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第三十六話:大陸の巨人、目を覚ます
しおりを挟む大陸の北方に、その国はあった。
グランツ帝国。
その名を口にする時、人々は無意識のうちに声を潜め、まるで背後に冷たい刃を突きつけられたかのように、強張った仕草で背筋を伸ばす。南方の陽気な国々の者であればあるほど、その反応は顕著であった。陽光の下で交わされる噂話でさえ、その二文字が響いた瞬間、賑やかな市場の喧騒は水を打ったように静まり返り、人々は不安げに視線を交わし合う。その言葉の響きには、血と鉄の匂い、そして、万年雪を戴く峻嶺の頂から吹き下ろす風のような、氷の規律の匂いが、分かち難く染み付いているからだ。それは歴史という名の巨大な鞣革(なめしがわ)に、幾世代にもわたって刻み込まれた、畏怖の紋章であった。
帝国の季節は、常に冬か、あるいは冬への準備期間であるかのどちらかだった。春の柔らかな日差しも、夏の生命力あふれる緑も、秋の豊かな実りも、この国ではどこか遠慮がちで、長くは続かない。国土の大部分は、古代の巨人が大地を掻きむしったかのような、痩せた土に覆われている。そこから芽吹く作物は乏しく、人々は自然の恵みではなく、厳格な計画と労働によって糧を得る。見渡す限り広がるのは、針葉樹の黒々とした森。その木々は、天に向かって真っすぐに伸びるのではなく、絶え間なく吹き付ける北風に耐えるように、どれも一様に、僅かに南へと傾いでいた。そして、その森を分かつように、神々が気まぐれに削り取ったかのような、険しく、人を寄せ付けない岩山が連なっている。その灰色の山肌は、まるで大地の骨が剥き出しになっているかのようだった。
空は、抜けるような青色を見せることは稀で、大抵は、分厚く、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われている。その雲間から漏れる太陽の光は弱々しく、地上に届く頃には、まるで力尽きたかのように拡散し、世界から色彩を奪い去ってしまう。そこから吹き付ける風は、単に肌を刺すという生易しいものではない。それは外套の隙間から忍び込み、肉を通り抜け、骨の髄まで凍らせるような、容赦のない冷たさを持っていた。**ゴウ、ゴウ、** と、まるで飢えた獣が呻くような風の音が、常に帝国のどこかで響いている。人々は皆、厚い外套に身を包み、俯きがちに、足早に石畳の道を歩く。彼らの顔に浮かぶのは、忍耐と、諦観と、そして、その奥底に秘められた、決して折れることのない強固な意志。それが、グランツ帝国臣民の肖像であった。
その帝国の心臓、帝都の中心に聳える帝城「アイゼンガルド」。
城は、近隣の山脈から切り出された黒い花崗岩を、寸分の狂いもなく切り出し、組み上げて作られていた。その表面は、まるで巨大な一枚岩から削り出されたかのように滑らかで、石と石の継ぎ目を見つけることさえ困難である。華美な装飾は一切なく、他国の王城に見られるような、優美な彫刻や色鮮やかなモザイクタイルなどは一つもない。ただ、天を突き、鉛色の雲を貫かんとする無数の尖塔と、いかなる軍勢の槌をも跳ね返すであろう分厚い城壁だけが、その圧倒的なまでの武威と、何者にも屈しないという強固な意志を、無言のうちに語っている。城壁の上では、鷲の紋章が刻まれた黒い旗が、凍てつく風にはためき、**バタ、バタ、** と乾いた音を立てていた。それはまるで、巨大な生物の翼が、次の飛翔の時を待ちわびているかのようにも見えた。
城内は、死を思わせるほどの、完璧な静寂に支配されていた。磨き上げられ、鏡のように周囲の光景を映し出す黒曜石の床を、兵士たちの鉄靴が、**カツ、カツ、** と正確無比なリズムを刻んで通り過ぎる。その音だけが、天井の高い、だだっ広い廊下に、冷たく、硬質な残響を残しては消えていく。一糸乱れぬその歩調は、個人の意思ではなく、巨大な機構の一部として組み込まれた歯車の動きを想起させた。壁に等間隔で掲げられた松明の炎さえ、まるで規律を教え込まれたかのように、音もなく、ただ静かに揺らめいていた。熱を発しているはずのその炎は、しかし、周囲の空気を温めるには至らず、ただ、兵士たちの冷たい鎧兜に、不気味な光の反射を生み出すだけだった。
