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第一部:『悪役令令嬢編』
第十一話:学者の本領と、雪解けの下の不穏
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王宮評議会という名の、魑魅魍魎が跋扈する魔窟において、私たちが半ば恫喝にも等しい強硬な手段を用いて二つの革命的な法案を可決させてから、数週間という時間が静かに流れ去った。
季節は、その歩みを一切緩めることなく、容赦なく冬の最も深い場所へと突き進んでいた。王都は、まるで世界から隔離されたかのように、分厚い雪の綿にすっぽりと覆われ、あらゆる音と色彩がその純白の下に吸収されてしまったかのようだった。空は低く、重たい鉛色の雲が垂れこめ、まるで天そのものが大地を押し潰そうとしているかのような圧迫感があった。街路に立つと、吐く息は凍てついた大気の中で瞬時にして真っ白な結晶となり、朝日を浴びてキラキラと儚く舞い散る。その様は美しくもあり、同時に生命の熱が奪われていく冷酷な現実を突きつけてくるようでもあった。
しかし、万物を凍らせんとする厳しい季節の猛威とは裏腹に、かつて貧民街と呼ばれた場所にある私たちの『前線基地』とその周辺だけは、奇妙な、そして確かな熱気に包まれていた。それは単純な歓喜や希望だけではない。可決された法案がもたらすであろう未来への淡い期待と、しかし長年の圧政と裏切りによって骨の髄まで染み付いた「どうせ、また我々のことなど顧みられず、裏切られるに違いない」という根深い諦め。その二つの相反する感情が複雑に絡み合い、渦を巻いている。それはまるで、硬い土の下で、春の訪れを信じながらも、まだ見ぬ光に怯える種子のような、苦しくも力強い変化への胎動であった。
そして、その地殻変動とも言える変化の震源地にいるのは、他の誰でもない。一人の、常人には到底理解しがたい思考回路を持つ変人学者だった。
「さて、始めようか。私の、私の生涯における最高傑作となるであろう、国家という名の壮大な実験を!」
書斎とも物置ともつかない部屋で、羊皮紙と古書の山に文字通り埋もれながら、アレクシスはそう高らかに宣言した。その目の下には、もはや疲労の証というよりも、彼の狂気じみた探究心の象徴として刻まれたタトゥーと見紛うほどの濃い隈が、まるで化粧のように深く刻まれている。しかし、その表情は疲弊とは程遠い、神の領域に触れたかのような恍惚とした光に満ちていた。
彼の壮大な実験、その記念すべき第一歩は、『王立特産品工房』の設立という、極めて実際的な事業から始まった。
「まず、拠点となる建物だが……これを使わない手はないだろう」
彼が目をつけたのは、以前、騎士団長であるカエルスが、とある私腹を肥やしていた腐敗貴族から「極めて平和的な話し合いの末に譲り受けた」という、街外れにそびえ立つ巨大な廃倉庫だった。もちろん、言葉を選ばずに言えば、それは完全なる廃墟だ。屋根には無数の穴が穿たれ、そこから差し込む陽光が埃っぽい室内に幾筋もの光の柱を作り出している。壁は至る所が崩落し、風が隙間からヒューヒューと悲しげな音を立てて吹き抜ける。床に至っては、もはやそれが土なのか、かつて敷かれていたコンクリートなのか、判別することすら不可能な有様だった。この場所に、一体どのような価値を見出したというのか。
「よし、野郎ども! 聞け! またしてもお前たちの有り余る腕力を発揮する時が来たぞ! 今回は掃除の時間だ! そして、ついでと言っては何だが、この際だ、大工仕事も一通り覚えてもらう!」
カエルスの、戦場での号令と何ら変わらぬ、腹の底から響き渡るような声が、凍てついた空気を震わせた。その一言を合図に、またしても屈強な騎士団による、傍から見れば組織的な破壊活動にしか見えない、壮絶な改修作業の幕が切って落とされたのである。ガシャン、ゴチン、ドカン、と、およそ建築現場らしからぬ音が響き渡る。
「違う! そこにいる脳筋騎士! その梁に対して、そんな鈍角で釘を打ち込めば、応力計算上、屋根の自重に耐えきれずに三日後には崩落するに決まっているだろう! やり直せ! 算数から学び直したいのか!?」
現場の片隅で腕を組み、鋭い視線を飛び交わせていたアレクシスが、金切り声を上げた。その剣幕は、まるで不出来な弟子を叱責する学者のそれだ。
「んだと、このもやし学者が! てめえは、そこで偉そうに指図してねえで、少しは手を動かしたらどうなんだ!」
巨大な角材を軽々と肩に担いだ騎士が、顔を真っ赤にして怒鳴り返す。その額には青筋が浮かんでいた。
「丁重にお断りする。私のこの手は、世界の深遠なる真理を数式によって記述し、人類の知の地平を切り拓くためにあるのであって、ささくれだらけの汚い木材を運び、肉体労働に勤しむためにあるのではない。君たちとは、その基本構造からして違うのだよ」
