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第四部:偽りの英雄と本物の絆
第四十八話:プロパガンダ戦争の火蓋
しおりを挟む完璧な平穏など、この世には存在しない。
それは、凪いだ湖面に投げ込まれた、たった一つの小石が、水面全体に波紋を広げていく様に似ている。アルバ公爵が放った「英雄レオ」という小石は、今や「ソフィアは魔女王」「ユウキは魔王」という、悪意に満ちた波紋となって、大陸全土の民の心を静かに、しかし確実に蝕み始めていた。
季節は、初夏から盛夏へと移り変わろうとしていた。ロゼンベルグ王都の石畳は、日中の熱を夜になっても放出し続け、じっとりとした空気が街全体を覆っている。かつて、この街の夜には、仕事終わりの男たちの陽気な歌声や、子供たちのはしゃぐ声が満ちていた。だが、今の夜は、どこか粘着質で、不快な静けさに支配されていた。
その静寂を破るのは、路地裏で子供たちが歌う、不気味な替え歌だった。
「ひがしの魔女王、民の血を吸う~♪
にしの魔王様、山を食う~♪
英雄様が来なけりゃ、みーんな食べられちゃう~♪」
無邪気な声で歌われる、底意地の悪い歌詞。その歌声は、夜の闇に潜む蜘蛛の糸のように、人々の心の不安を絡め取っていく。壁には、角と尻尾が生え、禍々しい笑みを浮かべるソフィアと、巨大な口を開けて山脈を丸呑みするユウキの姿が、稚拙だが悪意のあるタッチで描かれていた。
誰が始めたのか、誰が広めているのか。もはや、そんなことは問題ではなかった。悪意は、特定の個人からではなく、「空気」そのものから発せられているかのようだった。昨日までの賞賛は、今日の囁き声に。そして明日の、あからさまな敵意へと、いとも簡単に姿を変える。人の心とは、かくも移ろいやすく、脆いものだった。
***
ソフィアは、簡素な亜麻のワンピースにフードを深く被り、お忍びで王都の市場を歩いていた。隣には、同じように平民の服に身を包んだカエルスが、苦虫を噛み潰したような顔で付き従っている。
市場の活気は、表面的には変わらないように見えた。焼きたてのパンの香ばしい匂い。色とりどりの野菜や果物。響き渡る売り子たちの威勢のいい声。しかし、その奥に流れる空気は、明らかに以前とは違っていた。
「よぉ、聞いたかい? ユグドラシルの王様ってのは、とんでもねえ魔王様らしいぜ。機嫌を損ねたら、この街ごと、あの山みてえに消されちまうかもな」
「勘弁してくれよ。こっちは王女様の新しい税金で、やっと暮らしが楽になったってのによ」
「その税金も、結局は貴族の旦那方と山分けして、私腹を肥やすためだったって噂じゃねえか。俺たち平民は、どっちに転んでも搾り取られる運命なのさ」
酒樽に腰掛けた男たちの、潜められた、しかし棘のある声が、ソフィアの耳に突き刺さる。
彼女は足を止め、一軒のパン屋の前で立ち尽くした。数ヶ月前、穀物倉庫の放火事件で心が折れかけた彼女に、「王女様、俺たちはあんたを信じてる。あんたのスープは、この街で一番うめえからな!」と、無骨な笑顔で焼きたてのパンを差し出してくれた、あのパン屋の主人。
主人は、ソフィアの存在に気づくと、一瞬、ぎょっとしたように目を見開き、そして、気まずそうにぷいと顔を逸らし、客の対応に戻ってしまった。その背中が、「関わらないでくれ」と雄弁に語っていた。
ソフィアは、唇をぎゅっと噛み締めた。
痛い。胸の奥が、冷たい針で抉られるように、じくじくと痛んだ。
ふと、視線の先に、小さな女の子が立っているのが見えた。以前、ごろつきに襲われた配給所で、彼女が庇った子供だった。少女は、ソフィアの顔をじっと見つめていた。その瞳に、かつてのような純粋な憧憬の色はない。ただ、得体の知れないものを見るような、怯えと好奇が混じった色だけが浮かんでいた。
母親が、慌てて少女の腕を引き、足早に人混みの中へ消えていく。去り際に、母親が投げかけた一瞥は、明らかな侮蔑と嫌悪に満ちていた。
もう、歩けなかった。
ソフィアの足は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かなくなった。
血の滲むような努力をして、この国を立て直した。民の笑顔を守りたい、ただその一心で、走り続けてきた。信じようとした。信じられていると、思っていた。民との絆こそが、この国の、そして自分の力の源泉なのだと。
その全てが、今、目の前で砂のように崩れ落ちていく。
自分が救おうとした民から、憎悪と恐怖の視線を向けられる。これほどまでに、魂を削られる苦しみがあるだろうか。
「……王女様」
カエルスが、絞り出すような声で言った。彼の拳は、怒りのあまり、血が滲むほど固く握り締められている。
「誰です! いったい誰が、こんな下劣なデマを流しているのです! 今すぐそいつの喉笛を掻き切って、真実を……!」
「やめなさい、カエルス」
ソフィアの声は、驚くほど静かだった。彼女はゆっくりと顔を上げ、カエルスを見つめた。その顔に浮かんでいたのは、怒りでも絶望でもなく、ただ、あまりにも深い、為政者としての悲しみの色だった。
「相手は、『誰か』ではないわ。もう、この街を覆う『空気』そのものになってしまっているのよ」
悪意に、実体はない。それは人々の心から心へと伝染し、増殖する、見えないウイルスのようなものだ。剣で斬ることも、法で裁くこともできない。だからこそ、厄介で、恐ろしい。
「帰りましょう、カエルス。……少し、疲れましたわ」
そのか細い背中は、あまりにも孤独で、あまりにも痛々しかった。カエルスは、彼女にかけるべき言葉を見つけられないまま、ただ黙って、その一歩後ろを歩くことしかできなかった。
***
その頃、西の果てのユグドラシルでも、同じ毒を含んだ空気が、国境を越えて流れ込んでいた。特に、人間の商人や移住者たちが住む区画では、囁き声が徐々に大きなうねりとなり、多種族が共存する国の脆さを露呈し始めていた。
だが、城の中心部にいる連中の反応は、ロゼンベルグのそれとは、全く、まったく異なっていた。
竜族の厨房。
料理長イグニスは、巨大な中華鍋をカコンカコンと小気味よく振りながら、その隣で仕込みをしていた若い竜族の料理人に、地を這うような低い声で尋ねた。
「おい、聞いたか。街の連中が、兄貴のことを『魔王』なんぞと呼んでいるらしいな」
「は、はい、料理長。とんでもない言いがかりで……」
「ふざけるなッ!!」
次の瞬間、イグニスは握っていたお玉を、凄まじい力で調理台に叩きつけた。ジュッという音と共に、ミスリル銀で作られたはずのお玉が、アメーバのように歪む。
「魔王だと!? あんなに! あんなに毎日毎日! ラーメンの出汁の、昆布と鰹節の比率にうるさい魔王が! この世にいてたまるかぁあああっ!! 昨日に至っては、『このチャーシューは、少しだけ、ほんの少しだけ、豚の魂が感じられない』などと、意味不明な批評までしやがって! あの繊細すぎる味覚を持つ男のどこが魔王だと言うんだ! 侮辱するのも、大概にしろっ!!」
彼の怒りの沸点は、完全に、食にあった。
ドワーフの鍛冶場。
リーダーのボルガは、真っ赤に焼かれた鉄の塊を、巨大なハンマーで叩いていた。その隣で、息子のギンが、心配そうに声をかける。
「親父、聞いたか? 街の人間たちが、兄貴のことを……」
「ああ、聞いたぜ」
ボルガは、手を止めずに答えた。彼の額には、汗と怒りで血管が浮き出ている。
「兄貴の偉大さが分からねえ、蒙昧な輩がいるらしいな」
ガァンッ! と、ひときわ大きな音が響き渡る。鍛冶場全体が震え、火花が滝のように散った。
「いいか、ギン。兄貴の仕事のどこが魔王だ。あの地盤沈下した俺たちの国を、たった一人で、ミリ単位の誤差もなく持ち上げた、あの神業が。あの完璧な水平出しが! あれはな、破壊じゃねえ。創造だ。いや、もはや芸術の域だ! それが分からねえ奴は、この俺が! その歪んだ頭蓋骨を! このハンマーでかち割って! 物理的に! 矯正してやる!」
彼の怒りの根源は、完全に、仕事のクオリティにあった。
騎士団の訓練場。
騎士団長ガンツは、新兵たちの前で、涙ながらに熱弁を振るっていた。その瞳は潤み、声は感動に打ち震えている。
「諸君、聞きたまえ! 我らが王、ユウキ陛下が、ついに『魔王』という、身に余る汚名まで着せられているという! なんということだ! ご自身の偉大さを決してひけらかさず、常に謙虚な姿勢を崩されなかった陛下の、その深遠なるお考えが、ついに民の誤解を招いてしまったのだ! すべては、陛下の偉大さを、我々が民に伝えきれなかったせいだ! 我々の不徳の致すところなのだぁああ!」
彼の怒りの矛先は、なぜか、自分たちの布教活動不足に向かっていた。
三者三様の、しかしどこか致命的にズレている怒りが渦巻く中、全ての元凶であり、当事者である男は、と言えば。
城の最上階、テラス。
ユウキは、仲間たちのそんな忠誠心(?)のほとばしりなど全く知る由もなく、お気に入りのリクライニングチェアで、完璧な角度の木漏れ日を浴びながら、うつらうつらしていた。
そこへ、宰相アーサーが、幽霊のような足取りでやってきた。その顔は青白く、隈はあごまで達しそうだ。
「へ、陛下……。街の者たちが……陛下のことを、魔王と……」
「んー……? ああ、なんか、聞こえてた」
ユウキは、目を開けるのも億劫そうに、気のない返事をした。
その、あまりにも他人事な態度に、アーサーはついに堪忍袋の緒が切れた。
「他人事ではありません! これは、このユグドラシル建国以来の、最大の危機なのですよ!?」
「いや、でもさ」
ユウキは、ゆっくりと、本当にゆっくりと身を起こすと、アーサーに向かって、心底不思議そうな顔で言った。
「『魔王』ってことはさ、もう、国の運営とか、面倒な会議とか、そういうの、全部やらなくていいってことだよな?」
「……は?」
アーサーの口から、間の抜けた声が漏れた。
「だって、魔王だぜ? 納税の義務とか、ないだろ? 地域の会合とか、出なくていいだろ? 玉座もいらないし、城もいらない。どこか、人里離れた、日当たりのいい洞窟の奥深くで、静かに暮らす権利が、俺にはあるんじゃないか? 魔王の隠れ家。魔王の休日。おお……なんて甘美な響きなんだ……」
ユウキの目は、完全に、明後日の方向を見ていた。
彼にとって「魔王」という肩書きは、恐怖でも不名誉でもなく、社会的責任という、人生最大の「苦」から解放されるための、夢のパスポートにしか見えていなかった。
その、あまりにも清々しいほどの、斜め上の思考。
その、どこまでもブレない、スローライフへの渇望。
アーサーは、その場で膝から崩れ落ちた。
イグニスも、ボルガも、ガンツも、もしこの場にいれば、同じように崩れ落ちていただろう。
大陸を覆い始めた巨大な悪意の渦。
その中心で、一人の転生社畜は、いかにして、より効率的に、より完璧に、サボるかということだけを、真剣に、考えていた。
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