なぜ勇者は地獄に落ちたのか?

Gaku

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第6話:失われた文化の記録

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「その世界の敵を討ち滅ぼすことが、一体なぜ罪になるというのだ!」

 アレスの悲痛な叫びは、死者の魂すら凍てつかせる冥府の冷気の中を、虚しく震えながら響き渡った。彼の足元には、忘却の川レテの水面が、まるで磨き上げられた黒曜石のように静まり返り、彼の苦悶に歪む顔を無感動に映している。ここは光も、風も、時間さえもがその意味を失う、永遠の黄昏に支配された世界。遥か彼方から、数多の魂が発するかすかな嘆きの残響が、耳を澄まさなければ聞こえないほどの低周波となって、アレスの全身を絶えず打ちつけていた。

  彼の金色の髪は、かつて戦場で太陽の光を浴びて輝いた面影もなく、今はただ冥府の淀んだ光を鈍く反射しているだけだった。鍛え上げられたその肉体を包む白銀の鎧も、無数の戦いを潜り抜けてきた誇りの輝きを失い、まるで鉛のような重々しい色合いを帯びていた。その双眸に宿る青い炎だけが、彼の魂がいまだ燃え尽きていないことを示している。

 この叫びは、自らの信じる「常識」という最後の城壁を守るための、必死の抵抗だった。彼の脳裏には、数多の戦いの記憶が、消えることのない傷跡のように刻まれている。

 神は、彼が掲げる正義を祝福した。神殿の神官たちは、彼の出陣のたびに高らかに聖歌を歌い、神々の加護があることを告げた。陽光降り注ぐ大神殿で、虹色に輝くステンドグラスに見守られながら、聖油を額に塗られたあの日の記憶。民は、彼の凱旋を熱狂的に迎えた。魔族の首を掲げて王都の門を潜るたび、人々は花びらを撒き、彼の名を英雄として讃えた。幼い子供たちが、彼の鎧の裾に憧れの眼差しで触れようとする。その温もりと純粋な信頼。歴史が、彼の武勲を黄金の文字で刻むだろう。王宮の書記官たちは、彼の一挙手一投足を記録し、後世に語り継がれる英雄譚を紡いできた。

「神が、民が、歴史が証明している! 我らの行いは善であり、彼らは悪なのだ! だから自分は正しいのだ!」

 そうでなければならない。そうでなければ、この手に刻まれた無数の命の感触は、一体何になるというのか。血飛沫を浴び、断末魔の叫びを聞き、夥しい骸を踏み越えてきた、彼の人生そのものが、意味のない、ただの狂気に満ちた殺戮の繰り返しになってしまう。その考えは、彼の精神の根幹を揺るがす、耐え難い恐怖だった。

 彼の前に立つ男、いや、神は、そんなアレスの魂の叫びを、まるで嵐の後の凪いだ海のように、静かに受け止めていた。

 冥府の王、ハデス。

 彼の姿は、明確な輪郭を持たない影のようでありながら、そこにいる誰よりも絶対的な存在感を放っていた。漆黒の衣は、宇宙の深淵そのものを切り取って織り上げたかのように、あらゆる光を飲み込んでいる。その顔立ちは、美しくも恐ろしく、表情というものが存在しない。だが、その双眸だけが、星々の生まれる以前から存在する、冷徹な真理の色をたたえていた。

 ハデスは、まるで出来の悪い子供を憐れむかのように、その静寂を破った。その声は、囁きのように小さいにもかかわらず、アレスの魂の最も深い場所にまで、決定的な楔を打ち込むように響いた。

「お前が信じてきたのは、お前たち人間が、自らの生存と繁栄という、身勝手な都合のために作り上げた物語だ。真実ではない」

 その言葉は、物理的な衝撃を伴ってアレスを襲った。彼の守り続けてきた城壁に、初めて巨大な亀裂が入る音が、頭蓋の内側で鳴り響いた。

「なに…?」

 絞り出すような声は、自分のものではないように掠れていた。

 ハデスはアレスの動揺を意に介さず、さらに言葉を続ける。その声は、宣告であり、判決だった。

「お前の言う『邪悪な魔族』。その本当の姿を、その曇りなきと豪語する魂とやらに、直接見せてやろう。お前が自らの手で葬り去った、真実の欠片をな」

 ハデスの言葉を合図に、アレスを包む冥府の空間が、水面のように揺らぎ始めた。忘却の川レテの水面が上昇し、彼を球体状に包み込む。そして、その黒い鏡のような内壁に、過去の映像が色鮮やかに映し出されていった。

