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2年生編:調和とノイズの季節
第3話:雨の日の『指揮者身体論』
しおりを挟む世界が、灰色の膜に覆われていた。
アーリア魔法学園の石造りの校舎は、連日の雨を吸い込んで黒く湿り、まるで巨大な岩礁のように重苦しく鎮座している。
窓ガラスを叩く雨粒が、絶え間なく不規則なリズムを刻む。
校内には、濡れた制服の生乾きの匂いと、古い羊皮紙が湿気を吸った時のカビ臭さ、そして窓際のアジサイから漂う青臭い香りが混じり合い、気だるげな空気が澱(よど)んでいた。
梅雨だ。
魔法使いにとっても、一般人にとっても、等しく憂鬱な季節。
湿気は思考(ノイズ)を鈍らせ、低気圧は魔力回路(神経)を圧迫する。
「……だるい」
放課後の屋内修練場。
ユウキはマットの上に大の字になって天井を見上げていた。
体の芯が鉛のように重い。指先一つ動かすのも億劫だ。
「おいユウキ、死ぬな。筋肉が腐るぞ」
隣でスクワットをしていたゴードンが、汗だくの顔で覗き込んでくる。彼の体からは湯気が立ち上っており、室内の湿度をさらに上げている元凶だった。
「ゴードン、お前はなんでそんなに元気なんだ……。この低気圧で」
「気圧など筋肉の圧力(内圧)で押し返せばいい! 雨の日こそ、湿潤な空気が肌を潤し、筋肉の輝きが増すのだ!」
「ポジティブすぎて引くわ……」
リリアが濡れた髪をタオルで拭きながらやってきた。
今日の授業は、体育館のような広間で行われる『指揮者身体論』。
魔法使いといえど、体が資本だ。魔力を通す「管」である肉体が歪んでいれば、そこを通る魔法も歪む。それを矯正するための、ヨガや太極拳に似たボディワークの授業だ。
「注目! ダラダラすんな、カビが生えるぞ!」
パンッ! と破裂音が響く。
イライザ先生が、風船ガムを割りながら入ってきた。今日の彼女は、体にフィットした黒いスポーツウェア姿で、そのしなやかな肢体は猫科の猛獣を連想させた。
「今日のテーマは『バランス』だ。お前ら、最近魔法の狙いがズレてないか? 威力が安定しないとか、暴発するとか」
図星だった。
ユウキは最近、無詠唱の発動が一瞬遅れることがあった。リリアも、炎の出力調整に苦労しているようだ。
「それはな、お前らの『心』が『体』から留守番してるからだ」
イライザ先生は片足でスッと立ち、もう片方の足を高く上げて静止した。微動だにしない。まるで地面に根が生えた大木のようだ。
「魔法を使う時、お前らは『失敗したらどうしよう(未来)』とか、『さっきミスったな(過去)』とか、余計なことばっかり考えてる。心が『今、ここ』にいない。だから重心がブレる。重心がブレれば、指揮(魔法)もブレる。当たり前の物理法則だ」
先生は足を下ろすと、全員を見渡した。
「今からやるのは『片足立ちの瞑想』だ。ただ片足で立つだけ。だが、魔法を維持しながらだ。魔力を循環させつつ、心を空っぽにして、重心を一点に止める。……やってみな」
***
地獄の時間が始まった。
ただ片足で立つ。それだけのことが、これほど難しいとは。
「う、うおぉぉ……! 筋肉が……重心を主張しすぎる……!」
ゴードンは開始5秒でプルプルと震え出した。彼の筋肉は一つ一つが自己主張が激しすぎて、全体のバランスが取れないのだ。「右大腿四頭筋よ、鎮まれ! 左腓腹筋、前に出るな!」と自分の体と会話している。
「理論上は……この角度で……ベクトルを相殺して……きゃっ!」
セレスティアは頭の中で計算しすぎて、逆に体が追いつかずに転倒した。「計算通りにいかないなんて、物理定数が変わったんですの!?」と床に八つ当たりしている。
そして、最大の問題児はルーンだった。
彼は無表情のまま、ピタリと静止している。完璧だ。
だが、よく見ると関節の向きがおかしい。
「おいルーン! 膝が逆向きに曲がってるぞ!」
ユウキが叫ぶと、ルーンは首をカクりと傾げた。
「……バランスを維持するために、骨格構造を一時的に最適化(変形)した。何か問題が?」
「大ありだよ! それは人間じゃなくて昆虫の動きだ! 戻せ!」
そんなカオスな状況の中、ユウキもまた苦戦していた。
バランスが取れないのではない。
集中できないのだ。
ふと視線を横に向けると、すぐ隣でリリアが片足立ちをしている。
スポーツウェアから覗く白い手足。汗で首筋に張り付いた赤い髪。
真剣な表情で目を閉じ、小さく息を吐く唇。
その姿を見た瞬間、ユウキの心臓がトクンと大きく跳ねた。
(……あ、やべ)
意識した瞬間、体内の魔力が乱れた。
熱い。急に体が熱い。
視線を外そうとすればするほど、雨の湿気の中に混じる彼女のシャンプーの香りが鼻をつく。
ドクン、ドクン、と心拍数が上がる。それがノイズとなって、平衡感覚を狂わせる。
――未来の不安でも、過去の後悔でもない。
「今、ここ」にある、強烈な意識の乱れ。
「わっ……!」
ユウキはバランスを崩し、大きくよろめいた。
運悪く、その倒れた先にはリリアがいた。
「えっ、ちょっと!」
ドサッ!
