37 / 47
第40話:古方派の巨人・吉益東洞
しおりを挟む十一月も半ばを過ぎると、朝の空気に刃物のような鋭さが混じり始め、冬の訪れはもはや、誰の目にも明らかだった。東堂漢方クリニックの庭では、色とりどりの葉をすっかり落とした木々が、その黒々とした枝を、冷たく澄み切った空に向かって、まるで祈るかのように突き上げている。地面を覆っていた落ち葉の絨毯も、朝露や霜に濡れて色を失い、今は土に還る準備を静かに始めていた。
ある朝、未来がクリニックの窓を開けると、庭全体がうっすらと白い化粧を施されていた。初霜だ。未来が吐く息は、白く、形となって、冬の空気の中に溶けていく。そのあまりの透明感と、静謐な美しさに、未来はしばし言葉を失った。全ての色と音とが吸い取られ、世界が白と黒のモノクロームになったかのような、厳しくも清らかな光景だった。
前回の「古方派」の革命の話を聞いて以来、未来の頭の中は、その頂点に立ったという**吉益東洞(よしますとうどう)**という、謎めいた医師のことでいっぱいだった。一体、どんな人物だったのだろう。時代の主流であった後世方派の複雑な理論を「空論」と一蹴し、漢方の歴史を塗り替えたという、その思想の核心とは何だったのだろうか。
その日の午後、未来は、東堂先生の書庫で、明らかにこれまでとは違うオーラを放つ数冊の書物を発見した。その一つは『薬徴(やくちょう)』と題され、一つ一つの生薬について、それが実際にどのような症状に効いたか、という「事実」だけが、まるで判例集のように、無駄な装飾を一切排して淡々と記されていた。もう一つは『類聚方(るいじゅほう)』と題され、『傷寒論』の条文を、東洞独自の解釈で再構成したものだった。どちらの書物からも、著者の、一切の曖昧さを許さない、鋼のような意志が伝わってくるようだった。
「先生、これが…吉益東洞の…?」
お茶を淹れていた東堂に尋ねると、彼は未来の手元にある書物に目をやり、静かに、しかし深く頷いた。
「そうだ。それらは、日本漢方の歴史が生んだ、最も先鋭的で、最も純粋な思想の結晶だよ」
東堂は、火鉢のそばに椅子を寄せると、まるで伝説の英雄譚でも語るかのように、厳かな口調で話し始めた。その目は、遥か江戸の世を見つめているかのようだった。
「吉益東洞は、安芸国(現在の広島県)の貧しい武家の生まれだった。だが、幼い頃から学問への情熱は凄まじく、独学で医学の道を志した。そして、三十代も終わりに近づいた頃、当時、医学の中心地であった京都へと上る。後世方派の権威たちが、難解な理論を論じ合っていたその真っ只中に、彼は、たった一人で、実践の『古方』の旗を掲げて乗り込んでいったのだ。まさに、革命家そのものだった」
未来は、ごくりと息をのんだ。何のバックボーンもない一人の男が、巨大な権威にたった一人で挑む。その姿を想像するだけで、鳥肌が立った。
[cite_start]「そして、彼がその手に携えていた、あまりにも鋭利な武器。それが、君もプロットで読んだであろう、**『万病一毒説(まんびょういちどくせつ)』**という、究極にシンプルな思想だった」 [cite: 5]
「万病、一毒…」
[cite_start]「そうだ。東洞は、こう看破した。『病気の種類は、万とあるように見える。しかし、その原因は、突き詰めれば、**体内に生じた、ただ一つの『毒』である**』とね」 [cite: 5]
その言葉の持つ、圧倒的な単純さと力強さに、未来はめまいを覚えた。
「毒、ですか?具体的には、どういう…」
「東洞の言う『毒』とは、必ずしも外から侵入する毒物だけを指すのではない。気や血、水といった、本来は体を巡っているべきものが、何らかの原因で滞ったり、偏ったりして、体にとっての『異物』と化したもの。それら全てを、彼は『毒』と呼んだ。そして、彼は、さらに過激な言葉を言い放つ。『人体に病は無く、あるのはただ毒の在るのみ』と」
未来は、その言葉の意味を懸命に理解しようとした。人体に病は無い?
