「なんとなく不調」の正体 ~気・血・水で読み解く自分の体質~

Gaku

文字の大きさ
34 / 47

第37話:漢方の歴史① - 模倣から始まった道

しおりを挟む


秋の長雨が、何日も続いていた。世界は、灰色と深緑の濃淡で描かれた水墨画のように、しっとりと濡れていた。東堂漢方クリニックの古い瓦屋根を、しとしとと絶え間なく叩く雨音は、まるで時の流れそのものが刻む拍動のようにも聞こえる。診察室の窓ガラスには、細い雨の筋が無数に伝い落ち、その向こうに見える庭の景色は、輪郭を柔らかく滲ませていた。湿った土の匂い、雨に濡れた葉の青い香り、そして、どこからか漂う金木犀の甘い香りが混じり合い、診察室の空気を満たしていた。

午後の診療が一段落し、患者の途切れた静かな時間。未来は、東堂先生に許しを得て、診察室の奥にある書庫の前に立っていた。そこには、壁一面に古い和綴じの書物が、まるで眠りについているかのように、整然と並べられている。先日の「日本漢方と中医学の違い」の話を聞いてから、未来は、この国で育まれた医学が歩んできた道のりに、強い興味を抱いていた。

一冊の、ひときわ古びた書物を、そっと手に取ってみる。表紙は擦り切れ、紙は飴色に変色し、独特の古い匂いがした。ページをめくると、そこには、現代の活字とは全く違う、流れるような筆文字で、難解な漢文がびっしりと書き連ねられている。病名も、薬の名前も、体の部位を表す言葉さえ、未来が学んできたものとは大きく異なっていた。

「…まるで、外国の書物を読んでいるみたいだわ」

それは、未来が今まで知っていた「医学」とは、地続きでありながら、全く違う源流から流れてきた、大きな河の存在を感じさせた。この深遠な知識の体系は、一体いつ、どこから、どのようにしてこの国にもたらされたのだろうか。

「その書物は、江戸時代に復刻された『医心方(いしんぽう)』の写しだね。日本に現存する、最古の医学書だよ」

背後から、穏やかな声がした。振り返ると、東堂が湯気の立つ湯飲みを二つ手に持ち、微笑みながら立っていた。

「医心方…」

「平安時代に、丹波康頼(たんばのやすより)という宮中の医師が、当時の中国、隋や唐の様々な医学書を引用し、編纂したものだ。いわば、平安時代の医学大事典といったところかな」

東堂は湯飲みを一つ未来に手渡すと、自分も椅子に腰掛け、書庫を懐かしそうに見上げた。

「先生…日本の漢方って、いつ頃から始まったんですか?最初はやっぱり、この『医心方』のように、中国の医学をそっくり真似するところからだったんですよね?」

未来の素朴な問いに、東堂は深く頷いた。彼の視線は、窓の外の雨に濡れる庭石の苔に向けられていた。それは、悠久の時の流れを見つめるような、遠い眼差しだった。

「その通りだ。何事も、初めは『学ぶ』ことから始まる。そして、当時の日本人にとって『学ぶ』とは、すなわち、海の向こうにある偉大な文明の光を、必死に追いかけることだったのだよ」

東堂の歴史講義は、静かな雨音をBGMに、厳かに始まった。

「日本の医学の夜明けは、仏教の伝来と深く関わっている。六世紀頃、朝鮮半島にあった百済(くだら)や新羅(しらぎ)から、仏教の経典と共に、医学の知識や薬物がもたらされた。それが、記録に残る本格的な大陸医学との出会いだ。病に苦しむ人々を救うことは、仏の慈悲を体現する、尊い行いだからね。医術は、仏教と深く結びついてこの国に根を下ろし始めたのだ」

「仏教と、一緒に…」

「そうだ。そして、その流れが大きく花開くきっかけとなったのが、君も歴史の授業で習ったであろう**『遣唐使(けんとうし)』**の派遣だ」

東堂の声のトーンが、少しだけ熱を帯びた。

「七世紀から九世紀にかけて、当時の日本は、世界で最も進んだ文化と国力を持つ大帝国・唐に、国の未来を担うエリートたちを送り込んだ。彼らは、仏教、法律、文学、芸術、そして、医学…唐のあらゆる知識と技術を吸収しようと、命がけで荒れ狂う海を渡ったのだよ」