「棟梁! ちょっとよろしいですかい!? こいつ、一発ぶん殴ってもいいですかね!?」
「おう、遠慮はいらねえ。やっちまえ」
なぜか、いつの間にか現場監督として全ての作業を仕切る立場となっていた、貧民街出身の叩き上げの大工の棟梁が、気だるそうに許可を出す。棟梁とアレクシスの間では、「トラス構造の最適解」だの「剪断応力」だの、騎士たちにとっては異国の呪文にしか聞こえない専門用語が激しく飛び交う、極めて高度な次元での口論が絶えず勃発していた。その奇妙な論戦の周りでは、屈強な騎士たちが、柄にもなく慣れない手つきで金槌を振り回し、的を外しては己の指を強かに打ち付け、戦場でもあげたことのないような野太い悲鳴を上げている。
カオス。その光景を表現する言葉は、それ以外に見当たらなかった。あまりにも、混沌としていた。
数えきれないほどの珍プレーと、時折見せる奇跡的な好プレーが繰り広げられた末、廃墟はなんとか工房としての体裁を整えるに至った。次に運び込まれたのは、織物を生産するための巨大な機織り機や、布を染め上げるための巨大な鉄釜といった専門的な設備だった。もちろん、屈強な騎士たちの中に、その繊細な機械の操作方法を知る者など、一人としているはずもなかった。
「ふむ。この古文書の記述によれば、まず、縦糸をこの櫛のようなギザギザした部分に一本ずつ通し、その後、こちらの回転する円盤状の機構に巻きつける、とあるな……」
アレクシスが、王宮の書庫の片隅から埃を被って眠っていた、カビ臭い古文書を虫眼鏡片手に解読していく。その姿は、古代文明の謎に挑む考古学者のようだった。
「よし、理屈は分かった! そこのお前、やってみろ!」
カエルスが、部下の一人に顎でしゃくって指示を出す。指名された騎士は、「はっ!」と力強く返事をすると、まるで攻城兵器でも扱うかのように、機織り機のレバーに全体重をかけて力を込めた。
バキンッ!!!
次の瞬間、数百年は前のものかと思われる、木製の精密な機織り機は、その構造を維持できず、乾いた悲鳴のような音を立てて木っ端微塵に砕け散った。繊細な部品が、あたりに無残に飛び散る。
「「「…………」」」
その場にいた全員が、時が止まったかのように沈黙した。ただ、工房の隙間風だけが、ヒュー、と寂しげに鳴っていた。
「……やはり、専門知識を持たない素人だけでは限界があるようだな」
静寂を破ったのは、アレクシスの冷静極まりない分析だった。その言葉に、カエルスをはじめ、その場にいた騎士全員が、まるで申し合わせたかのように、深く、そして沈痛な面持ちで頷いたのであった。
***
「本物の、経験と技術を兼ね備えた職人が必要だわ」
私たちは、工房での悲劇的な失敗を経て、専門家を招聘する必要性を痛感していた。そんな折、街で一つの噂を耳にした。
かつては王宮御用達の最高の織物職人として、その名を王都中に轟かせた老人がいる、というのだ。彼の織る布は、まるで月の光を閉じ込めたかのように輝き、その手触りは天上の羽衣にも例えられたという。しかし、彼は、あまりにも自身の仕事に誇りを持ち、そして頑固であったがために、ある権力者の理不尽極まりない要求を、一言のもとに、それも公衆の面前で一蹴してしまった。その結果、彼は貴族社会から完全に締め出され、全ての仕事を失い、今では長年連れ添った工房もたたみ、街の薄暗い安酒場で、昼間から安酒を呷るだけの荒んだ生活を送っている、という話だった。
私たちは、その老人――ゲルドという名の、いかにも一筋縄ではいかなそうな、まるで風雪に耐え続けた岩のような風貌の男が住む、小さな家を訪ねた。扉を叩くと、中から不機嫌そうな声が響き、やがてゆっくりと扉が開かれた。隙間から現れたゲルドの顔は、長年の不摂生と失望によって深く皺が刻まれ、その瞳は濁りきっていた。
「……突然の訪問、お許しください。ゲルド様。本日は、どうしてもあなたにお願いしたいことがあって参りました。あなたのその素晴らしい技術と力を、どうか、この国のために、貸していただけないでしょうか」
私は、貴族としてのプライドを全て捨て、彼の前で深く、深く頭を下げた。私の髪が、床の埃に触れる。どうか、この誠意が伝わってほしい。そう、ただ祈るような気持ちだった。
しかし、ゲルドは、ふん、と鼻で笑うと、酒臭い息を私に吐きかけながら、ギロリと射殺すような視線を向けた。
「……へっ。これはこれは、高貴な貴族のお嬢様が、こんな掃き溜めに一体何の御用だ。今度は、職人ごっこでもお始めになるってのか? 残念だったな。俺は、あんたらみたいな、気まぐれと道楽で人の人生を弄び、飽きたら平気で踏み潰していく連中が、この世で一番、嫌いなんだ。とっとと、その綺麗な顔を見せるんじゃねえ。帰りやがれ」
その拒絶の言葉は、冬の北風よりも冷たく、そして彼の凝り固まった絶望のように、固かった。あまりにも直接的で、一点の揺らぎもない拒絶に、私は返す言葉を見つけることができなかった。彼の言うことには、一分の真実も含まれている。貴族という存在が、どれだけ多くの人々の尊厳を踏みにじってきたことか。
私が唇を噛み締め、立ち尽くしていると、それまで黙って私の後ろに控えていたアレクシスが、すっと前に進み出た。そして、彼は懐から一枚の、お世辞にも美しいとは言えない、みすぼらしい布きれを取り出し、ゲルドの前のテーブルに、そっと差し出した。それは、私たちが、あの壊れた機織り機の残骸を元に、夜な夜な試行錯誤を繰り返した末にようやく織り上げた、歪で、不格好で、色むらだらけの、失敗作の布だった。
「……なんだ、こりゃあ。ゴミか? 俺を馬鹿にしに来たのか?」
ゲルドは、眉間に深い皺を寄せ、侮蔑の色を隠そうともせずに吐き捨てた。
「ええ。その通りです。客観的に評価すれば、これは紛れもないゴミです。商品価値など、どこにも存在しない」
アレクシスは、その侮辱を意にも介さず、淡々とした口調で続けた。
「しかし」と彼は言葉を区切る。「この一枚のゴミを作るために、何十人もの人間が、夜も眠らずに知恵を出し合い、慣れない手つきで何度も何度も失敗を繰り返しました。指を血で滲ませ、出来ない自分に腹を立てながら、それでも諦めなかった。この布は、ゴミであると同時に、彼らの流した汗と、費やした情熱の、紛れもない結晶でもあるのです。今の我々に決定的に足りないのは、その制御不能な情熱を、本物の価値へと昇華させる、あなたのその比類なき技術なのです」
ゲルドは、しばらくの間、その不格好な布きれを、まるで信じられないものでも見るかのように、無言で見つめていた。彼の濁っていた瞳の奥で、何かが微かに揺らめいたのを、私は確かに見た。やがて、彼は、まるで億劫そうに、ふん、と大きく鼻を鳴らすと、軋む身体に鞭打つように、重い腰を上げた。
「……勘違いするんじゃねえぞ。俺は、あんたら貴族に、協力する気なんざ、毛頭ねえ。ただ……この、救いようのない、下手くそな布きれが、あまりに不憫で、哀れで、見ていられなくなっただけだ。こんなもんを世に出されたんじゃ、織物の神様が泣きなさる」
その、ぶっきらぼうで、捻くれた言葉は、彼が自分自身に言い聞かせるための言い訳であり、そして、彼なりの、最大の「イエス」だった。その背中は、先ほどまでの世を拗ねた老人のものではなく、再び誇りを取り戻した一人の職人のものに見えた。
***
工房の設立と、その運営基盤の整備と並行して、アレクシスは、もう一つの、そしてこちらが本丸とも言える、巨大な改革を断行していた。それは、この国の根幹を蝕み続けてきた、旧態依然とした税制への、大鉈を振るうがごとき、抜本的な改革だった。
王宮の一角に、臨時の『国家税務局』が設置された。その部屋は、かつて貴族たちが茶会を開いていた優雅なサロンだったが、今では算盤と羊皮紙の山、そして膨大な量の帳簿で埋め尽くされ、冷徹な空気が漂う「断罪の間」へと変貌していた。アレクシスが、その初代局長に、当然のように就任した。そして彼の元には、カエルスの部下である騎士団の中から、特に、計算能力に長け、そして何よりも、他人の不幸を蜜の味と感じるような、性格の悪い連中が精鋭として集められた。
「さて、諸君。始めようか。長きに渡り民の血を啜ってきた、強欲な貴族どもからの、正当なる搾取の時間を」
局長席にふんぞり返ったアレクシスの、その号令は、天使の顔をした悪魔のそれ以外の何物でもなかった。その言葉を合図に、彼らは、これまで誰も触れることのできなかった、貴族たちの「聖域」とも言える資産に、一切の情け容赦なく、鋭利なメスを入れていったのである。
「ふむ。こちらの見事な絵画ですが、購入時の価格は金貨百枚、と帳簿にはありますな。しかし、現在の美術市場におけるこの画家の評価と、その死後に起こった名声の爆発的な高まりを考慮すると、その資産価値は、およそ千二百枚と査定するのが妥当でしょう。よって、この絵画には、差額である千百枚分の資産税が、新たに課せられることになりますな。おめでとうございます」
「なっ……! そ、そんな馬かげた話があるか! これは我が家に代々伝わる家宝なのだぞ!」
「馬鹿げた、とは心外ですな。これは、過去の判例と市場経済の動向に基づいた、極めて論理的で、公平無私な査定ですぞ? 何か、ご不満でも?」
アレクシスは、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせながら、悪びれもせずに言い放つ。
「この、無駄に広大な庭園! 美しいですな! しかし、この庭園の維持費だけで、年間どれだけの国費が、実質的に無駄になっていると、お考えですか! 即刻、その面積の半分を、飢えた民のための公営農地として、国家に返還していただこう! これぞ、真の『ノブレス・オブリージュ』というものですな!」
「そ、そんなことをしたら、我が家の伝統と格式ある庭園が、台無しになってしまう……!」
「ご安心を。伝統では、民の腹は一ミリたりとも膨れませんので、何の問題もございません」
アレクシスの、理詰めによる、悪魔のごとき徴税は、これまで安穏と既得権益を貪ってきた貴族たちを、文字通り恐怖のどん底に陥れた。彼らはパニックに陥り、高価な壺を夜中にこっそり庭に埋めたり、金の延べ棒を壁の中に塗り込んだりと、涙ぐましいまでの資産隠しを試みる者も後を絶たなかった。だが、百戦錬磨のアレクシスは、どこから秘密裏に仕入れたのか、抑圧されてきた民衆からの膨大な量のタレコミ情報と、彼独自の、もはや数学というより魔術に近い、意味不明な計算モデルを駆使して、それらの姑息な隠蔽工作を、全て白日の下に晒していった。
「失礼。この屋敷の、設計図上に記された総重量と、実際に使用されている建材の比重から、物理法則的にあり得ないほどの質量が、この壁の内部に存在していることが、計算によって判明しました。これは、純金に換算すると、およそ三百キログラム……さて、正直にお話していただけますかな? それとも、騎士団に命じて、この美しい壁を物理的に検証させていただきましょうか?」
王宮の廊下には、連日、財産をむしり取られた貴族たちの、断末魔の悲鳴が、まるで交響曲のように響き渡っていた。
***
そして、嵐のような数ヶ月が過ぎた。
季節は、長く、厳しかった冬の終わりを告げ、ようやく、春の優しい足音が、すぐそこまで聞こえ始めた頃。
王国は、誰の目にも明らかなほど、変わっていた。
ゲルドの厳しくも愛情ある指導のもと、完全に軌道に乗った王立特産品工房の織物は、その類稀なる品質と、これまでにない斬新なデザインが、たちまち王都中の評判となった。かつては貴族の独占物であった高品質な織物が、今では少し裕福な平民でも手に入れられるようになり、人々の暮らしに彩りを与えていた。工房で働く人々の懐は潤い、かつて貧民街と呼ばれた区域には、目に見える形で活気が戻ってきた。
そして、アレクシスの悪魔的な手腕によって潤沢になった国庫の金は、真っ先に、最も虐げられてきた人々のための公共事業へと回された。
貧民街の、雨が降ればぬかるんで歩くこともままならなかった道は、綺麗に石畳で舗装された。淀んだ水を溜め込み、夏場には悪臭と病の源となっていた水路は、深く掘り下げられて整備され、清らかな水が流れるようになった。路上で物乞いをしていた子供たちの姿は消え、代わりに、少しばかり汚れてはいるが、以前よりずっと綺麗な服を着て、屈託なく駆け回る子供たちの姿が目立つようになった。その頬は、栄養状態の改善を示す、健康的なバラ色に染まっている。
夕暮れ時になると、家々の窓からは、温かい食事の支度を示す灯りが漏れ、質素ながらも食卓を囲む家族の笑い声が、そこかしこから聞こえてくるようになった。それは、ほんの数ヶ月前には想像もできなかった、奇跡のような光景だった。
その光景を、城の高台にあるテラスから、私は、カエルスと、アレクシスと、三人で、言葉もなく眺めていた。
「……たいしたもんだな、本当に」
腕を組み、眼下の街並みを見下ろしながら、カエルスがぽつりと、心の底から感嘆したように呟いた。
「まさか、たったこれだけの期間で、ここまで変わるとはな。あの学者先生のやることは、正直、未だによく分からんが……結果は、これだ」
凍てついていた大河が、山々からの雪解け水を豊かに湛え、春の陽光を反射させながらキラキラと輝き、海へと向かって流れ始めている。その力強いせせらぎの音が、ここまで聞こえてくるようだった。湿った土の匂いと、芽吹き始めた若草の青い香りが混じり合った、生命力に満ちた春の匂いが、風に乗って私たちの頬を優しく撫でた。
王国は、確かに、長い昏睡状態から目覚め、再生へと向かっている。
だが。
これだけの、天変地異とも呼べるほどの大きな変化が、王国の隅々で起こっているにも関わらず、最大の敵であったはずの、アルバ公爵とその一派は、一切、表立った妨害工作をしてこなかった。彼は、ただ自邸に引きこもり、全ての成り行きを、まるで高みの見物を決め込むかのように、静かに眺めているだけだ。不気味なほどに、静かすぎる。
その沈黙が、私の胸に、小さな、しかし決して消えることのない、冷たい不安の棘を突き刺していた。
嵐の前の、静けさ。
そんな、使い古された陳腐な言葉が、不吉な予言のように頭をよぎる。
「……本当の戦いは、まだ、終わっていないのかもしれないわね」
私の呟きに、隣に立つ二人は、何も言わなかった。
ただ、私と同じように、活気を取り戻した眼下の王都と、その向こうに広がる、まだ見えぬ何か、得体の知れない暗い影を、じっと見つめていた。
春は、もうすぐそこまで来ている。生命が歓喜に満ち溢れる季節。
だが、この国に、本当の意味での春が訪れるには、まだ、最後の、そして、おそらくは最大の、凍てつく冬を、乗り越えなければならないのかもしれない。
そんな確信にも似た予感が、温かい春の陽気とは裏腹に、私の心を、冷たく支配していた。
季節は、その歩みを一切緩めることなく、容赦なく冬の最も深い場所へと突き進んでいた。王都は、まるで世界から隔離されたかのように、分厚い雪の綿にすっぽりと覆われ、あらゆる音と色彩がその純白の下に吸収されてしまったかのようだった。空は低く、重たい鉛色の雲が垂れこめ、まるで天そのものが大地を押し潰そうとしているかのような圧迫感があった。街路に立つと、吐く息は凍てついた大気の中で瞬時にして真っ白な結晶となり、朝日を浴びてキラキラと儚く舞い散る。その様は美しくもあり、同時に生命の熱が奪われていく冷酷な現実を突きつけてくるようでもあった。
しかし、万物を凍らせんとする厳しい季節の猛威とは裏腹に、かつて貧民街と呼ばれた場所にある私たちの『前線基地』とその周辺だけは、奇妙な、そして確かな熱気に包まれていた。それは単純な歓喜や希望だけではない。可決された法案がもたらすであろう未来への淡い期待と、しかし長年の圧政と裏切りによって骨の髄まで染み付いた「どうせ、また我々のことなど顧みられず、裏切られるに違いない」という根深い諦め。その二つの相反する感情が複雑に絡み合い、渦を巻いている。それはまるで、硬い土の下で、春の訪れを信じながらも、まだ見ぬ光に怯える種子のような、苦しくも力強い変化への胎動であった。
そして、その地殻変動とも言える変化の震源地にいるのは、他の誰でもない。一人の、常人には到底理解しがたい思考回路を持つ変人学者だった。
「さて、始めようか。私の、私の生涯における最高傑作となるであろう、国家という名の壮大な実験を!」
書斎とも物置ともつかない部屋で、羊皮紙と古書の山に文字通り埋もれながら、アレクシスはそう高らかに宣言した。その目の下には、もはや疲労の証というよりも、彼の狂気じみた探究心の象徴として刻まれたタトゥーと見紛うほどの濃い隈が、まるで化粧のように深く刻まれている。しかし、その表情は疲弊とは程遠い、神の領域に触れたかのような恍惚とした光に満ちていた。
彼の壮大な実験、その記念すべき第一歩は、『王立特産品工房』の設立という、極めて実際的な事業から始まった。
「まず、拠点となる建物だが……これを使わない手はないだろう」
彼が目をつけたのは、以前、騎士団長であるカエルスが、とある私腹を肥やしていた腐敗貴族から「極めて平和的な話し合いの末に譲り受けた」という、街外れにそびえ立つ巨大な廃倉庫だった。もちろん、言葉を選ばずに言えば、それは完全なる廃墟だ。屋根には無数の穴が穿たれ、そこから差し込む陽光が埃っぽい室内に幾筋もの光の柱を作り出している。壁は至る所が崩落し、風が隙間からヒューヒューと悲しげな音を立てて吹き抜ける。床に至っては、もはやそれが土なのか、かつて敷かれていたコンクリートなのか、判別することすら不可能な有様だった。この場所に、一体どのような価値を見出したというのか。
「よし、野郎ども! 聞け! またしてもお前たちの有り余る腕力を発揮する時が来たぞ! 今回は掃除の時間だ! そして、ついでと言っては何だが、この際だ、大工仕事も一通り覚えてもらう!」
カエルスの、戦場での号令と何ら変わらぬ、腹の底から響き渡るような声が、凍てついた空気を震わせた。その一言を合図に、またしても屈強な騎士団による、傍から見れば組織的な破壊活動にしか見えない、壮絶な改修作業の幕が切って落とされたのである。ガシャン、ゴチン、ドカン、と、およそ建築現場らしからぬ音が響き渡る。
「違う! そこにいる脳筋騎士! その梁に対して、そんな鈍角で釘を打ち込めば、応力計算上、屋根の自重に耐えきれずに三日後には崩落するに決まっているだろう! やり直せ! 算数から学び直したいのか!?」
現場の片隅で腕を組み、鋭い視線を飛び交わせていたアレクシスが、金切り声を上げた。その剣幕は、まるで不出来な弟子を叱責する学者のそれだ。
「んだと、このもやし学者が! てめえは、そこで偉そうに指図してねえで、少しは手を動かしたらどうなんだ!」
巨大な角材を軽々と肩に担いだ騎士が、顔を真っ赤にして怒鳴り返す。その額には青筋が浮かんでいた。
「丁重にお断りする。私のこの手は、世界の深遠なる真理を数式によって記述し、人類の知の地平を切り拓くためにあるのであって、ささくれだらけの汚い木材を運び、肉体労働に勤しむためにあるのではない。君たちとは、その基本構造からして違うのだよ」
「棟梁! ちょっとよろしいですかい!? こいつ、一発ぶん殴ってもいいですかね!?」
「おう、遠慮はいらねえ。やっちまえ」
なぜか、いつの間にか現場監督として全ての作業を仕切る立場となっていた、貧民街出身の叩き上げの大工の棟梁が、気だるそうに許可を出す。棟梁とアレクシスの間では、「トラス構造の最適解」だの「剪断応力」だの、騎士たちにとっては異国の呪文にしか聞こえない専門用語が激しく飛び交う、極めて高度な次元での口論が絶えず勃発していた。その奇妙な論戦の周りでは、屈強な騎士たちが、柄にもなく慣れない手つきで金槌を振り回し、的を外しては己の指を強かに打ち付け、戦場でもあげたことのないような野太い悲鳴を上げている。
カオス。その光景を表現する言葉は、それ以外に見当たらなかった。あまりにも、混沌としていた。
数えきれないほどの珍プレーと、時折見せる奇跡的な好プレーが繰り広げられた末、廃墟はなんとか工房としての体裁を整えるに至った。次に運び込まれたのは、織物を生産するための巨大な機織り機や、布を染め上げるための巨大な鉄釜といった専門的な設備だった。もちろん、屈強な騎士たちの中に、その繊細な機械の操作方法を知る者など、一人としているはずもなかった。
「ふむ。この古文書の記述によれば、まず、縦糸をこの櫛のようなギザギザした部分に一本ずつ通し、その後、こちらの回転する円盤状の機構に巻きつける、とあるな……」
アレクシスが、王宮の書庫の片隅から埃を被って眠っていた、カビ臭い古文書を虫眼鏡片手に解読していく。その姿は、古代文明の謎に挑む考古学者のようだった。
「よし、理屈は分かった! そこのお前、やってみろ!」
カエルスが、部下の一人に顎でしゃくって指示を出す。指名された騎士は、「はっ!」と力強く返事をすると、まるで攻城兵器でも扱うかのように、機織り機のレバーに全体重をかけて力を込めた。
バキンッ!!!
次の瞬間、数百年は前のものかと思われる、木製の精密な機織り機は、その構造を維持できず、乾いた悲鳴のような音を立てて木っ端微塵に砕け散った。繊細な部品が、あたりに無残に飛び散る。
「「「…………」」」
その場にいた全員が、時が止まったかのように沈黙した。ただ、工房の隙間風だけが、ヒュー、と寂しげに鳴っていた。
「……やはり、専門知識を持たない素人だけでは限界があるようだな」
静寂を破ったのは、アレクシスの冷静極まりない分析だった。その言葉に、カエルスをはじめ、その場にいた騎士全員が、まるで申し合わせたかのように、深く、そして沈痛な面持ちで頷いたのであった。
***
「本物の、経験と技術を兼ね備えた職人が必要だわ」
私たちは、工房での悲劇的な失敗を経て、専門家を招聘する必要性を痛感していた。そんな折、街で一つの噂を耳にした。
かつては王宮御用達の最高の織物職人として、その名を王都中に轟かせた老人がいる、というのだ。彼の織る布は、まるで月の光を閉じ込めたかのように輝き、その手触りは天上の羽衣にも例えられたという。しかし、彼は、あまりにも自身の仕事に誇りを持ち、そして頑固であったがために、ある権力者の理不尽極まりない要求を、一言のもとに、それも公衆の面前で一蹴してしまった。その結果、彼は貴族社会から完全に締め出され、全ての仕事を失い、今では長年連れ添った工房もたたみ、街の薄暗い安酒場で、昼間から安酒を呷るだけの荒んだ生活を送っている、という話だった。
私たちは、その老人――ゲルドという名の、いかにも一筋縄ではいかなそうな、まるで風雪に耐え続けた岩のような風貌の男が住む、小さな家を訪ねた。扉を叩くと、中から不機嫌そうな声が響き、やがてゆっくりと扉が開かれた。隙間から現れたゲルドの顔は、長年の不摂生と失望によって深く皺が刻まれ、その瞳は濁りきっていた。
「……突然の訪問、お許しください。ゲルド様。本日は、どうしてもあなたにお願いしたいことがあって参りました。あなたのその素晴らしい技術と力を、どうか、この国のために、貸していただけないでしょうか」
私は、貴族としてのプライドを全て捨て、彼の前で深く、深く頭を下げた。私の髪が、床の埃に触れる。どうか、この誠意が伝わってほしい。そう、ただ祈るような気持ちだった。
しかし、ゲルドは、ふん、と鼻で笑うと、酒臭い息を私に吐きかけながら、ギロリと射殺すような視線を向けた。
「……へっ。これはこれは、高貴な貴族のお嬢様が、こんな掃き溜めに一体何の御用だ。今度は、職人ごっこでもお始めになるってのか? 残念だったな。俺は、あんたらみたいな、気まぐれと道楽で人の人生を弄び、飽きたら平気で踏み潰していく連中が、この世で一番、嫌いなんだ。とっとと、その綺麗な顔を見せるんじゃねえ。帰りやがれ」
その拒絶の言葉は、冬の北風よりも冷たく、そして彼の凝り固まった絶望のように、固かった。あまりにも直接的で、一点の揺らぎもない拒絶に、私は返す言葉を見つけることができなかった。彼の言うことには、一分の真実も含まれている。貴族という存在が、どれだけ多くの人々の尊厳を踏みにじってきたことか。
私が唇を噛み締め、立ち尽くしていると、それまで黙って私の後ろに控えていたアレクシスが、すっと前に進み出た。そして、彼は懐から一枚の、お世辞にも美しいとは言えない、みすぼらしい布きれを取り出し、ゲルドの前のテーブルに、そっと差し出した。それは、私たちが、あの壊れた機織り機の残骸を元に、夜な夜な試行錯誤を繰り返した末にようやく織り上げた、歪で、不格好で、色むらだらけの、失敗作の布だった。
「……なんだ、こりゃあ。ゴミか? 俺を馬鹿にしに来たのか?」
ゲルドは、眉間に深い皺を寄せ、侮蔑の色を隠そうともせずに吐き捨てた。
「ええ。その通りです。客観的に評価すれば、これは紛れもないゴミです。商品価値など、どこにも存在しない」
アレクシスは、その侮辱を意にも介さず、淡々とした口調で続けた。
「しかし」と彼は言葉を区切る。「この一枚のゴミを作るために、何十人もの人間が、夜も眠らずに知恵を出し合い、慣れない手つきで何度も何度も失敗を繰り返しました。指を血で滲ませ、出来ない自分に腹を立てながら、それでも諦めなかった。この布は、ゴミであると同時に、彼らの流した汗と、費やした情熱の、紛れもない結晶でもあるのです。今の我々に決定的に足りないのは、その制御不能な情熱を、本物の価値へと昇華させる、あなたのその比類なき技術なのです」
ゲルドは、しばらくの間、その不格好な布きれを、まるで信じられないものでも見るかのように、無言で見つめていた。彼の濁っていた瞳の奥で、何かが微かに揺らめいたのを、私は確かに見た。やがて、彼は、まるで億劫そうに、ふん、と大きく鼻を鳴らすと、軋む身体に鞭打つように、重い腰を上げた。
「……勘違いするんじゃねえぞ。俺は、あんたら貴族に、協力する気なんざ、毛頭ねえ。ただ……この、救いようのない、下手くそな布きれが、あまりに不憫で、哀れで、見ていられなくなっただけだ。こんなもんを世に出されたんじゃ、織物の神様が泣きなさる」
その、ぶっきらぼうで、捻くれた言葉は、彼が自分自身に言い聞かせるための言い訳であり、そして、彼なりの、最大の「イエス」だった。その背中は、先ほどまでの世を拗ねた老人のものではなく、再び誇りを取り戻した一人の職人のものに見えた。
***
工房の設立と、その運営基盤の整備と並行して、アレクシスは、もう一つの、そしてこちらが本丸とも言える、巨大な改革を断行していた。それは、この国の根幹を蝕み続けてきた、旧態依然とした税制への、大鉈を振るうがごとき、抜本的な改革だった。
王宮の一角に、臨時の『国家税務局』が設置された。その部屋は、かつて貴族たちが茶会を開いていた優雅なサロンだったが、今では算盤と羊皮紙の山、そして膨大な量の帳簿で埋め尽くされ、冷徹な空気が漂う「断罪の間」へと変貌していた。アレクシスが、その初代局長に、当然のように就任した。そして彼の元には、カエルスの部下である騎士団の中から、特に、計算能力に長け、そして何よりも、他人の不幸を蜜の味と感じるような、性格の悪い連中が精鋭として集められた。
「さて、諸君。始めようか。長きに渡り民の血を啜ってきた、強欲な貴族どもからの、正当なる搾取の時間を」
局長席にふんぞり返ったアレクシスの、その号令は、天使の顔をした悪魔のそれ以外の何物でもなかった。その言葉を合図に、彼らは、これまで誰も触れることのできなかった、貴族たちの「聖域」とも言える資産に、一切の情け容赦なく、鋭利なメスを入れていったのである。
「ふむ。こちらの見事な絵画ですが、購入時の価格は金貨百枚、と帳簿にはありますな。しかし、現在の美術市場におけるこの画家の評価と、その死後に起こった名声の爆発的な高まりを考慮すると、その資産価値は、およそ千二百枚と査定するのが妥当でしょう。よって、この絵画には、差額である千百枚分の資産税が、新たに課せられることになりますな。おめでとうございます」
「なっ……! そ、そんな馬かげた話があるか! これは我が家に代々伝わる家宝なのだぞ!」
「馬鹿げた、とは心外ですな。これは、過去の判例と市場経済の動向に基づいた、極めて論理的で、公平無私な査定ですぞ? 何か、ご不満でも?」
アレクシスは、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせながら、悪びれもせずに言い放つ。
「この、無駄に広大な庭園! 美しいですな! しかし、この庭園の維持費だけで、年間どれだけの国費が、実質的に無駄になっていると、お考えですか! 即刻、その面積の半分を、飢えた民のための公営農地として、国家に返還していただこう! これぞ、真の『ノブレス・オブリージュ』というものですな!」
「そ、そんなことをしたら、我が家の伝統と格式ある庭園が、台無しになってしまう……!」
「ご安心を。伝統では、民の腹は一ミリたりとも膨れませんので、何の問題もございません」
アレクシスの、理詰めによる、悪魔のごとき徴税は、これまで安穏と既得権益を貪ってきた貴族たちを、文字通り恐怖のどん底に陥れた。彼らはパニックに陥り、高価な壺を夜中にこっそり庭に埋めたり、金の延べ棒を壁の中に塗り込んだりと、涙ぐましいまでの資産隠しを試みる者も後を絶たなかった。だが、百戦錬磨のアレクシスは、どこから秘密裏に仕入れたのか、抑圧されてきた民衆からの膨大な量のタレコミ情報と、彼独自の、もはや数学というより魔術に近い、意味不明な計算モデルを駆使して、それらの姑息な隠蔽工作を、全て白日の下に晒していった。
「失礼。この屋敷の、設計図上に記された総重量と、実際に使用されている建材の比重から、物理法則的にあり得ないほどの質量が、この壁の内部に存在していることが、計算によって判明しました。これは、純金に換算すると、およそ三百キログラム……さて、正直にお話していただけますかな? それとも、騎士団に命じて、この美しい壁を物理的に検証させていただきましょうか?」
王宮の廊下には、連日、財産をむしり取られた貴族たちの、断末魔の悲鳴が、まるで交響曲のように響き渡っていた。
***
そして、嵐のような数ヶ月が過ぎた。
季節は、長く、厳しかった冬の終わりを告げ、ようやく、春の優しい足音が、すぐそこまで聞こえ始めた頃。
王国は、誰の目にも明らかなほど、変わっていた。
ゲルドの厳しくも愛情ある指導のもと、完全に軌道に乗った王立特産品工房の織物は、その類稀なる品質と、これまでにない斬新なデザインが、たちまち王都中の評判となった。かつては貴族の独占物であった高品質な織物が、今では少し裕福な平民でも手に入れられるようになり、人々の暮らしに彩りを与えていた。工房で働く人々の懐は潤い、かつて貧民街と呼ばれた区域には、目に見える形で活気が戻ってきた。
そして、アレクシスの悪魔的な手腕によって潤沢になった国庫の金は、真っ先に、最も虐げられてきた人々のための公共事業へと回された。
貧民街の、雨が降ればぬかるんで歩くこともままならなかった道は、綺麗に石畳で舗装された。淀んだ水を溜め込み、夏場には悪臭と病の源となっていた水路は、深く掘り下げられて整備され、清らかな水が流れるようになった。路上で物乞いをしていた子供たちの姿は消え、代わりに、少しばかり汚れてはいるが、以前よりずっと綺麗な服を着て、屈託なく駆け回る子供たちの姿が目立つようになった。その頬は、栄養状態の改善を示す、健康的なバラ色に染まっている。
夕暮れ時になると、家々の窓からは、温かい食事の支度を示す灯りが漏れ、質素ながらも食卓を囲む家族の笑い声が、そこかしこから聞こえてくるようになった。それは、ほんの数ヶ月前には想像もできなかった、奇跡のような光景だった。
その光景を、城の高台にあるテラスから、私は、カエルスと、アレクシスと、三人で、言葉もなく眺めていた。
「……たいしたもんだな、本当に」
腕を組み、眼下の街並みを見下ろしながら、カエルスがぽつりと、心の底から感嘆したように呟いた。
「まさか、たったこれだけの期間で、ここまで変わるとはな。あの学者先生のやることは、正直、未だによく分からんが……結果は、これだ」
凍てついていた大河が、山々からの雪解け水を豊かに湛え、春の陽光を反射させながらキラキラと輝き、海へと向かって流れ始めている。その力強いせせらぎの音が、ここまで聞こえてくるようだった。湿った土の匂いと、芽吹き始めた若草の青い香りが混じり合った、生命力に満ちた春の匂いが、風に乗って私たちの頬を優しく撫でた。
王国は、確かに、長い昏睡状態から目覚め、再生へと向かっている。
だが。
これだけの、天変地異とも呼べるほどの大きな変化が、王国の隅々で起こっているにも関わらず、最大の敵であったはずの、アルバ公爵とその一派は、一切、表立った妨害工作をしてこなかった。彼は、ただ自邸に引きこもり、全ての成り行きを、まるで高みの見物を決め込むかのように、静かに眺めているだけだ。不気味なほどに、静かすぎる。
その沈黙が、私の胸に、小さな、しかし決して消えることのない、冷たい不安の棘を突き刺していた。
嵐の前の、静けさ。
そんな、使い古された陳腐な言葉が、不吉な予言のように頭をよぎる。
「……本当の戦いは、まだ、終わっていないのかもしれないわね」
私の呟きに、隣に立つ二人は、何も言わなかった。
ただ、私と同じように、活気を取り戻した眼下の王都と、その向こうに広がる、まだ見えぬ何か、得体の知れない暗い影を、じっと見つめていた。
春は、もうすぐそこまで来ている。生命が歓喜に満ち溢れる季節。
だが、この国に、本当の意味での春が訪れるには、まだ、最後の、そして、おそらくは最大の、凍てつく冬を、乗り越えなければならないのかもしれない。
そんな確信にも似た予感が、温かい春の陽気とは裏腹に、私の心を、冷たく支配していた。
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