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第17話:対抗魔術と『無(ゼロ)』の衝撃
しおりを挟む新学期が始まって数日後、王都に、春というにはあまりにも乱暴な嵐がやってきた。
空は重たい鉛色に閉ざされ、まるで世界が洗い流されるのではないかというほどの激しい雨が、学園の窓ガラスをひっきりなしに叩いている。風は、冬のそれとは違う生温かい湿気を帯びていたが、その勢いはまさしく暴威だった。中庭の若木は今にも折れそうにしなり、石畳の上を走る雨水は、泥を巻き上げて濁った小川と化している。
教室の中まで、湿った土の匂いと、何かが軋む低い風の音が響き渡っていた。
「……というわけで、諸君。今日は一人、新しい仲間(・・・)を紹介する」
1年補習クラス。ドラゴの一件以来、どこかぎこちない空気が漂う教室で、アーキバルド先生が、いつも通りの飄々とした声で言った。彼は先ほど外から入ってきたらしく、ローブの裾がぐっしょりと濡れている。
生徒たちが「この嵐の日に?」「こんな時期に?」とざわめく中、教室の扉が静かに開いた。
入ってきた生徒を見て、教室の空気が、嵐の前の静けさとはまた違う、奇妙な静寂に包まれた。
銀色の髪。切りそろえられたその髪は、外の嵐が嘘のように、一滴の水気も帯びていない。 肌は白磁のように滑らかで、制服は寸分の乱れもなく着こなされている。 だが、誰もが息を呑んだのは、その「顔立ち」だった。 美しい。それは確かだ。しかし、その美しさは、リリアの太陽のような輝きとも、セレスティアの完璧な造形美とも違う。まるで精巧な人形のように、性別(・・)という概念が抜け落ちている。そして何より、その目には、一切の感情が映っていなかった。
「……ルーン。監査官の補佐として、本日付でこのクラスに編入した」
淡々とした、抑揚のない声。 その自己紹介で、教室の空気が「好奇」から「緊張」へと一変した。 (監査官……!?) ユウキは息を呑んだ。ドラゴの事件の後始末で、王都から監査官が派遣されているとは聞いていたが、まさかその「補佐」が、生徒としてこのクラスに送り込まれてくるとは。
(この人が……) ユウキは、自らの内に流れる「力」に意識を集中させ、目の前の「ルーン」と名乗る転入生を探った。 ユウキには、他人の「力(マナ)」の量や流れが、なんとなく「感覚」でわかる。リリアは「いつ爆発するかわからない炎」のようだし、セレスティアは「精密な歯車」のようだ。 だが、このルーンという生徒は――
(……は? 嘘だろ?) ユウキは思わず目を疑った。 「力」が、ない。 ゼロ(・・)ではない。だが、それは「魔法使い」として学園に入学できるレベルを、明らかに下回っていた。まるで、才能のない一般人が、無理やり魔法使いの制服を着ているかのような、危ういほどの「微弱さ」だった。
「ふむ。まあ、堅苦しい挨拶は抜きだ。ルーン君は、王都の特別なカリキュラム(・・・)で育った。少々、諸君とは『常識』が違うかもしれんが、仲良くしてやってくれたまえ」 アーキバルドが、面白そうに目を細める。「では、今日はこの嵐だ。外での実習は中止し、第二実習場で『流れ』の制御についておさらいしよう」
第二実習場は、屋根がガラス張りの全天候型施設だ。 天井を激しく打ち付ける雨音が、まるで巨大な太鼓のようで、実習場全体が不気味なほど薄暗く、そして騒がしかった。湿った土の匂いが充満している。
「よう、転入生! よろしくな!」 この重苦しい空気を読まない(読めない)男、カイト・ウィンドが、ニヤニヤしながらルーンに近づいた。 「ま、監査官の補佐だかなんだか知らねえけど、お手並み拝見といこうか! 歓迎の『風』だ!」 カイトが、ふざけた調子で手を振る。 それは攻撃ではない。彼なりの「挨拶」として、コントロールされた「突風」だった。
ルーンは、その風(ながれ)を、感情のない灰色の目で見つめた。 そして、一言だけ呟いた。 「……うるさい」
ルーンは、詠唱も、構えも、何もしなかった。 ただ、目の前に迫ったカイトの「突風」に対し、まるで埃でも払うかのように、すっ、と白く細い手をかざした。
次の瞬間、ユウキたちは信じられない光景を見た。 風が、「壁」にぶつかったのではない。 風が、「逆流」したのでもない。 カイトが起こした「突風(ながれ)」そのものが、ルーンの手のひらの前で、まるで水に溶けたインクのように、跡形もなく「霧散(きえさ)った」のだ。
「は…………?」 カイトは、風を送った体勢のまま、間抜けな顔で固まった。 「な、なんだと……?」
「ほう。カイトの『風(それ)』は、『流れ』そのものを『消した(けし)た』か。ならば、俺の『筋肉(これ)』はどうだ!」 ゴードンが、面白半分に割り込む。彼は魔力を右腕に集中させ、渾身の突きを繰り出した。ただし、直接殴るのではない。突きによって生み出される、魔力を帯びた「衝撃波」を放ったのだ。 「無駄だ!」
ルーンは、その「見えない衝撃波」の軌道を正確に見据え、また、呟いた。 「……無駄」
ゴードンの「衝撃波(ちから)」もまた、ルーンに届く直前で、まるで陽炎のように揺らめき、その「勢い」だけが綺麗に抜き取られたかのように、消滅した。ゴードンは、力の反動を受け止めきれず、前のめりに数歩よろけた。
「…………」 実習場が、天井を叩く雨音だけを残して、静まり返った。 リリアも、シノも、何が起こったのか理解できず、目を丸くしている。
「素晴らしいね!」 沈黙を破ったのは、アーキバルド先生の楽しそうな声だった。彼は、まるで珍しい演劇でも見るかのように、手を叩いている。 「やあ諸君。今のはとても良い教材だ」 先生は、ルーンの隣に立ち、生徒たちに向き直った。 「シノ君の『結界』を思い出してみたまえ」 シノが、ビクッと肩を震わせる。 「彼女の『壁』は、『防ぐ』ものだ。やってきた『音(攻撃)』を、その『壁(結界)』で受け止め、遮断する。非常に優れた防御だ」 「だが」と先生は続けた。「今、ルーン君がやったことは、それとは根本的に『仕組み』が違う」
「あれは『対抗魔術』と呼ばれる技術だ」
「たいこーまじゅつ?」 リリアが首を傾げる。 「うむ。結界(壁)が『音(結果)』を『防ぐ』のに対し、対抗魔術は、相手が奏でようとしている『曲(術式)』そのものに『干渉』する」 アーキバルドは、指揮棒で空中に簡単な楽譜を描くような仕草をした。 「相手が『ド』の音を奏でようとした瞬間、こちらも『ド』の『逆の音(・・・)』をぶつけて、『曲(魔法)』そのものが生まれる前に『打ち消す』。相手の『流れ(術式)』を読み解き、それを『無(ゼロ)』に戻す技術だ」
(『無(ゼロ)』に……戻す?) ユウキは、ルーンの先ほどの動きを反芻した。 (シノの結界(壁)は、確かに『攻撃(現象)』が『完成』した後に、それを『受け止めて』いた。でも、今のルーンは……) ユウキは、自分が「無詠唱」で世界の「仕組み」に触れる時の感覚を思い起こした。 (俺は、『仕組み(理)』に『命令』して、『新しい現象(結果)』を生み出してる。火よ、燃えろ、と。でも、あの人は……) (相手が『燃やそう』とした『仕組み(理)』そのものを、読み解いて、『燃える前の状態』に強制的に『巻き戻して』いるのか……?) 「攻撃」ではない。「防御」でもない。 ただ、相手が為そうとしたことを、その構造(・・)ごと「分解」し、「なかったこと(・・・)」にする。 (なんて技術だ……。力(マナ)がほとんどない(・・・)のに、カイトやゴードンの『力(マナ)』を完全に『無力化』した。あの人の『武器』は、『力』じゃない。『理解(りかい)』と『干渉(かんしょう)』そのものだ)
その時、実習場の入り口から、冷たく、張り詰めた声が響いた。 「――非論理的ですわ」
セレスティア・クラウンだった。 彼女は、首席としての威厳に満ちた(あるいは、そう見せようと必死な)様子で、ルーンを真っ直ぐに見据えていた。冬休み前、ドラゴの事件やユウキの活躍を目の当たりにし、彼女の「理論(かんぺき)」は揺らいでいた。だからこそ、彼女は今、自らの「理論(せいぎ)」を取り戻すために、この「非論理的(イレギュラー)」な存在を、叩き潰さねばならなかった。
「アーキバルド先生。あなたのその『詩的(ポエム)』な説明は、魔導学ではありません」 セレスティアは、一歩前に出た。 「『無(ゼロ)に戻す』? 『逆の音をぶつける』? 馬鹿げています。魔法とは『力(マナ)』と『術式(理論)』の掛け算です。より『優れた理論(術式)』と『強い力(マナ)』が、劣るそれを『上書き』する。ただそれだけですわ」 彼女の周りで、空気が急速に冷えていく。実習場の湿った空気が、彼女の魔力に反応し、目に見えるほどの白い霧(オーラ)となって渦巻き始めた。
「あなた。ルーン、とか言いましたね」 セレスティアは、ルーンを指差した。 「あなたの『力(マナ)』は、見たところ私(わたくし)の百分の一にも満たない。そんなあなたが、カイトさんたちの『未熟な術式(ざつなおと)』を打ち消せたのは、単なる『相性』か『小手先の技術』でしょう」 「ですが」 セレスティアの右手に、氷の粒子が収束していく。 「私(わたくし)の、完璧に構築(・・・・・)された『理論(うた)』の前で、あなたの『無(まやかし)』が通用するかどうか。暴いてさしあげますわ」
セレスティアが手を振りかざす。 彼女の詠唱は、他の生徒とは比較にならないほど速く、正確で、美しい。それはもはや「詠唱」ではなく、研ぎ澄まされた「音」そのものだった。 「――凍てよ」 放たれたのは、一本の「氷の槍」。 だが、それはリリアのような「力の塊」ではない。空気抵抗、マナ効率、貫通力、その全てが完璧な「理論(すうしき)」によって裏付けられた、必殺の「一撃」だった。
実習場の空気を切り裂き、白い軌跡を描いて、ルーンに迫る。
ユウキは叫ぼうとした。「危ない!」と。 だが、ルーンは、その「完璧な槍」を、まるでつまらないものでも見るかのように、ただ見つめていた。
そして、槍がルーンの額を貫く、まさにその寸前。
「……五月蝿い」
ルーンが、そう呟いた。 声に反応したのではない。その「完璧な槍」が、ルーンの目の前で、ピタリ、と「停止」した。 シノの結界(壁)のように、激しい音を立てて砕け散ったのではない。 ただ、停止した。
そして、 「分解」が、始まった。
セレスティアが完璧な理論(・・・・・)で組み上げた「氷の槍(術式)」が、まるで複雑に絡み合った糸を、熟練の職人が一本一本、解(ほど)いていくかのように、その「構造」を失っていく。 槍の「先端(貫通力)」が、ただの「氷の粒」になり、 槍の「胴体(推進力)」が、ただの「冷たい霧」になり、 槍の「核(魔力)」が、ただの「湿った空気」に戻っていく。
数秒後。 ルーンの前には、何も(・・)なかった。 セレスティアの「完璧な理論(いちげき)」は、誰にも触れられず、音も立てず、ただ「分解」され、「消滅」したのだ。
「あ…………」 セレスティアが、信じられないものを見る目で、自分の手を見つめた。 「ありえ、ない……」 「私、の……完璧な、術式が……」
彼女の拠り所は、自らの「完璧さ」だった。 彼女の「私(わたし)」という存在(・・)は、「誰よりも優れた理論(わたし)」という「執着(こだわり)」によって、支えられていた。
だが、今。 目の前の「無(ルーン)」は、その「完璧(わたし)」を、 「戦って、勝った」のではない。 「防いで、耐えた」のでもない。 「取るに足らない、五月蝿いノイズ(・・・・・)」として、「分解」し、「なかったこと(・・・・・)」にしたのだ。
それは、セレスティア・クラウンという存在(・・)の、完全な「否定」だった。
「ひっ……」 彼女の喉から、小さな嗚咽が漏れた。 完璧なはずの理論(プライド)が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。 「あ……う……」 首席(トップ)の仮面が剥がれ落ち、そこには、ただ、自分の「全て」を否定されて、立ち尽くす一人の少女がいた。
「う、うわ…………」 大きな瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。 「うわああああああああん!!」
実習場に響き渡る、嵐の音にも負けない、子供のような泣き声。 リリアも、カイトも、ゴードンも、ユウキさえも、あまりの衝撃に、ただ呆然と立ち尽くしていた。 首席が、泣いている。 それも、理論で負けて、わんわんと、人目も憚らずに、泣き崩れている。
アーキバルド先生だけが、困ったように頭を掻きながら、「おや、ついに『我(フタ)』が取れたかね」と呟いていた。
ルーンは、泣き崩れるセレスティアには一瞥もくれず、その感情のない灰色の視線を、教室の生徒たちに向けた。 視線が、ユウキの上で、一瞬、止まった。 (俺……?) ユウキは、ルーンの冷たい視線に射抜かれ、背筋が凍るのを感じた。
そして、ルーンの視線は、ユウキを通り越し、教室の後方――誰も座っていない、あの「空席(ドラゴの席)」へと向けられた。 嵐の音に紛れて、ルーンが、誰にも聞こえないような声で、静かに呟いた。
「この学園(ばしょ)には、二つの『穴(あな)』を検知した」
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