34 / 75
第四部:反撃の序曲と女神の遺産
第34話:熾天使の武具
しおりを挟む秋の夜気が、ご神木の葉を静かに揺らしていた。丘の上では、海斗とマナが、互いの体温だけを頼りに、冷たい闇の中で寄り添っていた。先ほどまで魂を揺さぶっていた、あまりに鮮烈な過去のビジョン。その余韻は、いまだ二人の間に重く、そして生々しく漂っている。
マナは、自分がただ追放されたのではなく、明確な悪意によって「暗殺」されかけたことを、ついに思い出した。そして、その引き金を引いたのは、カマエルではない。もっと別の、信頼していたはずの、しかし思い出せない誰かだった。その事実が、彼女の心を鉛のように重くしていた。
「大丈夫か」
海斗は、かけるべき言葉を見つけられず、ただ彼女の震える肩を抱く力を強めた。彼の新しい共感能力が、言葉にならない彼女の痛み、混乱、そして裏切られたことへの深い悲しみを、自分のことのように感じ取っていた。それは、まるで氷の針で魂を直接撫でられるような、冷たく鋭い痛みだった。
(今は、ただそばにいることしかできない)
地上で、二つの魂が静かに寄り添い、互いの傷を舐め合っている、その同じ時。
次元を隔てた、遥か深淵の底で、もう一つの、そして遥かに熾烈な戦いが繰り広げられていた。
***
地獄の図書館、「万魔殿」。
轟音。
空間そのものを震わせる、巨大な獣の咆哮が、魂の墓標である無数の水晶をビリビリと震わせる。珠は、老婆の姿から、しなやかで俊敏な獣の姿――本来の猫又の姿へと戻り、三つの頭を持つ魔犬ケルベロスと、壮絶な死闘を繰り広げていた。
「まだか、西洋かぶれ! こちとら、もう尻尾の毛が三本しか残っちゃいねぇぞ!」
珠の悪態が、轟音の中で火花のように弾ける。彼女の身体は、満身創痍だった。ケルベロスの地獄の炎に焼かれた左肩は黒く焼け爛れ、その鋭い爪によって刻まれた無数の傷口からは、絶えず血が流れ落ちている。だが、その瞳の光は、少しも衰えてはいなかった。
ケルベロスの右の頭が、岩をも砕く顎で噛みついてくる。珠はそれを紙一重で躱し、その巨大な頭を踏み台にして宙を舞った。中央の頭が吐き出す劫火を、空中で身を捻って回避し、左の頭が放つ呪詛のブレスを、自らの影に潜ることでやり過ごす。老獪。その戦い方は、力と力でぶつかるのではなく、まるで熟練の闘牛士のように、敵の巨大な力を利用し、受け流し、その僅かな隙に、剃刀のような鋭い一撃を叩き込む、極めて洗練されたものだった。
しかし、相手は地獄の番人。その力は、ほぼ無尽蔵だった。珠の体力と妖力が、先に尽きるのは時間の問題だった。彼女が稼いでいるのは、文字通り、命を削って稼いでいる「時間」だった。
一方、その時間の恩恵を一身に受けているパイモンは、図書館の最奥、天使の言語で記された書物だけが収められた禁断の書庫で、最後の封印と格闘していた。
そこは、物理的な戦闘とは無縁の、絶対的な静寂に支配された空間だった。彼の目の前には、巨大な水晶でできた球体が浮遊しており、その内部では、無数の光の粒子が、複雑怪奇な軌道を描いて飛び交っている。それは、物理的な鍵ではない。かつてパイモン自身が、天界の書記官として、この書庫を守るために仕掛けた、究極の魔術的防衛機構だった。
第一の罠は、「光のパズル」。球体内部の光の軌道を読み解き、特定の順番で特定の光に触れることで、次の段階への道が開かれる。それは、宇宙の法則と数学的な数列を組み合わせた、超高度な計算問題だった。常人ならば、その法則性を見出すだけで数千年を要するだろう。
だが、パイモンは冷静だった。
「ふむ。若かりし頃の僕の思考パターンか。実に美しいが、少しばかり虚栄心が強すぎるな」
彼は、まるでかつての自分と、時空を超えてチェスを指すかのように、冷静に、そして正確に、光の軌道を予測し、指先で解を紡いでいく。
