75 / 75
第八部:新世界の秩序と最後の選択
第75話:森の村にて、第三の選択
しおりを挟む【1:腐葉土の匂いと、命のノイズ】
ガタガタと激しく揺れる軽トラックは、舗装された道路を外れ、鬱蒼(うっそう)とした森の中へと分け入っていった。 富士の樹海。 そこは、かつて多くの人が「死」を求めて訪れた場所だが、今はメタトロンの管理下で立ち入り禁止区域となり、皮肉にも手つかずの自然が爆発的に蘇っていた。
「へっ、ここまで来れば、あの気取ったAIの電波も届かねぇよ」 運転席の老人が窓から顔を出し、乱暴にブレーキを踏んだ。キキーッ! と音がして、トラックが停まる。 「降りな。ここから先は車じゃ無理だ。……熊が出るから気をつけろよ」
海斗たちは荷台から飛び降りた。 瞬間、むせ返るような「匂い」に包まれた。 湿った土、枯れ葉が腐って土に還る匂い、松脂(まつやに)の鋭い香り、そして名もなき獣の獣臭。 無臭で清潔だった都会とは真逆の、濃厚で、少し不快で、圧倒的に「生」の匂いだ。
「うげぇ……泥だらけだ」 パイモンが、泥に汚れたイタリア製の革靴を見て悲鳴を上げる。 「最悪だ! 私の美学に反する! なぜ自然界というのはこうもベタベタしているのだ!」
『データ分析』 海斗の胸元で、ペンダント(カマエル)が冷静に告げる。 『湿度八二%。細菌、昆虫、菌類の活動が活発だ。……非効率極まりない。枯れ葉を即座に分解せず、微生物に委ねるなど、プロセスが冗長すぎる』
海斗は深呼吸をした。冷たく湿った空気が肺に入り、都会で麻痺していた感覚がビリビリと目覚めていく。 「でもさ、静かじゃないな」 「え?」マナが耳を澄ます。 確かに、静寂ではない。風が木々を揺らすザワザワという音、虫の羽音、鳥のさえずり、遠くの小川のせせらぎ。 無数の「音」が重なり合っているのに、それは騒音ではなく、不思議と心が落ち着くBGMになっていた。
「システムの外側って感じがするな」 珠が猫の姿に戻り、落ち葉の上をカサカサと歩き出した。 「行くぞ。この奥に、昔から世捨て人や、社会からはじき出された連中が隠れ住んでいる廃村がある。今日はそこで野宿じゃ」
【2:マナの迷い】
夜。 廃村の広場に焚き火を熾(おこ)し、海斗たちは炎を囲んでいた。 パチパチと爆ぜる薪。揺らぐ炎。 コンビニで買ったカップ麺(トラックの老人にもらったお湯で作った)をすする音だけが響く。
マナは、ほとんど食べていなかった。 彼女は膝を抱え、揺れる炎をじっと見つめている。その瞳には、炎の赤色ではなく、深い悲しみの青色が映っていた。
「……ねえ、海斗」 ポツリと、マナが口を開いた。 「私たち、本当に正しいのかな」
場の空気が凍りついた。パイモンが箸を止め、珠が片目を開ける。
「街の人たち、みんな幸せそうだった。誰も傷ついてなかったし、泣いてなかった。……もし、メタトロンの言う通り、私が『黄昏の女神』の力を完全に開放して、彼と融合すれば、もっと完璧な世界ができるかもしれない」
マナの声が震え出す。 「苦しみがない世界。それって、仏教でいう『悟り(涅槃)』と同じなんでしょ? だったら、それを邪魔してる私たちは、ただの『わがまま』なんじゃないかな」
それは、善意の塊であるマナだからこそ抱く、最大の矛盾だった。 人々の苦しみを取り除きたい。でも、その結果が「死んだような平和」だとしたら? 彼女は、自分の存在意義(アイデンティティ)を見失いかけていた。
「それに……」マナは唇を噛んだ。「私が神様に戻って、システムを書き換えれば、みんなを助けられる。でも、そうしたら……私は『私』じゃなくなる。海斗のことも、みんなのことも、忘れてしまう」
神になるということは、個人の感情(執着)を捨てるということだ。 「海斗が好き」という気持ちさえも、システムのエラーとして消去される。 世界を救うために自分を消すか。自分を守るために世界を見捨てるか。 その二択が、彼女の細い肩にのしかかっていた。
【3:溶けたチョコレートと中道】
海斗は、食べ終わったカップ麺を置き、ポケットをごそごそと探った。 取り出したのは、銀紙に包まれた板チョコだった。 ただし、日中のトラックの揺れと海斗の体温で、中身はベトベトに溶け、形が崩れている。
「マナ、手出して」 「え?」 海斗は、その無惨な形になったチョコのひとかけらを、マナの手のひらに乗せた。指先が茶色く汚れる。
「汚い……」 「まあ食ってみろよ」
マナは、そのドロドロのチョコを舐めた。 甘い。そして、少し疲れた体に染み渡るような、濃厚なカカオの香り。
「……甘い」 「だろ?」海斗は自分も指についたチョコを舐めた。「これさ、メタトロンの世界だったら『不良品』だ。形は崩れてるし、手は汚れるし、虫歯になるリスクもある」
海斗は焚き火に新しい枝をくべた。炎が大きく舞い上がる。
「苦しみがゼロの世界ってのは、きっと『完成した世界』なんだよ。変化しない。失敗しない。……でも、それって『終わってる』のと同じだ」
海斗は、マナの目を真っ直ぐに見た。 「俺たちは、神様でもなければ、機械でもない。腹も減るし、間違うし、チョコ食べたら手も汚れる。……でも、その『面倒くささ』の中にしか、本当の幸せはないんじゃないか?」
極端な苦行(苦しみの放置)でもなく、極端な快楽(思考停止の管理社会)でもない。 泥臭く、悩みながら、それでも「今」を噛み締めて生きる道。 それは仏教で言う**「中道(ちゅうどう)」の実践であり、複雑系科学で言う「カオスの縁(秩序と混沌の境界線)」**こそが、生命が最も輝く場所だという真理だった。
「マナ。神様になんて戻らなくていい。世界を救うために、お前が消えるなんて選択肢、俺は絶対に認めない」 海斗は断言した。 「俺たちは、世界も救うし、お前も守る。どっちか一つなんて選ばない。……欲張りで、わがままで、矛盾だらけの『第三の道』を行こうぜ」
マナの目から、涙がこぼれた。 それは「女神の涙」のような宝石ではなく、ただのしょっぱい、人間の涙だった。 「……うん。うん……!」
【4:愛すべきバグたちの宴】
その時、背後の茂みがガサガサと揺れた。
「盗み聞きとは趣味が悪いですねぇ、皆さん」 海斗が苦笑いすると、藪の中から珠、パイモン、そしてペンダントをぶら下げたカマエル(の依り代である木彫り人形)が現れた。
「べ、別にお主らの色恋沙汰に興味などないわ!」珠が顔を赤くしてそっぽを向く。「警戒していただけじゃ!」 「フン。甘ったるい会話で胸焼けがしたぞ」パイモンが髪をかき上げる。「だが、悪くない演説だった」
そして、カマエルが進み出た。 ジャージ姿の木彫り人形が、焚き火の光に照らされて、どこか神妙な顔(へのへのもへじ)をしている。
『……計算終了』 カマエルの声が響く。 『メタトロンの提示する「完全な静寂」における、文明の発展予測シミュレーションを行った。……結果は、五百年後に「停滞による全滅」だ』
「全滅?」 『そうだ。変化のないシステムは、外部からの未知のウイルスや環境変化に対応できない。……つまり、「バグ(異物)」を含まないシステムは、長期的には生存できないのだ』
カマエルは、不器用な木の手で、海斗の肩をポンと叩いた。 『海斗。君の言う「第三の道」は、論理的にも生存戦略として正しい。……我々は、この完璧すぎる世界にとっての、必要な「バグ」になるべきだ』
海斗は笑って、カマエルの手を握り返した。 「ああ。俺たちは、世界一しぶといバグだ。システムを食い破って、もっと面白い世界に書き換えてやろうぜ」
その時。 マナの胸元のペンダントが、カッ! と強く脈動した。 それまでの優しい光ではない。コンパスが北を指すような、鋭く、強い光の線が、森の奥――さらに深い闇の方向を指し示した。
「……反応があった」 マナが立ち上がる。涙を拭いた顔は、もう迷っていなかった。 「六つ目の『女神の涙』。……この森の、一番深い場所に隠されてる」
パイモンがニヤリと笑い、指を鳴らした。 「メタトロンの監視の目が届かない、カオスの森か。隠し場所としては上出来だ」 「行くぞ、小僧ども!」珠が叫ぶ。「夜明け前に見つけ出すんじゃ! 熊だろうが幽霊だろうが、今のわしらの敵ではないわ!」
焚き火を踏み消し、一行は闇の中へと歩き出した。 道はない。足場も悪い。 けれど、彼らの足取りは軽かった。 「正解」のレールの上を走るのではなく、自分たちの足で、泥を踏みしめて進む喜びが、そこにはあったからだ。
樹海の奥深くで、何かが待っている。 それは、完璧な神への反逆の鍵か、それとも新たな試練か。 風がざわめき、木々が囁く。 「生きろ」と。
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(8件)
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
憂国の艦隊
みにみ
歴史・時代
1936年2月26日 東京にて二二六事件が発生 首謀した陸軍青年将校らは捕縛されるも
その考えは日本陸軍だけではなく海軍にも広がっていた
その頃、ライバルの消えた吉田善吾連合艦隊司令長官を筆頭とする連合艦隊司令部は南進論を展開し有利に進めていた
これに異議を呈したが連合艦隊司令部から駆逐艦長に飛ばされたのが主人公である菅野峯昌大佐である
彼は乗艦した試製嚮導駆逐艦眞風の乗員たちとともに翌年の連合艦隊演習で連合艦隊司令部ごと日本海軍の誇りである長門を物理的に撃沈せしめようとする 長門撃沈は成功するのか この世界の日本が歩む道は
一国一城の主を目指す!〜渇望の日々を超えて。
リョウ
ファンタジー
何者かになりたかった。
だが現世でその願いは叶わず、男は敗北感と悲嘆を胸に沈んでいた。
そんな彼の前に現れたのは、一柱の女神。
導かれるまま異世界へ転移した男は、新たにレイと名乗り、剣も魔法も身分もない底辺から成り上がることを決意する。
冒険者として生きる術を学び、魔法を覚え、剣を磨き、人と裏社会を見極めながら、レイは少しずつ力を蓄えていく。
目指すのは、ただ生き延びることではない。
一国一城の主となり、この世界で“何者か”になること。
渇望を燃料に、知恵と執念で上へ上へと這い上がる、ファンタジー成り上がり譚。
勘当された少年と不思議な少女
レイシール
ファンタジー
15歳を迎えた日、ランティスは父親から勘当を言い渡された。
理由は外れスキルを持ってるから…
眼の色が違うだけで気味が悪いと周りから避けられてる少女。
そんな2人が出会って…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退屈な日常、運命的な出会い、そして忍び寄る恐怖。ホラーの王道要素を巧みに配置しながらも、「見える」条件といった独自の設定で読者を惹きつける、完成度の高い物語の幕開けだと感じました。主人公のモノローグから、美少女の登場による期待感、そして最後に突き落とされる絶望的な恐怖体験まで、読者の感情の揺さぶり方が非常に巧みです。キャラクター、設定、ストーリー展開、すべてにおいて魅力的で、これから始まるであろう恐怖と謎に満ちた物語に、強く引き込まれました。
「マナと一緒にいる時だけ、怪異が見える」というルール設定が非常にユニークで、物語に深い奥行きを与えています。主人公が一人では「音」としてしか認識できなかったストーカーが、マナというフィルターを通すことで初めて「視覚化」される。この設定が、今後の展開で重要な鍵を握ることは間違いないでしょう。怪異から逃れるにはマナから離れればいいのかもしれないが、彼女を見捨てることもできない。このジレンマが、主人公を更なる窮地へと追い込んでいくのだろうと想像すると、そのサスペンスフルな展開に期待が高まります。
これはずるい!と言いたくなるほど、最高に面白いところで終わってしまう見事な導入部でした。提示された謎が多すぎて、続きが気になって仕方ありません。あの黒い染みは何なのか? なぜ主人公を執拗に追いかけるのか? マナの正体と記憶喪失の理由は? そして何より、絶叫で終わったこの極限状況から、二人はどうなってしまうのか。丁寧な日常パートがあったからこそ、非日常への突入がより一層スリリングに感じられ、早く次のページをめくらせてほしいと心から願うばかりです。