過労死したので来世は平穏に暮らしたい。なのに、うっかり英雄になってしまい、東では国を救った元悪役令嬢が俺の噂をしていた。

Gaku

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第三十七話:食卓の平和を取り戻せ!

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ユグドラシルの城に、冬の気配が、じわり、と染み込み始めていた。それは、ある日突然訪れる劇的な変化ではない。まるで、見えざる巨大な手が、ゆっくりと、しかし確実に、世界の彩度を落としていくような、静かな侵食だった。

城壁を構成する一つ一つの石が、夜の間に吸い込んだ冷気を、昼になっても吐き出さずに、ひっそりと溜め込んでいる。その表面に手を触れれば、骨の芯まで凍みるような、生命を拒む冷たさが伝わってきた。高く、どこまでも高くそびえる尖塔の先端では、常に吹き付けている風が、その音色を変えていた。夏の間は歌うようだった風が、今は低く呻き、時には鋭く喉を鳴らす獣のような音を立てて、石の隙間を吹き抜けていく。

空は、秋のあの突き抜けるような、サファイアを溶かし込んだような青さを完全に失っていた。今は、使い古した羊皮紙のようにくすんだ、薄い乳白色のヴェールをまとって、どこか物憂げに地上を見下ろしている。そのヴェールを通して地上に届く太陽の光もまた、かつての輝きを潜めていた。黄金の槍のように降り注ぎ、万物に生命力を与えていた夏の光とは似ても似つかない。今はただ、弱々しく、そして頼りなげに、まるで色褪せた金糸のように地上に絡みつくだけだ。その光は、城の広大な庭に植えられた木々の、最後の抵抗のように枝にしがみついていた赤や黄色の葉を、まるで褪せた水彩画のように、ぼんやりと照らし出していた。カサリ、と乾いた音を立てて舞い落ちる一枚の葉が、これから訪れる長い眠りの季節の到来を告げていた。

そして、風。風は、その性質を完全に入れ替えていた。夏の終わり、頬を優しく撫で、草木の香りを運んできた柔らかな秋風の記憶は、もう遠い。今の風は、鋭く、そして冷たく、まるで無数のガラスの破片のように肌を刺す。その風が運んでくるのは、もはや熟した果実や土の匂いではない。遥か北に連なる雪を頂いた山脈から吹き付けてくる、氷の結晶の匂い。そして、これから始まる長い季節の厳しさを予感させる、血を思わせる鉄のような匂いだった。

この、世界全体が少しずつ色を失い、熱を奪われ、内に内にこもっていくような季節の変化は、人々の心にも、避けようのない微妙な影を落とすものだ。城下で暮らす人々は、口数が減り、背を丸め、足早に家路へと着くようになった。日暮れと共に家々の窓には暖かな光が灯り、石造りの煙突からは、薪の燃える匂いを含んだ白い煙が、頼りなげに立ち上る。それは、ささやかな温もりと安らぎの象徴であると同時に、閉ざされた世界への入り口でもあった。

そして今、ユグドラシルの城の厨房は、その季節の憂鬱を、さらに十倍に濃縮したかのような、絶望的な低気圧のど真ん中にあった。

普段ならば、巨大な竈で燃え盛る炎の音、リズミカルに食材を刻む包丁の音、若い料理人たちの威勢のいい声、そして食欲をそそる香りで満ち溢れているはずのその場所は、まるで時が止まったかのように、しんと静まり返っていた。火の落ちた竈は、巨大な口を開けたまま沈黙し、壁一面に吊るされた銅製の鍋やフライパンは、磨き上げられてはいるものの、その輝きを虚しく反射しているだけだった。床の石畳から、じわりと冷気が這い上がってくる。

「……ない」

竜族の料理長、イグニスは、その巨躯を厨房の隅で、まるで責め苦に耐えるかのように小さく丸め、世界の終わりを目撃したかのように、虚ろな目で呟いた。天井に届きそうなほどの長身も、分厚い胸板も、今は何の慰めにもならない。彼の足元には、空っぽの、使い古された小さな麻の布袋が、一つの生命が失われたかのように、無惨に転がっている。

「どこを、探しても……。城中の、食料庫という食料庫を、隅から隅まで……。あの、一振りで、どんな凡庸な食材をも、至高の芸術へと昇華させる、奇跡の黒い粉……。『幻の黒胡椒』が、一粒たりとも、ないのだ……!」