 ---


 そこに映し出されたのは、秋の冷たい月明かりに照らされた、古代遺跡だった。高く聳える石柱の列が、まるで巨人の肋骨のように空を掴み、その間を渡る風が、寂しげな音を立てていた。

 アレスもよく覚えていた。三年前の秋、燃えるような紅葉が山々を染め上げる頃、彼はこの場所にいた。王都からの指令書にはこう記されていた。「南方ミッドランド地方の古代遺跡に、魔族の集落あり。夜な夜な邪教の儀式を行い、周辺の村々に呪いを振りまいている形跡あり。速やかにこれを討伐せよ」。

 彼の記憶の中の光景は、鮮明だった。しとしとと降る冷たい秋雨が、遺跡の石畳を濡らし、カビと淀んだ水の匂いが立ち込めていた。遺跡の中心には、おぞましい意匠の祭壇が築かれ、その上には人間の子供のものと思しき骨が散らばっていた。不気味な単一の旋律を、狂ったように繰り返す魔族たちの詠唱。彼らは祭壇を囲み、一心不乱に踊り狂っていた。その目は血走り、涎を垂らし、理性のかけらも感じられない、まさに混沌の化身だった。

 アレスは、その光景を「悪」と断じるのに、一瞬の躊躇も必要としなかった。仲間と共に、月の光を背に急襲をかける。彼の聖剣が閃くたび、魔族の黒い血が雨に混じって飛び散った。悲鳴と怒号が交錯し、やがて静寂が訪れる。儀式は阻止され、邪悪は滅びた。彼はそう信じて疑わなかった。守るべき人々を、また一つ救ったのだと。

 だが、ハデスが見せる映像は、アレスの記憶を嘲笑うかのように、全く違う光景を映し出していた。

 ハデスの映像の中では、雨は降っていなかった。雲ひとつない夜空には、天の川がくっきりと流れ、降るような星々が瞬いている。澄み切った大気が、遠くの山の輪郭までを鮮明に映し出していた。夜露に濡れた草の香りと、近くの森から漂う、朽ち葉と土の匂いが混じり合った、清浄な空気がそこにはあった。

 そして、魔族たちの詠唱。

 それは、狂気の叫びではなかった。幾重にも重なった声が、複雑で美しい和音を奏でる、荘厳なポリフォニーだった。それは、アレスには全く理解できない言語で歌われていたが、その響きには、まるで宇宙の法則を数式で解き明かすかのような、厳密で知的な秩序が感じられた。低く響くバスの声は、大地の揺らぎを鎮めようとする祈りのように、高く澄んだソプラノの声は、遥か彼方の星々に呼びかけるかのように、完璧な調和をもって空間を満たしていた。それは恐怖ではなく、畏怖を抱かせる響きだった。

 彼らが囲んでいた「祭壇」も、禍々しいものではなかった。巨大な水晶と黒曜石で幾何学的に組み上げられた、複雑怪奇な立体模型。それは、夜空に輝く星座の位置と寸分違わぬ星図であり、天体の運行を精密に計算し、未来を予測するための巨大な観測装置だったのだ。水晶の柱は月光を集めて内部で乱反射させ、特定の星の位置を示す光の筋を黒曜石の盤上に描いている。魔族たちはその光の動きを注意深く見つめ、詠唱によってその変化を記録し、解析していた。

 彼らは狂っていたのではない。

 祈っていたのだ。

 彼らの足元に広がるこの大陸プレートの歪みを、長年の観測データから正確に計算し、数年後にこのミッドランド地方を襲うであろう、未曾有の大規模な地殻変動を予測していた。そして、星々と大地の共鳴を利用し、そのエネルギーを少しずつ解放することで、破局的な被害を未然に防ごうとする、極めて高度で、そして慈悲に満ちた儀式を行っていたのだ。

 アレスには、その詠唱の意味も、装置の構造も理解できない。だが、その光景が内包する圧倒的な知性と、星々や大地に対する深い敬意は、彼の魂に直接響いてきた。彼が「邪教の儀式」と断じたものは、人間には到底到達できないレベルの、科学であり、祈りだったのだ。

 その映像の隅に、まるで無慈悲な注釈のように、冷たい文字が浮かび上がった。

『王歴735年、秋。南方ミッドランド地方にて大地震発生。王都からの救援は遅れ、死者、三十万。儀式の失敗による、予測された人災』

 王歴735年。それは、アレスがこの遺跡を急襲した、ちょうど二年後のことだった。彼はそのニュースを王都で聞いた。辺境の地で起きた、不幸な天災。彼は、被災した人々のために、神に短い祈りを捧げた。まさか、その原因を作ったのが、自分自身だったとは夢にも思わずに。

