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第二部:陰謀の影と覚醒の兆し
第13話:忘れられた社の声
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パイモンによる地獄の特訓から数日後、僕たちはついに、目的の社へとたどり着いた。
そこは、もはや道と呼ぶのも憚られる場所だった。幹線道路から外れ、舗装が途切れた脇道を延々と進んだ先。生い茂る草木が人の往来を拒むかのように道を覆い隠し、かろうじて残る獣道だけが、かつてここに人の営みがあったことを示していた。
その獣道の先に、それはあった。
苔に覆われ、緑色に染まった石段が、鬱蒼とした森の奥深くへと続いている。入り口に立つ鳥居は、その半分が朽ち果て、絡みついた蔦が悠久の時を物語っていた。まるで、世界から忘れ去られることを、自ら望んだかのような場所。鳥居に掲げられていたであろう扁額もとうに失われ、その社がかつて何と呼ばれていたのかを知る術は、もうない。
「へぇ。こんな場所に、これほどの力が眠っていたとはねぇ」
僕の隣で、猫の姿から元の老婆の姿に戻った珠が、深く刻まれた皺の奥にある瞳を細め、感心したように呟いた。彼女の妖怪としての鋭敏な感覚が、この土地に満ちる尋常ならざる霊力を感じ取っているのだろう。僕には何も見えない。ただ、空気が違うことだけは、かろうじて分かった。街の喧騒や、バスの中に満ちていた緑の匂いとも違う。もっと、こう、純粋で、濃密な何かが、肺を満たしていくような感覚。
「確かに。澱みがなく、純粋な力の奔流だ。悪魔の僕でさえ、少しばかり敬虔な気持ちにさせられる。もっとも、神の設計思想にはいつもながら感心しないがね。こんなアクセスの悪い場所に重要な施設を建てるなど、全くもって非効率的だ」
パイモンも、珍しく素直な感想を口にした後、いつもの癖で減らず口を叩いた。彼は周囲を興味深そうに見渡し、この聖域の構造や、霊的な力の流れを分析しているようだった。
ひんやりと澄み渡った空気が、僕の汗ばんだ肌を心地よく撫でていく。濃い土の匂い、湿った苔の匂い、そして名も知らぬ白い花の、微かで上品な甘い香りが混じり合っていた。木々の隙間から差し込む光は、まるで古い教会のステンドグラスのように、地面にまだらな光の模様を描いている。全ての音が、この深い森に吸い込まれていくかのように、世界は絶対的な静寂に包まれていた。
僕がその神聖な空気に圧倒されていると、不意に、隣にいたマナが、何かに引かれるように、ふらふらと鳥居の方へ歩き出した。その足取りは、まるで夢の中を歩いているかのようだ。
「マナ?」
僕が声をかけるが、彼女の耳には届いていないようだった。彼女は、その朽ちかけた鳥居を、そっと、慈しむように撫でた。そして、ゆっくりと、その鳥居をくぐった。
その、瞬間だった。
異変が起こった。
社の奥深く、本殿があるであろう場所から、まるで巨大な心臓の鼓動のように、柔らかく、温かい光の波紋が「どくん」と一度、静かに広がった。
その光に触れた境内の木々が、一斉にざわめく。まだ固い蕾だったはずの山桜が、まるで早送りの映像のように、季節を間違えて花を開き、満開の薄紅色が、深緑の森に鮮やかな色彩を添えた。枯れかけていた楓の枝先には、生まれたばかりのような若々しい新芽が芽吹き、足元の落ち葉の下からは、可憐な菫や竜胆が、一斉に顔を覗かせる。
まるで、この土地全体が、何千年という永い眠りから目覚め、歓喜の声を上げているかのようだった。
「懐かしい……気がする」
マナは自分の胸にそっと手を当て、うわごとのように呟いた。その瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。彼女の中に眠る神性が、この土地の清らかな霊力と、気の遠くなるような時を超えて再会し、深く、深く共鳴しているのだ。
僕と珠、パイモンは、ただ呆然と、その奇跡のような光景を立ち尽くして見つめることしかできなかった。
*
マナは、まるで夢遊病者のように、苔むした石段をゆっくりと登っていく。一歩、また一歩と進むたびに、彼女の周りに淡い光の粒子が舞い始めた。僕たちが心配そうに見守る中、彼女はかつて社務所だったであろう建物の残骸を抜け、風雨に晒されて白木の色を失った、小さな本殿の前にたどり着く。そして、その古びた木の扉に、まるで旧知の友に触れるかのように、そっと手を伸ばした。
彼女の指先が、扉に触れた。
その瞬間、彼女の世界から音と色が消え、現実が遠のいていく。
代わりに、圧倒的な光と情報が、まるで決壊したダムの水のように、洪水となって彼女の脳裏へと流れ込んできた。
―――光り輝く巨大な柱が、天の果てまで林立する、荘厳な庭園に私はいる。空気そのものが美しい音楽を奏で、ただそれを吸い込むだけで、魂が満たされていくのを感じる。地上では見たこともない、色とりどりの花々が咲き乱れ、芳しい香りが満ちている。
私には、白く、大きく、美しい翼が生えている。周りには、同じように翼を持つ多くの同胞たちがいて、皆、穏やかな笑顔で談笑している。その光景は、完全な調和と、永遠に続くかのような幸福そのものだった。悲しみも、苦しみも、ここには存在しない。あるのは、ただ絶対的な善と、揺るぎない秩序だけ。ああ、なんて美しく、満ち足りた世界なのだろう。
―――場面が、まるで傷の入ったフィルムのように、乱暴に切り替わる。
薄暗く、威圧的な円形の評議会。中央に立つ私は、必死に何かを訴えている。目の前にいるのは、さっきまで庭園で笑い合っていたはずの、同胞たち。
「彼らにも、生きる権利があります! 不完全さこそが、彼らの美しさなのです! 喜びも、悲しみも、怒りも、全てが彼らを形作る、かけがえのない輝きじゃないですか! 完璧な静止は、死と同じです!」
しかし、円卓を囲む同胞たちの瞳は、氷のように冷たい。かつて宿っていたはずの慈しみの光は、どこにもない。同情も、理解も、そこにはない。ただ、システムの安定を脅かす異物を排除しようとする、冷徹で、無機質な光だけが、私を射抜いていた。
―――そして、最後のビジョン。
目の前に立つ、誰よりも信頼し、敬愛していたはずの、光り輝く顔を持つ誰か。その人物が、とても悲しそうな、しかし同時に、微塵の揺らぎもない決然とした表情で、私に背を向ける。
その背中から感じる、魂が内側から引き裂かれるような、鋭い裏切りの感覚。
絶望。
そして、猛烈な速度で、光の世界から闇へと堕ちていく、落下感。背中の翼が、一枚、また一枚と、ガラスのように砕け散っていく、あの耐え難い痛み―――。
「っ、ああっ!」
ビジョンから荒々しく現実の世界に引き戻されたマナは、脳を直接かき混ぜられるような激しい頭痛と、魂の奥底からこみ上げてくる、どうしようもない悲しみに襲われ、その場に崩れ落ちた。
「マナ! しっかりしろ!」
僕は、何が起きたのか分からないまま、慌てて石段を駆け上がり、彼女の肩を抱いた。マナの顔は青ざめ、その美しい瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れていた。呼吸は浅く、速く、その小さな身体は小刻みに震えている。
「誰かが……私を裏切った。思い出さなくちゃ。でも……思い出すのが、怖いっ……怖いよぉ……」
その嗚咽する姿は、僕が知っている、おっとりとして無垢な少女のマナではなかった。計り知れない過去の裏切りと、深い苦悩をその小さな背中に負った、一人の女性の、悲痛な叫びだった。
「無理するな! 思い出さなくちゃいけないことなんて、何もない! 怖いなら、思い出さなくていいんだ!」
僕は、彼女の震える身体を強く抱きしめた。かけるべき言葉が見つからず、ただ、子供をあやすように、その背中をさすり続けることしかできない。僕の無力さが、またしても歯痒い。
しかし、マナはゆっくりと首を横に振った。
そして、涙に濡れた瞳で、僕の顔を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥に、初めて見る、強く、そして燃えるような光が灯っていた。
「ううん」
彼女は、はっきりと、そう言った。
「知りたい。私が誰で、何をしようとしていたのか。そして、なぜここにいるのか。それを知らなければ、私は前に進めない。海斗の隣に、胸を張って立つことができない」
その瞳には、恐怖を乗り越えようとする、揺るぎない意志の光が宿っていた。それは、ただ守られるだけだった少女が、自らの運命と向き合うことを決意した、魂の覚醒の瞬間だった。