東風に乗って大陸を目指す、小さな遣唐使船の姿が、未来の脳裏に浮かんだ。何度も難破し、多くの人が志半ばで海の藻屑と消えたという、過酷な旅路。彼らをそこまで突き動かしたものは、一体何だったのだろうか。

「彼らが持ち帰ったものの中に、数えきれないほどの薬物や、最新の医学書があった。中でも、奈良時代に来日した唐の僧、**鑑真(がんじん)**和上の功績は計り知れない。彼は、度重なる航海の失敗で視力を失いながらも、決して日本へ渡ることを諦めず、ついにこの地にたどり着いた。そして、仏教の戒律だけでなく、多くの薬草や、その知識、処方をもたらしてくれた。鑑真和上がいなければ、日本の薬草学の発展は、何十年、いや、百年は遅れていたかもしれない」

東堂は、まるでその場に鑑真がいるかのように、恭しく語った。未来は、ただの歴史上の人物として知っていた鑑真の姿が、にわかに生々しいリアリティを帯びてくるのを感じた。それは、教科書の中の知識ではなく、先人たちの情熱と執念の物語だった。

「当時の朝廷は、国家として、医学を非常に重要視していた。その証拠に、七〇一年に制定された日本初の本格的な法典である『大宝律令』の中には、**『医疾令(いしつりょう)』**という、医師の身分や養成、試験制度に関する細かい規定がすでに盛り込まれている。つまり、医学は個人の技術というだけでなく、国を支える重要な制度として、早くから位置づけられていたのだ」

未来は驚いた。千三百年以上も前に、すでに国家による医療制度の原型があったとは。漢方医学が、単なる民間療法や経験則の集まりではなく、国家事業として、その礎が築かれてきたという事実に、改めて襟を正す思いがした。

「そうして、命がけで持ち帰られ、国家の制度のもとで学ばれた知識の、一つの集大成が、君が今手にしている『医心方』なのだよ」

東堂は、未来が持つ書物を、慈しむような目で見つめた。

「丹波康頼は、宮中の書庫にあったであろう膨大な医学書を渉猟し、病気の原因から診断、治療法、果ては養生法や性医学に至るまで、あらゆる知識を三十巻にもわたってまとめ上げた。そのほとんどが、隋や唐の医学書からの引用だ。だから、君の言う通り、それは『模倣』の産物かもしれない。だがね、未来先生」

東堂は、そこで言葉を切り、未来の顔をまっすぐに見た。

「その『模倣』が、どれほど尊いものだったか、想像できるかね。原本である中国の医学書の多くは、その後の戦乱などで散逸し、今ではもう読むことができない。もし、丹波康頼が『医心方』を編纂してくれていなかったら、永遠に失われていたであろう古代の叡智が、この書物の中には封じ込められているのだ。彼は、先人たちが命がけで持ち帰った知識を、後世へと繋ぐという、重大な使命感を持ってこの大事業に臨んだに違いない。これは、単なる模倣ではない。失われゆく知識の光を、必死で守り、伝えようとした、一人の学究の情熱の結晶なのだよ」

その言葉は、未来の胸に深く、重く響いた。ただ古い書物だと思っていた目の前の一冊が、千年以上もの時を超えて、先人たちの息遣いや情熱を伝える、タイムカプセルのように思えてきた。

しとしとと降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいた。雲の切れ間から、夕暮れ前の最後の光が差し込み、診察室を淡いオレンジ色に染め上げた。雨に洗われた庭の木々は、生き生きとした緑色を取り戻し、葉先に残った水滴が、夕陽を反射してきらきらと輝いている。洗い清められた空気は、どこまでも澄み渡っていた。

