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第39話:漢方の歴史③ - 実践の「古方派」
しおりを挟む十一月に入り、空気は冬の匂いをはっきりと含み始めた。東堂漢方クリニックの庭の楓は、燃えるような紅葉の季節を終え、今はその枝から、一枚、また一枚と、乾いた葉を惜しげもなく手放している。風が吹くたびに、赤や黄色の葉がカサカサと音を立てて宙を舞い、地面に降り積もっては、色鮮やかな絨毯を織りなしていた。日差しはすっかりとその力を弱め、西に傾くのも早い。午後の診察室に差し込む光は、白々しく、どこか心もとなくて、物の影を長く、長く引き伸ばしていた。
そんな、晩秋の物寂しい夕暮れ時。未来は、東堂先生の書庫で、後世方派の医学書を読み解くのに苦心していた。陰陽五行の複雑な相生・相克関係、天人相関の壮大な思想、七情の乱れが臓腑に及ぼす微細な影響。その理論の精緻さと深遠さには心から感嘆するものの、同時に、どこか現実の患者の苦しみから遊離した、観念的な遊戯のようにも感じられてしまう瞬間があった。この複雑怪奇な理論の網の目を、本当に全ての医師が完璧に理解し、目の前の患者に的確に応用できていたのだろうか。
「先生、後世方派の理論は、学べば学ぶほどその深さに圧倒されます。ですが、正直に言うと、あまりに複雑で…本当に、これが実践の場で万能だったのか、少しだけ疑問に思うんです」
古い書物の整理をしていた東堂に、未来は素直な感想を漏らした。東堂は、書物の埃を丁寧に手で払いながら、その言葉に深く頷いた。
「その感覚は、とても正しい。そして、君と全く同じことを考えた者たちが、江戸時代の日本に現れた。彼らは、後世方派の築き上げた壮麗な理論体系を、静かに、しかし根本から揺さぶることになる。それが、日本の漢方の歴史における、最も大きな革命の一つ、**『古方派(こほうは)』**の登場だよ」
東堂の声には、いつもの穏やかさとは違う、何か力強い響きが込められていた。彼は、窓の外、はらはらと散りゆく最後の紅葉に目をやりながら、歴史の大きな転換点について語り始めた。
「江戸時代に入り、二百数十年続く泰平の世が訪れると、人々の価値観も少しずつ変わっていった。戦国の世の混乱が収まり、社会が安定すると、学問の世界でも、思弁的な理屈よりも、目に見える事実や、実証的な知見を重んじる空気が生まれてきた。そんな時代の空気の中で、後世方派の、あまりに複雑で難解な理論は、次第に『現実離れした空論ではないか』と見なされるようになっていったのだ」
未来は、自分が抱いた疑問が、三百年前の医師たちも共有していたものだと知り、不思議な親近感を覚えた。
[cite_start]「そして、その空気に火をつけたのが、名古屋の医師、名古屋玄医(なごやげんい)といった、先駆的な思想家たちだった。彼らは、『医学は、人を救うための実践の学問だ。机上の空論ではない』と、声を大にして叫んだ。そして、後世方派が後付けで作り上げた複雑な理論を、『後付けの空論』と痛烈に批判したのだ」 [cite: 5]
未来は息を呑んだ。それは、絶対的な権威に対する、果敢な挑戦だった。
「では、彼らは、理論の代わりに何を拠り所にしたのですか?」
[cite_start]「彼らが光を見出したのは、遥か昔、千数百年前の古典だった」と東堂は続けた。「彼らのスローガンは、ただ一つ。**『傷寒論(しょうかんろん)に還れ』**。 [cite: 5] [cite_start]後漢の時代、張仲景(ちょうちゅうけい)という医師が書いたとされる、あの伝説的な臨床医学書にこそ、医学の真髄が隠されている、と彼らは考えたのだ」 [cite: 5]
「どうして、そんな古い書物に?」
「なぜなら」と東堂は力強く言った。「そこには、陰陽五行の小難しい理屈など、ほとんど書かれていなかったからだ。書かれていたのは、ただ、揺るぎない**『事実』**だった。『こういう症状の患者がいた。こういう脈で、こういう腹だった。そこで、この薬を使ったら、こうなって治った』。それだけだ。そこには、解釈の余地のない、臨床という名の厳然たる事実だけが、簡潔に、力強く記されていた。古方派の医師たちは、その実践主義の輝きに、魂を揺さぶられたのだよ」