その声は、怒りを通り越して、もはや、深い、深い悲しみに満ちていた。絞り出すようなその声は、静まり返った厨房の天井に虚しく響き、誰に届くこともなく消えていく。彼の誇りである、どんな高温の炎にも耐えるはずの、深紅の竜の鱗でさえ、心なしか輝きを失い、色褪せて見えるのは気のせいではなかった。あの黒い粉さえあれば、ただの根菜の煮込みは、貴族の舌を唸らせる芳醇な逸品となり、ありふれた鳥のグリルは、天上の香りを纏う奇跡の一皿となるのだ。それが、ない。料理人としての魂を、根こそぎ奪われたにも等しかった。

彼の絶望に、追い打ちをかけるように。
ゴオォォン……と、城の分厚い床を震わせて、地下の酒蔵から、地響きのような慟哭が聞こえてくる。それは、ドワーフの鍛冶師長、ボルガの声だった。

「うおおおおぉぉん……! 俺の、命の泉が……! あの、喉を焼くような熱さと、麦の豊かな香りが、口の中で見事なハーモニーを奏でる、南方のエールが……! 最後の樽の底に、蜘蛛が一匹、ふてぶてしく巣を張ってやがる……!」

地下の酒蔵は、ひんやりと湿った空気が澱み、黴と古い木材の匂いが混じり合っていた。ずらりと並んだ巨大な樽は、そのほとんどが空っぽで、まるで巨人の骸骨が並んでいるかのような寂寥感を漂わせている。ボルガは、最後の空樽の底を覗き込み、その虚無を体現するかのような蜘蛛の巣を、指先が白くなるほど強く握りしめた拳で、何度も何度も叩いていた。ドゴォン、ドゴォン、という鈍い音が、彼の慟哭と共に、地下室に響き渡る。

時を同じくして、城の西塔にある工房でも、静かな絶望が生まれていた。
工房は、エルフの弓師、シルフィの領域だ。ありとあらゆる道具が、彼女の性格を映したかのように、塵一つなく、ミリ単位の正確さで配置されている。しかし、その完璧な空間の中で、彼女自身は不協和音を奏でていた。窓から差し込む弱々しい光が、作業台に並べられた完成間近の矢を照らし出している。その一本を指先でつまみ上げ、忌々しげに眺めながら、彼女は絹を裂くような、細く、しかし鋭い溜息をついた。

「南方の、特定の猛禽類の、それも、右の翼の、三番目の風切り羽。それ以外では、私の矢の弾道は、0.01ミリ、ぶれてしまうというのに……。これでは、ただの、少しよく飛ぶだけの、薪だわ」

彼女の白い指が、不完全な矢羽根を、まるで汚物でも扱うかのように、そっと撫でる。その指先に込められた侮蔑と苛立ちは、彼女の完璧主義的な美学がどれほど深く傷つけられたかを物語っていた。この矢では、二百歩先の林檎の中心を射抜くことはできても、その林檎に止まった虻の左目を射抜くことはできない。彼女にとって、それは薪と何ら変わりはなかった。

そして、政治の中枢であるはずの城の主翼。その最も豪華な扉、城の主であるユウキの部屋の前では、宰相のアーサーが、胃のあたりを強く押さえながら、幽鬼のような青い顔で行ったり来たりを、もう三十分以上も繰り返していた。磨き上げられた大理石の床に、彼の高価な革靴の踵が、コツ、コツ、と神経質な音を立てる。その音だけが、静まり返った廊下に、彼の焦燥を刻みつけていた。

「ど、どうしよう……。ロゼンベルグ王国のソフィア様から、緊急の公式書簡が届いて、もう三日も経つというのに……。陛下は、『後で読む』の一点張りで、テラスのリクライニングチェアから、てこでも動こうとされない……。このままでは、国際問題に、発展してしまう……!」

彼の手には、王家の紋章が入った厳重な封蝋で閉じられた、一枚の高級な羊皮紙が握られていた。その紙の重みが、国家間の信義の重みとなって、彼の胃をきりきりと締め付ける。彼の脳裏には、同盟破棄、国境紛争、そして最悪の事態である戦争という言葉が、不吉な踊りを踊っていた。

