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第7話:『正義』という名の不寛容
しおりを挟む死の匂いは、錆びた鉄と、湿った土の匂いに似ていた。
アレスの意識が、長い水の底から引き上げられるように浮上したとき、最初に感じたのはそれだった。次に、肌を刺すような、生命の温もりを一切含まない冷気。最後に、耳を満たす、絶対的な無音。それは、嵐の後の静けさではなく、音が生まれる前の、世界の原初のような静寂だった。
彼はゆっくりと身を起こした。全身が鉛のように重い。最後に覚えているのは、竜の王との死闘の果て、灼熱の息吹に焼かれながらも、聖剣をその心臓に突き立てた瞬間の、爆発するような光と熱だったはずだ。守るべき仲間たちの顔が、灼けつく痛みの中で明滅していた。そうだ、自分は勝ったのだ。世界を救ったのだ。英雄として、その責務を果たし、そして……死んだのだ。
だが、目の前に広がる光景は、英雄の魂が迎えられるという光り輝く神々の殿堂ではなかった。
果てしなく広がる、灰色の平原。そこには、アスポデロスと呼ばれる、青白い、亡霊のような花々が、かそけき光を放ちながら無数に咲き乱れていた。花々は風もないのにひとりでに揺れ、その揺らめきはまるで、声なき魂たちのすすり泣きのようにも見えた。空には太陽も月も星もなく、ただ、どこからともなく射す、薄暮のような、頼りない光がすべてを均一に照らしている。遠くには、黒く淀んだ大河が、音もなくゆっくりと流れていた。ステュクス。神々の名においてさえ、決して覆すことのできない誓いが交わされる、忘却の川。
ここは、冥府。生前の行いを裁かれ、永遠の判決を待つ魂が彷徨う場所。
「……なぜだ」
アレスの唇から漏れた声は、あまりにもか細く、この広大な静寂の中に吸い込まれて消えた。自分は世界を救った勇者のはずだ。神々の祝福を受け、光の国へと導かれるはずではなかったのか。
その疑念に応えるかのように、平原の向こう、一段と高くそびえる丘の上に、巨大な神殿がその威容を現した。黒曜石を磨き上げたかのように滑らかな柱が、この世のものとは思えぬほどの荘厳さで天を支えている。神殿へと続く階段は、一段一段が巨大な墓石のようだった。
アレスの足は、意思とは無関係に、その神殿へと向かって歩き始めた。まるで、見えざる鎖に引かれるように。アスポデロスの花々が、彼の足元でさわさわと囁く。それは、歓迎の言葉か、あるいは警告か。冷たい霧が彼の足首にまとわりつき、生前の記憶から温もりを奪っていく。故郷の村を吹き抜けた春の風の匂い、夏祭りの夜の喧騒、初めて握った剣の冷たさ、そして、愛する者たちの笑顔。それら全てが、この冥府の空気の中で色褪せ、遠い夢の欠片のように希薄になっていくのを感じた。
長い、永遠にも思える時間をかけて、彼は神殿の巨大な門にたどり着いた。門はひとりでに、軋む音もなく開く。その先にあったのは、広大なホールだった。天井は遥か高く、星々の運行が、本物と見紛うばかりの精緻さで描かれている。だが、その星々もまた、死んだ光を放っているだけだった。
ホールの最奥。幾多の髑髏と宝石で飾られた巨大な玉座に、一人の神が座していた。
その姿は、闇そのものが形を成したかのようだった。漆黒の衣をまとい、その顔にはいかなる感情も浮かんでいない。ただ、その双眸だけが、凍てついた星のように、鋭く、そして底知れない深淵を湛えてアレスを射抜いていた。その視線に晒された瞬間、アレスは全身の血が凍りつくのを感じた。英雄として数多の死線を越え、竜の王にさえ怯まなかった彼の魂が、本能的な畏怖に震えていた。
冥府の王、ハデス。
「勇者アレスよ」
ハデスの声は、地底の奥深くから響いてくるようだった。それは怒りも喜びも含まず、ただ、万物の終わりを告げるかのような、冷徹な響きを持っていた。
「お前の旅は終わった。そして今、お前の魂の真価が問われる時が来た」
ハデスが玉座から片手をわずかに上げると、アレスの目の前の空間が、水面のように揺らめいた。そして、そこに数々の「真実」が映し出され始めた。
それは、アレスがその生涯を懸けて築き上げてきた、英雄としてのアイデンティティを根こそぎ破壊するには、十分すぎるほどの力を持っていた。
最初に映し出されたのは、緑豊かな森だった。
アレスがよく知る森ではなかった。彼の故郷の近くにあった、穏やかな陽光が木々の間から差し込むような森ではない。もっと濃く、深く、生命の原初的な力に満ちた、鬱蒼とした大森林だ。巨大な樹々は空を覆い隠し、地面には色とりどりの、しかしどこか毒々しい光を放つ苔やキノコが生い茂っている。澄んだ小川がせせらぎ、そこには見たこともない形の魚たちが泳いでいた。
森の奥深く、大樹の洞や、岩をくり抜いて作られた家に住む者たちの姿が映る。彼らこそ、アレスが「魔族」と呼んで憎み、そして滅ぼしてきた者たちだった。
だが、映像の中の彼らは、アレスが騎士団で教え込まれたような、血に飢えた醜悪な怪物ではなかった。肌の色や、頭に生えた角、あるいは獣のような耳や尻尾といった異形の特徴こそあれ、そこに映っていたのは、紛れもない「暮らし」だった。
父親と思しき魔族が、木の実を背負って家に帰る。家の中から、幼い子供たちが駆け寄ってきて、その足にじゃれつく。母親が、鍋をかき混ぜながら、慈愛に満ちた笑みでその光景を見守っている。彼らの交わす言葉はアレスには理解できなかったが、その響きには温かい親愛の色が滲んでいた。
別の場面では、若者たちが集まり、何かの儀式を行っていた。長老らしき魔族が、複雑な模様が刻まれた石板を前に、荘厳な声で何かを語り聞かせている。若者たちは真剣な面持ちでそれに聞き入っていた。それは、歴史や文化の継承の瞬間であると、誰の目にも明らかだった。彼らには彼らの神がおり、守るべき伝統があり、未来へと繋ぐべき物語があったのだ。
アレスの脳裏に、凄惨な記憶がフラッシュバックした。
あれは、彼が「勇者」として初めて率いた討伐隊でのことだ。場所は、奇しくも今映像に映っているのと同じような、深い森だった。夏の盛り、むせ返るような緑の匂いと、湿った土の匂いが立ち込めていた。大神官から授かった「魔族の巣」の地図を頼りに、アレスは部下たちを鼓舞した。
「怯むな!奴らは世界に災厄を齎す悪だ!女神の名の下に、一匹残らず殲滅せよ!」
若さと正義感に燃えるアレスの言葉に、兵士たちは雄叫びで応えた。そして、奇襲は完璧に成功した。
眠りを襲われた魔族の村は、阿鼻叫喚の地獄と化した。アレスは、聖剣を煌めかせ、目に入る魔族を次々と斬り伏せた。彼の剣技は神がかっていた。抵抗する者も、逃げ惑う者も、等しく彼の刃の錆となった。燃え盛る家々から聞こえる悲鳴は、彼にとって正義の執行を祝福する凱歌にしか聞こえなかった。彼は、一人の子供を抱えて逃げようとした父親らしき魔族の背中を、躊躇いなく貫いた。その魔族が最後に見ていたものが、腕の中の我が子の顔だったことなど、知る由もなかった。
「我らの勝利だ!」
村が炎に包まれ、静寂を取り戻した時、アレスは天に剣を突き上げ、そう叫んだ。朝日が、血と灰にまみれた彼の鎧を照らし、まるで後光が差しているかのように見えた。兵士たちは、彼を神のように崇め、その名を讃えた。あの時の高揚感、万能感。自分は世界を救っているのだという、一点の曇りもない確信。
だが、今、冥府の空間に映し出された「真実」は、その記憶を無慈悲に上書きしていく。
アレスが英雄的な武勲として誇っていた行為は、客観的な視点から見れば、ただの一方的な虐殺に過ぎなかった。彼が「悪の巣」と信じて焼き払った場所は、誰かにとっての温かい故郷だった。彼が「怪物」として斬り捨てた者たちには、名前があり、家族がいて、守りたいと願ったささやかな日常があった。
映像は次々と切り替わる。
アレスが「魔族の前線基地」だと信じて陥落させた岩の要塞。そこは、希少な薬草を栽培し、病に苦しむ同胞を癒すための療養所だった。壁に刻まれていたのは、邪悪な呪いの紋様ではなく、薬草の効能や調合方法を記した、彼らの知恵の結晶だった。
