「なんとなく不調」の正体 ~気・血・水で読み解く自分の体質~

Gaku

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第36話:日本の漢方、中国との違い

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九月も半ばを過ぎると、空の色が一段と深く、高く澄み渡るようになった。空気を満たす光は、夏のそれのような白く燃えるような色ではなく、どこか懐かしさを帯びた、透明な蜂蜜のような色合いをしていた。東堂漢方クリニックの庭では、勢いを誇っていた夏草たちが少しずつ色褪せ始め、その代わりに、風に揺れるススキの穂が銀色に輝き、隅の方に植えられた竜胆(りんどう)が、空の青を映したかのように、凛とした紫色の花を咲かせ始めていた。時折、開け放たれた窓から吹き込んでくる風は、ひんやりと乾いていて、近くの庭先から漂ってくる金木犀の甘い香りを運んできた。

そんな秋晴れの穏やかな昼下がり、未来は診察室の片隅で、これまでに学んだ中医学の理論書を熱心に読み返していた。陰陽、五行、気・血・津液、そして臓腑の生理と病理。その一つ一つが、壮大で緻密な論理体系のもとに、見事に組み上げられている。特に、患者の複雑な症状や情報を、臓腑弁証や六経弁証といったフレームワークに当てはめて分析し、病の根本原因である「証」を導き出すプロセスは、まるで難解な数学の証明を解き明かすかのようで、知的な興奮すら覚えるものだった。

「すごいな…何千年もの時間をかけて、これほどまでに体系的な理論を作り上げるなんて」

未来は、深い感嘆のため息をついた。西洋医学が解剖学や生理学、生化学といった科学的な知見を一つ一つ積み重ねてきたのとは全く違う、哲学的な思索と膨大な臨床経験から生まれた、もう一つの完璧な医学体系がここにはあった。

その日の午後、予約の患者として訪れたのは、四十代の女性、鈴木さんだった。彼女の主訴は、数ヶ月前から続く、原因不明のめまいと耳鳴り、そして時折襲ってくる激しい動悸だった。大学病院の耳鼻科や循環器内科で精密検査を受けても、全く異常は見つからなかったという。

未来は、東堂の許可を得て、問診を担当させてもらうことにした。学んだばかりの中医学理論を実践する、絶好の機会だ。

「鈴木さん、イライラしたり、気分が落ち込んだりすることはありますか?」
「ええ、最近、わけもなく焦ったり、急に悲しくなったりします」
「ため息はよく出ますか?」
「そういえば、無意識に出ていますね…」
「胸や、この脇腹のあたりが張って苦しい感じは?」
「はい、時々あります。特に、仕事でストレスが溜まると…」

未来は、心の中で頷いた。イライラ、憂鬱、ため息、胸脇の張り。これは、全身の気の流れをコントロールする「肝」の機能が失調し、気の流れが滞る「肝気鬱結(かんきうっけつ)」の典型的な症状だ。気の滞りが熱を生み、その熱が頭に昇ってめまいや耳鳴りを引き起こし、心を乱して動悸を起こしているのかもしれない。だとしたら、治療方針は滞った肝の気をスムーズに流す「疏肝理気(そかんりき)」だ。処方は、加味逍遙散(かみしょうようさん)あたりだろうか。

未来が、自分なりの弁証論治に一つの結論を見出し、満足感を覚えかけた、その時だった。

「ふむ。未来先生、素晴らしい問診だ。では、あとは私に任せてもらえるかな」

いつの間にか隣に座っていた東堂が、柔らかな、しかし有無を言わせぬ口調で言った。東堂は、鈴木さんに「少しお体を拝見しますね」と告げると、いつものように脈を診、舌を診た後、やおらベッドに横になってもらった。そして、未来がこれまでの診察で見てきた中でも、特に時間をかけて、入念に彼女のお腹を診始めたのだ。

東堂の指は、みぞおちから下腹部へ、そして脇腹へと、まるで未知の大陸を探検するかのように、ゆっくりと、しかし確かな圧を加えながら動いていく。未来は、その真剣な眼差しから、腹部に現れる所見が、問診で得られた情報と同等、いや、それ以上に重要な意味を持っていることを感じ取った。

やがて、東堂の指が、右の肋骨の下あたりでぴたりと止まった。

[cite_start]「…ここに、抵抗と圧痛がありますな。指を差し込むと、押し返されるような張りがある。これは典型的な**『胸脇苦満(きょうきょうくまん)』**です」[cite: 5]

鈴木さんは「あ、先生、そこです。押されると、奥に響くように痛いです」と顔をしかめた。

東堂は、その所見を得ると、深く頷き、鈴木さんに体を起こすよう促した。そして、未来に向かって、こともなげに言った。

「未来先生、処方は大柴胡湯(だいさいことう)にしよう。このはっきりとした胸脇苦満があれば、まず間違いない」

未来は、あっけにとられた。大柴胡湯。それは、確かに肝の気を巡らせる作用もあるが、どちらかといえば、体力が充実した人の、より強い熱や炎症を取る処方だ。未来が考えていた加味逍遙散とは、かなりニュアンスが違う。そして何より、東堂が処方を決定づけた最後の決め手は、問診で得られた情報ではなく、腹の、たった一つの所見だったのだ。

鈴木さんが会計を済ませて帰った後、未来は、どうしても抑えきれない疑問を東堂にぶつけた。

「先生。なぜ、あれほど腹診を重視されるのですか?私が読んでいる中医学の教科書では、腹診の記述は、脈診や舌診に比べてそれほど多くはありませんでした。先生は、まるで、お腹の所見が最終的な答えだとでも言うように、処方を決められました。何か、理由があるのでしょうか」