 三十万。

 その数字が、燃え盛る鉄塊となってアレスの胸に落ちた。その中には、老人も、女も、彼が英雄と信じてくれたであろう子供たちもいたはずだ。彼が「善行」と信じて、誇り高く振り下ろした剣。その一閃が、巡り巡って、彼が守るべきだったはずの三十万の無辜の民の命を、土砂と瓦礫の下に生き埋めにしたのだ。

「そん…な…」

 声にならない声が、喉の奥で潰れた。視界がぐらりと揺れ、呼吸が止まる。彼の信じてきた正義の世界が、足元から崩れ落ちていく。

 アレスが愕然とするのも構わず、ハデスは無言のまま、映像を次の場面へと切り替えた。星図の遺跡が砂のように崩れ、新たな光景が立ち上る。

 ---


 次に映し出されたのは、鬱蒼とした森の奥深く、苔むした岩壁にぽっかりと口を開けた洞窟の内部だった。

 この場所も、アレスには見覚えがあった。五年前の夏、木々の緑が最も深くなる季節。彼は斥候から「魔物の巣穴を発見」との報告を受け、部隊を率いてこの場所を包囲した。彼の記憶の中の洞窟は、不潔そのものだった。入口から漂う、獣の糞尿と腐肉の入り混じった耐え難い悪臭。ぬかるんだ地面には、何かの骨や食べかすが散乱していた。洞窟の奥から聞こえてくるのは、意味のある言葉とは思えない、獣じみた唸り声だけ。

「魔物の汚らしい巣穴だ。奴らは獣と変わらん」

 部下の一人がそう吐き捨てた言葉に、アレスも同意した。こんな場所に住む者たちに、対話の価値などない。彼は躊躇なく、部隊に火矢を放つよう命じた。乾燥した苔や、洞窟内に溜め込まれていた枯れ草に火が燃え移り、瞬く間に洞窟は業火に包まれた。奥から響く断末魔の叫びは、人間のものではなく、ただの獣のそれにしか聞こえなかった。煙が目に染み、肉の焼ける匂いが鼻をついたが、彼の心は微塵も揺らがなかった。世界から、また一つ汚れを取り除いただけのことだと。

 だが、ハデスが松明の光で照らし出す洞窟の奥は、アレスの記憶を根底から覆す、全く違う顔を見せた。

 ハデスの映像は、アレスたちが火を放つ、まさにその直前の光景を映していた。洞窟の内部は、驚くほど乾燥し、清潔に保たれていた。地面は固く踏みならされ、いくつかの区画に分かれている。そして、アレスが息を呑んだのは、その壁だった。

 松明の揺れる光が、壁一面に描かれた、色鮮やかな顔料で描かれた精緻な壁画を浮かび上がらせたのだ。

 赤、黄、青、緑。様々な色の顔料で描かれた壁画は、何千年もの風雪に耐えてきたかのような荘厳さと、つい昨日描かれたかのような鮮やかさを両立させていた。それは、単なる落書きではない。一つの偉大な文明が、その魂を刻み込んだ、壮大な絵巻物だった。

 ある壁面には、英雄の姿があった。山のように巨大な、猪とも熊ともつかない獣に、たった一人で立ち向かう魔族の戦士。その筋肉の躍動感、決意に満ちた表情。周囲には、彼の勝利を祈る仲間たちの姿が描かれている。それは、彼らの土地の生態系を守るための、勇気ある戦いの記録だった。

 別の壁面には、穏やかな日常の光景が広がっていた。寄り添い、幼子をあやす親子の姿。その愛情に満ちた眼差しは、人間のそれと何ら変わらない。若者たちが、楽器を奏でたり、踊ったりしている様子。収穫を祝い、食卓を囲む家族の団らん。彼らの社会が、豊かな感情と共同体意識に基づいていたことを、その絵は雄弁に物語っていた。

 さらに奥の、最も神聖と思われる空間には、彼らの神話と歴史、そして王の系譜が、年代記のように綴られていた。天地創造の物語、星々から降り立ったという始祖の伝説、代々の王たちの肖像と、その治世における偉大な業績。それは、何世代にもわたって彼らが口承と絵で受け継いできた、彼らのアイデンティティそのもの。文化と魂の、巨大な記録庫だった。

 アレスが「汚らしい巣穴」と断じ、躊躇なく焼き払ったもの。それは、魔族にとってのルーブル美術館であり、アレクサンドリア図書館であり、国立公文書館だったのだ。

 彼が獣の唸り声だと思ったのは、長老が若者たちに、壁画に描かれた歴史を語り聞かせる声だったのかもしれない。彼が嗅いだ悪臭は、壁画を描くための顔料や、薬草を調合する匂いだったのかもしれない。

 映像は、無慈悲に続く。アレスの部隊が放った火矢が、洞窟の入り口に突き刺さる。瞬く間に燃え広がる炎。壁画に描かれた英雄や家族の姿が、黒い煤に覆われ、熱によって剥がれ落ちていく。炎は、何世代にもわたる彼らの記憶と文化を、一瞬にして灰に変えていった。奥から聞こえてきた断末魔は、自らの身体が焼かれる痛みだけでなく、彼らの魂そのものが消滅していくことへの、絶望の叫びだったのだ。

 アレスは、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえた。自分がやったことは、ただの討伐ではなかった。一つの知的生命体が、気の遠くなるような時間をかけて築き上げてきた、かけがえのない文明に対する、決して許されることのない冒涜であり、破壊だった。自分は、一文明の破壊者だったのだ。

 そして、ハデスは最後の、そして最も残酷な真実を、アレスの眼前に映し出す。

 ---


「なぜ、魔族が人間を襲うようになったか。その『始まり』を見せてやろう」

 ハデスの静かな声が、アレスの崩壊しかけた精神に深く突き刺さる。映像は、これまでとは比較にならないほど、鮮やかで、そして美しい光景を映し出した。

 そこは、春の陽光が燦々と降り注ぐ、穏やかで緑豊かな山だった。雪解け水を集めた清らかな小川が、せせらぎの音を立てて流れ、そのほとりには、名も知らぬ可憐な花々が咲き乱れている。若草の萌える匂いと、花々の甘い香りが風に乗って運ばれ、思わず深呼吸したくなるような、生命力に満ち溢れた場所。木々の葉は陽光を透かし、地面にきらきらと揺れる木漏れ日を作っていた。鳥のさえずりが、まるで祝福の音楽のように響き渡っている。

 ここは、魔族たちが「聖地」として崇め、代々守り続けてきた山だった。映像の中では、彼らの平和な暮らしが営まれている。子供たちが、森の小動物たちと戯れ、その笑い声がこだましている。大人たちは、木陰で静かに語らったり、薬草を摘んだり、あるいはただ目を閉じて、自然と一体になるかのように瞑想にふけっていた。彼らの顔には、敵意も、憎しみも、狂気もない。ただ、穏やかで満ち足りた時間が流れていた。

 その楽園のような光景を、無慈悲に踏み荒らす者たちが現れる。

 人間の王国の、真紅の旗を掲げた一団。先頭に立つのは、傲慢そうな顔つきの測量技師たち。その後ろには、完全武装した兵士たちが、機械のような冷たい無表情で続いていた。

 彼らは、聖地の静寂を、鉄のブーツの音で無遠慮に破った。挨拶も、断りもなく、無慈悲に木を切り倒し始める。斧が木に食い込む乾いた音、巨木が大地を揺るがして倒れる轟音は、まるで聖地の悲鳴のようだった。測量隊は、地面に杭を打ち込み、大地を掘り返し始めた。

 彼らの目的は、この聖地の地下に眠る、魔力を帯びた希少鉱石の採掘だった。人間の世界で、強力な武具や魔道具を製造するために、喉から手が出るほど欲しい資源である。

 その地に住んでいた魔族たちは、初めは驚き、戸惑いながらも、対話を試みようとした。白髪の長老が、数人の若者を伴って、人間の前に進み出た。彼は、穏やかな声で、ここは自分たちの聖地であり、これ以上の破壊はやめてほしいと、古の人間の言葉で懸命に訴えた。

 だが、人間たちの部隊を率いる隊長は、その言葉を鼻で笑った。

「獣が何を喋っている? 鉱脈を見つけたのは我々だ。この土地は、偉大なる我が王国のものとなる。邪魔をするなら、力で排除するまでだ」

 人間たちは、彼らを対等な知的生命体として見ていなかった。言葉を解する、少し知恵の回る「獣」。その程度の認識だった。

 隊長が合図すると、兵士の一人が、問答無用で長老に剣を向けた。長老を守ろうとした若者たちが、抵抗する間もなく斬り伏せられる。鮮血が、咲き乱れる花々と、萌える若草を汚していく。聖地を穢され、敬愛する長老と、昨日まで共に笑い合っていた同胞を目の前で殺された魔族たちの間に、絶望が、そして燃えさかるような憎しみが、燎原の火のごとく燃え広がっていく。

