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第35話:薬食同源「食養生」の知恵
しおりを挟む九月に入ってもなお、日中は夏の置き土産のような強い陽射しがアスファルトを熱し、遠くの景色を陽炎の向こうに揺らめかせていた。しかし、その光の質は、八月の頃とは明らかに違っていた。空は高く澄み渡り、突き刺すような鋭さの代わりに、どこか懐かしさを帯びた黄金色が濃くなっている。朝晩、クリニックの窓を開けると、流れ込んでくる風は肌に心地よい冷ややかさを運び、庭の片隅では、コオロギやスズムシといった秋の楽師たちが、夏の蝉に代わって繊細な音色を奏で始めていた。楓の葉の縁が、ほんのわずかに黄色く色づき始めたのを、未来は見つけていた。
季節がその装いを静かに変えようとしているのとは裏腹に、未来の体は、まるで過ぎ去った夏に取り残されたかのように、重く、沈滞していた。この数日、はっきりとした理由もないのに、体が鉛のようにだるい。朝、布団から抜け出すのがひどく億劫で、頭には常に薄い霧がかかったようにすっきりしない。そして何より、食欲が全く湧かなかった。
昼休みになっても、未来はデスクに突っ伏したまま動けずにいた。目の前には、近所のコンビニで買ってきたゼリー飲料が一つ、ぽつんと置かれている。何か口にしなければ、という義務感だけで手にしたものの、それを吸い込む気力すら湧いてこない。胃のあたりが重く、もたれた感じが続いていた。
「研修、お疲れ様です」
受付の女性が気遣わしげに声をかけてくれるが、それに笑顔で応える余裕もなかった。夏の間に、鍼灸や推拿といった新しい知識と技術を夢中で吸収し、時には大学病院での当直もこなしながら、全力で走り続けてきた。その疲れが、夏の終わりとともに、堰を切ったように噴き出してきたのかもしれない。
「…未来先生」
不意に、穏やかだが芯のある声が頭上から降ってきた。顔を上げると、東堂が心配そうな、しかしどこか全てを見通しているような目で、こちらを覗き込んでいた。
「昼餉(ひるげ)は、そのゼリーだけかね?」
「あ…はい。なんだか、食欲がなくて…。胃も重たい感じがして」
力なく答える未来に、東堂は「ふむ」と深く頷くと、厳しい、しかし温かみのある声で言った。
「それはいかん。実にいかんよ、未来先生。君は今、典型的な**夏負け**…我々の言葉で言えば、夏の『湿邪(しつじゃ)』と『熱邪(ねつじゃ)』に、胃腸の働きを司る『脾(ひ)』がすっかりやられてしまっている状態だ。そんな時に、冷たくて中身のないもので胃をさらに冷やしてどうする」
「湿邪…熱邪…」
「夏の間に溜め込んだ熱と、湿度の高さによる余分な水分が、君の体の中で悪さをしているのだ。そのせいで脾のエネルギー(脾気)が消耗し、気全体も不足する『気虚(ききょ)』に陥っている。だるさも、食欲不振も、全てはそこから来ているのだよ」
東堂の診断は、未来が漠然と感じていた不調の正体を、的確に言い当てていた。そう、ただ疲れているだけではない。体の中に、何か重たくてジメジメしたものが居座っているような、そんな感覚だ。
「ですが、何も食べる気がしなくて…」
「そういう時こそ、食べるものを選ばねばならんのだ」
東堂はそう言うと、未来の手を引いて、クリニックの奥にある小さな厨房へと促した。そこは、薬草を調合する匂いと、生活の匂いが混じり合った、東堂のプライベートな空間だった。
「未来先生、**『薬食同源(やくしょくどうげん)』**という言葉を知っているかな?」
東堂は、古い木製の戸棚から、乾物やスパイスの入った瓶を取り出しながら尋ねた。
「はい。薬と食事は、その源は同じ、という意味ですよね。健康に良い食事を心がけましょう、というような…標語のようなものだと」
未来の答えに、東堂は首をゆっくりと横に振った。
「標語などという、生やさしいものではないよ。それは、我々東洋医学の治療の根幹をなす、極めて重要な哲学そのものだ。日々の食事は、時に漢方薬以上にその人の体を左右する。なぜなら、食材の一つ一つが、薬と同じように固有の『性質』と『作用』を持っているからだ」
東堂は、まな板の上に、瑞々しいきゅうりと、鶏のささみを置いた。
「東洋医学では、まず全ての食材に**『五性(ごせい)』**という性質がある、と考える。体を温める『熱性』『温性』、体を冷やす『寒性』『涼性』、そして、どちらでもない『平性(へいせい)』の五つだ。例えば、唐辛子や生姜は体を温める熱性や温性、逆になすやきゅうりは体を冷やす寒性や涼性に分類される」
未来は、ごくりと唾を飲んだ。栄養学では、食材をカロリーやタンパク質、ビタミンといった成分で分析する。しかし、東堂の語る世界では、食材はまず「温度」という、体に与える直接的な影響力で分類されるのだ。