グランツ帝国による、一方的な経済封鎖。
その、たった一つの、しかし、極めて悪辣な一手は、ユグドラシルという、奇跡のバランスの上に成り立っていた複雑系(エコシステム)の、最も脆弱な部分を、的確に、そして、無慈悲に、突き始めていた。
この国は、竜族が火を、ドワーフが鉄を、エルフが木を、人間が知恵を、そして様々な種族が、それぞれの得意なものを持ち寄ることで、奇跡的な調和を保ち、成り立っている。だが、その多様性は、裏を返せば、多くのものを、外部からの輸入に頼っている、ということでもあった。
香辛料、特定の酒類、特殊な工芸素材。書物、薬品、魔法の触媒。
それらは、直接的に生命維持に不可欠なものではないのかもしれない。だが、人々の、あるいは、各種族の、「生活の質」や、「文化的な誇り」を支える、極めて重要な要素だった。ガス燈の明かりが一つ消えるように、人々の心から彩りが一つ、また一つと失われていく。
そして、それらが失われた時、人々の心に溜まっていく、じわじわとした不満とストレス。水が岩を穿つように、それはやがて、国家の土台そのものを、静かに、しかし確実に、蝕んでいくのだ。

その、全ての元凶であるはずの男は、今、何をしていたかというと。

「……すぴー……。ん、ああ、ピクシーか。なんだよ、人が、気持ちよく、二度寝してるところを……チッ」

城の南向きの広大なテラス。そこは、彼の聖域だった。ドワーフが鍛えた軽量かつ頑丈な金属フレームに、エルフが織った、触れるだけで眠りを誘うという魔法の布地を張った、新調されたばかりのリクライニングチェア。その雲のようにふかふかの座面に、ユウキは猫のように丸くなり、至福の微睡みに身を委ねていた。頭の上で、チリチリと苛立ったように飛び回り、甲高い声で何かを叫んでいる妖精を、眠そうに、億劫そうに手で追い払う。

「てめえは、人生の九割を寝て過ごす気か、このナマケモノがッ!」

ピクシーは、カンカンに怒って、ユウキの黒髪を、ぶん、と力任せに引っ張った。小さな体からは想像もつかないほどの力だった。

「いい加減に、気づきやがれ! 城の中が、どうなってんのか! あの、デカいトカゲは、胡椒がねえっつって、自分の吐く炎で、自分の尻尾を炙って、その匂いで気を紛らわすっていう、意味不明な自傷行為に走ってるし! ドワーフの小僧は、禁断症状で、そこらの鉄格子をガリガリかじり始めたぞ! どうにかしろい!」

「ええー……。だから、なんで、俺が……」

ユウキが、心底、面倒くさそうに、寝癖のついた頭を掻いた、その時だった。
彼の、平穏な、誰にも邪魔されないはずの聖域であるテラスに、ずかずかと、土足で踏み込んでくる、複数の影があった。
重く、床を響かせるイグニスの足音。ドス、ドス、と地団駄を踏むようなボルガの足音。音はしないが、空気を切り裂くようなシルフィの気配。そして、カツ、カツ、とヒールで大理石を打ち鳴らすリリア。
イグニス、ボルガ、シルフィ、そして、魔導師のリリア。
彼らの目は、据わっていた。血走り、虚ろで、焦点が合っていない。その背後には、どす黒く、鬼気迫るオーラが、陽炎のように立ち上っている。それは、ユウキが前世で見た光景と酷似していた。締め切り直前、三日徹夜明けのエナジードリンクの空き缶に囲まれ、モニターの光だけを浴びて虚空を見つめる、デスマーチに突入したプログラマーたちが放っていたオーラと、全く同じ種類のものだった。

「「「「陛下(兄貴・ユウキ様・あなた)」」」」

四人の声が、不気味なほど、完璧に、ハモった。それはもはや声ではなく、怨念の塊だった。

「な、なんだよ、みんなして。そんな、ゾンビみたいな顔して。俺、なんか、したっけ……?」

ユウキは、本能的な危機感を覚え、リクライニングチェアの上で、じり、と後ずさった。

最初に、口火を切ったのは、イグニスだった。彼は、あの空っぽの胡椒袋を、まるで聖骸布でも捧げるかのように、震える両手で、ユウキの目の前に、突きつけた。

「陛下。食とは、文化です。そして、文化とは、我々、知的生命体の、存在意義そのもの。この、黒胡椒の喪失は、単なる、一食材の欠乏では、断じて、ありません。それは、我が、料理哲学に対する、冒涜であり、ひいては、ユグドラシルという国家の、文化レベルの、危機的状況を、意味するのです!」