そして、第二の罠。それは、解読者の倫理観を問う「精神的な罠」だった。パズルを解き進めるたびに、彼の脳裏に、直接問いが響いてくる。
『この知識を、何のために求める?』
『力を得た汝は、それを誰のために使う?』
『汝の正義は、真に揺るぎなきものか?』
この問いに、少しでも私欲や、欺瞞、あるいは迷いが混じれば、封印は解読者の精神を破壊し、永遠に知識の迷宮へと閉じ込める。それは、仏教で言うところの「正見(正しいものの見方)」や「正思(正しい考え)」がなければ、決して先へは進めない、魂の試練だった。
しかし、パイモンは嘲笑うかのように、全ての問いに、ただ一つの答えを返し続けた。
『美しくないからだ』
『僕の美学のためだ』
『僕の正義は、僕自身が決める』
彼の行動原理は、善でも悪でもない。ただ、彼自身の揺るぎない「美学」のみ。その一点の曇りもない純粋さが、この精神的な罠を、いとも容易く無力化していった。
そして、ついに最後の一手を指した瞬間、書庫全体が静まり返った。水晶の球体は光を失い、霧散する。その後に残されたのは、中央の祭壇に安置された、一冊の、白銀の美しい装丁が施された書物だった。その表紙には、天使の言語で、ただ一言、『光の系譜』と記されていた。
書物は、まるで主の帰りを待ちわびていたかのように、自らその重いページを、ゆっくりと開き始めた。
***
パイモンが、その光り輝くページに記された、古の天使の言語を読み解いていくにつれて、その怜悧な顔から、いつもの余裕が消えていった。そして、驚愕、不信、やがては戦慄へと、その表情は刻一刻と変わっていった。
そこに記されていたのは、あまりにも衝撃的な、世界の根幹を揺るがす事実だった。
第一に、カマエルがその身に纏う鎧と槍は、ただの神器などではなかった。それは、神が最初に光から創造した、神の意志そのものを体現する最高位の天使、熾天使(セラフィム)が身につけていたとされる伝説の武具の一部。そして、ただ頑丈なだけではない。神の権能――特に「破壊」と「創造」――そのものを代行する力を持つ、「概念武装」であること。
物理法則を超越し、世界のOSに直接干渉する力。因果律そのものを書き換える、神の御業。だからこそ、物理的な攻撃も、魔術も、一切が通用しなかったのだ。
「なるほど。これでは、勝てるはずがない」
パイモンは、乾いた唇を舐めた。だが、本当の衝撃は、その先に記されていた。
第二に、その、神にも等しい究極の武具を、遥か太古の昔に設計し、この世に創造したのは、他ならぬ「調和の女神」――マナ自身であったこと。
彼女は、世界のバランスを保つために、光の極致である「熾天使」という究極の秩序と、そしておそらくは、闇の極致である「堕天使」という究極の混沌、その両方を、世界の調停者としてデザインした、宇宙のアーキテクト(設計者)の一人だったのだ。
カマエルは、マナが創造した究極の力を使って、その創造主であるマナ自身を、この世界から消し去ろうとしていた。これ以上の皮肉は、そして、これ以上の絶望はなかった。原因(因)が、様々な条件(縁)によって巡り巡り、自らを創造した原因そのものを破壊しようとする、予期せぬ結果(果)を生む。それは、宇宙規模で繰り広げられる、壮大で、残酷な因果の円環だった。
***
パイモンは、震える指で、最後のページをめくった。もう、希望などない。そう思いながら。
しかし、記録は、さらに続いていた。
『光の系譜』には、熾天使の武具には、創造主自身によって、ただ一つの、しかし絶対的な安全装置(フェイルセーフ)が、その設計思想の根幹に組み込まれている、と記されていた。
それは、暴走する「絶対的な力」を、同じ創造主の、対となる力によってのみ「調和」させ、その機能を停止させることができるというもの。