僕は、何も言えなかった。ただ、彼女のその決意の重さに、息を呑むばかりだった。
*
マナの神性が、社の霊力と共鳴し、そして記憶の断片に触れたことで、彼女の魂は、まるで嵐の中の船のように、強く、激しく揺さぶられた。その揺らぎは、強力なビーコンとなって、この忘れられた聖域の静寂を破り、見えない波動となって、周囲の空間へと放たれてしまった。それは、この世界の秩序に敏感な者たちにとって、見過ごすことのできない、巨大な信号だった。
その変化を、珠とパイモンが同時に感じ取った。
二人は、僕とマナのやり取りを見守っていた穏やかな表情を消し、互いに顔を見合わせると、険しい表情で森の奥を、そして遥か上空を睨みつけた。
「来たねぇ。お上品で、いけ好かない天使様のお出ましだ」
珠が、吐き捨てるように言った。
「それだけじゃないな。もっと土臭い、古くさい匂いも混じっている。やれやれ、静かに歴史的遺産の調査もできないのかね。この国は」
パイモンも、ステッキを握る手に力を込める。
森の木々の向こうから、複数の強力な気配が、明確な敵意を持ってこちらへ近づいてくるのが、僕にも分かった。それは、これまで対峙してきたカマエルの配下の天使たち。そして、それとは全く質の異なる、もっと土着的で、古く、そして得体の知れない何かの気配が、じわり、じわりと、僕たちを包囲し始めていた。
「マナ、海斗! 伏せろ!」
珠が叫び、僕たちが身構えた、まさにその時だった。
僕たちが警戒していた方向とは全く違う、すぐそばの、ひときわ大きな杉の木の陰から、ぬっと一つの影が現れた。それは、奇妙な柄の着物を着流した、僕の腰ほどの背丈しかない、小柄な妖怪だった。顔の真ん中に、ぎょろりとした目が一つだけついている。一つ目小僧だ。そのどこかひょうきんな顔立ちとは裏腹に、その瞳は、僕たちを値踏みするように、じろじろと見つめていた。
一つ目小僧は、緊張する僕たち、特に元の姿に戻っている珠と、神聖なオーラを隠しきれていないマナを交互に見比べると、懐から一枚の、何の変哲もない柏の葉を差し出した。しかし、僕には、その葉が何か特別な意味を持つものであることが、直感的に分かった。
「我が主、ぬらりひょん様が、お前さんたちにちいとばかし、会ってみたいと仰せだ」
妖怪は、しゃがれた、しかしよく通る声で言った。
「神様だの悪魔様だのを引き連れて、この国の聖域を荒らしまわる猫又なんぞ、滅多に見られるもんじゃねぇんでな。少しばかり、お話を聞かせてもらおうか、てんでぃ」
僕たちの行動は、ついに、この国に古くから根を張る、あやかし達を束ねる、妖怪の総大将の目に留まったのだった。
そこは、もはや道と呼ぶのも憚られる場所だった。幹線道路から外れ、舗装が途切れた脇道を延々と進んだ先。生い茂る草木が人の往来を拒むかのように道を覆い隠し、かろうじて残る獣道だけが、かつてここに人の営みがあったことを示していた。
その獣道の先に、それはあった。
苔に覆われ、緑色に染まった石段が、鬱蒼とした森の奥深くへと続いている。入り口に立つ鳥居は、その半分が朽ち果て、絡みついた蔦が悠久の時を物語っていた。まるで、世界から忘れ去られることを、自ら望んだかのような場所。鳥居に掲げられていたであろう扁額もとうに失われ、その社がかつて何と呼ばれていたのかを知る術は、もうない。
「へぇ。こんな場所に、これほどの力が眠っていたとはねぇ」
僕の隣で、猫の姿から元の老婆の姿に戻った珠が、深く刻まれた皺の奥にある瞳を細め、感心したように呟いた。彼女の妖怪としての鋭敏な感覚が、この土地に満ちる尋常ならざる霊力を感じ取っているのだろう。僕には何も見えない。ただ、空気が違うことだけは、かろうじて分かった。街の喧騒や、バスの中に満ちていた緑の匂いとも違う。もっと、こう、純粋で、濃密な何かが、肺を満たしていくような感覚。
「確かに。澱みがなく、純粋な力の奔流だ。悪魔の僕でさえ、少しばかり敬虔な気持ちにさせられる。もっとも、神の設計思想にはいつもながら感心しないがね。こんなアクセスの悪い場所に重要な施設を建てるなど、全くもって非効率的だ」
パイモンも、珍しく素直な感想を口にした後、いつもの癖で減らず口を叩いた。彼は周囲を興味深そうに見渡し、この聖域の構造や、霊的な力の流れを分析しているようだった。
