるほどの重みを持っていた。それは宣告だった。

「手段」。

 その言葉が、アレスの頭の中で不気味に響いた。そうだ、自分はそう考えた。エルム村の犠牲という「手段」を用いて、王都の救済という「目的」を達成する、と。それは冷徹な戦略であり、英雄としての決断だと信じていた。

 ハデスは、言葉を続ける。その声は、凍てついた冬の夜風のように、アレスの最後の弁明を吹き消していく。

「彼らの命、彼らの恐怖、彼らの絶望すらも、お前の偉業を飾るための勘定の道具、ただの**『コスト』**として計算したのだ」

「コスト」。

 その二つ目の言葉が、アレスの胸に突き刺さった巨大な杭を、さらに深く打ち込んだ。

 コスト。費用。代償。

 そうだ。自分は、天秤に乗せたのだ。

 左の皿に、エルム村の五百の命。
 右の皿に、王都の百万の命。

 そして、単純な数の論理で、左の皿が軽いと判断し、それを切り捨てた。まるで市場で商品の価値を吟味するように。まるで戦場で兵士の損失を計算するように。

 その言葉が、今まで彼が自分自身を納得させるために使ってきた、あらゆる美辞麗句の仮面を剥ぎ取っていく。「大局的な判断」「苦渋の選択」「やむを得ない犠牲」。それらの英雄的な響きを持つ言葉の裏に隠されていた、醜い本質。それが、「手段」と「コスト」という、あまりにも無機質で、あまりにも冷酷な二つの言葉によって、剥き出しにされた。

 アレスの脳裏に、再びサラの顔が浮かんだ。

 今度は、ただ悲しげな瞳だけではなかった。

 初夏の丘で、シロツメクサを編んでいた彼女。その小さな指先。風に揺れる金色の髪。アレスに気づいてはにかんだ時の、そばかすの浮いた頬。花冠を差し出した時の、希望に満ちた瞳。

 彼女は「五百分の一」という数字ではなかった。
 彼女は「コスト」という勘定科目ではなかった。

 彼女は、サラという、たった一人の、かけがえのない人間だった。

 彼女にも、アレス自身と同じように、未来を夢見る権利があった。王都にいるという姉に、手作りの花冠を渡すというささやかな、しかし美しい夢があった。彼女にも、笑い、泣き、怒り、愛する心があった。友がいて、家族がいて、彼女の存在を喜びとする人々がいた。晴れた日には歌を口ずさみ、雨の日には家で静かに物語を読む、そんな当たり前の日常があった。

 その全てを。
 彼女という人間が持つ、侵してはならない尊厳の全てを。

 自分は、「王都を救う」という偉大な目的を達成するための「道具」として扱ったのだ。

 その身も凍るような事実に、アレスは今、初めて、心の奥底から気づいた。これまで感じていた罪悪感は、まだ浅い層にあった。それは、犠牲者への同情や、自らの決断への後悔が入り混じった、感傷的なものに過ぎなかった。

 だが、今、彼を打ちのめしているのは、そんな生易しいものではない。自らの思考の根幹に潜んでいた、おぞましいほどの冷酷さ。そして、他者の命の価値を、自分自身の目的のために測れると信じ込んでいた、神を気取っていたかのような傲慢さ。その本質に気づいてしまったのだ。

 ハデスは、言葉を失い、血の気の引いた顔でわななくアレスを、ただ静かに見下ろしていた。そして、最後の、そして最も重い言葉を、まるで処刑人の斧のように、振り下ろした。

「人の命を、人の尊厳を、他の何かを達成するための**『手段』**としてのみ扱うこと。それ自体が、魂に対する最も深い冒涜であり、決して許されざる地獄に値する大罪なのだ」

 その声は、神殿全体を揺るがすほどに、厳かに響き渡った。黒曜石の床が微かに震え、アレスの鎧が共鳴して、か細い音を立てた。それは、冥府の法そのものが、ハデスの口を通して語られたかのようだった。

「結果がどうであれ、その行いそのものが、絶対的な悪なのだと、まだ理解できぬか」

 アレスの全身から、最後の力が抜けていった。腕がだらりと垂れ、かろうじて支えていた上半身が、糸の切れた人形のように前に傾いだ。

 もはや、反論の言葉はどこにもなかった。

「最大多数の最大幸福」という彼の哲学は、その前提からして、人間を踏み台にすることを許容していた。彼はそれに気づいていなかった。いや、気づかないように、目を逸らし続けてきたのだ。より大きな善という言葉の影に、切り捨てられる個人の痛みと尊厳を隠して。

 自分は、サラの人間としての価値を無視した。彼女の命を、目的を達成するための石ころか何かのように扱った。その行為そのものが「悪」なのだと、ハデスは言った。たとえその結果、数億の民が救われたとしても、その罪は決して消えないのだと。

