「彼女を拾うな」――謎の忠告を無視した俺の日常は崩壊した。記憶喪失の少女は世界を滅ぼす女神の『鍵』。

Gaku

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第七部:天空の要塞と偽りの正義

第69話:偽りの神

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至聖所(しせいじょ)の白い床に、カマエルは這いつくばっていた。
その姿は、つい先ほどまで神の威光を背負って立っていた最強の天使とは、まるで別物だった。

「あ、あ……」

彼の口から漏れるのは、言葉にならない嗚咽だけ。
指先が、純白の床石を強く掴む。爪が割れ、血が滲むのも構わず、彼はただ震えていた。

仏教では、「私」という存在は、確固たる魂があるのではなく、様々な要素が一時的に集まっただけの「現象」に過ぎないと説く。
カマエルの場合、彼を彼たらしめていた中心軸は「神への忠誠」と「正義」だった。
『我は、世界を救うための剣である』
その揺るぎない誇りこそが、彼の背骨であり、心臓であり、命そのものだったのだ。

けれど、それは全部、嘘だった。
尊敬していた上司が書いた、悪趣味な脚本。
彼は世界を救うヒーローではなく、ただの汚れ仕事を押し付けられた、使い捨ての道化師だったのだ。

(ならば、我は……一体、何だったのだ?)

数千年の時。捧げてきた祈り。切り捨ててきた命。
そのすべてが、無意味だった?
彼の内側で、「カマエル」という存在を形作っていた柱が、音を立てて崩れ落ちていく。
ガラガラと。粉々に。
後に残ったのは、空っぽの器だけ。
彼は自分が誰なのか、なぜここにいるのかさえ分からなくなっていた。

「……哀れなもんだねぇ」

猫又の珠(たま)が、ポツリと言った。
いつもなら敵を嘲笑う場面だが、その声には苦い色が混じっていた。
信じていたものに裏切られる痛み。それは、かつて守るべき少女を理不尽に奪われた彼女も、よく知っている味だったからだ。

「おい、しっかりしろよ!」

相川海斗(あいかわ かいと)が、カマエルの肩を揺さぶった。
敵だった男だ。憎むべき相手だ。
でも、今のカマエルは、雨の日に捨てられた子犬よりも弱々しく見えた。
おせっかいな海斗の「放っておけない病」が、こんな時でも顔を出す。

「嘘だと分かったなら、やり直せばいいだろ! お前はまだ生きてるんだから!」

海斗の言葉は、熱い。
だが、空っぽになったカマエルの心には、その熱さえも届かない。
彼は焦点の合わない目で、虚空を見つめたまま呟いた。

「……殺せ。……消してくれ。……もう、我には……存在する意味など……」

それは、完全なる自己否定。
生きながらにして死んでいる、虚無の声だった。


その時だった。

**『――観測終了』**

ドォォォォン……!
低い地鳴りのような音が、至聖所の空気を震わせた。
いや、それは音ではない。脳髄に直接響いてくる、重圧(プレッシャー)だ。

「っ!? なんだ、この寒気は!」

海斗が身震いして周囲を見回す。
気温が下がったわけではない。
ただ、世界の「解像度」が急激に変わったような、異様な感覚。
美しかった至聖所の白い壁が、テレビの砂嵐のようにザザッ、ザザッとノイズを走らせる。

ピシッ。
頭上の高い天井に、亀裂が入った。
そこから覗いたのは、青空でも、宇宙でもない。
無数の光の線が、血管や神経のように複雑に絡み合い、明滅する世界。
それはまるで、この世界の「裏側」にある配線コードをむき出しにしたかのような、無機質で、あまりに巨大な光景だった。

**『予測不能なバグ(海斗たち)の発生を確認。及び、耐用期限切れのコンポーネント(カマエル)の機能不全を確認』**

声が降ってくる。
男とも女ともつかない、抑揚のない声。
だが、その声には「逆らってはいけない」と本能に植え付けられるような、絶対的な強制力が宿っていた。

「メタ……トロン……様……?」

床に伏していたカマエルが、弾かれたように顔を上げた。
その瞳に宿ったのは、敬愛ではない。
親に捨てられた子供のような、絶望的な恐怖だった。

「お出ましだね、黒幕さんが」

悪魔王パイモンが、シルクハットを目深にかぶり直し、油断なく空を睨む。
「姿は見せない主義かい? それとも、高次元すぎて僕らの目には映らないのかな?」

パイモンの皮肉にも、その声は答えない。
神の代理人、メタトロン。
彼は海斗たちと会話をしに来たのではない。
ただ、事務処理をしに来たのだ。

**『役目を終えた駒は、盤上から速やかに取り除かねばなりません。システムの安定のために』**

その言葉は、あまりに冷徹だった。
そこには「怒り」も「憎しみ」もない。
ただ、パソコンの画面上の不要なファイルをゴミ箱に捨てる時のような、淡々とした「処理」の響きしかなかった。

「……駒、だと?」

カマエルの喉から、掠(かす)れた声が漏れる。
彼は、メタトロンにとって、忠実な部下ですらなかった。
ただの部品。使い潰したら交換すればいい、代わりのきくパーツ。
それが、彼の捧げた数千年の対価だった。