二人もつれ合って、マットの上に倒れ込む。
ユウキの上に、リリアが乗る形になった。
至近距離。
リリアの驚いた顔が、すぐ目の前にある。彼女の瞳に、自分の間抜けな顔が映っているのが分かるほどの距離。
柔らかい重みと、体温。
時間が止まったようだった。
雨音だけが、ザアザアと遠くで鳴り響いている。
「……あ、あのさ」
「……どいて」
リリアの顔が、髪の色と同じくらい真っ赤に染まっていく。
「早くどきなさいよ! このバカユウキ!」
彼女はバッと飛び起きると、手のひらから炎を出そうとして――パシュン、と黒い煙だけが出た。
動揺しすぎて、魔法が不発に終わったのだ。
「あらあら。青春ねぇ」
イライザ先生がニヤニヤしながら見下ろしていた。
「心が乱れれば、呼吸が乱れる。呼吸が乱れれば、魔法も消える。……いい手本だ。今のユウキとリリアは『心と体がバラバラ』な状態だ。これじゃあ、いざという時に守れるものも守れないぞ?」
ユウキは顔を覆いたくなった。
穴があったら入りたい。いや、むしろ魔法で穴を作って埋まりたい。
「呼吸だ」
先生はパンと手を叩いた。
「雑念が浮かぶのは仕方ない。人間だもの。だが、それに引きずられるな。意識を『呼吸』に向けろ。吸って、吐く。そのリズムだけに集中しろ。呼吸は、心と体を繋ぐ唯一のアンカー(錨)だ」
ユウキは深呼吸をした。
湿った空気を吸い込み、体の中の熱を吐き出す。
吸って、吐く。
リリアの香りも、恥ずかしさも、一度すべて吐き出して、ただの空気の出し入れに集中する。
すると、不思議と心臓の音が静まっていった。
世界が少しだけ、シンプルになった気がした。
***
授業が終わる頃には、雨足はさらに強くなっていた。
バケツをひっくり返したような豪雨が、校庭の景色を白く煙らせている。
生徒たちは皆、寮へと走って帰っていったが、ユウキは昇降口で立ち往生していた。傘がない。
「……止まないな」
ため息をついていると、隣に誰かが立った。
リリアだ。彼女も傘を忘れたらしい。気まずい沈黙が流れる。
さっきの接触事故のせいで、何を話していいか分からない。
雨の音は、壁(カーテン)のようだった。
激しい雨音が、周囲の音をすべて遮断し、この狭い昇降口だけを世界から切り離された密室に変えている。
「……さっきは、ごめん」
ユウキがぽつりと言うと、リリアはそっぽを向いたまま答えた。
「別に。……私も、バランス崩したし」
彼女の横顔を盗み見る。
まだ少し赤い。
また心臓がうるさく鳴り始めた。呼吸、呼吸と念じるが、今度は上手くいかない。
「ねえ、ユウキ」
「ん?」
「雨の音って、心臓の音に似てない?」
リリアが唐突に言った。
彼女は雨の壁を見つめたまま、自分の胸に手を当てている。
「ドクン、ドクンって。……だからかな。雨の日って、自分の音が聞こえにくくなる気がする。……隠してくれるみたいで、ちょっと安心する」
それは、彼女なりの精一杯の強がりであり、告白のようにも聞こえた。
私の心臓がうるさいのは、雨のせいにしてしまいたい、と。
ユウキは、彼女の隣に少しだけ近づいた。
肩が触れるか触れないかの距離。
お互いの体温が、湿った空気を通して伝わってくる。
「……そうだな」
ユウキは答えた。
「雨がうるさいからな。……何も聞こえないよ」
それは嘘だ。
自分の鼓動も、もしかしたら彼女の鼓動も、痛いほど聞こえている。
でも、今はそれを雨音のせいにしておく。
それが、今の二人にとっての「ちょうどいい距離(バランス)」だった。
しばらくして、雨が小降りになった。
分厚い雲の切れ間から、夕日が奇跡のように差し込んでくる。
濡れた地面が鏡のように光を反射し、世界が黄金色に輝き出した。
「あ、見て! 虹!」
リリアが空を指差す。
灰色の空に、鮮やかな七色の橋が架かっていた。
雨と光。相反するものが混ざり合って生まれる、一瞬の現象。
「……綺麗ね」
「ああ」
ユウキは虹を見上げるリリアを見ていた。
雨上がりの澄んだ空気の中で、彼女の笑顔は虹よりも眩しく見えた。
心と体。雨と晴れ。自分と他人。
すべては移ろいやすく、不安定だ。
でも、だからこそ美しいのかもしれない。
濡れたアスファルトの匂いと、光の粒が舞う夕暮れの中、ユウキは今日学んだ「呼吸」を一つして、歩き出した。
「帰ろうぜ。……あ、虹が消える前に」
「うん!」
二人は水たまりを避けながら走り出す。
その足取りは、もうふらついてはいなかった。
不安定な足場でも、隣に誰かがいれば、バランスは取れるのだと知ったから。
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