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第四部:偽りの英雄と本物の絆
第五十七話:『社畜』の静かなる怒り
しおりを挟む地獄とは、きっとこういう光景のことを言うのだろう。
ロゼンベルグ王城は、今や巨大な生き地獄の釜と化していた。崩れた城壁からは、赤い瞳を爛々と輝かせた狂戦士たちが、後から後から濁流のように流れ込んでくる。彼らはもはや人間としての理性を失い、痛みも恐怖も感じない、ただ破壊と殺戮を繰り返すだけの自動人形だった。
「ソフィア様をお守りしろ! 一歩たりとも退くな!」
カエルスの咆哮が、血と炎の匂いが立ち込める空気を震わせる。彼の全身の鎧は無数の傷で覆われ、その隙間からは絶えず血が滲み出ていた。しかし、その体躯は巨大な岩のように、光を失った瞳で座り込む主君の前に仁王立ちし、迫りくる敵を薙ぎ払っていた。
その隣では、ガンツが巨体を盾とし、同じく深手を負いながらも雄叫びを上げていた。「我が王の盟友を、貴様ら亡者の好きにはさせん!」
騎士たちが、兵士たちが、次々と倒れていく。一人一人が英雄的な奮戦を見せるが、無限に湧き出る狂戦士の波の前には、あまりにも無力だった。希望は、砂時計の砂が落ちるように、刻一刻と失われていく。誰もが、もはやこれまでかと、死を覚悟した。その、時だった。
「ふわぁ~~あ……」
戦場の阿鼻叫喚の只中に、あまりにも場違いで、気の抜けた、誰かがあくびを噛み殺す音が、不思議なほどクリアに響き渡った。
刹那、全ての音が止まったかのような錯覚。カエルスも、ガンツも、そして狂戦士たちまでもが、一瞬だけ動きを止めて音の源を探す。
次の瞬間、狂戦士の一団が密集する、ちょうどそのど真ん中に、空から何かが「ドスンッ」という鈍い音を立てて落ちてきた。衝撃で土煙が舞い上がり、狂戦士たちが数人吹き飛ばされる。
煙がゆっくりと晴れていく。その中心に立っていたのは、見慣れた黒い外套をまとった、一人の男だった。
「……ユウキ、殿?」
カエルスが、信じられないものを見る目で呟いた。
そこにいたのは、間違いなくユウキだった。しかし、その姿はおよそ英雄の登場とはかけ離れていた。空を飛んで駆けつけた影響か、彼の黒髪には見事な寝癖がついており、彼は周囲の地獄絵図など全く気にする風もなく、ポリポリと頭を掻いていた。まるで、休日の朝に近所のコンビニへでも散歩に来たかのような、圧倒的なまでの緊張感の欠如。
ユウキは、光を失ったまま座り込むソフィアを一瞥し、その痛ましい姿にわずかに眉をひそめた。そして、まるで最初からそこにいるのが分かっていたかのように、空間の歪みの向こう、この惨状を特等席で観戦しているアルバ公爵へと、その気だるげな視線を向けた。
アルバは、この予期せぬ闖入者に、面白そうに唇の端を吊り上げた。完璧に計算された舞台に、アドリブで登場した役者を見るような、愉悦に満ちた目で。
「おお、これはこれは。もう一人の主役の、満を持しての登場か。歓迎しよう、混沌の王。君も、この世界の残酷で美しい真実を知りたいとは思わないかね?」
アルバの声が、ユウキの脳内に直接響く。それは、この世界の理を超越した存在だけが持つ、絶対的な強者の余裕に満ちていた。彼は、ユウキという存在もまた、自分の手のひらの上で踊る駒の一つだと確信していた。
しかし、ユウキの反応は、彼の予想を完全に裏切るものだった。
ユウキは、世界の真実などという壮大なテーマには、全く、一ミリたりとも興味を示さなかった。彼の瞳は、アルバ公爵ただ一人を、真っ直ぐに見据えていた。そして、静かに、しかし、心の底からの、マグマのような怒りを込めて、はっきりと、アルバにだけ聞こえるように言った。
「なあ、あんたさ」
いつもの気だるげな声。だが、その奥底には、決して揺らぐことのない、鋼鉄のような意志が宿っていた。
「あんたのその、くだらない退屈しのぎのせいでな。俺の貴重な休日(スローライフ)が、いったい、どれだけ潰されたと思ってるんだ」
彼の瞳に、いつもの眠そうな光はなかった。そこにあるのは、どこまでも冷徹で、静かで、それ故に底知れない怒りの炎だった。
それは、正義感から来る怒りではない。民を想う高潔な怒りでもない。世界の真実に憤る、哲学的な怒りでも断じてない。
それは、もっと個人的で、矮小で、しかし何よりも純粋な怒りだった。
鳴り止まない電話。終わらない会議。休日出勤の呼び出し。「君しかいないんだよ」という上司の甘言。積み重なっていく疲労と、すり減っていく精神。人間としての尊厳を奪われ、ただの歯車として使い潰された、前世の三十年間。
その地獄からようやく解放され、この世界で手に入れた、ささやかで、何物にも代えがたい「何もしない自由」。
完璧な角度でリクライニングする椅子。柔らかな日差し。心地よい風の音。イグニスが淹れてくれる、絶妙な味の紅茶。
それら全てが、彼の魂の平穏そのものだった。
それを、目の前の男は、ただ己の「退屈しのぎ」のためだけに、何度も、何度も、無慈悲に踏みにじった。
「俺の平穏を、返せ」
ユウキの体から、魔力とは似て非なる、蒼白いオーラが静かに立ち上る。それは、怒りの大きさに比例して燃え上がるような派手なものではない。むしろ逆だ。彼の怒りが深まれば深まるほど、そのオーラは絶対零度のように、周囲の熱を、音を、光さえも吸い込んでいくかのように、静謐さを増していく。
アルバ公爵の顔から、初めて余裕の笑みが消えた。
彼はユウキの規格外の力を「物語を盛り上げるための、派手なキャラクター設定」としか見ていなかった。面白い駒だ、と。だが、今、目の前の男から発せられるプレッシャーは、彼の理解と想定を、完全に超えていた。
アルバが作り上げたゲームのルールは、「世界の真実」という高尚な舞台の上で繰り広げられる、英雄と魔王の壮大な物語。その理屈の前では、どんな正義も、どんな怒りも、矮小なものに見えるはずだった。
だが、ユウキの怒りは、その舞台に上がることすら拒否していた。彼の怒りは、もっと低い場所、もっと泥臭い場所――サービス残業のデスクの上や、終電を逃した駅のホームといった、アルバの壮大な物語には決して登場しない、名もなき社畜の魂の叫びから生まれていた。世界の真実などという高尚な理屈が、一切通用しない場所からの怒りだった。
「……面白い」
アルバは、引き攣った笑みを浮かべて呟いた。
「実に、面白い駒だ。私の知らないルールで、動いているらしい」
ユウキは、もはやアルバに興味はないとでも言うように、彼に背を向けた。そして、絶望して座り込むソフィアの前に、無造作に、一歩、また一歩と歩み寄る。
その背中は、決して英雄のように大きくもなければ、王のように威厳に満ちているわけでもない。ただ、どこにでもいる、疲れ切った男の背中だ。
だが、アルバ公社の目には、その背中が、自らが完璧に作り上げたと信じていたゲーム盤の上に現れた、初めて見る「予測不能な駒」であり、この物語のルールそのものを根底から覆しかねない、致命的な「バグ」のように見えた。
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