ひんやりと澄み渡った空気が、僕の汗ばんだ肌を心地よく撫でていく。濃い土の匂い、湿った苔の匂い、そして名も知らぬ白い花の、微かで上品な甘い香りが混じり合っていた。木々の隙間から差し込む光は、まるで古い教会のステンドグラスのように、地面にまだらな光の模様を描いている。全ての音が、この深い森に吸い込まれていくかのように、世界は絶対的な静寂に包まれていた。
僕がその神聖な空気に圧倒されていると、不意に、隣にいたマナが、何かに引かれるように、ふらふらと鳥居の方へ歩き出した。その足取りは、まるで夢の中を歩いているかのようだ。
「マナ?」
僕が声をかけるが、彼女の耳には届いていないようだった。彼女は、その朽ちかけた鳥居を、そっと、慈しむように撫でた。そして、ゆっくりと、その鳥居をくぐった。
その、瞬間だった。
異変が起こった。
社の奥深く、本殿があるであろう場所から、まるで巨大な心臓の鼓動のように、柔らかく、温かい光の波紋が「どくん」と一度、静かに広がった。
その光に触れた境内の木々が、一斉にざわめく。まだ固い蕾だったはずの山桜が、まるで早送りの映像のように、季節を間違えて花を開き、満開の薄紅色が、深緑の森に鮮やかな色彩を添えた。枯れかけていた楓の枝先には、生まれたばかりのような若々しい新芽が芽吹き、足元の落ち葉の下からは、可憐な菫や竜胆が、一斉に顔を覗かせる。
まるで、この土地全体が、何千年という永い眠りから目覚め、歓喜の声を上げているかのようだった。
「懐かしい……気がする」
マナは自分の胸にそっと手を当て、うわごとのように呟いた。その瞳には、うっすらと涙の膜が張っている。彼女の中に眠る神性が、この土地の清らかな霊力と、気の遠くなるような時を超えて再会し、深く、深く共鳴しているのだ。
僕と珠、パイモンは、ただ呆然と、その奇跡のような光景を立ち尽くして見つめることしかできなかった。
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マナは、まるで夢遊病者のように、苔むした石段をゆっくりと登っていく。一歩、また一歩と進むたびに、彼女の周りに淡い光の粒子が舞い始めた。僕たちが心配そうに見守る中、彼女はかつて社務所だったであろう建物の残骸を抜け、風雨に晒されて白木の色を失った、小さな本殿の前にたどり着く。そして、その古びた木の扉に、まるで旧知の友に触れるかのように、そっと手を伸ばした。
彼女の指先が、扉に触れた。
その瞬間、彼女の世界から音と色が消え、現実が遠のいていく。
代わりに、圧倒的な光と情報が、まるで決壊したダムの水のように、洪水となって彼女の脳裏へと流れ込んできた。
―――光り輝く巨大な柱が、天の果てまで林立する、荘厳な庭園に私はいる。空気そのものが美しい音楽を奏で、ただそれを吸い込むだけで、魂が満たされていくのを感じる。地上では見たこともない、色とりどりの花々が咲き乱れ、芳しい香りが満ちている。
私には、白く、大きく、美しい翼が生えている。周りには、同じように翼を持つ多くの同胞たちがいて、皆、穏やかな笑顔で談笑している。その光景は、完全な調和と、永遠に続くかのような幸福そのものだった。悲しみも、苦しみも、ここには存在しない。あるのは、ただ絶対的な善と、揺るぎない秩序だけ。ああ、なんて美しく、満ち足りた世界なのだろう。
―――場面が、まるで傷の入ったフィルムのように、乱暴に切り替わる。
薄暗く、威圧的な円形の評議会。中央に立つ私は、必死に何かを訴えている。目の前にいるのは、さっきまで庭園で笑い合っていたはずの、同胞たち。
「彼らにも、生きる権利があります! 不完全さこそが、彼らの美しさなのです! 喜びも、悲しみも、怒りも、全てが彼らを形作る、かけがえのない輝きじゃないですか! 完璧な静止は、死と同じです!」
しかし、円卓を囲む同胞たちの瞳は、氷のように冷たい。かつて宿っていたはずの慈しみの光は、どこにもない。同情も、理解も、そこにはない。ただ、システムの安定を脅かす異物を排除しようとする、冷徹で、無機質な光だけが、私を射抜いていた。
―――そして、最後のビジョン。
目の前に立つ、誰よりも信頼し、敬愛していたはずの、光り輝く顔を持つ誰か。その人物が、とても悲しそうな、しかし同時に、微塵の揺らぎもない決然とした表情で、私に背を向ける。
その背中から感じる、魂が内側から引き裂かれるような、鋭い裏切りの感覚。