「どういう意味か、分かるかね?」と東堂は問うた。「それは、人間の体そのものは、本来、完璧な調和を保った存在なのだ、という、東洞の絶対的な信頼の表明なのだよ。体そのものが病んでいるわけではない。ただ、そこに居るべきでない『毒』という異物が、一時的に存在しているだけなのだ、と。だから、病気を複雑に考える必要など全くない。ただ、その毒がどこに在るのかを探し出し、取り除きさえすれば、体は自ずと、本来の完璧な状態に戻っていく。これが、東洞の思想の根幹だ」
なんとラディカルで、なんと力強い人間観だろう。未来は、畏敬の念に打たれた。
[cite_start]「そして、この思想から導き出される治療法もまた、究極にシンプルだった。つまり、**『体内に在る毒を、薬の力で攻め、体外に排出すればよい』**。 [cite: 5] ただ、それだけだ。後世方派が説くような、『弱った体を補う』などという、まどろっこしい考えは一切ない。むしろ、体を補う薬は、かえって毒を体内に留めてしまう、とさえ考えた。彼は、『医は、ただ毒を去るを以て能となす』と言い切った。医者の仕事は、ただ毒を取り去ること。それ以上でも、それ以下でもない、とね」
それは、あまりにもストイックで、厳格な思想だった。優しく寄り添う医療とは、対極にある。だが、その根底には、人間が本来持つ生命力への、揺るぎない信頼があった。
「では、先生。その『毒』が、体のどこに在るのかを、東洞はどうやって見つけたのですか?」
[cite_start]「それこそが、彼の真骨頂だ」と東堂は言った。「彼が、毒の在り処を特定する、唯一絶対の手段としたもの。それが、**腹診**だよ」 [cite: 5]
「腹診…!」
「そうだ。東洞にとって、腹診は、もはや単なる診断法ではなかった。それは、『毒』の存在証明そのものだった。彼は、患者の言葉すら、『妄(みだり)に信用すべからず』と言い切った。患者の訴えは主観であり、嘘や思い込みが混じる。しかし、体に触れて得られる所見、特に腹の所見は、嘘をつくことのない、客観的な事実である、と。彼は、自らの指先だけを信じ、腹部に現れる圧痛や抵抗、硬結といったサインから、毒の本体を正確に突き止めようとしたのだ。その執念は、まさに鬼気迫るものがあったと言われている」
未来は、自分の手のひらを見つめた。この手で、患者の腹に触れる。その行為に、これほどまでの重みと、哲学が込められていたとは。
東洞の思想は、あまりに純粋で、鋭利で、そして、少し危険な香りすらした。全てを「毒」の一言で片付けてしまう単純さ。患者の訴えよりも、自らの所見を優先する非情さ。それは、一歩間違えれば、独善的な医療に陥りかねない危うさもはらんでいた。
「だが」と東堂は、未来の心を見透かしたかのように続けた。「彼の思想が、多くの医師を熱狂させ、漢方の歴史を塗り替えたのも、また事実だ。なぜなら、彼の方法は、驚くほどの結果を出したからだよ。後世方派の医師たちが、難解な理論をこねくり回して治せなかった病を、東洞は、腹を診て、毒を見抜き、それを追い出す処方を投薬するだけで、次々と治していった。その明快さと力強さは、当時の人々にとって、まさに暗闇を切り裂く一筋の光のように見えたのだろう」
ぱち、ぱち、と火鉢の炭が静かに爆ぜる。外はすっかり闇に沈み、冷たい冬の夜が始まっていた。未来は、窓の外の夜空を見上げた。雲一つない空に、冬の星座が、凍てつくような光を放って、瞬いている。オリオン座の三ツ星が、まるで研ぎ澄まされた刃のように、鋭く輝いていた。
吉益東洞。彼が見つめていた医学の世界もまた、この冬の夜空のように、一切の無駄がなく、厳しく、そして、どこまでも純粋な法則に貫かれた世界だったのかもしれない。
未来は、その孤高の天才医師の姿に、畏怖と、そして、抗いがたいほどの魅力を感じていた。それは、あまりに人間離れした情熱であり、狂気と紙一重の信念だった。しかし、その根底にある、人間の生命力への絶対的な信頼は、時代を超えて、今、未来の心に、温かい火を灯した。医学の道には、こんなにも険しく、孤高で、しかし美しい頂が存在する。その事実を知った今、未来は、医師として歩むべき自分の道を、改めて深く見つめ直さずにはいられなかった。
0
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
【12月末日公開終了】これは裏切りですか?
たぬきち25番
恋愛
転生してすぐに婚約破棄をされたアリシアは、嫁ぎ先を失い、実家に戻ることになった。
だが、実家戻ると『婚約破棄をされた娘』と噂され、家族の迷惑になっているので出て行く必要がある。
そんな時、母から住み込みの仕事を紹介されたアリシアは……?
