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3部
第四十二話:王都に舞う凶刃
しおりを挟む冬が、ロゼンベルグ王国の王都に、その支配権を主張し始めていた。
空は、分厚く、そして、どこまでも続く、灰色の雲に、覆い尽くされている。太陽は、その存在を、完全に、忘れ去られたかのように、一日中、その姿を、見せることはない。時折、雲の切れ間から、漏れる、弱々しい光は、地上に、色を、与えるのではなく、ただ、濡れた、石畳の、冷たい、輝きを、鈍く、反射させるだけだった。
冷たい、氷のような、雨が、しとしとと、降り続いている。
その雨は、街の、あらゆる音を、吸い込んでいた。人々の、足音も、荷馬車の、車輪の音も、市場の、喧騒さえも、この、分厚い、水の、カーテンの、向こう側で、くぐもった、遠い、響きと、なっている。世界から、まるで、彩度と、音量が、絞り取られてしまったかのようだった。
風が、吹くたびに、最後の、葉を、落とした、街路樹の、黒い、枝が、まるで、助けを、求める、骸骨の、腕のように、空を、掻き、その、枝先から、滴り落ちる、雨粒だけが、この、静寂の、世界に、か細い、リズムを、刻んでいた。
その、静かで、冷たい、王都の、中心。
王城の、一室で、ソフィアは、山と、積まれた、書類の、山と、格闘していた。
大陸諸国会議での、あの、悪夢のような、しかし、結果だけ見れば、大勝利と、言えなくもない、茶番劇から、数週間。世界は、表面的には、落ち着きを、取り戻していた。
グランツ帝国は、沈黙を守り、閉鎖されていた、交易路は、再び、開かれた。ユグドラシルからは、待望の、鉱物資源や、美しい、工芸品が、届き始め、ロゼンベルグの、市場にも、活気が、戻りつつある。
全てが、良い、方向へ、向かっている。
はずだった。
だが、ソフィアの、心は、この、灰色の、空のように、晴れることがなかった。
グランツ帝国が、あの、屈辱を、ただ、黙って、飲み込むはずがない。嵐の前の、静けさ。水面下で、何かが、確実に、蠢いている。その、見えない、脅威の、気配が、彼女の、肌を、ひりつかせていた。
(……考えすぎ、かしら)
ソフィアは、ふ、と、息を、吐き、ペンを、置いた。
そして、無意識のうちに、机の、上に、置いていた、一つの、石に、指先で、触れた。
それは、ユウキが、別れ際に、「道端で、拾った」と、ぶっきらぼうに、手渡してきた、何の変哲もない、ただの、丸い石だった。だが、なぜか、その石は、ひんやりとした、執務室の、空気の中で、ほんのりと、温かい、光を、放っているように、見えた。
あの、男のことを、思い出す。
やる気がなくて、面倒くさがりで、デリカシーの、欠片もなくて。
それなのに、あの、圧倒的な、力と、その、力の、奥に、隠された、誰にも、理解されない、深い、孤独の、匂い。
(あなたなら、この、状況を、どう、見るかしら)
そう、問いかけてみて、ソフィアは、自分で、自分に、驚いて、顔を、赤らめた。
なぜ、今、あの男の、顔が、浮かんだのだろう。頼りに、しているわけでは、断じて、ない。ただ、あの、常識の、通じない、思考回路なら、この、膠着した、状況を、全く、違う、角度から、見てくれるのではないか。そんな、淡い、期待が、胸を、よぎっただけだ。
彼女は、窓の、外の、冷たい、雨を、眺めた。
ユウキのいる、ユグドラシルは、今頃、どんな、天候だろうか。あの、混沌とした、しかし、生命力に、満ち溢れた、街。様々な、種族が、笑い合い、喧嘩し、助け合って、生きている、あの、不思議な、国。
その、頂点に、立つ、やる気のない、王様。
(……また、会えるかしら)
そんな、らしくない、感傷が、胸を、かすめた、その、夜だった。
帝国の、放った、二本の、毒矢が、その、標的の、喉元に、音もなく、到達したのは。
最初の、異変は、あまりにも、静かだった。
城の、中庭を、巡回していた、二人の、衛兵が、まるで、最初から、そこに、いなかったかのように、音もなく、闇に、溶けるように、消えた。
雨音に、紛れて、黒い、影が、複数、城壁を、まるで、水が、染み込むように、乗り越える。
彼らは、大陸の、裏社会を、牛耳る、伝説の、暗殺者ギルド、『サイレンティウム』。その名は、「沈黙」を、意味する。
彼らの、仕事は、常に、静かで、完璧だった。目撃者は、残さない。痕跡も、残さない。ただ、翌朝、標的が、まるで、眠るように、冷たくなっているだけ。
彼らは、まるで、幽霊の、群れのように、城の、廊下を、進んでいく。警備の、兵士たちは、自分が、死んだことにさえ、気づかずに、その場に、崩れ落ちていった。
その頃、騎士団の、宿舎で、カエルスは、愛剣の、手入れを、していた。
濡れた、布で、鋼の、刀身を、拭う。その、冷たい、金属の、感触が、彼の、神経を、研ぎ澄ませていく。
ふと、彼は、手を、止めた。
窓を、打つ、雨音の、その、向こうに、何か、奇妙な、不協和音が、混じっているような、気がしたのだ。
それは、音では、ない。
匂い。
長年、戦場を、生き抜いてきた、彼だけが、感じ取れる、微かな、しかし、間違いようのない、血と、鉄と、そして、死の、匂いだった。
「……!」
次の、瞬間、カエルスは、椅子を、蹴り倒し、部屋を、飛び出していた。
思考では、ない。本能が、叫んでいた。
―――ソフィア様が、危ない!
暗殺者たちは、すでに、王女の、居住区画へと、侵入していた。
彼らの、前には、最後の、砦として、近衛の、騎士たちが、立ちはだかる。
「何者だ!」
「これより、先は、通さん!」
近衛騎士たちの、勇ましい、声が、響く。
だが、暗殺者たちは、何も、答えない。ただ、その、フードの、奥の、闇が、無機質に、騎士たちを、見つめているだけだった。
そして、戦闘は、一瞬で、終わった。
暗殺者たちは、まるで、一体の、多頭の、獣のように、完璧に、連携して、動いた。一人が、盾で、攻撃を、受け止め、その、隙に、別の、二人が、死角から、音もなく、毒を、塗った、短剣を、突き立てる。
騎士たちの、悲鳴さえ、上がる、暇は、なかった。
次々と、崩れ落ちていく、屈強な、騎士たち。
その、地獄絵図の、中で、暗殺者たちの、リーダー格と、思われる、一際、小柄な、影が、ゆっくりと、ソフィアの、寝室の、扉へと、向かう。
その、扉が、開かれようとした、その時だった。
「―――そこまでだ、ドブネズミども」
背後から、地獄の、底から、響いてくるような、低い、声がした。
暗殺者たちが、一斉に、振り返る。
そこに、立っていたのは、一本の、抜き身の、剣を、携えた、カエルスだった。
彼の、全身から、放たれる、怒りと、殺気は、まるで、物理的な、圧力となって、廊下の、空気を、震わせている。
「……貴様が、ロゼンベルグの、『狂犬』か」
リーダーの、影が、初めて、かすれた、声で、呟いた。
「生憎だが、今夜は、お嬢様の、番犬でな。主人の、眠りを、妨げる、害虫は、一匹、残らず、駆除させてもらう」
次の、瞬間、カエルスは、消えた。
いや、常人の、目には、そう、見えた。
彼は、床を、蹴る、音さえ、立てずに、暗殺者たちの、群れの、中心へと、突っ込んでいた。
閃光が、走る。
鋼と、鋼が、ぶつかり合う、甲高い、音が、初めて、廊下に、響き渡った。
一人、また、一人と、黒い、影が、吹き飛ばされていく。
カエルスは、まさに、嵐だった。彼の、剣は、ただの、武器では、ない。彼の、怒りと、忠誠心の、化身だった。
だが、敵は、ただの、ごろつきでは、なかった。
彼らは、死を、恐れない。痛みさえも、任務遂行の、ための、リソースとしか、考えていない。
一人が、腕を、斬り飛ばされても、その、体で、カエルスの、足に、しがみつき、動きを、封じようとする。
その、わずか、一瞬の、隙を、見逃す、彼らでは、なかった。
三方から、同時に、毒の刃が、カエルスの、体を、襲う。
「ぐっ……!」
カエルスは、その、全てを、最小限の、動きで、かわし、あるいは、剣で、弾き返した。
だが、その、頬を、一つの、刃が、浅く、かすめた。
じわり、と、血が、滲む。
カ-エルスの、動きが、ほんの、わずかに、鈍った。
(……毒か!)
視界が、かすかに、霞む。だが、彼の、闘志は、衰えない。むしろ、より、激しく、燃え上がった。
「うおおおおおおおおっ!」
獅子の、咆哮と、共に、彼は、再び、剣を、振るった。
その、圧倒的な、気迫に、さすがの、暗殺者たちも、一瞬、たじろいだ。
その、隙を、突いて、リーダーの、影が、動いた。
彼は、仲間たちを、見捨て、まるで、壁を、這う、蜘蛛のように、カエルスの、頭上を、飛び越え、ソフィアの、部屋の、扉を、蹴破った。
「―――!?」
扉の、破壊される、音に、ソフィアは、ベッドから、跳ね起きた。
状況が、理解できない。
ただ、部屋に、飛び込んできた、黒い、影と、その、手に、握られた、鈍く、光る、刃だけが、悪夢のように、目に、映った。
「ソフィア様!」
廊下から、カエルスの、悲痛な、叫び声が、聞こえる。
だが、彼は、来ない。残りの、暗殺者たちに、足止めされているのだ。
影が、音もなく、ソフィアに、迫る。
死。
その、絶対的な、現実が、ソフィアの、全身を、支配した。
不思議と、恐怖は、なかった。
ただ、深い、深い、無念だけが、胸を、満たした。
(まだ、道半ば、なのに……。民の、笑顔を、守ると、誓ったのに……)
彼女の、脳裏に、これまでの、日々が、走馬灯のように、駆け巡る。
カエルスの、不器用な、優しさ。
アレクシスの、憎まれ口の、裏にある、信頼。
そして、なぜか、最後に、浮かんだのは。
あの、やる気のない、しかし、どこか、寂しそうな、目を、した、不思議な、王の、顔だった。
(……あなたに、もう一度、会いたかった)
それが、彼女の、最後の、思いだった。
暗殺者の、刃が、彼女の、白い、喉元に、触れる。
ソフィアは、静かに、目を、閉じた。
一筋の、涙が、その、頬を、伝って、流れ落ちた。
世界が、闇に、包まれようとした、その、刹那。
部屋の、窓ガラスが、音もなく、内側から、粉々に、砕け散った。
そして、冷たい、夜の、風と、共に。
漆黒の、夜空を、切り裂いて、一つの、影が、舞い降りた。
それは、まるで、天から、落ちてきた、雷(いかずち)のようだった。
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