「そして、**『五味(ごみ)』**もある。『酸・苦・甘・辛・鹹(かん=塩辛い)』の五つの味だ。そして、この五味はそれぞれ、特定の『臓』と親和性があり、そこに働きかけると考えられている。例えば、『酸味』は『肝』に入り、『甘味』は『脾』に入る、というようにね。だから、我々は患者さんの体の状態に合わせて、これらの性質や味を巧みに組み合わせ、食事そのものを『処方』する。これこそが**『食養生(しょくようじょう)』**の神髄だ」
東堂は、手際よく鶏のささみの筋を取り、酒を振って蒸し始めた。厨房に、ふわりと上品な香りが立ち上る。
「さて、今の未来先生の状態を考えてみよう。まず、体にこもった余分の熱と湿を取り去る必要がある。そういう時には、この**きゅうり**が良い。きゅうりは『涼性』で、体の熱を冷まし、利尿作用で余分な水分(湿)を排出してくれる」
「なるほど…だから夏に食べると美味しいんですね」
「その通り。理にかなっているのだ。しかし、だ」と東堂は人差し指を立てた。「今の君のように、すでに脾が弱り、気虚に陥っている者が、きゅうりばかりを食べていては、体を冷やしすぎて、かえって脾の働きをさらに弱らせてしまう。冷たいゼリー飲料が最悪なのは、そのためだ」
未来は、自分の行動を省みて、はっとした。良かれと思って選んだものが、実は体をさらに痛めつけていたのかもしれない。
「そこで、組み合わせが重要になる。弱った気を補い、胃腸を温めて働きを助けるものと一緒に摂る必要がある。その代表格が、この**鶏肉**だ。鶏肉は『温性』で、気を補う『補気(ほき)』の作用に優れている。そして、消化にも良い」
蒸し上がった鶏肉を、東堂は手で細かく裂いていく。湯気とともに、滋味豊かな香りが未来の鼻をくすぐり、きゅっと閉じていた胃が、かすかに反応するのを感じた。
「さらに、薬味も重要だ。これは**生姜(しょうが)**。生姜も『温性』で、脾を温め、その働きを助ける。血行を促進し、発汗を促して湿を発散させる力もある。冷たい性質のきゅうりと、温かい性質の鶏肉や生姜を組み合わせることで、互いの長所を活かしつつ、短所を補い合う。これが、食養生の『処方設計』だ」
東堂は、千切りにしたきゅうりと、裂いた鶏肉をボウルに入れ、そこにすりおろした生姜、醤油、酢、少量の砂糖、そして香ばしいごま油を加えて、さっと和えた。あっという間に、彩りも鮮やかな一品が完成した。さらにその横では、小さな土鍋がことことと音を立てている。蓋を開けると、鶏を蒸した時に出たスープに、冬瓜とクコの実が入った、透き通った黄金色のスープが湯気を立てていた。
「冬瓜もきゅうりと同じく、体の熱と湿を取る力がある。クコの実は、血を補い、目に良い。さあ、未来先生。薬だと思って、少しでもいいから口にしてみなさい」
差し出された小鉢と椀を、未来は恐る恐る受け取った。箸をつけ、まず和え物を一口。シャキシャキとしたきゅうりの食感と、しっとりとした鶏肉の旨味、そして生姜とごま油の爽やかな香りが、口の中に広がった。冷たいのに、生姜の温かさが後からじんわりと追いかけてくる。重かった胃が、その刺激を嫌がるどころか、むしろ喜んで受け入れているような感覚があった。
次に、スープを一口すする。鶏の優しい出汁が、疲れた体に染み渡っていく。ごくんと飲み込むと、食道から胃にかけて、一本の温かい線が描かれるようだった。体の芯が、内側からゆっくりと温められていく。
二口、三口と食べ進めるうちに、忘れていたはずの「美味しい」という感覚が、鮮やかに蘇ってきた。閉ざされていた食欲の扉が、ゆっくりと開かれていく。気づけば、未来は夢中で箸を動かし、差し出された一膳のご飯と共に、全てをきれいに平らげていた。
「…美味しい。先生、すごく、美味しいです。それに、なんだか…体の中から力が湧いてくるみたいです」
食後、温かい番茶をすすりながら未来が言うと、東堂は満足そうに微笑んだ。
「そうだろう。君の体が、本当に必要としていたものだからだよ。栄養素の計算だけでは、この感覚は得られない。食材の持つ『気』を、君の体が感じ取ったのだ」
その日の午後、未来は、午前中のだるさが嘘のように、体が軽くなっているのを感じていた。頭にかかっていた霧も晴れ、仕事に集中できる。食事という、毎日繰り返される営みの中に、これほどまでに深く、人を癒す力があったとは。それは、未来にとって、新たな、そして根源的な発見だった。
研修を終え、家路につく途中、未来はスーパーマーケットに立ち寄った。色とりどりの野菜や肉、魚が並ぶ光景が、いつもとは全く違って見えた。これは涼性、あれは温性。これは気を補い、あれは血を補う。一つ一つの食材が、それぞれの性質を未来に語りかけてくるようだった。
明日は、今日東堂先生に教わったスープを、自分でも作ってみよう。未来は、かぼちゃ(温性・補気)と、小豆(平性・利水)をカゴに入れながら、自然と笑みを浮かべていた。東洋医学の知恵は、クリニックの中だけでなく、この日々の暮らしの中にこそ、豊かに息づいている。そのことに気づいた時、未来の中で、医師としてのあり方、そして一人の人間としての生き方が、また一つ、大きく変わろうとしていた。
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