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第34話:治療するマッサージ「推拿(すいな)」
しおりを挟む八月も終わりに近づくと、陽の光は、真夏のような肌を刺す鋭さを潜め、どこか丸みを帯びた、黄金色の粒子を多く含んだものに変わってくる。東堂漢方クリニックの診察室に西向きの窓から差し込む光も、畳の上に落ちる影の輪郭を、以前よりわずかに柔らかく描いていた。日中の気温は依然として高く、外を歩けば汗ばむほどだが、ひとたび木陰に入ると、吹き抜ける風にはっとするような涼やかさが含まれている。ヒグラシが、一日の終わりを惜しむかのように、カナカナと物悲しくも澄んだ声で鳴き始め、アブラゼミの猛々しいコーラスは、いつしか遠景へと後退していた。
そんな、夏と秋が静かにその領域を譲り合っているような午後のひととき、未来はカルテの整理をする手を止め、無意識に自身の右肩を左手で掴んでいた。一日中パソコンに向かい、慣れない毛筆で薬草の名前を書き写す作業が続いたせいか、首筋から肩甲骨にかけて、まるで一枚の硬い鉄板が埋め込まれているかのように凝り固まっていた。
「ん…っ」
指先に力を込めてぐりぐりと押してみるが、痛みは表面で跳ね返されるばかりで、その奥深くにあるしつこい芯には一向に届かない。西洋医学的には、長時間の同じ姿勢による僧帽筋や肩甲挙筋の血行不良。治療法は温熱療法、ストレッチ、あるいは消炎鎮痛薬の塗布。未来の頭には、教科書通りの対処法が浮かぶが、今すぐこの不快感から解放されたいという欲求は、そんな理屈を追い越していく。
「未来先生、そこは『肩井(けんせい)』というツボだ。少々、気が滞っているようだね」
いつの間にか背後に立っていた東堂が、穏やかな声で言った。未来が驚いて振り返るより先に、東堂の温かく、分厚い親指が、未来が押さえていた場所よりも少しだけ内側、首の付け根と肩先のちょうど真ん中あたりを、ぐっと深く、しかし優しく押さえた。
「ひゃっ…!」
思わず変な声が出た。痛みと、痺れるような心地よさが同時に走り、電気が腕の先まで突き抜けていくような感覚に襲われる。東堂が指を離した後も、その場所にはじんわりとした温かい余韻が残り、滞っていた何かが、ふっと軽くなるのを感じた。
「た、ただ押されただけなのに…」
「体の声を聞き、その流れに沿って力を届ければ、手は薬にも、鍼にもなるのだよ」
東堂はそう言って微笑むと、ちょうど来院を告げる呼び鈴の音に迎えられ、玄関の方へと向かっていった。
その日の午後の予約患者は、五十代半ばの男性、佐藤さんと名乗った。がっしりとした体格の持ち主だが、その顔には常に眉間に皺が寄っており、頑固な痛みを長年抱えている人の、特有の険しさが滲んでいた。
「先生、もう何年もこの肩こりと頭痛に悩まされておりまして」
診察用の椅子に座るなり、佐藤さんはため息交じりに語り始めた。彼はシステムエンジニアとして、毎日十時間以上もモニターと向き合う生活を、二十年以上も続けているという。
「有名なマッサージ店にも、整体にも、ずいぶん通いました。強く揉んでもらうと、その時は楽になるんです。でも、翌日にはもう元通り。ひどい時には、揉み返しの痛みで余計に辛くなる。最近では、肩こりがひどくなると、後頭部を締め付けられるような頭痛までしてきて…もう、どうにかならないものかと、藁にもすがる思いでこちらに」
未来が問診を進めると、佐藤さんは肩こりや頭痛の他にも、目の疲れ、寝つきの悪さ、そして時折感じる焦燥感を訴えた。東堂は、その話に静かに耳を傾けながら、佐藤さんの顔色、肌の艶、声の張りを注意深く観察している。
やがて東堂は、佐藤さんの脈を診、舌の状態を確認した後、こう言った。
