「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第四部:反撃の序曲と女神の遺産

第33話:天墜ちの真実

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パイモンと珠という、チームの主砲と切り込み隊長が地獄へと旅立ってから、ぬらりひょんの隠れ里には、どこか気の抜けたような、静かな時間が流れていた。季節は、燃えるような紅葉の盛りを過ぎ、木々の枝が少しずつ寒々しい輪郭を現し始める晩秋へと移ろいでいた。朝夕の空気はガラスのように冷たく澄み渡り、吐く息が白く見える日も増えてきた。

海斗とマナは、あの騒々しい二人がいない間、自分たちに課せられたもう一つの重要な使命を果たそうとしていた。それは、マナの失われた記憶の、さらに奥深くへと潜り、彼女が天界を追われた本当の理由を突き止めること。カマエルという強大な敵の背後にいる、真の黒幕の正体を探ることだった。

その日、二人はぬらりひょんの隠れ里を見下ろす、小高い丘の上にいた。そこには、樹齢千年を超えると言われる巨大なご神木が一本、天を突くように聳え立っている。そのほとんどの葉は既に落ちていたが、まだ枝先に残ったいくばくかの葉が、秋の午後の、弱く、しかし優しい斜陽を浴びて、最後の輝きを放つかのように黄金色に透けていた。

「準備はいいか、マナ」

「ええ」

二人は、ご神木の太い根元に、向かい合って座っていた。マナの声は静かだったが、その瞳には、恐怖と、そしてそれを乗り越えようとする強い決意が、湖面のさざ波のように揺らめいていた。海斗は、マナの冷たい両手を、そっと自分の手で包み込む。彼の、魂の共有によって得た新しい共感能力が、彼女の閉ざされた精神世界への扉を開く、唯一の鍵だった。

「怖がらなくていい。どんなお前を見ても、俺は絶対に引いたりしない。もしお前が闇に飲まれそうになったら、俺が絶対に連れ戻す。だから、信じてくれ」

海斗の言葉に、マナはこくりと頷いた。彼女は、この行為がどれほど危険なものか、理解していた。人の魂とは、計り知れないほど複雑で、広大な宇宙だ。他人の宇宙に自分の意識を同調させるなど、一歩間違えば、海斗の精神そのものが、マナの膨大な記憶の奔流に飲み込まれ、二度と戻れなくなる可能性さえあった。

それでも、海斗はやるつもりだった。これは、マナのためだけではない。自分自身のためでもあった。ただ守られるだけの存在ではなく、彼女の最も深い苦しみを分かち合い、共に戦う対等なパートナーになるための、これは彼自身の試練でもあった。

海斗は目を閉じた。意識を、握った手の温もりと、そこから伝わってくるマナのかすかな心の震えだけに、集中させていく。
周囲の音が、ゆっくりと遠のいていく。冷たい風が肌を撫でる感覚、カサカサと乾いた木の葉が地面を転がる音、遠くで鳴く鳥の声。それら全てが、まるで厚いガラスの向こう側の出来事のように、現実感を失っていく。
やがて、自分の心臓の音さえ聞こえなくなり、代わりに、マナの心の鼓動だけが、自分のものと重なり合うように、彼の意識に直接響き始めた。
それは、穏やかで、優しく、しかしその奥底に、計り知れないほどの悲しみを湛えた、深く、そして澄んだ音だった。二人の意識は、ゆっくりと、しかし確実に、一つの宇宙へと溶け合っていった。

***

眩い光。
次に海斗とマナの意識が形を結んだ時、二人は巨大で荘厳な円形の評議会にいた。彼らの身体は半透明で、この過去のビジョンを観測する、ただの傍観者だった。
床も、壁も、天の果てまで続くかのような巨大な柱も、全てが光そのもので編み上げられたかのように、神々しく輝いている。空気は、言葉では表現できないほど清浄で、吸い込むだけで魂が満たされるかのようだった。そして、どこからともなく、無数のハープが同時に奏でられるような、荘厳で美しい音楽が常に響き渡っていた。
完璧な世界。寸分の狂いも、淀みもない。
しかし、その完璧さゆえに、どこか冷たい。生命の持つ、温かい「ゆらぎ」のようなものが、ここには一切感じられなかった。
円卓を囲むように、数多の翼を持つ、威厳に満ちた天使たちが座している。その誰もが、彫像のように美しく、そして同じように、感情というものを削ぎ落とした無表情を浮かべていた。
その中央で、一人の天使が熱弁を振るっていた。カマエルだ。龍の寝床で見た時と同じ、神々しい熾天使の武具にその身を包んでいる。

