「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第四部:反撃の序曲と女神の遺産

第32話:パイモンの賭けと地獄の図書館

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秋の夜気が、ぬらりひょんの隠れ里に静かに降りてきていた。虫の声が、まるで張り詰めた琴の弦のように、りん、りんと澄み渡った闇に響いている。社で行われた対策会議の熱気はとうに冷え去り、パイモンが投じた「地獄」という一石が、その場にいた全ての妖怪たちの心に、重く、そして深い波紋を広げていた。

「地獄、だと? 正気か、西洋かぶれ」

沈黙を破ったのは、鬼の頭領だった。彼の地響きのような声が、社の太い梁を震わせる。

「我らとて、噂に聞くのみだ。一度足を踏み入れれば、二度と生きては戻れぬという、万劫の罰の場所。お前、堕天した身であろうが。裏切り者が古巣に帰って、歓迎されるとでも思うておるのか」

その言葉には、侮蔑よりも純粋な懸念の色が滲んでいた。地獄。その言葉の響きは、この世ならざる者たちにとってさえ、絶対的な禁忌の領域を意味していた。

パイモンは、そんな鬼の頭領の視線を意にも介さず、優雅に肩をすくめてみせた。

「保証かね? そんなもの、人生のどこにも存在しないだろう? 我々は常に、確率の低いほうの未来に賭け続けるしかないのさ。それに、歓迎などされなくても構わない。僕はただ、図書館の延滞図書を返しに行くだけだからね」

その軽薄な物言いに、何人かの妖怪が忌々しげに顔を顰める。海斗は、心配でたまらなかった。第31話で、パイモンは自らの魂を賭ける覚悟を示した。それは本心だろう。だが、あまりに無謀すぎる。

「ですが、一人で行くのは危険すぎます」

海斗が絞り出すように言うと、その言葉を待っていたかのように、それまで黙って茶をすすっていた珠が、すっくと立ち上がった。老婆の姿のまま、彼女はニヤリと口の端を吊り上げる。

「だったら、あたしが付き合ってやるよ」

その場にいた全員の視線が、老婆の姿の猫又に集中した。

「西洋かぶれ一人じゃ、どうせ道に迷って、三途の川の渡し守に有り金全部巻き上げられるのがオチだ。それに、地獄の釜の蓋が開くなんざ、滅多に見られねぇ壮大な見世物だからねぇ。この珠様が、特等席まで案内してやるよ」

その申し出に、パイモンは心底嫌そうな顔をした。

「やれやれ。野蛮で、がさつで、美学のカケラもない路地の古猫と二人きりで地獄巡りとは。想像しただけで魂の純度が著しく低下しそうだ」

「なんだい、文句あんのかい、このもやしっ子! てめぇ一人じゃ、入り口の番犬に喰われて終わりだろうが!」

「君のような猫科の駄犬に言われたくはないね!」

いがみ合いながらも、そのやり取りには、どこか互いの実力を認め合った者同士にしか醸し出せない、奇妙な信頼感が漂っていた。珠の申し出は、単なる気まぐれではない。海斗とマナという、このチームの最も重要な駒を地上に残し、危険な任務を自分たちが引き受けるという、彼女なりの最適解だったのだ。

かくして、地獄への潜入という、前代未聞の作戦が決行されることになった。

出発の朝。空は秋晴れの雲一つない蒼穹だというのに、一行が立つ場所だけは、昼なお暗い空気に包まれていた。そこは里の外れにある、巨大な岩が折り重なってできた古い洞窟の前だった。湿った苔の匂いと、千年分の闇が発酵したような、冷たい腐葉土の匂いがする。ぬらりひょんによれば、この場所こそ、この世とあの世の境界が最も曖昧になる、特異点の一つなのだという。

「じゃあ、行ってくる。小僧、女神様のこと、しっかり守りなよ」

珠が、老婆の姿で海斗の肩をぽんと叩く。その皺だらけの手は、驚くほど温かかった。

「珠さんも、パイモンさんも、絶対に、無事で帰ってきてください」

海斗が深々と頭を下げると、パイモンはフンと鼻を鳴らした。

「僕の心配かね? 心配すべきは、君のその脆弱な精神の方だよ。僕がいない間に、またメソメソと泣いて女神様を困らせるんじゃないぞ」

憎まれ口を叩きながらも、その瞳の奥には、確かな覚悟が宿っていた。パイモンは洞窟の最も奥、闇が凝り固まったかのような岩壁の前に立つと、複雑な紋様を指で描き始めた。彼が、誰も知らない、古の言語で呪文を唱え始めると、何もないはずの岩壁が、水面のようにぐにゃりと歪み始めた。やがて、空間そのものが引き裂け、そこには闇よりも深い、漆黒の渦巻くゲートが出現した。

ゲートの向こうから、灼熱の風と、凍てつくような絶望、そして、無数の魂の呻き声が混じり合った、禍々しい気配が奔流となって吹き出してくる。

「さあ、行こうか。最も美しい混沌への、短い旅の始まりだ」

パイモンと珠は、残された海斗とマナを振り返ることなく、その身を翻し、奈落へと続く闇の中へと、その足を踏み入れていった。

***

ゲートをくぐり抜けた瞬間、珠が想像していたあらゆる地獄の光景は、裏切られた。
炎も、針の山も、血の池も、そこにはなかった。代わりにあったのは、絶対的な「無」だった。
音も、光も、上も下もない。方向感覚を奪う、無限の静寂と闇が支配する空間。空気はなく、代わりに粘性の高い、情報の粒子のようなものが、まるで深海の水のように全身に纏わりついてくる。

見渡す限り、過去に死に、忘れ去られた無数の魂たちの「記憶」や「感情」が、色とりどりの光の靄(もや)となって、ゆっくりと、目的もなく漂っていた。喜びは淡い金色の光となり、悲しみは重い藍色の靄となり、怒りは刺々しい赤黒い火花となって、生まれては消え、消えては生まれる。ここは、この世の全ての物語の、終着駅だった。

『ここは、『忘却の河』の底だ』

パイモンの声が、声帯の振動ではなく、テレパシーのように直接、珠の頭の中に響いてきた。

『全ての魂が、輪廻転生という次のサイクルに移る前に、個としての記憶(我)を洗い流される場所。愛も、憎しみも、全てがここで意味を失い、ただの情報の断片(法)へと還元される。地獄の図書館は、この河のさらに底、最も古く、最も重い記憶が沈殿する場所にある』

パイモンは、この異様な空間を、まるで慣れた散歩道のように進んでいく。珠もまた、その後に続いた。
しかし、道は平坦ではなかった。二人の精神に、情報の奔流が牙を剥き始めた。
ある時は、かつて大陸を支配した王の「栄光」の記憶が、甘美な幻となって二人を誘惑する。玉座、宝石、傅く臣下。この幻に囚われれば、魂は永遠にその栄光の夢を見続け、二度と目覚めることはない。
またある時は、無念の死を遂げた乙女の「後悔」の記憶が、鉛のように重い鎖となって身体に纏わりつき、前進を阻む。なぜ私だけが、と繰り返される怨嗟の声が、精神を少しずつ蝕んでいく。
それらは、もはや誰のものでもない、ただの魂の残滓。実体のない幻。仏教で言うところの「諸法無我」。頭では分かっている。だが、その情報の奔流は、あまりに生々しく、心を揺さぶった。

その時、珠は見てしまった。
情報の奔流の中に、懐かしい縁側の風景を。病弱で、しかし太陽のように笑う、あの少女の面影を。少女が、細い腕を伸ばし、笑顔でこちらに手を振っている。

『珠、行かないで。ずっと、ずっと一緒だよ』

その声は、珠の魂の、最も柔らかい場所を抉った。彼女の足が、一瞬、ぴたりと止まった。あと一歩、あの幻に近づけば、もう一度、あの温もりに触れられるかもしれない。

『感傷に浸っている暇はないぞ、古猫』

パイモンの、氷のように冷たい思考が、珠の脳髄を刺した。彼が指を鳴らすと、少女の幻は、まるで陽炎のように揺らめき、霧となって消え去った。

『あれは、君の記憶ではない。ただの情報の残滓だ。意味はない』

「分かってるよ、そんなこたぁ!」

珠は、心の中で悪態をついた。揺らいだ心を見透かされたことへの苛立ちを振り払うように、彼女はさらに速度を上げて闇の中を駆けた。
パイモンは、そんな彼女の後ろ姿を、静かな目で見つめていた。彼自身もまた、この情報の海の中で、幾度となく見ていた。堕天する前の、光に満ちていた頃の自分の記憶の残滓を。神の愛を信じ、純粋な正義に燃えていた、若き天使だった頃の自分の姿を。彼は、その甘美な毒に足を止めることなく、ただ静かに戦い続けていたのだ。

***

どれほどの時間を進んだだろうか。時間の感覚さえ曖昧になった、情報の海の最も深く、光さえ届かない場所に、それはあった。
巨大な、黒曜石を削り出して作ったかのような、禍々しくも荘厳な建造物。人が作ったあらゆる建築様式を嘲笑うかのような、異様で、しかし完璧な均衡を保ったその威容は、見る者を畏怖させるに十分だった。
「万魔殿の図書館」。
そこは、物理的な本棚が並んでいる場所ではなかった。内部に足を踏み入れると、そこは無限に広がる洞窟のようになっており、その壁一面に、蜂の巣のように無数の六角形の窪みが穿たれている。そして、その窪みの一つ一つに、光るルーン文字の刻まれた、巨大な水晶の石板が、まるで墓標のように整然と収められていた。
一つ一つの水晶が、かつて存在した魂そのもの。その生涯の記憶、感情、経験の全てが、ここに情報としてアーカイブされているのだ。ここは、図書館であると同時に、魂の墓場でもあった。

「お出ましか。裏切り者が」

重く、響く声が、洞窟全体を震わせた。入り口の巨大な門の前で、三つの頭を持つ、山のように巨大な魔犬が二人を待っていた。地獄の番犬、ケルベロス。その三対六つの赤い目が、パイモンだけを、純粋な憎悪に満ちた視線で睨みつけている。

「久しいな、ケルベロス。少しばかり調べ物がしたいだけだよ。穏便に通してはもらえないかね?」

パイモンが、いつものように芝居がかった仕草で一礼する。しかし、ケルベロスの三つの口の端が、同時に吊り上がった。

「貴様に貸し出す本など、この地獄のどこを探しても一冊もないわ! 神の寵愛を裏切り、我らが主に牙を剥いた罪、その身に思い出させてくれる!」

ケルベロスが咆哮を上げる。それと同時に、三つの口から、魂すら焼き尽くすと言われる地獄の劫火が、濁流となって二人へと襲いかかった。

「やれやれ、交渉決裂か。やはり、野蛮な番犬はこれだから困る」

パイモンが肩をすくめ、防御障壁を展開しようとした、その瞬間。彼の横を、黒い影が、まるで弾丸のような速度で駆け抜けた。

「うるさい駄犬は、少し黙ってな!」

珠だった。老婆の姿から、本来の俊敏な猫又の姿へと変貌を遂げた彼女は、ケルベロスの巨体をものともせず、その三つの頭の間を縫うように跳躍する。彼女の爪が煌めき、地獄の炎を切り裂き、ケルベロスの硬い皮膚に、赤い閃光を幾条も刻みつけていく。

「時間は稼いであげるから、とっとと探しな、西洋かぶれ!」

「感謝するよ、古猫。あまり無茶はするなよ」

珠が最強の番人の注意を引きつけている、その僅かな隙に、パイモンは図書館の奥深くへと、その身を滑り込ませた。
彼は知っていた。この図書館の最奥、天界の言語で記され、最高位の悪魔でさえ解読不可能な、禁断の書庫。そこにこそ、カマエルを打ち破るための答えが眠っていることを。なぜなら、その書庫に、数万年前に最も複雑な封印を施したのは、堕天する前の、天界の書記官であった彼自身なのだから。
彼は、あまりに皮肉な運命の巡り合わせに自嘲の笑みを浮かべながら、かつての自分が築いた壁を、今の自分が壊すという、時空を超えた孤独な作業に、静かに取り掛かった。
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