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第1話:一目惚れの代償は、死か観察か
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世界は、騒音と悪臭で満ちていた。
国境地帯の荒野。踏み荒らされた大地は、降り続く雨と数千の兵士たちが流した血で、どす黒い沼へと変わっている。 鉄がぶつかり合う耳障りな金属音。喉が裂けんばかりの絶叫。爆ぜる火球の轟音と、肉が焦げる鼻を突く臭い。人間軍と魔王軍が入り乱れるこの最前線は、まさに混沌の坩堝(るつぼ)だった。
魔導士として軍に徴用されていたレンは、泥濘(ぬかるみ)に膝をつき、荒い息を吐いていた。 眼鏡のレンズが泥で汚れ、視界の半分が死んでいる。震える指で杖を握りしめ、彼は目の前の惨状を見つめていた。 「……効率が、悪すぎる」 恐怖よりも先に、元学者としての嘆きが口をついて出た。 人間が放つ火炎魔法は派手なだけで狙いが定まらず、無意味に空を焦がしている。対する魔族たちの怪力も、ただ闇雲に大地を砕くだけで、決定的な勝機には繋がっていない。 双方が疲弊し、ただ命というリソースを無為に垂れ流すだけの消耗戦。そこには美学も、秩序もなかった。
――その時だ。
突如として、戦場の喧騒が「切り取られた」ように消失した。 音が止んだのではない。圧倒的な何かが、空間そのものを塗り替えたのだ。
レンは肌に走る粟立ちを感じ、空を見上げた。 分厚い雨雲が、真円を描いてくり抜かれている。そこから差し込む蒼白(そうはく)い月光が、戦場の一点をスポットライトのように照らし出していた。
そこに、彼女はいた。
漆黒のドレスを夜風にはためかせ、虚空にふわりと浮いている。 彼女が白磁のような指先を、指揮者がタクトを振るように優雅に振るった、その瞬間。
ヒュンッ。
レンの網膜に、幾何学的な美しさを宿した光の線が焼き付いた。 それは従来の魔法のような、爆発や炎の塊ではない。極限まで圧縮された魔力の刃だ。 彼女の周囲に展開された魔法陣は、見事なまでに精緻だった。空中に描かれた光の円環は三重、四重に重なり合い、それぞれが異なる速度で回転しながら、微かな駆動音――まるで極小の鈴が鳴るような涼やかな音色――を奏でている。 魔法陣を構成する古代文字の一つひとつが、呼吸をするように明滅し、大気中のマナを余すところなく吸い上げていく。
「消えなさい」
鈴を転がすような声と共に、魔法陣から一条の光が放たれた。 音速を超えたその光は、大気を切り裂く衝撃波すら置き去りにし、地上に群がる人間軍の部隊を貫いた。 轟音は、ない。 ただ、「存在が消去される」音だけがあった。 光が通過した軌跡に沿って、舞い上がっていた砂埃の一粒一粒が、熱を持つこともなく静止し、そしてさらさらと白い灰へと変わって崩れ落ちていく。 兵士たちの鎧も、肉体も、剣も。抵抗する間もなく、光の粒子となって霧散した。
圧倒的な、静寂。 無駄な破壊が一切ない。地面にはクレーターすらできていない。ただ、そこにいたはずの生命だけが、きれいに拭い去られていた。 周囲の時間が凍りついたかのように、誰もが動けない。 舞い上がった土煙が、彼女の周囲に漂う重力制御の余波を受け、キラキラとダイヤモンドダストのように滞空している。
レンは、殺される側の人間であるにもかかわらず、その光景に魂を奪われていた。 眼鏡の汚れを拭うのも忘れ、瞬きすら惜しんでその姿を見上げる。