 彼の正義は、はじめから、人間を踏み台にすることの上に成り立っていたのだ。

 おぞましい戦慄が、背筋を駆け上った。

 自分は、一体何と戦っていたのだろう。魔王か? 違う。自分は、より効率的に、より多くの人間を救うという「正しさ」に取り憑かれ、その過程で、人間が人間であることの最も根源的な価値を見失っていた。自分こそが、人間性を破壊する、もう一つの災厄だったのではないか。

 アレスは完全に沈黙し、ただ床の一点を見つめた。そこには、自分の歪んだ顔が、 희미하게映り込んでいた。英雄の面影など、どこにもない。ただ、自らの罪の深さに打ちのめされた、一人の男の顔があるだけだった。

 彼の魂に刻まれた最初の罪状が、決して覆ることのない事実として、確定した瞬間だった。

 彼が誇り高く築き上げた、正義という名の城。その最も高く、最も強固だと信じていた第一の塔が、内側から爆発するように、音もなく、跡形もなく崩れ去った。

 ハデスは、もはや言葉を発することも、身じろぎ一つすることもなくなったアレスに背を向けた。その歩みは来た時と同じように、静かで、荘厳だった。彼は黙ったまま玉座へと戻り、再びその身を深く沈めた。まるで、一つの裁きが終わり、次の魂を待つかのように。

 神殿は、再び墓場のような静寂に包まれた。

 だが、その静寂は、アレスがここに来た時のものとは、全く質が異なっていた。以前の静寂は、まだ彼の魂に反論の余地と、弁明の機会を残していた。だが、今の静寂は、全ての言葉を飲み込み、全ての可能性を閉ざす、絶対的なものだった。

 それは、英雄アレスの最初の、そして完全な敗北を決定づける静寂であり、そして、次に待ち受けるであろう、更なる断罪の始まりを告げる、不気味な静寂だった。

 崩れ落ちた正義の瓦礫の中で、アレスはただ、動かなかった。内側から響いていた五百の怨嗟は、いつの間にか止んでいた。だが、それは許されたからではない。彼の魂が、その怨嗟の意味を、その正当性を、完全に理解してしまったからだ。

 今、彼の内側にあるのは、怨嗟のこだまではない。

 自らの罪の、底なしの深淵だけだった。


 時が止まったかのような静寂の中で、アレスの意識は過去へと沈んでいった。崩れ去った正義の城の、瓦礫の下に埋もれた記憶を、彼は一つ一つ掘り起こしていた。

 彼が騎士の叙勲を受けた日。先王から賜った剣は、初冬の冷たい光を浴びて、清冽な輝きを放っていた。神殿のステンドグラスから差し込む光が、床の大理石に色とりどりの模様を描き、その中央に立つ彼の姿を祝福しているかのようだった。民衆の歓声、仲間たちの羨望の眼差し。彼は、この剣で、この力で、王国を、そこに生きる全ての人々を守り抜くと誓った。その誓いに、嘘偽りはなかった。

 彼の師であり、王国の宰相でもあった老賢者は、彼にこう語った。
「アレスよ、真の王、真の英雄とは、時に心に刃を突き立てる覚悟を持つ者だ。千の命を救うために百の命を諦めねばならぬ時が来る。その時、涙を流しながらも、冷徹に大局を見据え、決断できる者こそが、指導者の器なのだ」
 老賢者の書斎は、古い羊皮紙の匂いと、暖炉で静かにはぜる薪の香りに満ちていた。窓の外では、秋の終わりの冷たい雨が、庭の最後の薔薇を打ち付けていた。アレスは、その言葉を、世界の真理として受け入れた。痛みを伴うが、しかし必要な叡智なのだと。

 その教えが、彼を英雄へと押し上げた。オークの軍勢が国境の砦に迫った時、彼は氾濫間近の川の堤を、自らの手で切り裂いた。下流の三つの村が濁流に飲み込まれたが、砦は守られ、王都への侵攻は防がれた。人々は彼を「決断の勇者」と讃えた。彼は水没した村々を見下ろす丘で、唇を噛み締め、師の言葉を反芻した。これは、必要な犠牲だったのだ、と。

 だが今、ハデスの神殿の冷たい床の上で、その記憶は全く違う意味を持っていた。

 濁流に飲み込まれた村々の光景が、鮮明に蘇る。逃げ惑う人々の叫び声。家畜の悲鳴。屋根の上で助けを求める家族。その一人一人の顔が、今やエルム村の五百の魂と重なり合う。彼もまた、名も知らぬ村人たちの命を「コスト」として計算したのだ。彼らの人生を、彼らのささやかな幸福を、砦を守るという目的のための「手段」として、川の底に沈めたのだ。

 彼の正義の城は、その土台からして、既に歪んでいた。彼は、その歪みに気づかぬまま、次々と塔を建て増ししていったのだ。一つ一つの戦功が、一つの塔となった。その塔が高くなるたびに、その影に隠される犠牲者の数は増えていった。

 彼の意識は、エルム村の悲劇へと引き戻される。

 作戦会議の、あの重苦しい空気。地図を指し示す彼の指が、エルム村の印の上でためらった、ほんの一瞬の時間を思い出す。仲間の騎士の一人が、目に涙を浮かべて反対した。
「アレス!そこには、私の叔母一家が住んでいる!どうか、どうか見殺しにしないでくれ!」
 彼は、その騎士の肩を強く掴み、言った。
「私情を挟むな!我々が背負っているのは、この国全ての民の命なのだぞ!」と。