アレスが「邪神を祀る祭壇」だと信じて破壊した湖畔の遺跡。そこは、彼らの祖先の霊を慰め、豊穣を祈るための神聖な場所だった。湖に沈められた美しい装飾品の数々は、邪悪な生贄などではなく、祖先への感謝を込めた捧げ物だった。
彼の全ての戦いが、全ての勝利が、その意味を反転させていく。
王都に凱旋した日のことを思い出す。秋晴れの空の下、大通りは熱狂する民衆で埋め尽くされていた。紙吹雪と色とりどりの花びらが舞い、彼の名を呼ぶ歓声が地を揺るがした。バルコニーに立つ国王は満面の笑みで彼を迎え、大神官は「女神の御心に適う、偉大なる勇者」と彼を讃えた。あの時、風が運んできたのは、金木犀の甘い香りと、民衆の熱気だった。彼は、その全てを誇りに思った。自分が守った世界の、なんと美しく、素晴らしいことかと。
その熱狂の裏で、どれほど多くの涙が流されていたことか。
その賞賛の陰で、どれほど多くの命が理不尽に奪われていたことか。
彼は、血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。
自分が信じてきた世界が、足元から音を立てて崩れていく。
自分は正義の執行者ではなかった。
ただの、無知で傲慢な大量虐殺者だった。
そのおぞましい認識が、彼の魂を麻痺させていた。思考が、感情が、凍り付いて動かない。目の前の映像が、現実のものとして受け入れられない。これはハデスが見せる幻覚だ。自分を陥れるための罠だ。そう思おうとしても、映像から伝わってくる圧倒的なまでの「事実」の重みが、彼の脆い自己弁護を許さなかった。
長い、死のような沈黙の後。
アレスの震える唇から、かろうじて、か細い声が漏れた。
「知らな…かった…」
それは、罪を認め、許しを乞うかのような、弱々しい響きを持っていた。声を発したことで、麻痺していた感情の堰が僅かに切れる。彼の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは、英雄として流した、民衆の犠牲を悼む涙とは全く違う、自らの罪の重さに打ちのめされた、冷たい絶望の雫だった。
「もし…もし、知っていたら…。彼らに文化があり、家族がいて、守るべき故郷があったのだと、本当に知っていたなら、私は…私は、きっと違う道を選んだはずだ…」
そうだ、知らなかったのだ。誰も教えてくれなかった。国王も、大神官も、騎士団の教官も、誰もが魔族を絶対的な悪だと語った。その言葉を信じることに、何の疑いもなかった。純粋に、ただ純粋に、世界を良くしたいと願っただけなのだ。だから、自分は……。
その言葉を待っていたかのように、冥王ハデスは、冷徹な声でその最後の言い訳を断ち切った。
「知ろうとしなかったのだ」
雷に打たれたように、アレスはハッと顔を上げた。
ハデスの言葉は、物理的な力を持たないはずなのに、アレスの心臓を直接鷲掴みにするような衝撃を伴っていた。冥府の神殿に満ちていた重苦しい静寂が、その一言によってさらに密度を増し、アレスの呼吸を圧迫する。
「知ろうと…しなかった…?」
オウム返しに呟くアレスの表情から、先程までの弱々しい自己弁護の色が消え、純粋な困惑と、かすかな反発が浮かんだ。何を言われているのか、理解できなかった。
ハデスは、その絶望の表情を意にも介さず、言葉を続ける。その一言一言が、アレスの魂に新たな傷を刻んでいく。
「お前は、自分たち人間という共同体の価値観と相容れないものを、異質な他者を、一度でも真に理解しようとしたか?」
その問いに、アレスは答えられなかった。彼の脳裏に、これまでの戦いの記憶が駆け巡る。魔族と対峙した時、彼が考えたのは、いかに効率的に、いかに速やかに敵を殲滅するか、ということだけだった。彼らの言葉に耳を傾けようなどと、思ったことすらなかった。そもそも、彼らが人間と同じような「言葉」を話すという発想自体が、彼の中には存在しなかった。彼らの発する音声は、獣の咆哮や、威嚇の唸り声としか認識していなかったのだ。
