「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第五部:女神の遺産と人の叡智

第44話:天界からの亡命者

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ぬらりひょんの隠れ里は、穏やかな秋の日差しに包まれていた。燃えるような紅葉の森からは木の実の匂いが風に乗って運ばれ、里の中央に広がる湖は、澄み切った空を鏡のように映している。先の戦いで傷ついた妖怪たちは霊泉で傷を癒やし、子供たちの屈託のない笑い声が、澄んだ空気に響いていた。それは、束の間の、しかしあまりにも貴重な平穏だった。

その静寂は、何の前触れもなく、甲高い音と共に引き裂かれた。
里の中央、何もないはずの空間が、ガラスのようにひび割れる。亀裂は瞬く間に広がり、眩い光と黒煙を噴き出しながら、不安定な時空の穴(ゲート)を形成した。里にいた全ての妖怪たちが、一斉に動きを止め、警戒の唸り声を上げる。

「敵襲か!」

珠が、老婆の姿のまま、マナを庇うように前に躍り出る。パイモンはステッキを構え、その先端に地獄の炎が揺らめいた。海斗は、咄嗟にマナの腕を引き、臨戦態勢をとる。

ゲートの中から、何かが転がり出てきた。それは、もはや原型を留めていないほどに鎧が砕け散り、純白であったはずの翼が焼け焦げ、血に濡れた一体の天使だった。彼女は地面に数度バウンドし、力なく倒れ込むと、ゲートは不安定に揺らめきながら閉じていった。

「こいつは……」

海斗は息を呑んだ。見間違えるはずがない。かつてカマエルの配下として自分たちを襲い、マナが人間を庇う姿を見て、その心に迷いを生じさせた、あの能天使だった。

「動くな!」

鬼の一族が、巨大な金棒を振りかざし、倒れた天使を取り囲む。他の妖怪たちも、明確な殺意をその目に宿していた。天の使いは、彼らにとって仲間を殺された憎むべき仇なのだ。

「待て! 様子がおかしい!」

海斗が叫ぶが、興奮した妖怪たちの耳には届かない。鬼の一人が、無力な天使にとどめを刺そうと金棒を振り上げた、その時。

「今更、何の用だい。我らを油断させるための罠かい、それとも哀れみを乞いに来たのかい、天の使いサマ」

珠の、氷のように冷たい声が響いた。彼女は、ゆっくりと天使に歩み寄り、その喉元に鋭い爪を突きつける。パイモンもまた、冷徹な瞳で天使を見下ろしていた。

「……罠では、ありません」

天使は、か細く、途切れ途切れの声で答えた。

「私は……カマエル様の正義に、疑問を抱いた。あなたの……女神様の慈悲に触れてしまったから。その結果、私は『穢れた』と判断され……かつての、仲間に……」

彼女は、激しく咳き込み、血反吐を吐いた。そして、最後の力を振り絞るように、一行を見上げて告げた。

「逃げてきたのでは、ありません。伝えなければならないことが、あるのです。カマエル様は、地上での敗北と、天界内部での穏健派の台頭に、ひどく焦っておられる。彼は、起死回生のため、天界の禁忌とされてきた古代兵器の起動を、急いでおられます」

その言葉に、パイモンの表情が初めて険しくなった。

「禁忌の兵器だと? まさか……」

「『魂を砕く光』。それは、慈悲も、調和も通用しない。生命の存在そのものの『記録』を、この宇宙から完全に消去する、究極の破壊兵器。あれが完成すれば、女神様の力をもってしても、対抗は不可能です。ザドキエル様は、それを止めようとしましたが……粛清が、始まったのです」

天界は、内戦状態にある。彼女の言葉は、その絶望的な事実を物語っていた。

しかし、珠の警戒は解けなかった。
「面白いお伽噺だねぇ。だが、昨日まで我らを殺そうとしていた奴の言葉を、誰が信じるんだい?」
「その通りだ」とパイモンも同調する。「天界の連中の言う慈悲など、気まぐれな感傷に過ぎない。我々をより大きな罠にはめるための、手の込んだ芝居である可能性も否定できない」

その、あまりに当然な疑いの言葉に、天使は力なく微笑んだ。そして、おもむろに、自らの焼け焦げ、辛うじて繋がっている翼の付け根に、手をかけた。

「私の言葉が、信じられないのなら……この翼を折り、天界への道を、私自身で断ちます。私の、覚悟の証として」

彼女が、血に濡れた指に力を込め、自らの翼を引きちぎろうとした、その瞬間。

「やめてください!」

海斗が、彼女の前に立ちはだかり、その手を強く掴んで止めた。彼の瞳は、目の前の天使を、真っ直ぐに見据えている。彼の共感能力が、彼女の魂の「色」を捉えていた。それは、嘘や欺瞞の黒ではない。カマエルへの忠誠心という名の赤と、マナが示した慈悲への憧れという名の青が激しくぶつかり合い、苦悩の末に一つの道を選び取った、悲しくも美しい、紫の色をしていた。

「あなたの目は、嘘をついていない。僕には、わかります」

それは、ただの勘や同情ではなかった。仲間を守る司令塔として、敵意の奥にある真実を見抜こうとする、「正見」の眼差しだった。

海斗の言葉に、天使は驚きに目を見開く。その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
マナが、そっと彼女のそばに寄り添い、その血と泥に汚れた手に、自らの手を重ねた。温かく、清浄な癒やしの光が、天使の身体を包み込んでいく。致命的だったはずの傷が、みるみるうちに塞がっていく。

「ようこそ。もう、一人で悩むことはありません」

マナの慈悲に満ちた微笑みに、天使は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

「私の名は、セレス。かつては、神の法と秩序を司る、能天使の一員でした」

こうして、一行に新たな仲間が加わった。天界の内部情報という、何物にも代えがたい大きな戦力。しかし、その一方で、珠やパイモンの心には、元敵であった者への警戒心が、まだ深く根を下ろしている。チーム内に生まれた新たな緊張と、「魂を砕く光」という、残された時間の少なさを告げる不吉な響きが、隠れ里の穏やかな秋空に、重い影を落としていた。
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