強い木枯らしが、窓の外でごう、と唸りを上げた。その風に煽られ、楓の枝に残っていた最後の葉が、一斉に吹き飛ばされていく。あっという間に枝は裸になり、その力強い幹と、天に向かって伸びる枝の、本来の骨格があらわになった。未来には、その光景が、古方派が後世方派のまとっていた理論という名の装飾を剥ぎ取り、医学の、むき出しの幹を露わにした革命の姿そのものに見えた。
「彼ら古方派の思想は、実に明快で、力強いものだった」と東堂は語る。
[cite_start]「第一に、**徹底した事実の重視**。彼らは、理論で患者を判断するのではなく、患者の体が示す客観的なサインこそが全てだと考えた。特に、日本漢方の特徴である**『腹診』**を、診断の最も重要なツールとして磨き上げた。 [cite: 5] 腹は嘘をつかない。そこに現れる圧痛や抵抗、硬さこそが、体内の状態を映し出す、何より確かな鏡なのだと」
「第二に、**徹底した実践主義**。彼らは、『この薬には、脾の気を補う効能がある』といった後世方的な解釈を疑った。そして、『この薬を飲ませたら、実際に体はどうなったか』という薬の作用(薬能)そのものを、徹底的に観察し、検証し直した。彼らにとって、薬は体質を調整するためのものではなく、病という『毒』を攻撃するための『武器』だったのだ」
「武器…」
「そうだ。ここに、後世方派との決定的な治療観の違いがある。後世方派が、弱った体を補い、バランスを整えるという、いわば『内政』を重視したのに対し、古方派は、**体内にいる病の原因(毒)を、薬の力で積極的に攻撃し、汗や便、尿として体外に排出すれば、人間の生命力(自然治癒力)は自ずと回復する**、と考えた。非常に攻撃的で、ダイナミックな治療観だろう?」
それは、西洋医学の、病原体を抗生物質で叩く、という考え方にも通じる、力強い思想だった。未来は、漢方医学が持つイメージが、また一つ、大きく覆されるのを感じていた。それは、穏やかで優しいだけではない。時には、力強く、鋭く、病と闘う、戦士のような側面も持っているのだ。
[cite_start]「古方派の登場は、日本の漢方界に、まさに革命をもたらした。そのシンプルで力強い思想は、多くの医師たちを魅了し、江戸中期以降、瞬く間に主流となっていった。そして、この古方派の中から、のちに『漢方の巨人』と呼ばれる、一人の天才的な医師が登場することになる。その名は、**吉益東洞(よしますとうどう)**。彼の登場によって、古方派の思想は、その頂点を極めることになるのだが…その話は、また今度にしよう」 [cite: 5]
東堂は、そう言って話を締めくくった。外は、すっかり夜の闇に包まれ、冷たい空気が診察室にまで流れ込んでくる。東堂は立ち上がると、古い火鉢に炭をくべ、火を熾し始めた。ぱちぱちと、炭の爆ぜる音が、静かな室内に温かく響く。
未来は、窓の外の、すっかり葉を落とした裸木を、じっと見つめていた。飾りをすべて脱ぎ捨てたその姿は、寂しいどころか、むしろ厳しい冬を越すための、生命力そのものに満ち溢れているように見えた。
漢方医学の歴史。それは、静的な知識の蓄積などではなかった。後世方派という、精緻な理論を積み上げる流れと、古方派という、実践の力で全てを削ぎ落とそうとする流れ。その二つの、全く異なるベクトルを持つ力が、激しくぶつかり合い、論争を繰り広げながら、螺旋を描くようにして、この国の医学を、より深く、より豊かなものへと鍛え上げてきたのだ。
赤々と燃える炭火を見つめながら、未来は、医学における「理論」と「実践」という、永遠のテーマに思いを馳せていた。どちらが欠けても、医学は成り立たない。その両輪が、いかにして互いを高め合っていくのか。その答えの鍵が、この日本の漢方の、ダイナミックな歴史の中に隠されているような気がした。冷たい夜風の音を聞きながら、未来の心は、次に語られるであろう「吉益東洞」という巨人の物語への期待に、静かに熱くなっていた。
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