月光を背負い、戦場を見下ろす彼女のシルエット。 何よりもレンの目を釘付けにしたのは、彼女の頭部から艶やかに伸びる、二本の角だった。 夜の闇よりも深く、濡れたような光沢を放つその角は、緩やかな螺旋(らせん)を描きながら天を突いている。 それは威嚇のための武器ではない。王冠のように気高く、あるいは芸術品のように繊細な曲線美。 彼女が首を傾げるたび、角の表面を月明かりが滑り落ち、流星のような輝きを残す。
(ああ……)
レンの口から、感嘆の吐息が漏れた。 死の恐怖? そんなものは、この完璧な秩序の前では些細なことに過ぎなかった。 彼女の魔法には、一ミリの無駄も、一ジュールのロスもない。 ただ在るのは、残酷なまでの合理性と、息を飲むほどの美しさ。
彼女がゆっくりと地上へ降り立つ。 靴底が泥に触れることすら拒むように、数センチ浮いたまま滑るように移動する。 周囲の兵士たちが「化け物だ!」「逃げろ!」と叫び惑う中、彼女は無表情のまま指先を弾いた。 パチン。 乾いた音と共に、逃げ惑う兵士たちの首が、見えない刃によって刈り取られる。血飛沫すら上がらない。切断面が高熱で瞬時に焼灼(しょうしゃく)され、彼らは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
そして、彼女の視線が、ただ一人、逃げようともせずに立ち尽くすレンを捉えた。
「……あら?」
彼女――大魔族セレナは、小首をかしげた。 その動作に合わせて、美しい角が揺れる。 彼女はレンの目の前まで滑るように近づくと、無機質だがどこか甘美な響きを持つ声で囁いた。
「あなた、なぜ逃げないの? 恐怖で脳の回路が焼き切れたのかしら」
至近距離で見る彼女は、恐ろしいほど美しかった。 紫水晶(アメジスト)のような瞳。陶器のような肌。そして、甘い夜の香りが鼻腔をくすぐる。 彼女の細い指先が、レンの心臓の前に突きつけられた。指先には既に、小さな、しかし致死性の魔法陣が展開されている。 あと一秒で、レンの心臓は止まる。 人生の終わり。走馬灯が巡るはずの瞬間。
しかし、レンの口から出た言葉は、命乞いではなかった。
死が、わずか数センチの距離で瞬いている。 セレナの指先に灯る紫光は、レンの心臓を止めるための確実な宣告だった。
だが、レンの唇が震えたのは、恐怖からではなかった。 彼の眼鏡の奥にある瞳は、死の輝きではなく、彼女が展開している魔法陣の構造美に釘付けになっていたのだ。
「待ってくれ……」
レンが掠れた声を出した瞬間、セレナの目が冷ややかに細められた。 「命乞い? 無駄よ。あなたの生体反応が停止するまで、あとコンマ数秒――」 「違う! そうじゃない!」
レンは杖を投げ捨て、泥だらけの手で、空中に浮かぶ彼女の魔法陣を指差した。まるで、素晴らしい絵画を見つけた評論家のように、前のめりになって叫んだ。
「君のその術式構成……あまりにも完璧すぎる! 通常、攻撃魔法というのは威力を求めれば求めるほど、マナの乱れが生じて光が濁るものだ。だが君のはどうだ? 三重に重なった円環の回転速度が、それぞれ素数の比率で同調している……! 余剰エネルギーを熱ではなく、次の術式の回転力に還元しているのか!? なんて……なんて美しい循環(サイクル)なんだ!」
セレナの指先が、ぴたりと止まった。 無表情だった彼女の顔に、初めて「困惑」というさざ波が走る。 「……は?」 「それに、その角だ!」
レンは止まらなかった。死神の鎌が首にかかっているというのに、彼の熱量は加速する一方だった。 彼は吸い寄せられるように一歩踏み出し、あろうことか、大魔族である彼女の角を見上げて頬を紅潮させた。
