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第30話:漢方薬の副作用と「瞑眩(めんげん)」
しおりを挟む九月の終わり。空は、夏の間に溜め込んだ湿気をすっかり手放し、どこまでも高く、深く澄み渡っていた。陽光はまだ力強いが、その質は夏のそれとは異なり、鋭さを潜めて、あらゆるものの輪郭をくっきりと、そして穏やかに照らし出す。東堂漢方クリニックの庭からは、風に乗って、金木犀の甘く濃厚な香りが漂ってくる。それは、脳の奥深くに直接届くような、陶然とする香りで、季節が紛れもなく秋へと移ったことを告げていた。
研修医の本田未来は、診察室の窓辺に立ち、その秋晴れの空を眺めていた。ここへ来て季節が一周し、漢方医学という未知の荒野に、少しずつ道が見えてきた気がする。「気・血・水」という羅針盤と、「腹診」という確かな地図。それらを手にした今、患者の訴えが以前よりもずっと立体的に、そして論理的に理解できるようになった。漢方薬が、驚くほど劇的な効果を発揮する場面も、幾度となく目の当たりにしてきた。
しかし、西洋医学の徒としての、生真面目な疑問が頭をもたげることがあった。
「漢方薬は、本当に安全なのだろうか?副作用はないのだろうか?」
自然由来、体に優しい、というイメージが先行しているが、薬は薬だ。体に作用する以上、望ましくない作用があってしかるべきではないか。そんなことを考えていると、まるでその思考を遮るかのように、クリニックの電話が鳴った。
「はい、東堂漢方クリニックです」
未来が受話器を取ると、聞き覚えのある女性の声がした。春に、頑固な肩こりと月経痛で来院し、「瘀血」の診断で「桂枝茯苓丸」を処方された、あのキャリアウーマンの女性だった。
「あ、本田先生ですか。東堂先生はいらっしゃいますか。少し、ご相談したいことがありまして…」
声に、戸惑いと不安の色が滲んでいる。未来は、すぐに東堂に電話を代わった。
「もしもし、東堂です。どうかなさいましたかな、その後のお加減は」
東堂は、スピーカーフォンに切り替えて、未来にも聞こえるように配慮してくれた。
『先生、お薬を飲み始めてから、長年悩んでいた月経痛が、本当に楽になったんです。鎮痛剤を飲む回数も減って…。本当に感謝しています』
「それはようございました。あなたの体質と薬が、うまく合ったのでしょう」
『ただ…』と、女性は言い淀んだ。『実は、薬を飲み始めて一週間くらい経った頃から、足に小さな湿疹がぶつぶつと出てきて…。それに、時々、軽い下痢をすることもあるんです。これは、お薬が合わないということでしょうか。副作用なのでは、と少し怖くなって…』
未来は、ぴん、と背筋を伸ばした。湿疹、下痢。典型的な薬の有害事象だ。やはり、副作用はあるのだ。西洋医学的な思考回路が、即座に「服用中止」の判断を下そうとする。
しかし、東堂の反応は、未来の予想とは全く異なるものだった。彼は、慌てるでもなく、咎めるでもなく、ただ穏やかに、そして深く、質問を重ね始めた。
「なるほど。湿疹とかゆみ、下痢、ですね。それはご心配でしょう。しかし、いくつかお聞かせください。その湿疹が出るようになってから、あるいは下痢をするようになってから、体全体としては、どのように感じますかな。例えば、体は軽く感じますか、重く感じますか?」
『えっ…?そう言われると…、以前より体は軽く、朝もすっきり起きられる気がします』
「そうですか。夜は、よく眠れていますかな」
『はい、以前よりぐっすり眠れる日が増えました。長年の悩みだった肩こりも、気がつけばあまり気にならなくなっています』
「なるほど、なるほど。そうですか」
東堂は、深く頷いた。そして、こう言った。
「だとしたら、それは副作用ではないかもしれません。むしろ、あなたの体の中に溜まっていた悪いものが、外に出て行こうとしている、良い兆候の可能性が高いですよ」
良い兆候?未来は、混乱した。湿疹や下痢が、良い兆候だなんて。そんなこと、大学病院の常識ではあり得ない。
電話を切った後、未来は矢継ぎ早に東堂に質問した。
「先生! 今のは、一体どういうことですか?湿疹や下痢は、明らかに薬による有害事象、つまり副作用ではないのですか?それを『良い兆候』だなんて…。もし、重篤なアレルギー反応だったら、どうするんですか!」
「未来先生、落ち着きなさい」
東堂は、未来の動揺を優しく諭すように、秋の日差しが差し込む窓辺に彼女を促した。金木犀の香りが、一際強く香る。
「あなたの言う通り、漢方薬も薬です。当然、副作用はあります。そして、それを軽視することは、絶対にあってはならない。まず、その大前提からお話ししましょう」
東堂は、薬棚から『麻黄』と書かれた瓶と、『附子』と書かれた、厳重に管理されている瓶を指差した。
「漢方薬は自然のものだから安全、というのは、大きな誤解です。例えば、この麻黄は、使い方を誤れば動悸や不眠、血圧の上昇を引き起こす。この附子(ぶし)は、トリカブトの根を加工したものですが、適切な処理をしなければ猛毒です。体を温める力が非常に強い一方で、使い方を間違えれば命に関わることもある」
「それに、体質に合わない薬を飲めば、当然、不快な症状が出ます。我々が『証』を見誤る『誤治』というやつですな。冷え性の人に、体を冷やす薬を出せば、下痢をしたり、体調が悪化したりする。それは、紛れもない副作用です。あるいは、特定の生薬に対するアレルギー反応だって起こりうる。その場合は、即座に服用を中止し、適切な処置をしなければなりません」