未来は、そっと『医心方』のページを閉じた。漢方医学の歴史。それは、ただの過去の出来事の羅列ではない。海の向こうの偉大な文明に憧れ、その光を求め、命を賭して知識を持ち帰った遣唐使たち。来日を果たせぬまま、あるいは帰国を果たせぬまま、異国の土となった無数の人々。そして、持ち帰られた知識の断片を、後世のためにと懸命に紡ぎ、編み上げた学者たち。数えきれない人々の情熱と努力が、幾重にも織り重なって、今、この場所まで繋がっている。

その壮大な時間の流れを前にして、未来は、自分の存在が、そして自分が学んでいる医学が、大きな歴史の奔流の中の、ほんの一滴に過ぎないことを痛感した。しかし同時に、その一滴として、この流れを受け継ぎ、未来へと繋いでいく責任があることも、強く感じていた。

夕暮れの光が静かに満ちる診察室で、未来は、千年の時を超えて語りかけてくる先人たちの声に、静かに耳を澄ませていた。日本の医学の長い旅路は、この、ひたむきな「模倣」から始まったのだ。そして、その旅が、これからどのような独自の展開を見せていくのか。未来の探求心は、秋の空のように、どこまでも深く、澄み渡っていくのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

椿の国の後宮のはなし

犬噛 クロ
キャラ文芸
架空の国の後宮物語。 若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。 有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。 しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。 幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……? あまり暗くなり過ぎない後宮物語。 雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。 ※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。

地味な薬草師だった俺が、実は村の生命線でした

有賀冬馬
ファンタジー
恋人に裏切られ、村を追い出された青年エド。彼の地味な仕事は誰にも評価されず、ただの「役立たず」として切り捨てられた。だが、それは間違いだった。旅の魔術師エリーゼと出会った彼は、自分の能力が秘めていた真の価値を知る。魔術と薬草を組み合わせた彼の秘薬は、やがて王国を救うほどの力となり、エドは英雄として名を馳せていく。そして、彼が去った村は、彼がいた頃には気づかなかった「地味な薬」の恩恵を失い、静かに破滅へと向かっていくのだった。

残念ながら主人公はゲスでした。~異世界転移したら空気を操る魔法を得て世界最強に。好き放題に無双する俺を誰も止められない!~

日和崎よしな
ファンタジー
―あらすじ― 異世界に転移したゲス・エストは精霊と契約して空気操作の魔法を獲得する。 強力な魔法を得たが、彼の真の強さは的確な洞察力や魔法の応用力といった優れた頭脳にあった。 ゲス・エストは最強の存在を目指し、しがらみのない異世界で容赦なく暴れまくる! ―作品について― 完結しました。 全302話(プロローグ、エピローグ含む),約100万字。

【12月末日公開終了】これは裏切りですか?

たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。 だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。 そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?

悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる

竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。 評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。 身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。

四人の令嬢と公爵と

オゾン層
恋愛
「貴様らのような田舎娘は性根が腐っている」  ガルシア辺境伯の令嬢である4人の姉妹は、アミーレア国の王太子の婚約候補者として今の今まで王太子に尽くしていた。国王からも認められた有力な婚約候補者であったにも関わらず、無知なロズワート王太子にある日婚約解消を一方的に告げられ、挙げ句の果てに同じく婚約候補者であったクラシウス男爵の令嬢であるアレッサ嬢の企みによって冤罪をかけられ、隣国を治める『化物公爵』の婚約者として輿入という名目の国外追放を受けてしまう。  人間以外の種族で溢れた隣国ベルフェナールにいるとされる化物公爵ことラヴェルト公爵の兄弟はその恐ろしい容姿から他国からも黒い噂が絶えず、ガルシア姉妹は怯えながらも覚悟を決めてベルフェナール国へと足を踏み入れるが…… 「おはよう。よく眠れたかな」 「お前すごく可愛いな!!」 「花がよく似合うね」 「どうか今日も共に過ごしてほしい」  彼らは見た目に反し、誠実で純愛な兄弟だった。  一方追放を告げられたアミーレア王国では、ガルシア辺境伯令嬢との婚約解消を聞きつけた国王がロズワート王太子に対して右ストレートをかましていた。 ※初ジャンルの小説なので不自然な点が多いかもしれませんがご了承ください

芙蓉は後宮で花開く

速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。 借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー カクヨムでも連載しております。

処理中です...