「美しい……。ただ鋭いだけじゃない。根元から先端にかけての曲線が、自然界で最も調和が取れていると言われる『黄金の螺旋』を描いている。月光を受けた時のその輝き方は、君が魔力をどれほど高純度で制御しているかの証明だ。君は、破壊のために力を振るっているんじゃない。まるで、世界にある『無駄』を削ぎ落とすために、彫刻刀を振るっているようだ」
戦場に、奇妙な沈黙が落ちた。 遠くで爆発音が響いているが、二人の間だけ、時空が歪んだかのように静まり返っている。 セレナは、指先の魔法を消しはしなかったが、撃ち放つことも忘れていた。数千年の時を生きてきた彼女の記憶データベースを検索しても、「殺される寸前に、殺す側の美学を早口で解説してくる獲物」など存在しなかったからだ。
「……あなた、狂っているの? 私は今、あなたを処理すると言ったのよ?」 「ああ、わかってる。君ほどの高位な存在にとって、僕のような人間を消すなんて、呼吸するより簡単な作業だろう」
レンは泥にまみれた顔で、しかし憑き物が落ちたような澄んだ瞳で彼女を真っ直ぐに見つめた。 そして、人生最期の言葉として、魂からの叫びを紡いだ。
「でも、もし許されるなら……死ぬ前に、その思考の深淵(システム)をもっと覗かせてくれないか。君がどのような理(ことわり)で世界を見ているのか、その瞳には何が映っているのか。それを知ることができるなら、僕は魂を悪魔に売ったって構わない!」
それは、求愛だった。 「好きだ」とか「愛してる」といった甘い言葉ではない。学者としての、知性への渇望と、絶対的な美への降伏宣言。
セレナは瞬きをした。一度、二度。 彼女の中にある冷徹な計算式が、激しくエラーを吐き出していた。 恐怖を感じていない。 敵意もない。 あるのは、純粋無垢な「称賛」と、異常なまでの「興味」。
(理解不能……)
彼女はゆっくりと魔法を解除した。指先の光がフッと消える。 そして、興味深そうに目を細め、実験動物を見るような目でレンを見下ろした。
「……面白いわね、あなた」
彼女の声から、殺気が消えた。代わりに、冷ややかな好奇心が混じる。 彼女はふわりと宙から降り立つと、レンの顎を細い指先で持ち上げた。爪先が肌に食い込む冷たさに、レンは息を呑む。
「私の数千年の記録にも、あなたのような『バグ』――いえ、不可解な個体は前例がないわ。恐怖という生存本能が欠落しているのか、それとも知的好奇心が生存欲求を凌駕しているのか……」
彼女の紫水晶の瞳が、レンの網膜の奥までスキャンするように覗き込む。
「いいわ。殺すのは保留(ペンディング)にしてあげる」 「ほ、本当か!?」 「ええ。ただし――」
セレナは妖艶に、しかし絶対零度の微笑みを浮かべた。
「あなたは今日から、私の『観察対象』よ。その異常な思考回路がどこから来るのか、あなたの心臓が止まるその瞬間まで、私のノートに記録させてちょうだい。もちろん、つまらないと判断したら、即座に処分(デリート)するけれど?」
「……! 望むところだ!」 レンは即答した。常人なら失禁して逃げ出すような脅し文句を、彼はまるで「終身雇用の契約書」か何かのように喜んで受け入れたのだ。
「ついてらっしゃい、奇妙な人間(サンプル)。退屈させないでね」
セレナは踵(きびス)を返し、泥濘の上を滑るように歩き出した。 レンは慌てて杖を拾い上げ、彼女の背中――夜風に揺れる黒いドレスと、美しく輝く二本の角――を追いかける。 背後では、まだ人間軍と魔王軍の殺し合いが続いていたが、レンにとってもうそんなことはどうでもよかった。 彼は、世界の真理(セレナ)に触れてしまったのだから。
こうして、最強の「捕食者」と、最狂の「記録係」による、奇妙な旅が始まった。 それが、後に世界を揺るがす「愛」という名のバグを生むことになるとは、今のセレナはまだ、1ミリも計算できていなかった。
国境地帯の荒野。踏み荒らされた大地は、降り続く雨と数千の兵士たちが流した血で、どす黒い沼へと変わっている。 鉄がぶつかり合う耳障りな金属音。喉が裂けんばかりの絶叫。爆ぜる火球の轟音と、肉が焦げる鼻を突く臭い。人間軍と魔王軍が入り乱れるこの最前線は、まさに混沌の坩堝(るつぼ)だった。
魔導士として軍に徴用されていたレンは、泥濘(ぬかるみ)に膝をつき、荒い息を吐いていた。 眼鏡のレンズが泥で汚れ、視界の半分が死んでいる。震える指で杖を握りしめ、彼は目の前の惨状を見つめていた。 「……効率が、悪すぎる」 恐怖よりも先に、元学者としての嘆きが口をついて出た。 人間が放つ火炎魔法は派手なだけで狙いが定まらず、無意味に空を焦がしている。対する魔族たちの怪力も、ただ闇雲に大地を砕くだけで、決定的な勝機には繋がっていない。 双方が疲弊し、ただ命というリソースを無為に垂れ流すだけの消耗戦。そこには美学も、秩序もなかった。
――その時だ。
突如として、戦場の喧騒が「切り取られた」ように消失した。 音が止んだのではない。圧倒的な何かが、空間そのものを塗り替えたのだ。
レンは肌に走る粟立ちを感じ、空を見上げた。 分厚い雨雲が、真円を描いてくり抜かれている。そこから差し込む蒼白(そうはく)い月光が、戦場の一点をスポットライトのように照らし出していた。
そこに、彼女はいた。
漆黒のドレスを夜風にはためかせ、虚空にふわりと浮いている。 彼女が白磁のような指先を、指揮者がタクトを振るように優雅に振るった、その瞬間。
ヒュンッ。
レンの網膜に、幾何学的な美しさを宿した光の線が焼き付いた。 それは従来の魔法のような、爆発や炎の塊ではない。極限まで圧縮された魔力の刃だ。 彼女の周囲に展開された魔法陣は、見事なまでに精緻だった。空中に描かれた光の円環は三重、四重に重なり合い、それぞれが異なる速度で回転しながら、微かな駆動音――まるで極小の鈴が鳴るような涼やかな音色――を奏でている。 魔法陣を構成する古代文字の一つひとつが、呼吸をするように明滅し、大気中のマナを余すところなく吸い上げていく。
「消えなさい」
鈴を転がすような声と共に、魔法陣から一条の光が放たれた。 音速を超えたその光は、大気を切り裂く衝撃波すら置き去りにし、地上に群がる人間軍の部隊を貫いた。 轟音は、ない。 ただ、「存在が消去される」音だけがあった。 光が通過した軌跡に沿って、舞い上がっていた砂埃の一粒一粒が、熱を持つこともなく静止し、そしてさらさらと白い灰へと変わって崩れ落ちていく。 兵士たちの鎧も、肉体も、剣も。抵抗する間もなく、光の粒子となって霧散した。
圧倒的な、静寂。 無駄な破壊が一切ない。地面にはクレーターすらできていない。ただ、そこにいたはずの生命だけが、きれいに拭い去られていた。 周囲の時間が凍りついたかのように、誰もが動けない。 舞い上がった土煙が、彼女の周囲に漂う重力制御の余波を受け、キラキラとダイヤモンドダストのように滞空している。
レンは、殺される側の人間であるにもかかわらず、その光景に魂を奪われていた。 眼鏡の汚れを拭うのも忘れ、瞬きすら惜しんでその姿を見上げる。
月光を背負い、戦場を見下ろす彼女のシルエット。 何よりもレンの目を釘付けにしたのは、彼女の頭部から艶やかに伸びる、二本の角だった。 夜の闇よりも深く、濡れたような光沢を放つその角は、緩やかな螺旋(らせん)を描きながら天を突いている。 それは威嚇のための武器ではない。王冠のように気高く、あるいは芸術品のように繊細な曲線美。 彼女が首を傾げるたび、角の表面を月明かりが滑り落ち、流星のような輝きを残す。