 彼らの瞳から、穏やかな光が消えた。代わりに宿ったのは、悲しみと怒りが混じり合った、復讐の炎だった。彼らの抵抗は、狂気や生まれ持っての破壊衝動からではなかった。自分たちの土地と、文化と、家族と、そして何より、その尊厳を守るための、あまりにも正当で、そして絶望的な自衛戦争の始まりだったのだ。

 映像は、その後、人間たちの侵略がエスカレートしていく様を映し出す。鉱山開発は進み、聖地は見る影もなく荒廃していく。抵抗する魔族は、次々と殺され、住処を追われた。生き残った者たちは、故郷を奪われ、飢えと憎しみを抱えて、人間たちの住む領域へと追いやられていった。彼らが、人間を襲い始めたのは、その時からだった。奪われたものを取り返すため、殺された同胞の仇を討つため、そして何より、これ以上自分たちの存在を脅かされないための、必死の戦いだったのだ。

 アレスがずっと戦ってきた「邪悪な侵略者」とは、実は、故郷を追われた必死のレジスタンスであり、尊厳を踏みにじられた復讐者だったのだ。

 正義を掲げていたのは、自分たち人間の方ではなかった。侵略し、奪い、殺したのは、常に人間からだったのだ。

 ---


 全ての映像が消え、冥府に再び、死よりも深い静寂が戻ってきた。

 忘却の川レテの水面は、何事もなかったかのように、ただ静かにアレスの姿を映している。

 アレスは、その場に立ち尽くしていた。

 彼の顔面からは、全ての血の気が失せ、まるで石膏像のように蒼白になっていた。呼吸も忘れ、わずかに開いた唇が、意味のない音を発するかのように小さく震えている。彼の瞳から、最後まで残っていたはずの青い炎は、完全に消え失せていた。そこにあるのは、底なしの虚無だけだった。

 彼の頭の中で、信じてきた全てのものが、轟音を立てて崩れ落ちていく。神の祝福も、民の喝采も、歴史の記録も、全ては人間という侵略者が、自らの罪を正当化するために作り上げた、巨大な虚構に過ぎなかった。

 自分が「悪」と信じて、疑いもせずに破壊し尽くしてきたもの。

 それは、星の運行を読み解き、大地の未来を憂うほどの知性を持った賢者たちだった。

 それは、何世代にもわたる歴史と芸術を、壁画として後世に伝えようとした、誇り高き民だった。

 それは、春の光の中で、家族や仲間と穏やかに暮らし、故郷の自然を愛していた、心優しき人々だった。

 自分たち人間と何ら変わらない、豊かな文化を持ち、家族を愛し、故郷を守ろうとしていただけの、知的生命体の営みだったのだ。

 自分は、英雄ではなかった。

 救世主でもなかった。

 神の代行者などでは、断じてなかった。

 脳裏に、自分が殺してきた魔族たちの顔が、次々と浮かび上がってくる。しかし、それはもはや、記憶の中の狂気に満ちた獣の顔ではない。ハデスが見せた、真実の姿だった。

 遺跡で祈りを捧げていた、あの荘厳な詠唱者たちの顔。
 洞窟で炎に巻かれ、絶望の叫びをあげた、あの壁画の守り人たちの顔。
 聖地で、目の前で同胞を殺され、憎しみの炎を瞳に宿した、あの若者の顔。

 彼らの無数の瞳が、アレスを静かに見つめている。責めるでもなく、憎むでもなく、ただ深い、深い哀しみをたたえて。

「ああ…あ…」

 言葉にならない呻きが、アレスの喉から漏れた。

 自分は、ただの、無知で、傲慢で、そして歴史上、類を見ないほどの、大量虐殺者だった。

 その、決して覆すことのできない、絶対的な事実に直面した瞬間、アレスの精神をかろうじて支えていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

 彼は、もはや立っていることさえできず、その場に崩れ落ちた。白銀の鎧が、虚しい音を立てて冥府の地面に打ち付けられる。彼は両手で顔を覆い、子供のように嗚咽を漏らした。それは、後悔でも、贖罪でもない。自らが犯した罪の、そのあまりの巨大さに、魂そのものが耐えきれずに軋みを上げている音だった。

 ハデスは、崩れ落ちた英雄の亡骸を、ただ静かに見下ろしていた。その無表情な顔に、憐憫のかけらでも浮かんでいたのかどうか、アレスには、もはや知る由もなかった。

 冥府の果てしない静寂の中に、一人の男の、魂が砕け散る音だけが、永遠に響き渡っていた。
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