「――故に、繰り返します。不完全な生命は、いずれ宇宙全体の調和を乱す、予測不能な癌細胞となります。感情、自由意志、それらは全て、苦しみを生み出すためのバグに過ぎないのです!」

カマエルの声は、この神聖な空間に朗々と響き渡った。彼の論理は、純粋で、明快で、そして揺るぎない。

「神の愛とは、時に厳格なものです。我らは、彼ら下位の存在が、自らの不完全さによって永遠に苦しみ続ける前に、その苦しみの根源ごと、慈悲の心をもって『浄化』すべきです! 全てを一度、無垢で清浄な状態へとリセットし、完璧な秩序の下に、新たな世界を再創生する。それこそが、神の御心であり、我らに与えられた、最も神聖な使命であると、私は信じます!」

その、あまりに純粋で、過激な正義。それに、円卓に座る多くの天使たちが「そうだ」「それこそが神の愛だ」「カマエルの言う通りだ」と、賛同の声を上げた。熱狂が、さざ波のように評議会全体に広がっていく。彼らにとって、複雑で、矛盾に満ち、ままならないこと(苦諦)だらけの地上世界は、ただ修正されるべきエラーにしか見えていなかった。苦しみの原因(集諦)となる感情や自由意志そのものを消し去ることで、完璧な平穏(滅諦)に至るというカマエルの道(道諦)は、彼らにとって最も合理的で、美しい解決策に思えたのだ。

その時、一人の女神が、静かに立ち上がった。
かつての、完全な記憶を持つマナだ。その姿は、今のマナよりも少しだけ大人びており、その瞳には、世界の全ての美しさと、そして悲しみを知る者の、深い叡智と慈しみが宿っていた。
彼女が立ち上がっただけで、評議会の熱狂が、水を打ったように静まり返った。

「カマエル。あなたの言う調和は、死の静寂に過ぎません」

凛とした、しかしどこまでも優しい声が、静寂を破った。

「不完全さこそが、変化と成長を生む、生命の美しさです。傷つき、悩み、間違い、それでも立ち上がって前に進もうとする、その予測不能な『ゆらぎ』の中にこそ、真の輝きがあるのです。世界は、完璧な結晶である必要などない。歪な石ころ同士が、ぶつかり合い、支え合い、奇跡的なバランスで積み上がっている。その危うさ、その儚さこそが、尊いのではありませんか」

彼女の言葉は、仏教で言うところの「諸行無常(全ては移り変わる)」「諸法無我(固定的な実体はない)」という、世界の真理そのものを肯定する思想だった。完璧な秩序という名の「静止」ではなく、常に変化し続ける「流れ」の中にこそ、美は宿るのだと。
しかし、その言葉は、熱狂に包まれた評議会の中では、あまりに無力だった。カマエルは、侮蔑とも憐れみともつかない、冷たい視線を彼女に向けた。

「マナ。あなたの言う『ゆらぎ』こそが、苦しみの源なのです。あなたの言う『美しさ』は、我らが根絶すべき混沌と、何ら変わりはない。あなたのその思想は、あまりに危険で、感傷的に過ぎる」

カマエルの完璧な論理の前では、マナの言葉は、ただの非合理的な感情論として退けられていく。彼女の周りにいたはずの穏健派の天使たちも、次々と視線を伏せ、あるいはカマエル派の熱気に飲み込まれていく。
彼女は、危険な異分子として、次第に、そして確実に、孤立していった。

***

評議会は、結局、カマエルの「大浄化」計画を、限定的ながらも承認するという結論に達した。そして、その計画の最大の障害となりうるマナの存在を「世界の調和を乱す危険思想の持ち主」として断罪し、彼女の権能を一時的に封印し、天界の最奥にある『静寂の庭』に幽閉するという、追加の決議が下された。
それは、事実上の、無期限の監禁宣告だった。