ハデスは、アレスの沈黙を肯定と受け取り、さらに問いを重ねた。
「彼らの言葉を学び、彼らの歴史を紐解き、彼らの痛みを知ろうと努めたか?」
アレスは唇を噛み締めた。努める? なぜ、そんな必要があるというのだ。彼らは悪なのだ。邪悪な存在なのだ。悪を理解する必要などない。悪はただ、滅ぼすべき対象ではなかったのか。
彼の心に生まれた反論を読み取ったかのように、ハデスは静かに首を横に振った。その動きは、深い失望と、憐れみを含んでいるように見えた。
「いや、しなかった。お前は、与えられた情報を鵜呑みにし、思考を停止させ、彼らを『悪』と決めつけた。そして、その決めつけの上に、自らの正義を築き上げたのだ」
「与えられた情報…」アレスは呟いた。
そうだ、情報は常に与えられるものだった。王宮の図書館で読んだ歴史書には、魔族がいかに古の時代から人間を脅かし、世界を闇に陥れようとしてきたかが、克明に記されていた。大神官は、毎週の礼拝で、魔族が女神の教えに背く不浄な存在であると説いた。騎士団の訓練では、魔族の弱点や、残忍な習性について徹底的に叩き込まれた。酒場に行けば、旅人や傭兵たちが、魔族に襲われた村の悲惨な話を、尾ひれをつけて語っていた。
それらすべてが、一つの方向を指し示していた。「魔族は悪である」と。
アレスは、それらの情報を疑ったことがなかった。なぜなら、それらの情報は、彼が尊敬し、信頼する人々から与えられたものだったからだ。国王の威厳に満ちた声、大神官の慈愛深い眼差し、騎士団長の揺るぎない信念。それらが嘘をついているなどとは、夢にも思わなかった。
だが、今、ハデスの言葉が、その信頼の土台そのものを揺るがす。
「お前は一度でも、その歴史書が、誰によって書かれたものかを考えたか? その教えが、誰の利益のために説かれているのかを想像したか? その噂話が、人々の恐怖を煽ることで、誰が得をするのかを洞察したか?」
ハデスの問いは、アレスが一度も踏み入れたことのない領域へと彼を無理やり引きずり込んでいく。彼は、ただ受け取るだけだった。与えられた「正義」を遂行することに、己の全てを捧げてきた。その「正義」そのものを疑うという行為は、彼にとって冒涜であり、裏切りでさえあった。
「思考を停止させた、だと…?」アレスの声に、怒りの色が混じった。「私は誰よりも深く、この世界の平和を願い、どうすれば人々を救えるかを考えてきた! 私のどこに思考の停止があったというのだ!」
「世界の平和、か」ハデスは冷ややかに言った。「お前の言う『世界』とは、どこまでの範囲を指す? お前の言う『人々』とは、誰のことだ? お前は、自分たちの王国、自分たちと同じ姿形をした人間、自分たちと同じ価値観を共有する者たち、それだけを『世界』と呼び、それ以外の全てを、平和を脅かす『異物』として切り捨てたのではないか。それは思考ではない。選り好みだ」
冥王は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。その巨躯が動いたことで、神殿の空気がさらに重く、濃密になる。まるで、空間そのものが彼の威圧感の前に跪いているかのようだ。彼は階段を数段下り、アレスとの距離を詰めた。その瞳の深淵が、アレスの魂を吸い込んでしまいそうだった。
「勇者よ、それは正義ではない。それは、ただの知的な怠慢。思考の停止。そして、自分たちと違うという、ただそれだけの理由で他者を排斥する、最も醜い不寛容だ」
「不寛容…」
その言葉は、アレスの胸に深く突き刺さった。自分は、寛容な人間だと思っていた。困っている者がいれば助け、弱き者を守るのが自分の務めだと信じていた。しかし、その「弱き者」の範囲に、自分たちとは違う姿をした者たちを含めたことがあっただろうか。彼らの文化や価値観を、自分たちのものと同じように尊重しようと考えたことがあっただろうか。
なかった。一度も。