四人の令嬢と公爵と
オゾン層
恋愛
「貴様らのような田舎娘は性根が腐っている」
ガルシア辺境伯の令嬢である4人の姉妹は、アミーレア国の王太子の婚約候補者として今の今まで王太子に尽くしていた。国王からも認められた有力な婚約候補者であったにも関わらず、無知なロズワート王太子にある日婚約解消を一方的に告げられ、挙げ句の果てに同じく婚約候補者であったクラシウス男爵の令嬢であるアレッサ嬢の企みによって冤罪をかけられ、隣国を治める『化物公爵』の婚約者として輿入という名目の国外追放を受けてしまう。
人間以外の種族で溢れた隣国ベルフェナールにいるとされる化物公爵ことラヴェルト公爵の兄弟はその恐ろしい容姿から他国からも黒い噂が絶えず、ガルシア姉妹は怯えながらも覚悟を決めてベルフェナール国へと足を踏み入れるが……
「おはよう。よく眠れたかな」
「お前すごく可愛いな!!」
「花がよく似合うね」
「どうか今日も共に過ごしてほしい」
彼らは見た目に反し、誠実で純愛な兄弟だった。
一方追放を告げられたアミーレア王国では、ガルシア辺境伯令嬢との婚約解消を聞きつけた国王がロズワート王太子に対して右ストレートをかましていた。
※初ジャンルの小説なので不自然な点が多いかもしれませんがご了承ください
残念ながら主人公はゲスでした。~異世界転移したら空気を操る魔法を得て世界最強に。好き放題に無双する俺を誰も止められない!~
日和崎よしな
ファンタジー
―あらすじ―
異世界に転移したゲス・エストは精霊と契約して空気操作の魔法を獲得する。
強力な魔法を得たが、彼の真の強さは的確な洞察力や魔法の応用力といった優れた頭脳にあった。
ゲス・エストは最強の存在を目指し、しがらみのない異世界で容赦なく暴れまくる!
―作品について―
完結しました。
全302話(プロローグ、エピローグ含む),約100万字。
氷弾の魔術師
カタナヅキ
ファンタジー
――上級魔法なんか必要ない、下級魔法一つだけで魔導士を目指す少年の物語――
平民でありながら魔法が扱う才能がある事が判明した少年「コオリ」は魔法学園に入学する事が決まった。彼の国では魔法の適性がある人間は魔法学園に入学する決まりがあり、急遽コオリは魔法学園が存在する王都へ向かう事になった。しかし、王都に辿り着く前に彼は自分と同世代の魔術師と比べて圧倒的に魔力量が少ない事が発覚した。
しかし、魔力が少ないからこそ利点がある事を知ったコオリは決意した。他の者は一日でも早く上級魔法の習得に励む中、コオリは自分が扱える下級魔法だけを極め、一流の魔術師の証である「魔導士」の称号を得る事を誓う。そして他の魔術師は少年が強くなる事で気づかされていく。魔力が少ないというのは欠点とは限らず、むしろ優れた才能になり得る事を――
※旧作「下級魔導士と呼ばれた少年」のリメイクとなりますが、設定と物語の内容が大きく変わります。
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
『急所』を突いてドロップ率100%。魔物から奪ったSSRスキルと最強装備で、俺だけが規格外の冒険者になる
仙道
ファンタジー
気がつくと、俺は森の中に立っていた。目の前には実体化した女神がいて、ここがステータスやスキルの存在する異世界だと告げてくる。女神は俺に特典として【鑑定】と、魔物の『ドロップ急所』が見える眼を与えて消えた。 この世界では、魔物は倒した際に稀にアイテムやスキルを落とす。俺の眼には、魔物の体に赤い光の点が見えた。そこを攻撃して倒せば、【鑑定】で表示されたレアアイテムが確実に手に入るのだ。 俺は実験のために、森でオークに襲われているエルフの少女を見つける。オークのドロップリストには『剛力の腕輪(攻撃力+500)』があった。俺はエルフを助けるというよりも、その腕輪が欲しくてオークの急所を剣で貫く。 オークは光となって消え、俺の手には強力な腕輪が残った。 腰を抜かしていたエルフの少女、リーナは俺の圧倒的な一撃と、伝説級の装備を平然と手に入れる姿を見て、俺に同行を申し出る。 俺は効率よく強くなるために、彼女を前衛の盾役として採用した。 こうして、欲しいドロップ品を狙って魔物を狩り続ける、俺の異世界冒険が始まる。
12/23 HOT男性向け1位
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる