ミステリー研究会は、謎を解かない

Gaku

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第二部:深まる謎とメンバーの過去

第9話「影山の休日と動くブランコ」

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十一月の空気は水晶のように澄み渡り、世界から一切の混濁を拭い去ってしまったかのようだった。夏の間あれほど空を覆っていた熱と湿気の霞は消え去り、吸い込まれそうなほど高く深い紺碧の空が広がっている。太陽はもう空の低い位置から地上を照らし、その光は夏の苛烈さを失って、今はただ純粋な輝きとして万物に降り注いでいた。その透明な光が世界の輪郭をくっきりと際立たせ、あらゆるものの影をまるで別の生き物のように長く長く地上に伸ばしていた。
事務所の窓から見える桜並木はその葉のほとんどを地面に返しており、乾いた赤や黄色の落ち葉が風に舞ってはアスファルトの隅に吹き寄せられている。葉を失い剥き出しになった黒い枝が、その複雑なシルエットを青いキャンバスのような空にくっきりと描き出していた。空気は心地よく冷たく、どこからか風に乗って金木犀の甘く切ない香りが漂ってくる。過ぎ去った夏を追悼しやがて来る冬を予感させる、記憶の香りだ。
しかしそのどこまでも開放的で澄み渡った季節とは裏腹に、ミステリー研究会の事務所にはあの日以来、目に見えない薄い膜のようなものが張り詰めていた。オルゴールの事件以来、俺と影山さんの間には重い共有された秘密が横たわっている。彼が何も語らない以上、俺も何も聞けない。だが互いに分かっていた。もうこの謎から目を逸らすことはできないのだと。影山さんは以前にも増して物思いに耽ることが多くなり、その目はしばしば窓の外の遠い空を見つめている。まるでこの美しい秋の風景のさらに向こう側にいる誰かを探すように。
他のメンバーは相変わらずで、麗華さんは秋の詩を朗々と詠み上げ、権田さんは「スポーツの秋だ!」と息巻いている。電脳の冷静だが温かみのある声も変わらない。その変わらない日常が、俺と影山さんの間に横たわる秘密の輪郭をより一層際立たせていた。
その日の朝、事務所に現れた影山さんの姿に俺たちは皆、言葉を失った。いつものよれた白衣ではなく、黒いシンプルなセーターとチノパンを身につけている。
「諸君、すまないが本日は休ませてもらう」
その顔にはいつもの飄々とした笑みはなく、どこか遠くを見つめるような硬い表情が張り付いていた。
「私用だ。詮索は無用だ」
彼はそれだけを言い残すと、俺たちの返事を待たずにふらりと事務所を出て行ってしまった。
残された俺たちはただ呆然とその背中を見送るしかなかった。影山さんが休むなど、俺がこの会に入って以来初めてのことだ。主を失った事務所はがらんとして、やけに広く感じられた。
「ボス、どうしちゃったのかしら…」麗華さんが不安そうに呟く。
「まさか、どっか悪いんじゃねえのか?あいつ、顔色も悪かったぞ」権田さんが腕を組んで唸った。
『影山さんの過去の勤怠データに「欠勤」の記録はありません。これは極めて異例の事態です』と、電脳の声も心なしか硬い。
病気か、トラブルか、それとも。俺たちの頭に渦巻く様々な憶測は、やがて一つの結論へと収束していった。
「確かめるしかないわね」
麗華さんが女優の眼差しで言った。
「我々ミステリー研究会は、我らがリーダーの最大のミステリーに挑むべきよ!」
かくして、ミステリー研究会史上最も不謹慎で、そして最も重要な尾行調査が決定された。

「いいこと?我々はプロの探偵。あくまで自然に、気取られずにボスの安全を確認するのよ」
事務所を出るなり麗華さんは俺たちにそう釘を刺した。しかし彼女自身の格好がまず誰よりも不自然だった。深い黒のサングラスにトレンチコートの襟を立て、頭にはつばの広い女優帽。どう見ても「私、変装中です」と全身で主張している。権田さんに至ってはもっとひどく、ただ野球帽をかぶっているだけだ。その規格外の巨体は帽子一つで隠せるはずもなく、人混みの中でも悪目立ちしていた。
俺は電脳の入ったノートパソコンを抱え、二人の珍妙な探偵たちの後を追う。
『佐藤さん。麗華さんの服装の隠密性はマイナス50点、権田さんはマイナス80点です』
「分かってるよ…」俺は深くため息をついた。
幸い影山さんの足取りはすぐに見つかった。彼はただまっすぐ駅へと向かっていた。俺たちは彼から数メートル距離を保ちながら尾行を開始する。券売機で切符を買う彼の背中を柱の影から見守り、改札を通る彼の後を時間差でついていった。
「こちらイーグル、ベアー、聞こえるかしら。ターゲットは中央線に乗車したわ」
麗華さんがスマホを口元に当てスパイ映画のように囁く。その声が大きすぎて周りの乗客がいぶかしげにこちらを見ていた。
「うるせえな麗華!聞こえてるよ!」権田さんが同じように小声で怒鳴り返す。
電車の中では車両を変えて彼の様子をうかがった。影山さんはただ吊革に捕まり、窓の外の流れる景色をぼんやり眺めている。その横顔はやはり硬く、何を考えているのか全く読めなかった。
電車を降りてまた別の路線に乗り換える。その追跡劇はまるでコントのようだった。電柱の影に隠れようとして権田さんの巨体がはみ出し、雑誌で顔を隠す麗華さんのその雑誌は上下逆さま。そして尾行開始からわずか十分後、駅前の交差点で信号待ちをしていた影山さんは、一度もこちらを振り返ることなく静かにはっきりと言った。
「いつまでついてくるつもりだね、君たちは」
その声は怒っているというより心底疲れ果てたという響きを持っていた。
「言い訳は聞かない。君たちの尾行はあまりにも下手すぎて五分で気づいていたよ。周りの人がジロジロ見るから恥ずかしくて仕方がなかった」
俺たちはまるで先生にいたずらを見つかった小学生のように、その場に立ち尽くした。

