過労死したので来世は平穏に暮らしたい。なのに、うっかり英雄になってしまい、東では国を救った元悪役令嬢が俺の噂をしていた。

Gaku

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第五部:盤上の神と、盤を降りた者たち

第六十八話:『カタルシスと、品川区の空』

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作戦室の空気は、まるで分厚いガラスのように固まっていた。
燃え尽きかけたランプの炎が、チチチ、と小さな音を立てる。その音以外、この空間には何の音も存在しない。ガンツも、ボルガも、カエルスも、アーサーも、この世界の常識の中で生きてきた者たちは皆、目の前で起きている超常的な会話の意味を一片たりとも理解できず、ただ呆然と、二人の王を見つめることしかできなかった。

時は、止まっていた。
いや、正確には、ユウキとソフィア、二人の魂の中だけで、時間は猛烈な速度で逆流し、交差し、互いの真実を探り合っていた。

「……なんで、お前がその名を」

ユウキの絞り出すような問い。それは、この世界に来てからずっと、彼の心の奥底に眠っていた根源的な孤独の表明だった。
ソフィアの紫水晶の瞳が、ありえないほどの光を放つ。そこには疑念、驚愕、そして何よりも、藁にもすがるような、必死の希望が渦巻いていた。彼女は、震える唇を必死に動かし、堰を切ったように言葉を紡ぎ始めた。その様は、まるで最後の答え合わせをする生徒のようだった。

「好きな食べ物は!?」
「は?」
唐突すぎる質問に、ユウキは完全に虚を突かれた。シリアスな雰囲気はどこへやら、彼は思わず眉をひそめる。
「好きな食べ物ですわ! 答えないと、あなたの首を刎ねます!」
もはや王女の気品などかなぐり捨て、ソフィアは鬼気迫る表情で詰め寄る。その剣幕に、ユウキは面倒くさそうに、しかし正直に答えた。
「……ラーメン。特に家系」
「家系!」
ソフィアの瞳が、カッと見開かれた。
「コンビニは!?」
「コンビニ……?」
「どこのチェーンが一番お好きでしたの!?」
「セブンだよ! たまにファミマでファミチキ買うけど、基本はセブンだ!」
「私もですわ!」
意味不明な同意に、ユウキの混乱は頂点に達する。周りの仲間たちは、もはや思考を放棄して、ポカンと口を開けている。
その異様な光景を、部屋の隅で観察していた二人の天才だけが、それぞれの見解を述べ始めた。
「ふむ。家系、コンビニ、セブン……。おそらくは古代文明の神々の名か。あるいは、召喚の儀式に用いるための、強力な言霊(パワーワード)の類かもしれん」
アレクシスが、顎に手を当てて真顔で分析する。
「興味深いですわ! 全く未知の言語体系! おそらく、あの単語の一つ一つが、複雑な概念を内包するシンボルなのでしょう! 全て記録しなければ!」
リリアは、目を爛々と輝かせ、猛烈な勢いで羊皮紙にペンを走らせていた。

そんな二人の分析など露知らず、ソフィアの尋問は続く。
「日本の首都は、どこですの!?」
「東京! だから、なんでお前が日本のこと知ってんだよ!?」
ユウキの絶叫が、作戦室に響き渡る。
しかし、ソフィアは止まらない。彼女は、最後の、そして最も決定的な確証を求めて、息を吸い込んだ。
「山手線の駅、言えますの!? 内回りで! 品川からですわ!」
「はぁああああ!?」
ユウキの人生史上、最大級の「面倒くさい」が彼を襲った。なぜ、世界の危機を前にした異世界の城で、日本の首都圏を走る環状線の駅名を暗唱させられなければならないのか。理不尽にもほどがある。
「いいから、お答えなさい! これは、死活問題ですのよ!」
「ああもう! 分かったよ、言えばいいんだろ、言えば! 大崎、五反田、目黒、恵比寿、渋谷、原宿、代々木……! なんで俺はこんなところで、クソ上司との接待カラオケの帰りを思い出しながら山手線ゲームをやってんだよおおお!」

ユウキの魂の叫びに、アレクシスがぽつりと呟いた。
「ヤマノテセン……。なんという禍々しい響きの呪文だ。聞いているだけで、魂が削られるような……」

質疑応答は、そこで終わった。
ソフィアの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
彼女の中で、全てのピースが、音を立ててはまった。
ラーメン、コンビニ、東京、そして山手線。
それは、偶然ではありえない。
この広い異世界で、同じ言葉を知り、同じ風景を共有する人間が、二人。
奇跡、としか言いようがなかった。

ソフィアは、涙で声を詰まらせながら、最後の問いを、祈るように投げかけた。
「あなたの……あなたの前世の、最後の記憶は……どんな、空の色でしたか……?」

その問いに、ユウキは、不意を突かれて遠い目をした。
山手線ゲームで呼び起こされた、前世の記憶。過労とストレスで限界に達していた、あの最後の日。
朦朧とする意識の中、彼は会社の窓から外を見上げた。そこには、高層ビル群に切り取られた、狭い空が広がっていた。排気ガスと埃で少しだけ霞んだ、希望も絶望もない、ただ無機質な、灰色の空。

「……品川の、曇り空、だったかな」

ユウキが、ぽつりとそう呟いた瞬間。
ソフィアの心のダムが、完全に決壊した。

「ああ……っ! ああああああっ……!」

彼女は、その場に崩れ落ち、両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
彼女もまた、OLとして過労死したあの日、汐留のオフィスの窓から、全く同じ色の空を見ていたのだ。
「私も……! 私も、そうでしたわ……! 同じ、空の色……!」

嗚咽と共に、全ての孤独が氷解していく。
なぜ、自分だけがこの世界の常識から浮いていたのか。
なぜ、王女としての立ち居振る舞いを、まるで役を演じるようにしか感じられなかったのか。
なぜ、ユウキの作る、あの不格好で、けれど懐かしい味の料理に、あれほど心を揺さぶられたのか。
なぜ、彼の、あの全てを諦めたような「死んだ魚のような目」に、どこか同族嫌悪にも似た、奇妙な親近感を抱いてしまったのか。
その答えは、あまりにも単純で、そしてあまりにも奇跡的だった。

彼は、自分と同じだったのだ。
同じ国で生まれ、同じ言語を話し、同じように理不尽な社会で働き、そして、同じように志半ばで命を落とした。
この広大な異世界で、たった一人だと思っていた。誰にも理解されることのない孤独を、一生抱えて生きていくのだと覚悟していた。
だが、違った。
一番近くにいた。
一番、面倒くさいと思っていた男が。
自分と全く同じ孤独を抱えた、たった一人の同郷者だったのだ。

ユウキは、ただ呆然と、床に崩れて泣きじゃくるソフィアを見つめていた。
彼の脳も、まだこの奇跡的な事実を受け止めきれていない。しかし、彼の心の奥底で、ずっと感じていた違和感の正体が、今、はっきりと形を結んだ。
ソフィアに対して感じていた、奇妙なシンパシー。彼女の理屈っぽさや、時折見せる社畜根性に、なぜかイラつきながらも、放っておけなかった理由。
それは、鏡を見ているようだったからだ。
違う性別、違う身分、違う性格。けれど、その魂の根っこは、同じ土壌で育ってきた。
これまで、二人と世界との間にあった、透明で、しかし決して越えることのできなかった分厚い壁が、音を立てて崩れていくのを、ユウキは確かに感じていた。

やがて、作戦室の東の窓から、夜の闇を溶かすように、わずかな朝日の光が差し込み始めた。その黄金色の光が、床に落ちたソフィアの涙の雫を、きらりと照らし出す。
どれほどの時間が経っただろうか。ソフィアは、しゃくりあげながらも、ゆっくりと顔を上げた。涙で赤くなった目で、彼女はユウキを見つめる。
そして、これまでの気高く厳しい王女の仮面が完全に消え去った、心からの、まるで少女のような、はにかんだ笑顔を見せた。

「はじめまして。いえ……」
彼女は、少しだけ言い直す。

「ただいま、と言うべきかしら」

その言葉と、その笑顔に、ユウキは一瞬、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
彼は、照れ臭そうに、そしてどうしようもなくぎこちなく、ガシガシと頭を掻きながら、ぶっきらぼうに、しかし、これ以上ないほどの優しさを込めて、答えた。

「……おう。おかえり」

その瞬間、この異世界で、二つの孤独な魂は、初めて真の安息の地を見つけた。
これから先、何があっても、もう一人ではない。
この世でたった二人の、秘密の共有者として。
夜明けの光が満ちる作戦室で、何が起きたのか全く理解できない仲間たちが、ただポカンと、朝日の中で静かに微笑み合う二人を、不思議そうに見つめているのだった。
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