その、対となる究極の力。それこそが、マナが天界から追放され、裏切り者の刃によってその神性が砕け散った際に、地上へと飛び散った、七つの神性の結晶――『女神の涙』。
『女神の涙』は、それぞれがマナの権能の一部(慈悲、憤怒、知恵、勇気、希望、絶望、そして愛)を宿している。それらを全て集め、再構築した時にのみ、熾天使の武具の絶対的な力を「調和」させ、無力化することができる、と。それは、自らが創造した完璧なシステムが、万が一にも暴走した時のために、調和を司る女神が仕掛けた、究極の保険だった。
「これだ……!」
パイモンの瞳に、再び、いつもの傲岸不遜な光が戻ってきた。いや、それ以上の、勝利を確信した、悪魔的な輝きが宿っていた。彼は、地獄の図書館に響き渡るほど、高らかに、そして心底愉快そうに笑った。
「ハハハ! ハハハハハ! そうか、そういうことか! なんて美しい! なんて悪趣味で、なんて美しい脚本だ! 素晴らしい! 実に、素晴らしいじゃないか!」
彼は、恭しく書物を閉じると、マントを翻した。
「待たせたな、古猫! 撤退するぞ!」
パイモンの声が、珠の頭に直接響く。その声には、もう焦りの色はない。珠が、渾身の力でケルベロスの三つの頭を同時に攻撃し、巨大な隙を作り出す。その隙に、パイモンは満身創痍の珠を、まるで軽い荷物のように小脇に抱えると、空間を歪ませ始めた。
「待て、裏切り者!」
背後から迫るケルベロスの咆哮に、パイモンは振り返り、悪魔の笑みを浮かべた。
「また来るよ、駄犬君。次に会う時は、君の首輪でも新調してきてあげようじゃないか」
その言葉を残し、二人の姿は、歪んだ時空の中へと、完全に消え去った。
パイモンの手には、途方もない希望と、そして、世界の運命を賭けた、新たな困難な旅の始まりを告げる、一枚の設計図が、確かに握られていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
憂国の艦隊
みにみ
歴史・時代
1936年2月26日 東京にて二二六事件が発生 首謀した陸軍青年将校らは捕縛されるも
その考えは日本陸軍だけではなく海軍にも広がっていた
その頃、ライバルの消えた吉田善吾連合艦隊司令長官を筆頭とする連合艦隊司令部は南進論を展開し有利に進めていた
これに異議を呈したが連合艦隊司令部から駆逐艦長に飛ばされたのが主人公である菅野峯昌大佐である
彼は乗艦した試製嚮導駆逐艦眞風の乗員たちとともに翌年の連合艦隊演習で連合艦隊司令部ごと日本海軍の誇りである長門を物理的に撃沈せしめようとする 長門撃沈は成功するのか この世界の日本が歩む道は
一国一城の主を目指す!〜渇望の日々を超えて。
リョウ
ファンタジー
何者かになりたかった。
だが現世でその願いは叶わず、男は敗北感と悲嘆を胸に沈んでいた。
そんな彼の前に現れたのは、一柱の女神。
導かれるまま異世界へ転移した男は、新たにレイと名乗り、剣も魔法も身分もない底辺から成り上がることを決意する。
冒険者として生きる術を学び、魔法を覚え、剣を磨き、人と裏社会を見極めながら、レイは少しずつ力を蓄えていく。
目指すのは、ただ生き延びることではない。
一国一城の主となり、この世界で“何者か”になること。
渇望を燃料に、知恵と執念で上へ上へと這い上がる、ファンタジー成り上がり譚。
勘当された少年と不思議な少女
レイシール
ファンタジー
15歳を迎えた日、ランティスは父親から勘当を言い渡された。
理由は外れスキルを持ってるから…
眼の色が違うだけで気味が悪いと周りから避けられてる少女。
そんな2人が出会って…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる