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第一部:『悪役令令嬢編』
第八話:前線基地と、一杯のスープ
しおりを挟む晩秋の冷たい雨が、数日にわたって王都を洗い流したあと、冬将軍は、いよいよ本気でこの地に腰を据えるつもりのようだった。空は、まるで磨き上げられた鋼のように、高く、冷たく、そして、どこまでも青く澄み渡っている。王宮の庭では、最後まで枝にしがみついていたカエデの葉もついに力尽き、今はカサカサと音を立てながら、乾いた風に吹かれて地面を転がっていた。
そんな、万物が眠りにつく冬の始まりの朝。
私たちの、あまりにも無謀な反撃作戦は、静かに、しかし、確実に始動した。
「ここよ。ここを、私たちの前線基地にするわ」
私が指し示したのは、王宮の北の端にある、何十年も使われていない、忘れ去られた倉庫だった。かつては王室用の馬具や馬車を保管していたらしいが、今や壁にはびっしりと蔦が絡まり、窓ガラスは割れ、中からは、噎せ返るような埃と、カビの匂いが漂ってくる。お化け屋敷としては、一級品の物件だ。
私の宣言に、後ろに控えていた侍女たちが、「ひっ…」と小さな悲鳴を上げた。無理もない。彼女たちが普段生活しているのは、塵一つない、花の香りに満ちた天国のような空間なのだから。
「王女様…!せめて、もう少し、その…衛生的な場所は…」
「いいの。ここがいいのよ。城の中で、一番、民の暮らす場所に近くて、一番、私たちの覚悟が試される場所だから」
私がそう言うと、隣に立っていたカエルスが、ニヤリと口の端を上げた。
「上等じゃねえか。泥ん中から始めるってのは、俺たちの性に合ってる」
「構造的に、極めて非効率的だ。この梁の角度、屋根の傾斜、明らかに設計ミスだ。風圧に対する計算が甘すぎる。強風が吹けば、一発で崩壊するぞ」
アレクシスは、腕を組んで、ブツブツと建物の欠陥を分析し始めた。頼むから、もう少し、やる気の出ることを言ってくれないか。
こうして、王女と、その愉快で物騒な仲間たちによる、「ときめき♡お掃除大作戦」の火蓋が切って落とされた。
「ギャー!く、蜘蛛!指くらいある大きさの蜘蛛がー!」
「ネズミ!ネズミの白骨死体があああ!」
侍女たちの悲鳴が、倉庫の中にこだまする。まあ、無理もない。彼女たちに、この地獄のような環境は、刺激が強すぎる。
そんな中、カエルスは、部下の荒くれ騎士たちに向かって、檄を飛ばした。
「野郎ども!お前ら、今日は剣を雑巾に持ち替えろ!敵は、この積年の汚れだ!床の隅に潜む埃の一粒まで、根絶やしにしろ!いいか、これは訓練だぞ!」
「「「オオオオッス!!」」」
なぜ、そこでそんなに士気が上がるのか。
屈強な騎士たちが、上半身裸になり、筋肉を躍動させながら、猛烈な勢いで雑巾がけを始める。その姿は、掃除というより、もはや何かの破壊活動にしか見えなかった。床が、ゴリゴリと音を立てている。頼むから、穴だけは開けないでくれ。
私はといえば、慣れない手つきで、箒を片手に奮闘していた。もちろん、人生で掃除などしたことがない(前世では、クイックルワイパー専門だった)。埃にまみれ、顔中を煤だらけにしながら、ひたすらに床を掃く。
最初は遠巻きに見ていた侍女たちも、そんな私の姿を見て、何かを思ったのだろう。おずおずと、しかし、覚悟を決めた顔で、バケツと雑巾を手に、戦線に加わってきた。
その日の午後には、見違えるように綺麗になった倉庫に、私財を売り払って得た資金と、カエルスが「貴族の倉庫で眠っていた、余剰分の食料を、平和的に譲ってもらった」という、どう考えても略奪してきた大量の小麦粉や干し肉が運び込まれた。
「ふむ…」
アレクシスは、運び込まれた食料の山を前に、顎に手を当てていた。
「ただ、これを無秩序に配るだけでは、三日で底をつく。人間は、与えられるだけの状況に慣れると、際限なく求めるようになるからな。これは、経済学における、最も初歩的な罠だ」
彼が、嬉々として設計したのは、『労働対価型・食料配給システム』という、やけに小難しい名前の計画だった。
***
数日後。私たちの前線基地は、ついに『王女直轄・緊急食料配給所』として、オープンを迎えた。
しかし。
「……誰も、来ないわね」
冷たい風が、がらんとした配給所の前を吹き抜けていく。地面に落ちた枯れ葉が、カサカサと、虚しい音を立てて舞っていた。
遠くの道の角から、何人かの民が、こちらを、疑いの目で、窺っている。その視線は、まるで、奇妙な見世物でも見るかのようだった。
『王女の罠だ』
『あそこへ行ったら、何をされるか分からない』
『毒でも入っているに違いない』
貴族たちが流した噂は、人々の心に、深い、深い、不信の根を張っていた。
「…まあ、こんなもんだろうな」
カエルスが、つまらなそうに吐き捨てる。
私は、何も言わず、ただ、配給所の入口に、立ち続けた。
一日、二日と、時間だけが過ぎていく。
さすがの私も、心が折れそうになっていた。私たちのやっていることは、ただの独りよがりなのだろうか。
三日目の昼過ぎだった。
一人の、痩せた母親が、小さな男の子の手を引いて、おずおずと、私たちの前に姿を現した。その目は、恐怖と、そして、藁にもすがりたいという、切実な願いで、潤んでいた。
「…あの…本当に、食べ物を、いただけるのでしょうか…」
「ええ、もちろんよ」
私は、この日のために用意していた、湯気の立つ、野菜のスープと、焼きたてのパンを、彼女に手渡した。
そして、彼女が受け取るのをためらっているのを見て、私は、彼女の目の前で、同じスープを、まず自分自身が、ゆっくりと飲み干してみせた。
「…!」
母親の目が、驚きに見開かれる。
その姿を、遠巻きに見ていた人々の間にも、小さな、しかし、確かな動揺が走ったのが分かった。
母親は、わなわなと震える手で、パンを受け取ると、その場で、泣き崩れた。
「ありがとうございます…ありがとうございます…!」
その日を境に、配給所を訪れる人々は、一人、また一人と、少しずつ増えていった。
そして、アレクシスの、本当のショーが始まった。
彼は、ただ、食料を配るだけでは終わらない。
「いいかね、諸君」
いつの間にか、教鞭を振るう教授のような風格を身につけたアレクシスが、集まった人々を前に、熱弁を振るっていた。
「君たちに必要なのは、魚ではない。魚の、釣り方だ!依存から、脱却するのだ!」
彼はまず、失業して日々の仕事がない男たちを集め、騎士団の武具の手入れや、城壁の簡単な補修といった、単純だが、誰にでもできる仕事を斡旋した。その対価として支払われるのは、金ではない。アレクシスが考案した、『ありがとうチケット』という名の、この配給所でだけ使える、食料引換券だった。
次に、手先の器用な女たちを集め、私が売り払ったドレスの布地や、王宮で余っていた生地を使い、簡単な防寒着や手袋を作る、内職の仕事を教えた。完成した製品は、カエルスの騎士団が、適正な価格で買い取る。
人々は、最初は戸惑っていた。しかし、ただ、恵んでもらうのではなく、自分の力で、自分の仕事で、食料を手に入れるという経験は、彼らの、失いかけていた誇りを、少しずつ取り戻させていった。
配給所は、いつしか、単なる施しの場ではなくなっていた。
仕事の合間に人々が談笑し、子供たちの笑い声が響き、女たちが、互いの作った手袋を見せ合って笑う。そんな、コミュニティの中心地へと、生まれ変わっていたのだ。
冬の厳しい寒さの中にも、そこには、確かに、人の温もりが、そして、希望の光が、満ち溢れていた。
私を見る、民衆の目から、疑いや恐怖の色が消え、少しずつ、感謝と、親愛の色が宿っていくのが、手に取るように分かった。
もちろん、この状況を、アルバ公爵たちが見過ごすはずもなかった。
彼らが、次なる、もっと陰湿な手を打ってくるのは、時間の問題だろう。
でも、今は、それでいい。
その日の夜。
冷え込みが一層厳しくなった配給所の片隅で、私たちは、一つの焚き火を囲んでいた。
私が、その日の配給で残った野菜の切れ端を煮込んで作った、名もなきスープを、三つの、欠けた木の器に分ける。
「…まあ、食えなくはないな」
「塩分が足りない。だが、熱効率は悪くない」
相変わらず、素直じゃない二人と、黙って、その温かいスープをすする。
贅沢な食材は何一つ入っていない。それでも、私の人生で、これほど美味しいと感じたスープは、なかった。
スープの湯気の向こうで、自分たちの作った手袋を、嬉しそうに子供につけてやっている母親の姿が見えた。
それを見て、私は、心の底から、思った。
ああ、これが、私が、本当に、やりたかったことなんだ、と。
冬は、まだ始まったばかり。私たちの戦いも、終わりには程遠い。
でも、この一杯のスープの温かさがあれば、きっと、どんな困難も、乗り越えていける。
そんな、確かな予感が、私の胸を、静かに、そして、力強く、満たしていた。
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