「そ、そうか……? 塩と、その辺の庭に生えてる草でも、入れとけば、なんとかならないか……?」

ユウキの、あまりにも、あまりにも無神経な一言に、イグニスの口から、ゴオオォォッ、と、これまで抑制されていた本気の炎が、警告のように吹き上がった。テラスの床の一部が黒く焦げる。

「妥協は、死だッ!!」

次に、ボルガが、そのずんぐりした体を一歩、前に進めた。ゴツゴツした拳が、わなわなと震えている。

「兄貴。俺たちは、ドワーフだ。頑固で、不気用で、口下手だ。だがな、仕事の後に、仲間と、うめえエールを酌み交わす、その、たった一つの楽しみのために、俺たちは、毎日、汗水たらして、灼熱の炉の前で鉄を打ってんだ。その、たった一つの楽しみが、ねえんなら……。俺たちは、何のために、槌を振るや、わからなくなっちまう……!」

「水じゃ、ダメか……? 体にいいぞ」

「水で、酔えるか、ああ!? このアルコールの尊さがわからねえのか!」

冷たい声で、シルフィも続く。彼女は腕を組み、氷のような視線でユウキを射抜いていた。

「あなたねえ。そもそも、この事態を招いたのは、誰なの? あなたが、あの、大陸諸国会議とかいう、面倒な集まりで、居眠りをごまかすために、余計な、大理石の柱折りパフォーマンスなんかするから、あの、陰険そうなグランツの皇帝に、目をつけられたんじゃないの。少しは、責任、感じたらどうなのよ」

「え、俺のせいなの、これ……?」

ユウキは、心外、という顔で首を傾げた。ただ、退屈だったから、近くの柱を小突いただけなのに。

そして最後に、リリアが、知的に縁取られた眼鏡を、中指で、キラリ、と光らせて、冷徹に、そして論理的に、とどめを刺した。

「ユウキ様。この状況は、極めて、非効率ですわ。民衆の、QŌL、すなわちクオリティ・オブ・ライフの低下は、労働意欲、ひいては国家全体の生産性の低下に、直結します。そして、何より、わたくしの、究極の、若返り薬の、研究に必要な、南方の、希少な、発光性苔の、輸入が、完全に、ストップしておりますの。これは、全人類の、美と健康に対する、重大な、挑戦ですわ。あなたには、この、科学の発展を、阻害する、愚かな、帝国主義を、断固として、排除する、義務が、あります」

「お前の、個人的な、趣味と実益のためだろ、それ……」

四方八方から、それぞれの、極めて、個人的で、しかし、本人たちにとっては、世界の存亡に関わる、切実な訴えの集中砲火。
ユウキは、完全に、包囲されていた。
(ああ、もう、なんで、こうなるんだ……。俺は、ただ、静かに、鳥のさえずりを聞きながら、昼寝がしたいだけなのに……)

彼が、天を仰いで、絶望に打ちひしがれかけた、その時だった。

「―――へ、陛下! よ、ようやく、お目覚めに……! おお、皆様もお揃いで!」

宰相のアーサーが、息を切らし、汗だくになりながら、一枚の、やけに、格式ばった、高級そうな羊皮紙を、震える手で、宝物のように捧げ持って、テラスに、駆け込んできた。

「ああ、アーサー。お前もか。もう、俺の、ライフは、ゼロよ……」

「そ、それが……! 先日より、再三再四、申し上げておりました、東の、ロゼンベルグ王国の、ソフィア様からの、緊急の、公式書簡! いい加減に、お返事を、しないと、本当に、まずいことに……!」

「ああ、あれか」

ユウキは、億劫そうに、ほとんど反射的に、アーサーから、その書簡を受け取った。
そこには、流れるように、しかし、どこか、鋼のような、硬質さを感じさせる、一分の隙もない美しい筆跡で、長々と、そして、極めて、丁寧な、外交的修辞に満ちた文章が、綴られていた。

『拝啓、ユグドラシル国王、ユウキ陛下。秋冷の候、陛下におかれましては、益々ご清祥のことと、お慶び申し上げます。さて、先般より、大陸の平和と、自由な交易を、著しく、阻害しております、グランツ帝国による、不当かつ、国際法に違反する、一方的な、経済封鎖に対し、貴国と我が国が、共同歩調を取り、断固として、抗議し、その、速やかなる、撤回を、求めるため、緊急の、首脳会談の、開催を、ここに、正式に、提案するものであります。つきましては……』