未来は、東堂の真剣な眼差しに、改めて身の引き締まる思いがした。漢方の世界は、優しいだけではない。生薬の持つ力を熟知し、そのリスクをも管理する、厳しい覚悟が求められるのだ。
「では、先生」未来は、本題に戻った。「先ほどの患者さんの症状は、その副作用とは違うと、なぜ判断できたのですか?」
「そこが、今日の話の核心です」
東堂は、そう言うと、古い医学書を開き、ある一節を指差した。
「中国の古い書経に、こうあります。『薬、瞑眩(めんげん)せずんば、その疾(やまい)癒えず』と」
「めんげん…?」
[cite_start]「左様。瞑眩、あるいは好転反応とも言います。これは、処方が患者さんの『証』に正確に合致し、体が良い方向へ向かおうとする過程で、一時的に現れる様々な反応のことです。あたかも、症状が悪化したかのように見えることがあるので、注意深い見極めが必要なのです」 [cite: 1]
東堂は、湯気の立つお茶を一口すすると、解説を続けた。
「瞑眩の現れ方は、人それぞれ、処方それぞれです。例えば、先ほどの患者さんのように、皮膚に湿疹やかゆみが出ることがあります。これは、体内に溜まっていた『瘀血』や『湿邪』といった毒素が、皮膚から排泄されようとしている、一種のデトックス反応と捉えることができます」
「下痢や軟便も、同じです。腸にこびりついていた宿便や、滞っていたものが、一掃されている過程で起こることがある。他にも、ひどい眠気やだるさを感じたり、一時的に痛みが強くなったり、古傷が痛み出したりすることもあります」
「そんな…」未来は、言葉を失った。「副作用の症状と、そっくりじゃないですか。それを見分けるなんて、どうやって…」
「未来先生。そこが、我々漢方医の腕の見せ所なのです」
東堂は、いたずらっぽく笑った。
「見極めのポイントは、ただ一つ。その反応が出ている時に、**『体全体の調子は、上向きか、下向きか』**ということです」
彼は、指を一本立てて強調した。
「本当の副作用の場合は、体全体が不快感に包まれます。胃がむかむかして食欲がなくなり、気分が悪く、体が重くなる。本来の症状とは別に、新たな苦痛が加わる。これは、体が『この薬は合わない!』と拒絶反応を起こしているサインです。この場合は、即刻、服用を中止すべきです」
「しかし、瞑眩の場合は、違います。一時的に湿疹が出たり、下痢をしたりといった不快な症状はあっても、患者さん本人が『でも、体全体は軽いんです』とか『よく眠れるようになった』とか『気分は良い』と感じていることが多い。つまり、主訴や全体的な生命力の方向性が、明らかに上を向いている。これが、瞑眩と副作用を分ける、決定的な違いなのです」
未来は、先ほどの電話での東堂の質問の意図を、ようやく理解した。彼は、湿疹や下痢という表面的な現象に惑わされず、患者の体全体のエネルギーのベクトルが、どちらを向いているのかを、的確に聞き出していたのだ。
「なんと、難しい…。それは、経験と洞察力がなければ、絶対に見極められませんね」
「その通りです。だからこそ、我々は患者さんと密にコミュニケーションを取り、注意深くその変化を観察し続けなければならない。そして、患者さんにも、『こういう反応が出ることがあるけれど、それは良い兆候かもしれないから、心配ならすぐに連絡してください』と、あらかじめ伝えておくことが大切なのです」
未来は、深い感銘を受けていた。薬を処方して終わり、ではない。その薬が、患者の体という複雑な生態系の中で、どのような反応を引き起こすのか。その過程にまで深く寄り添い、時に励まし、時に軌道修正する。それは、もはや単なる医療技術ではなく、一人の人間と向き合う、深い哲学のように思えた。
東堂は、先ほどの患者に再び電話をかけ、こう指導していた。
「あなたのその反応は、良い兆ahoうでしょう。瘀血が体の外に出ようとしているのです。心配であれば、無理せず、しばらく薬の量を半分にして続けてみてください。おそらく、湿疹や下痢は、しばらくすれば自然に収まり、体はさらにすっきりとしますから」
受話器の向こうで、女性の安堵した声が聞こえた。
診察時間が終わり、クリニックには夕暮れの静寂が訪れていた。西日が、窓から斜めに差し込み、薬棚のガラス瓶を黄金色に染め上げている。金木犀の香りは、夕暮れの空気の中で、さらに甘く、切なく香っていた。
「薬が、正しい道筋を照らし出すことはできても、その道を一歩一歩、歩んでいくのは、患者さん自身の生命力です」
東堂は、窓の外の茜色の空を見ながら、静かに言った。
「我々医師は、その旅路に寄り添う、伴走者のようなもの。道に迷いそうになった時、嵐が来て不安になった時、それが本当に危険な道なのか、それとも夜明け前の暗闇なのかを、冷静に見極めて、声をかけてあげる。それもまた、我々の大切な仕事なのです」
未来は、その言葉を、胸の奥深くに刻みつけた。薬を与えるだけが、医師の仕事ではない。その先にある、患者の体の変化、心の揺らぎ、そのすべてに寄り添うこと。その覚悟がなければ、漢方医は務まらないのだ。
夕暮れの光に染まる金木犀を見つめながら、未来は、自分が目指すべき医師の姿が、また一つ、はっきりと見えたような気がしていた。
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