ここには、新興国ユグドラシルのような、多様な種族が入り乱れる混沌とした生命力も、古きロゼンベルグ王国のような、歴史と伝統に裏打ちされた穏やかな気品もない。あるのは、巨大な機械の内部のような、冷たく、機能的な、完璧な秩序だけだった。感情という名の不純物を、全て排した先にのみ現出する、絶対的な統制。それがアイゼンガルドの本質であった。
その、完璧な秩序の頂点。
玉座の間。
部屋は、城の他の場所にも増して、静寂と冷気に満ちていた。天井は遥か高く、ゴシック様式のアーチが、まるで巨人の肋骨のように、薄暗い空間を支えている。壁にはステンドグラスが嵌め込まれているが、そこに描かれているのは聖人や神々の物語ではなく、歴代皇帝による征服と勝利の歴史であり、差し込む光は僅かで、色味も乏しかった。空気はひどく乾燥し、蝋と、磨かれた石と、そして微かな金属の匂いが混じり合っていた。
グランツ帝国皇帝、ジークハルト・フォン・グランツは、黒曜石を削り出して作ったかのような、巨大な玉座に、深く身を沈めていた。その玉座は、権威を誇示するための豪華な装飾を一切持たず、ただ、その巨大さと、見る者を威圧する鋭角的なデザインだけで、座る者の絶対的な力を示していた。
彼は、まだ四十代半ばだというのに、その銀色の髪には、まるで冬の最初の霜が降りたかのように、白いものが混じり始めている。だが、その顔に刻まれた深い皺は、単なる老いによるものではない。それは、長年の思索と、幾万の民の運命を左右する揺るぎない決断が刻み込んだ、年輪のようなものだった。そして、その鷲のように鋭い灰色の瞳は、今、目の前で羊皮紙の報告書を読み上げる宰相の、そのさらに向こう、大陸全土を精密に描いた巨大な地図を、冷徹に見据えていた。彼の視線の中では、山脈はただの障害物であり、国境線は次に塗り替えるべき線に過ぎなかった。
「―――以上が、先日の中立都市で開催されました、大陸諸国会議の顛末にございます」
宰相が、乾いた声で報告を終える。その声は、この広大な玉座の間ではあまりに小さく、まるで石壁に吸い込まれていくようだった。彼は報告を終えてもなお、顔を上げることができず、ただ深く頭を垂れている。その額には、玉座の間の冷気とは裏腹に、脂汗が滲んでいた。
報告の内容は、帝国にとって、屈辱以外の何物でもなかった。長年、飴と鞭を使い分け、飼い慣らしてきたはずの諸侯を恫喝し、生意気な新興国ユグドラシルと、没落したはずのロゼンベルグ王国を、国際社会の場で完全に孤立させる、完璧なはずだったシナリオ。それが、たった一人の、正体不明の、やる気の欠片も見せない王の、まるで子供の悪戯のような、しかし神業としか思えぬ一撃によって、粉々に打ち砕かれたのだ。「山を消す」という、およそ現実的とは思えぬその所業が、帝国の築き上げてきたパワーバランスを根底から揺るがした。
玉座の間の空気は、張り詰め、凍てついていた。音という音が消え失せ、誰もが呼吸さえ忘れているかのようだ。宰相の後ろに控える廷臣たちは、皇帝の、いつ轟くとも知れぬ雷のような怒声を恐れ、息を殺して身を固くしている。ある者は床の石の模様を虚ろに見つめ、ある者は固く目を閉じ、ただその時が過ぎるのを祈っていた。
だが、ジークハルトは、怒らなかった。
彼の表情は、報告を聞く前と何一つ変わらない。まるで湖の凪いだ水面のように、微動だにしない。
彼は、ただ、指先で、玉座の黒曜石の肘掛けを、**とん、** と軽く叩いただけだった。
その、あまりに小さな音が、死のような静寂に支配された玉座の間に、不気味なほど大きく響き渡った。その一音で、廷臣たちの肩がびくりと震える。
「……面白い」
その、静かな呟きは、いかなる怒声よりも、遥かに恐ろしい響きを持っていた。それは、地殻の奥深くでマグマが蠢くような、巨大な力が噴出する直前の、不気味な静けさを孕んでいた。
「山を、消す、王か。そして、その背後で糸を引く、小賢しい、悪役令嬢崩れ。なるほど。ようやく、この退屈な盤面に、少しは歯応えのある駒が、二つ、現れたというわけか」
彼は、まるで、何百年も解けなかった難解な詰め将棋の、次の一手を見つけたかのように、その口の端に、冷たい、氷のような笑みを浮かべた。その笑みは、喜びや楽しみといった感情から来るものではなく、ただ、己の知性が新たな獲物を見つけたことに対する、純粋な満足感の表れだった。灰色の瞳が、愉悦に細められる。
「力には、力で対抗する。それは、蛮族の思考だ。筋肉だけの獣がやることだ。帝国は、力で支配するのではない。システムで、支配するのだ。彼らが、我々の作った、この大陸の秩序という巨大なシステムの中で、いかに無力であるかを、その骨の髄まで思い知らせてやれ」
その声は静かだったが、玉座の間の隅々にまで、染み渡るように響いた。
「はっ。具体的には、いかがいたしますか」
宰相が、震える声で問いかける。
「決まっているだろう」
ジークハルトは、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が、玉座の間に、まるで山脈が隆起するかのような、巨大な影を落とす。壁の松明の光が、その影の輪郭を揺らめかせ、まるで生きているかのように見せた。
「あの二つの国を結びつけている、最も重要な、そして、最も脆弱な線。交易路を、断て。ユグドラシルとロゼンベルグの間に横たわる、全ての諸侯に、勅命を伝えよ。『帝国につくか、あるいは、帝国に逆らい、あの正体不明の王と共に、滅びるか』、と。答えは、聞くまでもあるまい」
それは、宣戦布告だった。
しかし、兵士の雄叫びも、剣の交わる音も聞こえない。血の流れない、静かで、冷酷で、そして、遥かに残忍な、経済という名の、戦争の始まりを告げる号砲だった。
皇帝の灰色の瞳は、すでに、二つの国が、物資の不足に喘ぎ、市場から物が消え、民衆が飢え、不満が内側から国を蝕み、やがて自重によって崩壊していく様を、幻視しているかのようだった。この大陸という盤面は、自分が作ったルールの上で動いてこそ、美しいのだ。そして、その美しさを乱す者は、たとえ、それが、神であろうと、悪魔であろうと、容赦なく、排除する。
それが、グランツ帝国が、帝国である所以だった。
---
その、冷酷な決定が下されてから、わずか半月後。
大陸のシステムは、目に見える形で、**ギシリ、ギシリ、** と巨大な歯車が軋むような音を上げ始めた。それは、初めはごく些細な変化だった。ある街で、南方の香辛料が品切れになった。ある村で、東方の織物の値段が少し上がった。人々は首を傾げたが、まだ、それが何かの前兆だとは気づかなかった。
やがて、変化は誰の目にも明らかな形を取り始める。
ユグドラシルとロゼンベルグを結ぶ、全ての街道の関所が、固く、閉ざされたのだ。これまで、商人たちの賑やかな声と、荷馬車の車輪の音が絶えなかった街道は、不気味なほど静まり返っている。関所の前には、グランツ帝国の、鋭い嘴を持つ鷲の紋章を掲げた兵士たちが、まるで石像のように、微動だにせず立ち塞がっている。彼らの黒い鋼鉄の鎧は、北の冷たい太陽の光を鈍く反射し、その表情のない兜の奥からは、感情の窺い知れない視線が注がれていた。無言で、全ての荷馬車の通行を禁じている。
「これは、一体、どういうことだ! 説明しろ!」
「我々は、ただの商人だぞ! 何十年もこの道を通ってきたんだ!」
南方の香辛料や織物を満載した商人たちの怒号は、しかし、兵士たちの、氷のような沈黙の前で、空しく響くだけだった。兵士たちは返事もせず、ただ、槍の穂先をわずかに動かすことで、それ以上の前進を許さないという意思を示す。業を煮やした商人が一歩前に出ようものなら、**ガシャン、** という金属音と共に、数本の槍が寸分の狂いもなく彼の喉元に突きつけられる。風が吹き抜け、街道の乾いた土埃を舞い上がらせた。商人たちの間には、怒りを通り越した、無力感と恐怖が広がっていく。
この、交易路の封鎖という、たった一つの出来事は、まるで巨大な蜘蛛の巣のように複雑に絡み合った大陸の経済ネットワークに、瞬く間に、予測不能な影響を広げていった。
それは、穏やかな水面に投げ込まれた、一つの石が、やがて、岸辺の全てを揺るがす、大きな波紋となって広がっていくのに、似ていた。初めは小さなさざ波だったものが、他の波と共鳴し、次第に大きなうねりとなり、大陸全体の経済という船を、根底から揺さぶり始めたのだ。
---
ロゼンベルグ王国の王城。
その一室で、ソフィアは、宰相から差し出された報告書の束を、厳しい表情で読み終えた。羊皮紙にインクで記された文字が、彼女の青い瞳の中で、国の苦境を雄弁に物語っている。指先が、無意識のうちに報告書の端を強く握りしめ、小さく震えていた。
窓の外では、最後のカエデの葉が、冷たい風に吹かれて、ひらり、と枝から離れていくのが見えた。赤く色づいたその葉は、しばし空中で舞った後、力なく地面へと落ちていく。まるで、王国の運命を暗示しているかのようだ。季節は、もう、完全に、冬へと向かっていた。空気は、ひりつくように冷たく、息を吸い込むと肺が痛むほどだ。空は、どこまでも高く、そして、ガラス細工のように冷ややかに澄み渡っている。
「……これは、事実上の、経済戦争ですわね」
ソフィアの静かな呟きが、暖炉の薪がぱちりと爆ぜる音にかき消されそうなほど、か細く響いた。
彼女の傍らに控えていた近衛騎士団長のカエルスが、忌々しげに舌打ちをした。**チッ、** という鋭い音は、彼の憤りを隠そうともしない。
「姑息な真似を。直接、軍を動かして攻めてくる度胸もないのか、あの鷲野郎は」
彼は腰に下げた長剣の柄を、**ギリッ**、と音を立てて握りしめる。その瞳には、今すぐにでも戦場に駆け出していかんばかりの、闘志の炎が揺らめいていた。
「いや、これは、極めて、合理的だ」
部屋の隅で、壁に貼られた巨大な大陸地図に、何本もの赤い線を書き込みながら、軍師のアレクシスが冷静に分析する。彼は、カエルスとは対照的に、常に冷静で、感情を表に出すことはない。その手にした木炭が、地図の上を**サラサラ**と滑る音だけが、彼の思考の速さを物語っていた。
「見てみろ。この交易路は、ユグドラシルにとっては、彼らの特産品である質の良い鉱物や、ドワーフたちが作る精巧な工芸品を、東方諸国へ輸出するための、唯一のルートだ。そして、我々ロゼンベルグにとっては、南方から、食卓を豊かにする香辛料や、冬を越すための必需品、特に塩や保存食を輸入するための、生命線でもある。この一本を断つだけで、帝国は、自らの手を汚すことなく、我々二国を、同時に、締め上げることができる。実に、効率的で、悪趣味な一手だ」
アレクシスはそう言うと、赤い木炭で、封鎖された交易路を、まるで傷口を縫うかのように、強く、何度もなぞった。
「民の生活に、すでに、影響は?」
ソフィアの問いに、白髪の宰相が、沈痛な面持ちで頷いた。
「はい。王都の市場では、香辛料や、一部の南方の織物の価格が、すでに、三割以上、高騰しております。このままでは、冬を越すための、塩や、保存食の備蓄にも、支障が出かねません。すでに民の間では、不安の声が…」
ソフィアは、静かに目を閉じて、思考を巡らせた。これは、戦争だ。アルバ公爵との戦いが、国内に巣食う腐敗との戦いだったとすれば、今度の相手は、大陸そのものを支配する、巨大なシステムそのものだ。目に見えない、巨大な怪物と戦っているようなものだった。
(どうする……? 軍事力で、関所を強引に突破する? いや、それは、帝国の思う壺。彼らに、侵略の口実を与えるだけだわ……。別の交易ルートを、新たに開拓する? 東の山脈を越えるか、あるいは、南の海路を……。いえ、どちらも時間が、かかりすぎる……。それまでに、民の生活が、国が、持たないかもしれない)
思考が、袋小路に入り込む。焦りが、冷たい霧のように心に立ち込めてくる。だが、彼女は、もう、かつてのように一人で全てを背負い込む王女ではなかった。信頼できる仲間がいる。そして、もう一人。
「……ユウキ陛下は、どう動かれるかしら」
彼女の唇から、無意識のうちに、あの、やる気のなさそうな、それでいて、全てを見透かしているかのような、不思議な王の名前が、漏れた。その名を口にした瞬間、ほんの少しだけ、心の霧が晴れるような気がした。
---
その頃。
ユグドラシルの城、その厨房は、かつてないほどの、重苦しい低気圧に包まれていた。それは、比喩ではない。厨房の隅に置かれた、ドワーフ製の気圧計の針は、明らかに「嵐」の領域を指し示していた。
「……ない」
竜族の料理長、イグニスが、地獄の底から響いてくるような声で、呟いた。その巨躯は、まるで火山が噴火する直前のように、わなわなと震えている。
「どこを探しても、ないのだ……! 我が、至高の『竜の涙スープ』を、完成させるための、最後の、そして、最も重要な、あの、スパイシーで、官能的な香りを持つ、『幻の黒胡椒』がっ……! 一粒も、ないッ!」
彼は、その絶望と怒りのあまり、口から、**ぼふっ、** と小さな炎を吐き出した。近くにあった木製の調理台の端が、一瞬で黒く焦げ、燻った匂いが立ち上る。
その隣では、ドワーフのボルガが、空になった巨大な酒樽を、まるで亡くなった友を悼むかのように、悲しげに撫でていた。
「……兄貴。俺の、命の水が……。あの、喉を焼くような、それでいて、豊かな麦の香りがする、南方のエールが、もう、一滴も、残ってねえ……」
彼は、**コンコン、** と虚しい音を立てて樽を叩き、その反響音を聞いて、さらに深く、絶望のため息をついた。
エルフのシルフィは、壁に立てかけておいた愛用の弓の 옆で、ため息をつきながら、自分の矢筒を眺めている。
「私の矢羽に使う、南方の極彩色の鳥の羽も、入荷が完全に止まったわ。これでは、精密射撃の精度が、0.01ミリほど、狂ってしまう……。これでは、風を読むエルフの名が廃るわ」
錬金術師のリリアは、実験台の上で、空になった薬品瓶を、**カチャカチャ**と虚しく振りながら、ぶつぶつと呟いていた。
「南方の火山地帯でしか採れない、発光性苔のサンプルが……。これがなければ、私の、究極の、若返り薬の研究が、ここで頓挫してしまう……。人類の、いや、全生命の進化が、ここで止まるというのに……」
彼らの、それぞれの、極めて個人的で、しかし、本人たちにとっては、世界の終わりにも等しい、絶望的な報告。その声は、厨房の高い天井に響き渡り、不協和音となって渦巻いていた。
その、全ての元凶が、どこで、何をしているかというと。
「……んー……ふぁ……」
城のテラス。
ユウキは、新しく導入した、羽毛布団のようにふかふかの、最高級リクライニングチェアの上で、猫のように丸くなり、初冬の穏やかな日差しを浴びて、気持ちよさそうに、うたた寝をしていた。彼の口からは、**すぴー……** という、あまりにも平和で、のんきな寝息が漏れている。時折、心地よい風が彼の髪を優しく揺らし、彼は満足げに寝返りをうった。周囲の深刻な状況など、まるで他人事である。
その、あまりにも、平和で、のんきな寝息。
それが、ついに、仲間たちの、溜まりに溜まった不満という名の火薬庫の導火線に、火をつけた。
「「「「陛下(兄貴・ユウキ様・あなた)ッ!!!!」」」」
四方八方から、怒りと悲しみと絶望に満ちた声が、一つの巨大な槍となって、一斉に、彼に突き刺さる。その声の圧力で、テラスの小鳥たちが一斉に飛び立った。
「ん……? なに、みんなして。うるさいなあ、人が、気持ちよく、寝てるのに……」
ユウキは、眠い目をこすりながら、**のそり、** と身を起こした。その動きは、まるで年老いた熊のように、鈍重で、億劫そうだった。
「黒胡椒が、ないのです! 我が芸術が未完に終わるのですぞ!」
「酒が、ねえんだよ、兄貴! 喉が、乾いて、死んじまう!」
「どうしてくれるのよ、この状況を! 私の矢の精度が!」
「私の研究があああ!」
口々に訴える仲間たちに、ユウキは、**きょとん、** とした表情で、数秒間、瞬きを繰り返した。そして、心の底から不思議そうに、答えた。
「え? 胡椒がないなら、塩でいいじゃん。酒がないなら、水飲めば? 矢羽がないなら、その辺の鳥の羽でも、むしっとけば? 苔は……その辺に生えてるやつじゃダメなの?」
その、あまりにも、無神経で、あまりにも、根本的な解決になっていない、悪魔のような回答。
一瞬の静寂。
そして。
イグニスの口から、今度こそ、本気の炎が、**ゴオオオオッ、** と轟音と共に吹き上がった。それはテラスの屋根を舐めるほどの巨大な火柱となり、ユウキの眉毛を僅かに焦がした。
「貴様は、分かっていない! 食文化の、その歴史の、奥深さを! 妥協は、死を意味するのだッ!」
「そうだそうだ!」と、ボルガが拳を振り上げ、シルフィとリリアも、それぞれの立場から、ユウキの無理解を激しく非難する。
「ええー……。なんか、みんな、面倒くさいなあ……」
ユウキが、心底、嫌そうな顔で、頭を掻いた、その時だった。
「―――陛下! ご報告、申し上げます!」
宰相のアーサーが、一枚の、やけに、格式ばった羊皮紙を手に、息を切らせて、テラスに駆け込んできた。彼は、普段の冷静沈着な姿とは程遠く、髪は乱れ、その額からは玉のような汗が噴き出している。
「なんだよ、アーサー。お前まで。今日は、厄日か、何かか?」
ユウキは、仲間たちの剣幕からも、アーサーの慌てぶりからも、完全に意識を逸らし、再びリクライニングチェアに身を沈めようとしていた。
「そ、それが……! 東の、ロゼンベルグ王国より、緊急の、公式書簡が……!」
アーサーから、震える手で、羊皮紙を受け取る。それは上質な紙で作られ、ロゼンベルグ王家の紋章である薔薇の意匠が施された蝋で、厳重に封がされていた。
そこには、流れるように美しい、しかし、どこか、鋼のような、硬質さを感じさせる筆跡で、こう、書かれていた。
『拝啓、ユグドラシル国王、ユウキ陛下。
貴国と我が国が直面している、グランツ帝国による、不当かつ、非人道的な、経済封鎖に対し、両国が、共同歩調を取り、断固として、抗議し、その解決を図るため、緊急の、首脳会談の開催を、ここに、正式に、提案いたします。
ロゼンベルグ王国、第一王女、ソフィア・フォン・ロゼンベルグ』
ユウキは、その、あまりにも、長くて、堅苦しくて、そして、何よりも、「面倒くさい」という単語が、行間から、滲み出てくるような文章を、三秒ほど、無表情で、眺めた。
そして、
「……やだ」
と、ぽつり、と呟くと、その、国の運命を左右するかもしれない、極めて重要な書簡を、近くにあった、イグニスの、バーベキューの、火の中に、**ぽいっ、** と、まるで使い終わったティッシュでも捨てるかのように、投げ入れた。
「「「「「あああああああああああああああ―――――ッ!!!!!」」」」」
その場にいた、全員の、悲鳴が、一つになった。
羊皮紙は、一瞬で炎に包まれ、美しい文字が黒く縮れていく。そして、あっという間に、ただの灰となって、風に舞い上がった。
アーサーは、その光景を目の当たりにして、「あ……」と小さな声を漏らすと、その場で、白目を剥いて、**どさっ、** と音を立てて倒れた。
ユウキは、そんな、地獄絵図のような光景を、他人事のように眺めながら、ただ、一言、呟いた。
「だから、言ったろ。俺は、隠居したいんだって」
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