ユウキは、その、あまりにも、長くて、堅苦しくて、そして、読んでいるだけで、脳が活動を停止し、瞼が重くなってくる、完璧な、ビジネス文書を、三行ほど、眺めた。
彼の脳が、その文章を理解することを、拒絶した。
そして、
(ああ、もう、無理……。これ、絶対、返事書くのも、死ぬほど面倒くさいやつじゃん……)
と、瞬時に、判断した。
彼は、深く、深く、宇宙の深淵に届くほどの、ため息をつくと、仲間たちと、アーサーを、見回した。
みんな、期待に満ちた、キラキラした目で、自分を見ている。まるで、救世主を見るような、そんな目で。
(……わかったよ)
ユウキは、心の中で、降参の白旗を、上げた。
(やれば、いいんだろ、やれば! 黒胡椒でも、エールでも、変な羽でも、光る苔でも、なんだって、持ってきてやりゃ、いいんだろ! それで、お前らが、満足して、俺を、一人にしてくれるんならな!)

彼の、前世、日本という国で培われた、社畜時代の思考回路。「面倒事を、いかにして、最短ルートで、終わらせるか」という、一点にのみ特化した、究極の効率化思考が、フル回転を始める。
会議? 抗議? 共同歩調? 首脳会談?
(……かったるい)
そんな、回りくどい、非効率な方法。
前世で、さんざん、やらされた。不毛な会議、意味のない根回し、形式だけの謝罪。もう、こりごりだ。
もっと、シンプルで、手っ取り早い、方法があるだろう。
問題の根本を、直接、叩けばいい。

ユウキは、にこり、と、聖人のような、穏やかな笑みを、仲間たちに、向けた。

「みんなの、言いたいことは、よくわかった。つまり、『グランツ帝国が、邪魔だ』って、ことだよな?」

「「「「おおっ!」」」」

彼のその一言で、絶望に満ちていた4人の顔が、ぱあっと、まるで夜明けの光が差したかのように、明るくなる。

「よーし、じゃあ、今から、俺が、ちょっと、その、邪魔なのを、片付けてきてやるから。お前らは、ここで、美味い飯でも、作って、待ってろ」

そう言うと、ユウキは、手にした、ソフィア王女からの、極めて、重要で、国の運命を、左右しかねない、公式書簡を、
ひらり、と、
まるで、落ち葉でも払うかのような、軽い仕草で、
近くにあった、イグニスが、いつかのバーベキューのために、熾していた、炭火の中へと、投げ入れた。

パチッ、と炭が爆ぜる、乾いた音がした。
テラスにいた全員の時間が、止まった。

最高級の羊皮紙は、一瞬、熱で丸まろうとするのをためらったが、すぐにその端が、じりじりと音を立てて茶色く焦げ始めた。やがて、小さなオレンジ色の炎の舌が、その紙を舐め上げる。ロゼンベルグ王国の、気品あふれる紋章が、熱で歪み、美しいインクで綴られたソフィアの流麗な文字が、黒い煤となって、意味を失い、消えていく。最後に、彼女の署名が、一瞬、赤く輝いて、燃え尽きた。

そして、黒い灰が、風に舞った。

「「「「「あああああああああああああああ―――――ッ!!!!!」」」」」

その場にいた、アーサーを含む、全員の、魂の叫びが、一つになった。イグニスの絶望、ボルガの慟哭、シルフィの溜息、リリアの落胆、そして、アーサーの絶叫が、悲劇的なハーモニーを奏でた。

宰相アーサーは、その光景を、信じられないものを見る目で、見開いたまま、
「あ……あ……」
と、意味のない声を発し、次の瞬間、白目を剥いて、泡を吹きながら、糸の切れた人形のように、その場に、崩れ落ちた。

ユウキは、そんな、地獄絵図のような光景を、まるで他人事のように、どこか遠い目をして眺めながら、満足げに、一つ、頷いた。

「よし。これで、会議とかいう、一番、面倒な、イベントは、回避できたな」

彼の、世界の平和ではなく、ただ、自らの、食卓の平和と、至高の安眠を守るための戦いが、今、大陸全土を、そして、一人の、極めて理知的で、おそらくは短気な、王女の、堪忍袋の緒を、盛大に巻き込んで、とんでもない方向へと、暴走を、始めようとしていた。

燃え尽きた書簡の最後の灰が、皮肉にも穏やかな風に乗って、秋の空へと、舞い上がっていった。
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