彼の脳裏に、ある光景が蘇る。あれは、ある魔族の集落を制圧した後のことだった。集落の中央にあった広場で、兵士たちが魔族の像や、奇妙な模様が描かれた織物を集め、燃やしていた。冬の初めで、空は鉛色に曇り、乾いた冷たい風が吹いていた。燃え盛る炎は、兵士たちの顔を赤黒く照らし、その表情は狂信的な喜びに満ちていた。
「勇者様!奴らの邪神の偶像も、不浄な工芸品も、全て焼き払っております!」
一人の兵士が、誇らしげにそう報告した。アレスは、その光景を見て、満足げに頷いた。
「うむ、ご苦労。悪の根は、その文化ごと根絶やしにせねばならん」
今思えば、あれこそが「不寛容」の極みではなかったか。自分たちの価値観で、他者の文化を「不浄」と断じ、破壊する。それは、かつて歴史書で読んだ、野蛮な侵略者が行う行為そのものではなかったか。
アレスは、自分の足元が崩れるだけでなく、立っている地面そのものが、底なしの沼であったことに気づかされた。彼の正義は、砂上の楼閣ですらなかった。それは、無知と怠慢と不寛容という、汚泥の上に築かれた、幻影の城だったのだ。
ハデスは、絶望に顔を歪めるアレスを見下ろし、とどめを刺すように言った。
「そしてその不寛容は、お前のような、純粋で、力があり、そして何より『都合の良い英雄』を必要としていた者たちによって、実に巧みに利用されたのだ」
「利用…された…?」
アレスが虚ろに繰り返したその言葉に応えるかのように、ハデスが手をかざすと、最後の、そして最もおぞましい映像が空間に映し出された。
そこに映し出されたのは、見覚えのある部屋だった。王城の奥深く、国王が最も信頼する者しか入れないと言われる執務室だ。
壁一面に並ぶ書棚には、革の背表紙を持つ古書がずらりと並んでいる。床には、異国の意匠が織り込まれた、深紅の絨毯。そして、部屋の中央では、大理石で作られた暖炉の炎が、ぱちぱちと音を立てながら揺らめいていた。冬の夜なのだろう。窓の外は漆黒の闇に包まれ、時折、風が唸りを上げて窓を叩く音が聞こえる。
その暖炉の火に照らされながら、二人の男が、ゆったりとした革張りの椅子に身を沈め、ワイングラスを片手に密談を交わしていた。
一人は、アレスが忠誠を誓い、実の父のように慕っていた国王、ゲルハルト。その顔には、公の場で見せる厳格さや威厳の欠片もなく、全てを手に入れた者の、下卑た満足感が浮かんでいた。
そしてもう一人は、神の教えを説き、アレスを「光の道」へと導いた大神官、バルドゥス。その痩せた顔は、暖炉の光に照らされて不気味な陰影を作り出し、普段の慈愛に満ちた表情の裏に隠された、底なしの貪欲さを露わにしていた。
彼らが交わす言葉が、冥府の静寂を切り裂いて響き渡る。
国王ゲルハルトが、芳醇な香りを立てる深紅の液体を舌の上で転がし、満足げに喉を鳴らした。
「勇者アレスは、実に扱いやすい駒だ。我々が魔族を『悪』と定義すればするほど、彼はその純粋な正義感に燃え、熱心に働いてくれる。おかげで、邪魔な連中を片付けるのに、我が国の兵をほとんど損なわずに済んでいる」
その言葉に、大神官バルドゥスが、狐のように目を細めて相槌を打つ。
「女神の御心、と吹き込んでおきましたからな。彼は、自らが神の意志を実行していると、今も固く信じているでしょう。まさか、そのおかげで我らが、長年、魔族との不可侵条約によって手が出せなかった『聖なる山』のミスリル鉱石の利権を独占できるとは、夢にも思うまい」
大神官はそう言うと、喉を鳴らしてワインを飲み干した。暖炉の炎が、彼の満足げに動く喉仏をいやらしく照らし出した。
聖なる山。アレスはその名に聞き覚えがあった。彼が最後に向かった戦場こそ、その山の麓だった。大神官は言っていた。「聖なる山は、古来より女神が宿る神聖な場所。しかし、不浄なる魔族がそこに巣食い、山を穢している。勇者よ、かの地を解放し、女神の安寧を取り戻すのです」と。
あの言葉も、嘘だったというのか。女神の安寧ではなく、ただの鉱石利権のために、自分はあの死地に送り込まれたというのか。
映像の中の国王が、嘲るような笑みを浮かべて続ける。