**『これより、当該セクターの物理的消去(デリート)を実行します。バグも、壊れた駒も、すべて等しく、無に還れ』**

その宣告が、終わりの合図だった。

ギギギギギギ……!
耳障りな金属音が響き渡る。
海斗たちの足元が、大きく傾いた。

「うわっ!?」

「天空の要塞」全体が、悲鳴を上げている。
壁が剥がれ落ち、床が抜け、美しい彫刻が施された柱が、ボロボロと崩れ落ちていく。
攻撃を受けたわけではない。
要塞そのものが、自ら崩壊を始めたのだ。

『海斗さん! 聞こえますか!』

通信機から、セレスの悲鳴に近い声が飛び込んできた。
彼女は今、地上の隠れ里からこの戦いをモニターしている。

『要塞の動力炉が暴走しています! メルトダウン……いえ、これは自爆シーケンスです! このままでは、要塞ごと地上に墜落します!』

「なんだって!?」

海斗の顔色が青ざめる。
この要塞は、小さな都市ひとつ分くらいの大きさがある。
そんな巨大な質量が、遥か上空から地上に落ちたらどうなるか。
隕石の衝突と同じだ。
下にある街は消滅し、数え切れないほどの人々が巻き添えになる。

メタトロンは、自分の計画の邪魔になるマナたちを消すために、地上の人間ごと「ゴミ捨て」を行おうとしているのだ。
「世界を救う」と言いながら、平然と世界の一部を切り捨てる。
それが、管理者の傲慢。

「ふざけんな……! 勝手なことばっか言いやがって!」

海斗は叫んだ。
恐怖よりも、怒りが勝った。
こんな理不尽が許されていいはずがない。

「逃げるぞ! ここにいたらペチャンコだ!」
「逃げるって、どこへだい! 出口はもう崩れちまってるよ!」

珠が叫ぶ通り、入ってきた扉はすでに瓦礫(がれき)の山に埋もれていた。
床の傾斜はさらに激しくなり、立っていることさえ難しい。
天井が剥がれ、夜の闇と、遥か下界の街の灯りが見える。
吸い込まれそうな高さだ。

「くっ……マナ! 珠さん! パイモン!」

海斗は、近くにあった柱にしがみつきながら、仲間たちに手を伸ばした。
しかし、カマエルだけは動こうとしない。
彼は、崩れゆく床の端に、力なく座り込んでいた。
その背中は、もう何もかも諦めていた。

「……置いていけ」

カマエルが、風の音に消されそうな声で言った。

「我は、ここで終わるべきだ。偽りの正義のために多くの命を奪った。……これが、報いだ」

それは、彼なりの最後のケジメなのかもしれない。
罪を背負って、崩壊する要塞と共に消える。
美しい最期だ。物語の悪役としては、完璧な退場かもしれない。

でも。

「バッカ野郎!!」

海斗は、カマエルの襟首を掴み上げ、思い切り怒鳴りつけた。

「死んで償った気になるな! そんなのただの逃げだ!」

カマエルの目が、驚きに見開かれる。
海斗の瞳は、燃えていた。
至聖所の崩壊で舞い上がる粉塵の中で、彼の目だけが強く、真っ直ぐにカマエルを射抜いていた。

「お前が騙されてたからって、お前がやったことが消えるわけじゃない! 壊された俺の家も、傷ついた妖怪たちも、元には戻らない!」

そうだ。過去は変えられない。
仏教でいう「因果」は、決して消えない。
やったことは、必ず結果として残る。
だからこそ、死んでリセットなんて虫が良すぎるのだ。

「お前の正義が偽物だったとしても! 今、目の前で死にかけてる人たちがいる事実は本物だろ!」

海斗が指差した先。
遥か眼下、要塞の落下地点にある街の灯り。
そこには、何も知らずに眠る人々がいる。明日を生きようとしている命がある。

「お前が本当に『救済』を口にするなら……過去に絶望してうずくまってる暇があったら、今、ここで、俺たちと一緒にあいつらを救えよ!」

「……っ!」

カマエルの喉が引きつる。
海斗の言葉は、暴力的なまでに彼の心のドアを叩いた。
「お前の『今』はどこにあるんだ」という問いかけ。
過去の亡霊ではなく、未来への不安でもなく、たった今、この瞬間にできることは何か。

ゴゴゴゴゴ……!!

限界が来た。
海斗たちが立っていた床が、完全に崩落した。

「うわあああああっ!」

足場が消える。
強烈な無重力感。
海斗、マナ、珠、パイモン。そしてカマエル。
全員が、夜の虚空へと放り出された。

落下する瓦礫の雨の中、海斗は必死に手を伸ばした。
その手が、宙を舞うカマエルの手を、ガシッと掴む。

「離すなよ! 責任、取らせてやるからな!」

風切り音の中で、海斗がニカッと笑った。
その無茶苦茶で、暑苦しい笑顔を見て、カマエルの瞳に、微かな光が灯った。
それは「正義」でも「忠誠」でもない。
ただの「生きたい」という、原始的な炎だった。

カマエルは、海斗の手を握り返した。
強く。痛いほどに強く。

崩れゆく天と、迫りくる地の間で。
昨日までの敵同士が、一つの命綱で繋がった。
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