絶望。
そして、猛烈な速度で、光の世界から闇へと堕ちていく、落下感。背中の翼が、一枚、また一枚と、ガラスのように砕け散っていく、あの耐え難い痛み―――。
「っ、ああっ!」
ビジョンから荒々しく現実の世界に引き戻されたマナは、脳を直接かき混ぜられるような激しい頭痛と、魂の奥底からこみ上げてくる、どうしようもない悲しみに襲われ、その場に崩れ落ちた。
「マナ! しっかりしろ!」
僕は、何が起きたのか分からないまま、慌てて石段を駆け上がり、彼女の肩を抱いた。マナの顔は青ざめ、その美しい瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れていた。呼吸は浅く、速く、その小さな身体は小刻みに震えている。
「誰かが……私を裏切った。思い出さなくちゃ。でも……思い出すのが、怖いっ……怖いよぉ……」
その嗚咽する姿は、僕が知っている、おっとりとして無垢な少女のマナではなかった。計り知れない過去の裏切りと、深い苦悩をその小さな背中に負った、一人の女性の、悲痛な叫びだった。
「無理するな! 思い出さなくちゃいけないことなんて、何もない! 怖いなら、思い出さなくていいんだ!」
僕は、彼女の震える身体を強く抱きしめた。かけるべき言葉が見つからず、ただ、子供をあやすように、その背中をさすり続けることしかできない。僕の無力さが、またしても歯痒い。
しかし、マナはゆっくりと首を横に振った。
そして、涙に濡れた瞳で、僕の顔を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥に、初めて見る、強く、そして燃えるような光が灯っていた。
「ううん」
彼女は、はっきりと、そう言った。
「知りたい。私が誰で、何をしようとしていたのか。そして、なぜここにいるのか。それを知らなければ、私は前に進めない。海斗の隣に、胸を張って立つことができない」
その瞳には、恐怖を乗り越えようとする、揺るぎない意志の光が宿っていた。それは、ただ守られるだけだった少女が、自らの運命と向き合うことを決意した、魂の覚醒の瞬間だった。
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マナの神性が、社の霊力と共鳴し、そして記憶の断片に触れたことで、彼女の魂は、まるで嵐の中の船のように、強く、激しく揺さぶられた。その揺らぎは、強力なビーコンとなって、この忘れられた聖域の静寂を破り、見えない波動となって、周囲の空間へと放たれてしまった。それは、この世界の秩序に敏感な者たちにとって、見過ごすことのできない、巨大な信号だった。
その変化を、珠とパイモンが同時に感じ取った。
二人は、僕とマナのやり取りを見守っていた穏やかな表情を消し、互いに顔を見合わせると、険しい表情で森の奥を、そして遥か上空を睨みつけた。
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「マナ、海斗! 伏せろ!」
珠が叫び、僕たちが身構えた、まさにその時だった。
僕たちが警戒していた方向とは全く違う、すぐそばの、ひときわ大きな杉の木の陰から、ぬっと一つの影が現れた。それは、奇妙な柄の着物を着流した、僕の腰ほどの背丈しかない、小柄な妖怪だった。顔の真ん中に、ぎょろりとした目が一つだけついている。一つ目小僧だ。そのどこかひょうきんな顔立ちとは裏腹に、その瞳は、僕たちを値踏みするように、じろじろと見つめていた。
一つ目小僧は、緊張する僕たち、特に元の姿に戻っている珠と、神聖なオーラを隠しきれていないマナを交互に見比べると、懐から一枚の、何の変哲もない柏の葉を差し出した。しかし、僕には、その葉が何か特別な意味を持つものであることが、直感的に分かった。
「我が主、ぬらりひょん様が、お前さんたちにちいとばかし、会ってみたいと仰せだ」
妖怪は、しゃがれた、しかしよく通る声で言った。
「神様だの悪魔様だのを引き連れて、この国の聖域を荒らしまわる猫又なんぞ、滅多に見られるもんじゃねぇんでな。少しばかり、お話を聞かせてもらおうか、てんでぃ」
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