「はあ」
影山さんは大きな大きなため息をつくと、諦めたように言った。
「分かった。ついてくるなとはもう言わない。ただし条件がある。少し離れて歩いてくれ。そして絶対に静かにしていることだ。いいね?」
その物分かりの良さが逆に不気味だった。俺たちはただこくこくと頷くしかなかった。
そこから雰囲気は一変した。コミカルな追跡劇は終わりを告げ、静かでどこか物悲しい巡礼のそれに変わっていった。影山さんは賑やかな駅前から離れ、古い住宅街へと足を踏み入れる。そこは背の低い木造家屋が肩を寄せ合うように立ち並ぶ迷路のような場所だった。狭く入り組んだ道には車の音ももう聞こえない。聞こえるのは俺たちの足音と、時折どこかの家から漏れてくるテレビの音だけだ。
やがて影山さんは一つの古びた公園の入り口で足を止めた。『○○児童公園』と錆びついたプレートが掲げられている。公園というより空き地と呼んだ方が近いような寂れた場所だった。砂場の砂は雨で固まって雑草が生え、滑り台のペンキは剥げ落ちて表面は錆で赤茶けている。かつては子供たちの歓声で満ちていたであろうその場所は今、秋の冷たい午後の光の中で静かに息を潜めていた。まるで忘れ去られた記憶の墓標のように。
影山さんはその公園の中へとゆっくりと歩いて行き、その中央に並ぶ二つの古いブランコの前で足を止めた。赤く塗られていたであろう座面はもう色がほとんど剥げ落ちている。それを吊るす鎖は錆びつき、風が吹くたびにキイ、キイ、と悲しい音を立てた。
影山さんは何もしなかった。ただそのブランコの前に立ち、じっとそれを見つめている。俺たちは公園の入り口の木陰から、その背中を見つめることしかできなかった。
彼の背中はどんな言葉よりも雄弁だった。いつも俺たちの前で見せる自信に満ちた飄々とした姿はそこにはなく、ただ一つの巨大で底なしの悲しみの塊だけが佇んでいた。長い長い歳月をかけて彼の魂に深く刻み込まれた、決して癒えることのない傷跡。そのあまりにも深い悲しみのオーラに俺たちは圧倒され、声をかけることも一歩踏み出すこともできなかった。ここは彼の聖域なのだ。俺たちが決して踏み込んではならない魂の場所なのだ。
麗華さんはいつの間にかサングラスを外し、その美しい瞳を潤ませていた。権田さんも腕を組み、ただ黙って悲痛な表情でその背中を見つめている。俺は理解した。ここが、彼とソラが最後に会った場所なのだと。

太陽がゆっくりと西の建物の向こうに傾き始めた。空は淡いオレンジ色に染まり、影が青黒く長く伸びていく。空気はさらに冷たさを増し、吐く息がうっすらと白く見えた。
それでも影山さんは動かなかった。まるでこの地に根を張った一本の古い木のように、ただじっと立ち尽くしている。
その時だった。
風はない。周りの木の葉一枚揺れていない。
それなのに。
彼が見つめる二つのブランコのうち、その片方が。
キイ…、と小さな軋み音を立てて、ゆっくりと揺れ始めたのだ。
最初はほんのわずかな揺れだった。しかしそれはやがて規則的なリズムを持った優しい前後の揺れへと変わっていった。まるで目には見えない誰かがそっとそのブランコに腰掛け、ゆっくりと地面を蹴っているかのように。
キイ…、コーン…。キイ…、コーン…。
錆びた鎖の軋む音が、夕暮れの静寂な公園に響き渡る。俺たちは息を呑んだ。これは今までのどんな現象とも違う。そこには恐怖も悪意もなかった。ただそこにあるのは言葉にならない優しさと、そして胸が張り裂けそうなほどの切なさだけだった。
それはまるで返事のようだった。長い長い時間たった一人でここに立ち尽くす兄のその悲しみに応える、妹の優しい優しい魂の返事。
影山さんの肩が微かに震えた。彼はゆっくりとその動くブランコに手を伸ばした。まるでそこにいる誰かの髪を撫でるかように。しかしその手は空を掴むだけで、ブランコに触れる寸前で力なく下ろされた。
やがてブランコの揺れはゆっくりとその動きを止め、公園は再び完全な静寂に包まれた。影山さんはもう一度そのブランコを目に焼き付けるように見つめると、ゆっくりと俺たちに背を向け、公園を後にした。
俺たちは誰一人言葉を発することができなかった。ただ夕闇に染まっていく彼の小さな背中が、秋の冷たい空気の中に消えていくのを見つめていることしかできなかった。
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