「佐藤さん、少しお体を診させていただけますかな。椅子に座ったままで結構ですから、上着を脱いで、楽にしてください」
東堂は佐藤さんの背後に立つと、まず、その首筋から肩、背中にかけてを、手のひらでゆっくりと撫でるように触れていく。そして、指先を使い、背骨の両脇を走る経絡を、上から下へと丁寧になぞり始めた。未来は、その動きが、単に筋肉の硬さを調べているだけではないことに気づいた。東堂の指は、まるで地中に隠れた水脈を探るかのように、皮膚の下にある「何か」を探っている。
「…ほう。これは見事な『気滞血瘀(きたいけつお)』ですな」
指を止め、東堂は静かに呟いた。
「きたい、けつお…?」
佐藤さんが訝しげに聞き返す。
「ええ。長時間の同じ姿勢や、精神的な緊張によって、生命エネルギーである『気』の流れがまず滞る。これが『気滞』です。そして、気の流れが滞ると、川の流れが堰き止められれば水が澱むように、栄養を運ぶ『血(けつ)』の流れも悪くなる。これが『血瘀(けつお)』。つまり、佐藤さんの肩や背中では、気と血の交通渋滞が、慢性的に発生してしまっている状態なのです。マッサージで一時的に楽になるのは、滞った流れを無理やり動かすからですが、渋滞の原因そのものが解消されていないので、すぐにまた元に戻ってしまうのです」
その説明は、佐藤さんが長年感じてきた感覚を、ぴたりと言い当てていた。彼は、何度も深く頷いている。
「では、鍼を…?」
未来が尋ねると、東堂はゆっくりと首を横に振った。
「いや。今日は、私の『手』を使いましょう。こういう、長年かけて複雑に絡み合い、こびりついてしまったような滞りには、手で直接、その結び目を解きほぐしていくのが良い場合もある。未来先生、**『推拿(すいな)』**という治療法を知っているかな?」
「すいな…?聞いたことはありますが、中国式のマッサージ、というくらいの知識しか…」
「半分正解で、半分は不正解だ」
東堂は、準備のために手ぬぐいを一枚取り出すと、佐藤さんの背中にふわりとかけた。
[cite_start]「推拿は、ただ筋肉を揉みほぐす西洋的なマッサージとは、その根底にある哲学が全く違う。『推(おす)』『拿(つかむ)』『按(おさえる)』『摩(なでる)』といった様々な手技を用いて、**経絡(けいらく)と経穴(けいけつ)、つまりツボに直接働きかけ、気血の流れそのものを整える、中医学が誇る治療法の一つなのだよ** [cite: 1]。筋肉ではなく、その下を流れるエネルギーの通り道にアプローチする。それが推拿だ」
東堂はそう言うと、佐藤さんの背後に再び立ち、深く、静かな呼吸を一つした。そして、その両の手のひらを、佐藤さんの背中にそっと置いた。その瞬間、診察室の空気が変わった。未来には、東堂の手のひらから、温かい気が流れ出し、佐藤さんの体へと浸透していくのが、目に見えるようだった。
治療が始まった。東堂の手の動きは、未来が想像していたような、力任せに揉んだり叩いたりするものでは全くなかった。それは、まるで一つの武術の型を見ているかのような、あるいは熟練の職人が粘土を捏ねて形を作るかのような、流麗で、目的のはっきりとした一連の動きだった。
まず、手のひら全体を使い、背中を大きく、円を描くようにゆっくりとさする。次に、指の腹を使い、背骨の両脇を走る「足の太陽膀胱経」という経絡に沿って、波が寄せては返すように、繰り返し圧を加えていく。未来は、その手技が、ただの圧迫ではなく、滞った気の流れを促し、一つの方向に導こうとしているのだと感じた。
そして、手技はより細かく、専門的なものへと変わっていく。東堂は、親指の関節を巧みに使い、まるで振り子のようにリズミカルな振動を、凝り固まった筋肉の深層部にあるツボへと送り込んでいく。「一指禅推法(いっしぜんすいほう)」と呼ばれる、推拿の代表的な手技だ。トントンと小気味の良い音が、静かな診察室に響く。それは、硬く凍てついた大地を、根気よく砕いていくかのようだった。
「ぐ…っ、先生、そこです…!一番痛いところに、響きます…!」
佐藤さんの口から、苦痛と快感が入り混じったような声が漏れる。東堂の指は、佐藤さんが今まで誰にも指摘されたことのない、痛みの根本的な発生源(トリガーポイント)を、的確に捉えていた。
未来は、息を詰めてその光景を見つめていた。東堂の手は、解剖学の地図をなぞっているのではない。目には見えない「経絡」という、もう一つの人体の地図を、指先で完璧に読み解き、治療を施しているのだ。それは、西洋医学の知識だけでは到底到達できない、経験と感覚、そして深い理論に裏打ちされた、神業のように見えた。
やがて、約二十分にわたる施術が終わり、東堂がそっと手を離した時、佐藤さんの背中は、血行が良くなったためか、ほんのりと赤みを帯び、うっすらと汗が滲んでいた。
「さあ、佐藤さん。ゆっくりと、肩を回してみてください」
促されるままに、佐藤さんは恐る恐る腕を回した。そして、その目が驚きに見開かれた。
「…なっ。軽い…!肩がないみたいに軽い!それに、さっきまで重く締め付けられていた頭が、すっきり晴れている…」
先ほどまでの険しい表情は消え、少年のように目を丸くして、何度も肩を回したり、首を傾げたりしている。
「ただ揉まれたのとは、全く違います。体の表面じゃなくて、なんていうか…体の芯から、何かがスーッと通った感じです。先生の手から、何か温かいものが流れ込んでくるようでした」
その感動しきった様子に、未来もまた、自分のことのように胸が熱くなった。
佐藤さんが、晴れやかな顔で帰っていった後。未来は、興奮を抑えきれないまま東堂に尋ねた。
「先生、今の…本当にすごかったです。マッサージとは、一体何が違うのでしょうか。経絡に働きかける、というのは分かりましたが…」
東堂は、治療で使ったタオルを片付けながら、穏やかに答えた。
[cite_start]「一番の違いは、やはり『気』を意識しているかどうかだろう。西洋のマッサージは、主に筋肉や骨格、リンパといった『形あるもの』にアプローチする。もちろん、それも素晴らしい技術だ。しかし推拿は、それに加えて、『形なきもの』、つまり生命エネルギーである**気の流れを整えることを最大の目的としている** [cite: 1]。滞った気の流れを動かし、不足した気を補い、乱れた気を鎮める。手の温もりと圧を通して、術者の気を患者の体に伝え、共鳴させる。だから、ただの物理的な刺激以上の、深い変化が体に起こるのだよ」
未来は、自分の両手を見つめた。この手は、メスを握り、注射を打ち、カルテを書くための道具だと思っていた。だが、東堂の治療を見た後では、この手そのものが、人を癒すための最も原始的で、最も繊細な医療機器になりうるのだと思えた。
「触れること…手で触れて、患者さんの状態を感じ取り、癒すこと。それが、医療の原点なのかもしれませんね」
未来の呟きに、東堂は深く頷いた。
「その通りだ。どれだけ医療技術が進歩しても、人が人の手によって癒されたいと願う気持ちは、決してなくならないだろう。その手の温もりこそが、西洋とか東洋とかいう垣根を越えて、患者の心に直接届く、最高の薬になることもあるのだから」
診察室には、夕暮れの優しい光が満ちていた。ヒグラシの声が、まるで今日の出来事を祝福するかのように、クリニックの庭から聞こえてくる。未来は、自分の手のひらに残る、かすかな温もりを感じながら、医師として患者に「触れる」ことの、深く、そして温かい意味を、改めて心に刻みつけていた。
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