しかし、その評決が下された直後、評議会の喧騒から離れた回廊で、一人の高位の天使が、絶望に打ちひしがれるマナに、そっと近づき、囁いた。

「マナ様、お逃げください。私が、手助けします」

その天使の顔には、なぜか靄がかかったように、はっきりと見えない。だが、その声は、マナが誰よりも信頼し、師として、兄として、敬愛していた人物のものだった。その声を聞いただけで、マナの心に、一筋の希望の光が差した。

「ですが、なぜ」

「カマエルのやり方は、あまりに性急すぎる。私も、ザドキエル様も、彼の暴走を深く憂慮しているのです。今は一度、身を隠し、時を待つのです。我々が、必ずや天界の正常化を成し遂げます。さあ、こちらへ」

マナは、その言葉を信じた。一点の疑いもなく。
天使に導かれるまま、彼女は評議会の喧騒を離れ、天界の辺境にある、今はもう使われていない忘れられた転移門へと向かった。そこは、星々の光も届かない、冷たい闇に包まれた場所だった。

「ここから、地上へ。しばしの辛抱です、マナ様」

天使が、微かに光る転移門を指し示す。マナは、彼に心からの感謝の言葉を述べ、振り返った。

「本当に、ありがとうございます。あなたのことは、決して忘れません」

そして、彼女は未来への希望を胸に、転移門へと背を向けた。
その、瞬間だった。

背中に、魂が凍りつくような、激しい衝撃。
信頼していたはずの天使の右手が、聖なる光の刃となって、彼女の背中を、翼の付け根の最も敏感な部分を、深く、深く貫いていた。

「な、ぜ」

マナが、信じられないという表情で、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、慈悲深い表情などかなぐり捨てた、冷徹な処刑人の顔だった。その顔には、もう靄はかかっていない。その顔は――。

「あなたは、知りすぎた。そして、存在そのものが、我らが主の『計画』の邪魔になるのです」

激しい痛みと共に、貫かれた背中から、黒い稲妻のような邪悪なエネルギーが奔流となって流れ込み、マナの神性の象徴である、純白の翼の根元を、根こそぎ焼き切っていく。
ガラスが砕けるような、甲高い悲鳴。翼が、光の粒子となって剥がれ落ちていく。それは、物理的な痛みではない。彼女の存在そのものが、その魂が、引き裂かれ、砕かれていく、耐えがたいほどの苦痛だった。

「ああああああああああああっ!」

激しい痛みと、信じていた者への完全な絶望の中、マナの身体は、光の世界から、暗く冷たい虚空へと、猛烈な速度で突き落とされていった。

「うわあああああああああっ!」

その絶望的な叫びと共に、ビジョンは、暴力的に断ち切られた。

現実世界。ご神木の根元で、海斗とマナは、互いを強く、強く、抱きしめ合っていた。
マナは、子供のように嗚咽していた。声にならない、しゃくりあげるような泣き声が、海斗の胸を締め付ける。海斗もまた、涙を流していた。彼女の魂が受けた、計り知れないほどの痛みと、裏切りの冷たさ、そして奈落の底へと堕ちていく絶望的な孤独。その全てが、同調した彼の魂にも、まるで自分のことのように、生々しく流れ込んできていたのだ。

どれくらいの時間が経っただろうか。マナの嗚咽が、少しずつ収まってきた。彼女は、海斗の胸に顔をうずめたまま、か細く、しかしはっきりとした声で言った。

「カマエルじゃ、なかった。私を、陥れたのは」

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その涙に濡れた瞳には、深い悲しみと、そして、全てを理解したことによる、静かで、しかし燃えるような怒りの色が宿っていた。

「もっと別の、そして、もっと恐ろしい誰かだった」

ついに、天墜ちの真実が明らかになった。しかし、それは、本当の敵の姿が、これまで想像していたものよりも、さらに巨大で、さらに根深い闇の中にいることを示唆する、新たな絶望の始まりでもあった。秋の日は、既に西の山の端に傾き、二人の影を、長く、長く、地上に伸ばしていた。
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