「歴史とは、いつの時代も勝者が作るものだからな。この戦いが終われば、我々は新たな歴史書を編纂させる。そこでは、魔族の文化や暮らしぶりなど、我々にとって都合の悪い事実は全て消し去られるだろう。百年もすれば、魔族は本当に、ただ邪悪なだけの存在として、誰もが信じるようになる。そして勇者アレスは、我らが王国の繁栄の礎となった、永遠の英雄として語り継がれる…というわけだ」
「真の英雄は、歴史を作る我々ですな」
「その通りだ、バルドゥス。死んだ駒に、せいぜい英雄の名誉でも与えてやろうではないか」
二人の醜悪な笑い声が、神殿に響き渡った。それは、アレスがこれまで耳にしたどんな魔族の咆哮よりも、おぞましく、魂を穢す響きを持っていた。
映像が、ぷつりと消える。
後に残されたのは、再び訪れた冥府の静寂と、アレスの内に広がった、巨大な虚無だけだった。
怒りも、悲しみも、絶望すらも、全てが通り過ぎてしまった。感情というものが、根こそぎ抉り取られてしまったかのようだった。
信じていた神も、偽りだった。
忠誠を誓った王も、裏切り者だった。
守るべきと信じた民衆の熱狂も、仕組まれたものだった。
彼が生きてきた世界そのものが、一部の権力者の私利私欲のために作り上げられた、巨大な舞台装置だったのだ。
彼の故郷の村を吹き抜けた春の風。王都のパレードで舞った花びら。祝勝の宴で交わした酒。仲間たちと見た夕日。その全てが、この巨大な欺瞞の劇を彩るための、空虚な小道具に過ぎなかった。
そして自分は、その舞台の上で、最も滑稽に、そして最も血なまぐさく踊っていた、ただの道化に過ぎなかった。
第一の罪は、彼が紛れもない「加害者」であることを暴いた。彼が振り下ろした剣が、数えきれないほどの無辜の命を奪ったという、動かしがたい事実。
だが、第二の罪は、彼が「最大の被害者」でもあったという、より複雑で、より救いのない真実を突きつけた。彼の純粋さも、彼の正義感も、彼の力も、その全てが悪意ある者たちによって搾取され、利用され尽くした。
加害者であり、被害者。
英雄であり、虐殺者。
救世主であり、道化。
矛盾する全ての称号が、彼の魂の中で巨大な渦を巻き、互いに喰らい合い、そして、その存在意義そのものを、完全に消し去っていった。自分とは、一体何だったのか。何のために生まれ、何のために戦い、何のために死んだのか。その問いに対する答えは、どこにもなかった。あるのはただ、自分が犯した罪の重さと、自分が受けた裏切りの深さだけ。その二つの巨大な重りが、彼の魂を底なしの深淵へと引きずり込んでいく。
アレスは、ゆっくりと、何の音も立てずに、その場に崩れ落ちた。
それは、肉体的な限界からではなかった。彼の魂が、その存在を支える、最後の柱までもを、完全に失ってしまったからだった。
彼の意識は、白く、遠くなっていく。まるで、降りしきる雪の中に、独り取り残されたかのように。かつて、故郷で見た冬景色を思い出す。静かに、音もなく降り積もる雪は、世界の全ての醜いものを覆い隠し、清浄な銀世界へと変えていった。だが、今、彼に降り注ぐこの虚無は、何もかもを隠しはしない。ただ、無慈悲に、全てを消し去っていくだけだった。
崩れ落ちた彼の身体の周りで、冥府の花、アスポデロスが静かに揺れていた。それはまるで、墓標のない魂のために手向けられた、永遠に枯れることのない、哀れみの花のように見えた。
玉座に戻った冥王ハデスは、その光景を静かに見つめていた。彼の表情は、相変わらず読むことができない。ただ、その凍てついた星のような瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、裁きを終えた者の疲労と、そして、救いようのない魂に対する、神でさえも干渉し得ない、深い哀れみの色がよぎったように見えた。
冥府の神殿に、再び永遠の静寂が戻った。英雄の物語は、誰に知られることもなく、ここで無に帰した。
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