 なんと傲慢な言葉だったのだろう。彼の「私情」とは、叔母一家の命だった。では、自分の「公」とは何だったのか? 数が多いというだけの、匿名の「民」の命。その一つ一つに、誰かの「私情」が、誰かの愛が、誰かの人生が宿っていることを、彼は意図的に無視したのだ。

 その騎士は、王都での決戦で、アレスを庇って命を落とした。最期に彼は、「頼む…私の分まで、世界を…」と言い残した。アレスは彼の死を「英雄的な自己犠牲」として胸に刻んだ。だが、真実は違うのではないか? 彼は、アレスの正義に絶望しながらも、それでも最後まで騎士としての務めを果たそうとしただけではないのか。自分の家族を見殺しにした指揮官のために命を散らす、その胸の内は、どれほどの無念に満ちていたことだろう。

 崩れた塔の瓦礫が、次々と彼の心を抉る。

 ああ、そうだ。サラ。
 彼女の瞳。

 彼女が花冠を編んでいた丘。その丘に、もし自分が作戦の前に訪れていたら、どうなっていただろう。

『勇者様、どうかなさいましたか?』

 心配そうに顔を覗き込む彼女に、彼は真実を告げられただろうか。

「サラ。君の村は、数日後に、魔王軍の別動隊に襲われる。だが、我々は君たちを助けにはいけない。君たちの村が囮となって時間を稼いでいる間に、我々は王都で魔王を討つ。君たちの犠牲は、百万の民を救うことになる。だから、どうか理解して、死んでくれ」と。

 言えるはずがない。
 そんな悪魔のような言葉を、彼女の澄んだ瞳を前にして、口にできるはずがない。

 では、なぜ、遠い作戦司令室の地図の上では、それができたのか。

 答えは単純だった。彼は、彼女を「サラ」として見ていなかったからだ。地図の上の「エルム村」という記号としてしか、見ていなかったからだ。彼女の人間としての顔を、痛みを知る心を、未来への夢を、意図的に思考から排除していたからだ。

「手段としてのみ扱うこと」

 ハデスの言葉が、脳髄に焼き付いて離れない。

 それは、相手を人間として認めない、ということに他ならなかった。

 アレスは、ゆっくりと顔を上げた。
 目の前には、荘厳な玉座に座るハデスの姿がある。その距離は、物理的には何も変わっていない。だが、アレスには、決して越えることのできない、絶対的な隔たりが感じられた。

 ハデスは、死者の魂を裁く。だが、それは、一つ一つの魂と向き合い、その人生の重さを、その尊厳を、認めるところから始まるのではないか。冥王は、アレスのように魂を数で勘定したりはしない。一つ一つの魂が、それ自体で一つの宇宙であることを知っている。だからこそ、彼の裁きは絶対なのだ。

 アレスの全身から、今度こそ本当に、最後の力が抜けていった。それは諦めとは違う。かといって、開き直りでもない。

 完全な、理解だった。

 自らが犯した罪の、その構造と本質を。そして、それが決して償うことのできないものであるという事実を。

 彼の正義の城は、もはや跡形もない。吹きさらしの荒野が広がるだけだ。そして、その荒野には、彼が犠牲にしてきた人々の、無数の墓標が立っていた。水没した村の農夫。オークの斧に倒れた若い兵士。そして、炎の中で花冠を握りしめていたであろう、金色の髪の少女。

 その墓標の一つ一つに、彼はこれから向き合わなければならないのだ。

 ふと、神殿の空気が再び微かに動いたのを、アレスは感じた。
 それは、ハデスが玉座に戻った時とは違う、新たな気配だった。

 神殿の奥深く。アレスがこれまで気づかなかった、巨大な青銅の扉が、軋むような重い音を立てて、ゆっくりと開き始めた。

 扉の向こうは、完全な闇だった。
 だが、その闇の中から、新たな声が聞こえ始めていた。それは、エルム村の五百の声とは違う。もっと古く、もっと多くの、無数の魂の声。

 アレスが、堤防を決壊させて沈めた、三つの村の魂たち。
 アレスが、食糧を王都に集中させるために、補給路を断って飢えさせた、北の民の声。
 アレスが、英雄となる過程で「やむを得ない犠牲」として切り捨ててきた、全ての魂たちの声が、その扉の向こうで、静かに彼を待っていた。

 それは、アレスの第二の罪状を問う、新たな法廷の始まりを告げる音だった。

 ハデスは、玉座から微動だにしない。ただ、その深淵の瞳が、静かにアレスを見据えている。

 英雄の物語は、地上で終わった。
 そして今、冥府で、一人の人間としての、本当の裁きが始まろうとしていた。

 アレスは、身動き一つせず、その開かれていく扉の闇を、ただ見つめていた。彼の魂の旅は、まだ始まったばかりだった。
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