その問いを待っていたかのように、東堂は目を細め、診察室の椅子に深く腰掛けた。

「いいところに気がついたね、未来先生。それこそが、この日本という国で育まれてきた漢方医学と、その母体である中国の中医学との、最も大きな違いの一つなのだよ」

窓の外では、秋の陽光が、柔らかく畳の上に降り注いでいる。東堂は、遠い歴史を旅するかのような、静かな口調で語り始めた。

「まず、大前提として、日本の漢方も中国の中医学も、その源流は同じだ。古代中国で生まれ、陰陽五行や臓腑経絡といった偉大な哲学の上に築かれた医学であることに変わりはない」

東堂は、そこで一度言葉を切り、未来の目をじっと見た。

「しかし、海を渡り、この日本の地に根付いた医学は、中国大陸とは少し違う、独自の進化を遂げることになった。特に、江戸時代に起きた一つの『革命』が、その後の日本の漢方の方向性を決定づけたのだよ」

「革命、ですか?」

[cite_start]「そうだ。江戸時代中期まで、日本の漢方医たちも、君が今学んでいるような、中国で発展した緻密でアカデミックな理論(**後世方派**)を金科玉条としていた。[cite: 5] [cite_start]だが、そんな時代に、『難解な理論ばかりをこねくり回すのは、現実の患者を救うことから離れてしまっているのではないか?』と、疑問を呈する者たちが現れた。それが、**古方派(こほうは)**と呼ばれる医師たちだ」[cite: 5]

「古方派…」

[cite_start]「彼らのスローガンは、『傷寒論(しょうかんろん)に還れ』。[cite: 5] [cite_start]後付けの複雑な理論よりも、約二千年前に書かれたとされる、極めて実践的な医学書である『傷寒論』や『金匱要略(きんきようりゃく)』にこそ、医学の真髄があると考えたのだ。[cite: 5] そして、その古方派の巨人ともいえる吉益東洞(よしますとうどう)という医師は、『理論よりも、まず事実。患者の体そのものが示す、客観的なサインこそを重視すべきだ』と説いた」

未来は、息をのんだ。理論よりも、事実。それは、科学者としての訓練を受けてきた未来にとっても、深く共鳴する言葉だった。

[cite_start]「その結果、日本では、中国以上に、患者の体に直接触れて情報を得る**『腹診』**という診断技術が、独自に、そして驚くほどに発展を遂げた。[cite: 4, 5] 難解な理論で頭でっかちになるのではなく、まず患者のお腹に触れて、その声を聞け、と。胸脇苦満があれば、それはストレスによる肝の悲鳴だ。みぞおちが硬くつかえていれば(心下痞硬)、それは胃腸の機能低下のサイン。下腹部に抵抗と圧痛があれば(小腹急結)、それは血の滞り(瘀血)の証拠。腹診は、体内の状態を雄弁に物語る、何より確かな手がかりだと考えられたのだ」

東堂の言葉は、未来が抱いていた疑問の核心を、鮮やかに射抜いていた。東堂が重視する腹診は、単なる一つの診察手技ではなく、日本の漢方医学がたどり着いた、実践主義という名の哲学そのものだったのだ。

[cite_start]「そして、その流れの中から、**『方証相対(ほうしょうそうたい)』**という、もう一つの日本漢方の大きな特徴が生まれた」と東堂は続けた。[cite: 4, 5]

「ほうしょう、そうたい?」

[cite_start]「『この症状と、この身体所見(証)には、この処方(方)が、まるで鍵と鍵穴のように、ぴたりと対応する』という考え方だ。[cite: 4, 5] 複雑な弁証のプロセスを全て経なくても、『胸脇苦満という証があるならば、柴胡という生薬を含む処方(柴胡剤)が対応する』というように、長年の臨床経験の積み重ねから、証と処方を直結させて考える。非常にプラグマティックで、実践的なアプローチだろう?先ほどの鈴木さんの治療は、まさにその考え方に基づいているのだよ」

未来は、目の前の霧が晴れていくような感覚を覚えた。同じ源流を持ちながら、大陸で、より精緻で壮大な理論体系を築き上げた中医学。そして、島国である日本で、理論を削ぎ落とし、目の前の患者の体に現れる「事実」を何よりも重んじる実践的な医療として進化した漢方医学。それは、どちらが優れているという話ではない。それぞれの風土と国民性が、医学の形をかくも変えるという、ダイナミックな歴史の証だった。

「もちろん、中医学の緻密な理論は、病態を深く理解する上で不可欠な、素晴らしい羅針盤だ。だが、時には羅針盤ばかりを見ていて、足元の岩に気づかないこともある。日本の漢方は、足元の岩、つまり患者さんの体に直接触れることで、進むべき道を見つけようとしてきた。私は、その両方の良さを、常に心に留めておきたいと思っているのだよ」

東堂はそう締めくくると、窓の外に目をやった。空はすでに、燃えるような茜色に染まり始め、庭の竜胆の紫が、夕暮れの光の中で一層深く、鮮やかに見えた。数匹の赤とんぼが、まるで何かを探すかのように、円を描きながら飛んでいる。

未来も、その空を見上げた。医学の道は、一本ではない。大陸を渡り、海を越え、その土地の人々の気質に寄り添うようにして、様々に枝分かれし、発展していく。その多様性の豊かさと、歴史の重みに、未来は深い感動を覚えていた。腹診という、温かい「手」の技術に込められた、日本の先人たちのプラグマズムと人間愛。それを知った今、目の前の患者のお腹に触れるという行為が、未来にとって、以前とは全く違う、重みと意味を持つものに変わっていくのを、確かに感じていた。
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