(ああ……)
レンの口から、感嘆の吐息が漏れた。 死の恐怖? そんなものは、この完璧な秩序の前では些細なことに過ぎなかった。 彼女の魔法には、一ミリの無駄も、一ジュールのロスもない。 ただ在るのは、残酷なまでの合理性と、息を飲むほどの美しさ。
彼女がゆっくりと地上へ降り立つ。 靴底が泥に触れることすら拒むように、数センチ浮いたまま滑るように移動する。 周囲の兵士たちが「化け物だ!」「逃げろ!」と叫び惑う中、彼女は無表情のまま指先を弾いた。 パチン。 乾いた音と共に、逃げ惑う兵士たちの首が、見えない刃によって刈り取られる。血飛沫すら上がらない。切断面が高熱で瞬時に焼灼(しょうしゃく)され、彼らは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
そして、彼女の視線が、ただ一人、逃げようともせずに立ち尽くすレンを捉えた。
「……あら?」
彼女――大魔族セレナは、小首をかしげた。 その動作に合わせて、美しい角が揺れる。 彼女はレンの目の前まで滑るように近づくと、無機質だがどこか甘美な響きを持つ声で囁いた。
「あなた、なぜ逃げないの? 恐怖で脳の回路が焼き切れたのかしら」
至近距離で見る彼女は、恐ろしいほど美しかった。 紫水晶(アメジスト)のような瞳。陶器のような肌。そして、甘い夜の香りが鼻腔をくすぐる。 彼女の細い指先が、レンの心臓の前に突きつけられた。指先には既に、小さな、しかし致死性の魔法陣が展開されている。 あと一秒で、レンの心臓は止まる。 人生の終わり。走馬灯が巡るはずの瞬間。
しかし、レンの口から出た言葉は、命乞いではなかった。
死が、わずか数センチの距離で瞬いている。 セレナの指先に灯る紫光は、レンの心臓を止めるための確実な宣告だった。
だが、レンの唇が震えたのは、恐怖からではなかった。 彼の眼鏡の奥にある瞳は、死の輝きではなく、彼女が展開している魔法陣の構造美に釘付けになっていたのだ。
「待ってくれ……」
レンが掠れた声を出した瞬間、セレナの目が冷ややかに細められた。 「命乞い? 無駄よ。あなたの生体反応が停止するまで、あとコンマ数秒――」 「違う! そうじゃない!」
レンは杖を投げ捨て、泥だらけの手で、空中に浮かぶ彼女の魔法陣を指差した。まるで、素晴らしい絵画を見つけた評論家のように、前のめりになって叫んだ。
「君のその術式構成……あまりにも完璧すぎる! 通常、攻撃魔法というのは威力を求めれば求めるほど、マナの乱れが生じて光が濁るものだ。だが君のはどうだ? 三重に重なった円環の回転速度が、それぞれ素数の比率で同調している……! 余剰エネルギーを熱ではなく、次の術式の回転力に還元しているのか!? なんて……なんて美しい循環(サイクル)なんだ!」
セレナの指先が、ぴたりと止まった。 無表情だった彼女の顔に、初めて「困惑」というさざ波が走る。 「……は?」 「それに、その角だ!」
レンは止まらなかった。死神の鎌が首にかかっているというのに、彼の熱量は加速する一方だった。 彼は吸い寄せられるように一歩踏み出し、あろうことか、大魔族である彼女の角を見上げて頬を紅潮させた。
「美しい……。ただ鋭いだけじゃない。根元から先端にかけての曲線が、自然界で最も調和が取れていると言われる『黄金の螺旋』を描いている。月光を受けた時のその輝き方は、君が魔力をどれほど高純度で制御しているかの証明だ。君は、破壊のために力を振るっているんじゃない。まるで、世界にある『無駄』を削ぎ落とすために、彫刻刀を振るっているようだ」
戦場に、奇妙な沈黙が落ちた。 遠くで爆発音が響いているが、二人の間だけ、時空が歪んだかのように静まり返っている。 セレナは、指先の魔法を消しはしなかったが、撃ち放つことも忘れていた。数千年の時を生きてきた彼女の記憶データベースを検索しても、「殺される寸前に、殺す側の美学を早口で解説してくる獲物」など存在しなかったからだ。
「……あなた、狂っているの? 私は今、あなたを処理すると言ったのよ?」 「ああ、わかってる。君ほどの高位な存在にとって、僕のような人間を消すなんて、呼吸するより簡単な作業だろう」
レンは泥にまみれた顔で、しかし憑き物が落ちたような澄んだ瞳で彼女を真っ直ぐに見つめた。 そして、人生最期の言葉として、魂からの叫びを紡いだ。
「でも、もし許されるなら……死ぬ前に、その思考の深淵(システム)をもっと覗かせてくれないか。君がどのような理(ことわり)で世界を見ているのか、その瞳には何が映っているのか。それを知ることができるなら、僕は魂を悪魔に売ったって構わない!」
それは、求愛だった。 「好きだ」とか「愛してる」といった甘い言葉ではない。学者としての、知性への渇望と、絶対的な美への降伏宣言。
セレナは瞬きをした。一度、二度。 彼女の中にある冷徹な計算式が、激しくエラーを吐き出していた。 恐怖を感じていない。 敵意もない。 あるのは、純粋無垢な「称賛」と、異常なまでの「興味」。
(理解不能……)
彼女はゆっくりと魔法を解除した。指先の光がフッと消える。 そして、興味深そうに目を細め、実験動物を見るような目でレンを見下ろした。
「……面白いわね、あなた」
彼女の声から、殺気が消えた。代わりに、冷ややかな好奇心が混じる。 彼女はふわりと宙から降り立つと、レンの顎を細い指先で持ち上げた。爪先が肌に食い込む冷たさに、レンは息を呑む。
「私の数千年の記録にも、あなたのような『バグ』――いえ、不可解な個体は前例がないわ。恐怖という生存本能が欠落しているのか、それとも知的好奇心が生存欲求を凌駕しているのか……」
彼女の紫水晶の瞳が、レンの網膜の奥までスキャンするように覗き込む。
「いいわ。殺すのは保留(ペンディング)にしてあげる」 「ほ、本当か!?」 「ええ。ただし――」
セレナは妖艶に、しかし絶対零度の微笑みを浮かべた。
「あなたは今日から、私の『観察対象』よ。その異常な思考回路がどこから来るのか、あなたの心臓が止まるその瞬間まで、私のノートに記録させてちょうだい。もちろん、つまらないと判断したら、即座に処分(デリート)するけれど?」
「……! 望むところだ!」 レンは即答した。常人なら失禁して逃げ出すような脅し文句を、彼はまるで「終身雇用の契約書」か何かのように喜んで受け入れたのだ。
「ついてらっしゃい、奇妙な人間(サンプル)。退屈させないでね」
セレナは踵(きびス)を返し、泥濘の上を滑るように歩き出した。 レンは慌てて杖を拾い上げ、彼女の背中――夜風に揺れる黒いドレスと、美しく輝く二本の角――を追いかける。 背後では、まだ人間軍と魔王軍の殺し合いが続いていたが、レンにとってもうそんなことはどうでもよかった。 彼は、世界の真理(セレナ)に触れてしまったのだから。
こうして、最強の「捕食者」と、最狂の「記録係」による、奇妙な旅が始まった。 それが、後に世界を揺るがす「愛」という名のバグを生むことになるとは、今のセレナはまだ、1ミリも計算できていなかった。
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