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第四部:偽りの英雄と本物の絆
第五十六話:絶望の淵の『悪役令嬢』
しおりを挟むその言葉がソフィアの鼓膜を揺らした瞬間、世界から音が消えた。
いや、音は存在していた。城壁を打つ破壊槌の鈍い轟き。剣と剣がぶつかり合う、命を削る甲高い金属音。負傷した兵士の断末魔。狂気に染まった帝国兵たちの、獣じみた鬨(とき)の声。それら全てが、分厚いガラスの向こう側で再生される、現実感のない映像の効果音のように、ただ鼓膜の表面を滑っていくだけだった。
彼女の視界が、ぐにゃりと歪む。
夕暮れの空が、燃えるような茜色と、夜の訪れを告げる深い藍色のグラデーションを描いていた。それは、これまで幾度となく見てきた、一日の終わりを告げる荘厳で美しい光景のはずだった。だが今、ソフィアの目には、それが巨大な劇場の天井に吊るされた、精巧な『書き割り』にしか見えなかった。地平線の彼方まで続く戦場の惨禍も、崩れゆく城壁も、全てがこの舞台を彩るための、よくできた大道具のように感じられた。
必死に戦うロゼンベルグの騎士たちが、まるで糸で操られた人形劇の駒のように見え始める。一人、また一人と崩れ落ちていく兵士たちの姿は、物語を盛り上げるための悲劇的な演出に過ぎない。民の悲鳴は、観客の感情を揺さぶるために計算された音響効果。風が運ぶ血の匂いさえも、この舞台にリアリティを与えるための、手の込んだ仕掛けのように思えた。
(ああ、そうか)
ソフィアの心の中で、乾いた砂がこぼれるような、静かな音がした。
(だから、私の人生はいつもこうだったのか)
脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。日本の片隅で生きた、平凡で、しかし確かに自分の意志で歩んでいたはずの一生。それが唐突に断ち切られ、乙女ゲームの『悪役令嬢』として、この世界に生を受けた理不尽。断罪イベントで王子から突きつけられた、身に覚えのない罪状の数々。その全てが、物語の導入として、いかにも都合よく設定された『プロローグ』だったのだ。
この世界に来てから、必死だった。生きるために。民を守るために。前世の知識を総動員し、泥にまみれ、貴族たちと渡り合い、不可能と言われた国の再建を成し遂げた。その血の滲むような努力の日々。民が浮かべてくれた感謝の笑顔。それらが、どれほど彼女の心を支えてきたことか。
だが、それすらも。
『悪役令嬢、心を入れ替え国を救う』。
なんと陳腐で、なんと感動的な筋書きだろう。観客はさぞや喝采を送ったに違いない。彼女が流した涙も、徹夜で考え抜いた政策も、民のために頭を下げた屈辱も、全てはその筋書きを盛り上げるための、スパイスでしかなかった。
込み上げてくるのは、怒りではなかった。悲しみでもない。ただ、空っぽで、色のない、底なしの虚無感だった。自分という存在が、最初からどこにもいなかったという、絶対的な喪失感。
「素晴らしい」
目の前で、アルバ公爵がうっとりと囁く。彼は膝から崩れ落ちそうになるソフィアの前に優雅にしゃがみこむと、まるで壊れやすいガラス細工を愛でるかのように、彼女の顔を覗き込んだ。その瞳は、最高の芸術作品を鑑賞する批評家のように、愉悦に満ちていた。
「実に素晴らしい表情だ、ソフィア嬢。君のその絶望こそ、この物語の最高のクライマックスを彩るにふさわしい」
彼は、ソフィアがこれまで築き上げてきたものを、一つ、また一つ、残酷な言葉で解体していく。その声は悪魔の囁きのように甘く、しかし確実に彼女の心を蝕んでいった。
「君が腐敗した貴族を追放し、飢えた民を救った街かね? あれは観ていて実に痛快なイベントだった。悪役令G嬢が正義の味方へと変貌する、見事な第一幕だ」
違う。あれはイベントなどではない。凍える冬の夜、冷たいパンを分け合った老婆の手の温もりを、ソフィアは今でも覚えている。
「民との絆? 感動的なサブストーリーだったな。君が市場でお忍びで買い物をし、子供の頭を撫でるシーンなど、観客の涙を誘うには十分すぎる演出だった」
違う。あれは演出ではない。自分の名前をたどたどしく呼んでくれた子供の笑顔は、彼女にとって何物にも代えがたい宝物だった。
「ユウキ君との出会いも、実に秀逸だった。物語が停滞しかけたところに、規格外の力を持つ謎の男を投入する。あれは物語を加速させるための、最高のスパイスだったろう? おかげで、退屈な政治劇から、一気に壮大なファンタジーへと昇華したのだから」
違う。あの男との出会いは、スパイスなどという言葉で語れるものではない。気だるげで、やる気がなくて、どうしようもない男。けれど、彼が淹れてくれる紅茶を飲むテラスでのひとときは、偽りのない、穏やかでかけがえのない時間だった。
アルバの言葉の一つ一つが、ソフィアの誇りを、記憶を、彼女が「ソフィア・フォン・ロゼンベルグ」として生きてきた証そのものを、音を立てて砕いていく。
彼女の強さの源泉だった「民を想う心」。それこそが、この世界で自分らしく生きるための、唯一の拠り所だった。だが、それすらも。
「君のその気高い精神も、民を愛する心も、全ては『悪役令嬢ソフィア』というキャラクターに与えられた、出来の良い『設定』に過ぎないのだよ」
ああ、とソフィアは思った。
なるほど、全ては『設定』だったのか。
このどうしようもないほどの責任感も。生まれながらに国を背負っているという、過剰なまでの自意識も。全ては、この物語を面白くするための、都合の良いキャラクター設定。
ならば、もう頑張る必要はないではないか。
民を想う必要もない。国を守る必要もない。だって、それは『私』の意志ではなく、ただ与えられた『役柄』なのだから。
糸が、切れた。
為政者としての誇りも、一人の人間としての尊厳も、全てが意味を失い、虚空へと霧散していく。もう、立ち上がる気力すら、どこにも残っていなかった。
「ソフィア様!」
その時、血路を開いたカエルスの絶叫が響いた。彼は満身創痍になりながらも、主君の元へと駆けつける。「お下がりください! ここは我々が!」
しかし、彼がそこで見たのは、信じがたい光景だった。
魂が抜け殻になったように、ただ呆然と地面を見つめる主君の姿。その美しい紫水晶の瞳からは、かつて国を導き、仲間たちを鼓舞した、あの烈火のような強い意志の光が、完全に消え失せていた。まるで、精巧に作られた、美しいだけの、空っぽの人形のように。
アルバ公爵は、その光景に満足げに頷くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、舞台役者がカーテンコールに応えるかのように、芝居がかった仕草で一礼する。
「では、私は高みの見物をさせてもらおう。君たちという出来の良い駒たちが、この盤上でいかに美しく、そして無様に全滅するかをね」
その姿が、嘲笑と共に闇に溶けるように消える。
入れ替わるようにして、狂戦士たちの鬨の声が、すぐそこまで迫っていた。その絶望的な咆哮が、光を失ったソフィアの小さな体に、無慈悲に、ただ無慈悲に降り注いでいた。
希望は、完全に潰えた。
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