「なんとなく不調」の正体 ~気・血・水で読み解く自分の体質~

Gaku

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第四十四話:韓国の「韓医学(ハニハク)」と「四象医学」

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三月も半ばを過ぎると、世界はそれまで溜め込んでいた色彩を、まるで堰を切ったように一斉に解き放ち始める。東堂漢方クリニックのささやかな庭は、今や春の光と色で満ち溢れ、訪れる者の心を浮き立たせた。つい先日まで主役だった梅の木は、その花びらを風に預けて若葉を芽吹かせ始め、代わって、ふっくらとした桃の花が愛らしいピンク色で空を飾り、大ぶりの木蓮が純白の花を天に向かって誇らしげに咲かせている。

地面に目をやれば、水仙のすっきりとした白と黄色が風に揺れ、ムスカリの深い青紫が群生し、足元を賑わせている。研修医の本田未来(ほんだみらい)がクリニックの引き戸を開けると、外の喧騒を洗い流すような漢方薬の穏やかな香りに混じって、開け放たれた窓から、沈丁花(じんちょうげ)のむせ返るほどに甘い香りが流れ込んできた。それは、生命の謳歌そのもののような、濃厚で華やかな春の香りだった。

「おはようございます、先生」

「おお、未来先生。おはよう。見事な春爛漫ですな。庭の木々も鳥たちも、なんだかそわそわしているように見える」

東堂宗右衛門(とうどうそうえもん)は、文机から顔を上げ、柔らかな日差しが差し込む窓の外に目を細めた。その声も、どことなく春の陽気に誘われたように、いつもより少し明るく弾んでいるように聞こえた。

この一年、未来はこのクリニックで様々なことを学んできた。陰陽五行の壮大な世界観、気・血・水という生命の捉え方、解剖学とは全く違う「臓腑」の概念。そして、理論よりも実践を重んじる日本漢方の真髄、「方証相対」と「腹診」。そのどれもが、西洋医学の常識しか知らなかった彼女にとって、驚きと発見の連続だった。

当初は一つの、巨大で monolithic な「東洋医学」という山を登っているつもりだった。しかし、学びが進むにつれて、その山には、中国から続く王道もあれば、日本で切り拓かれた独自の登山道もあることに気づいた。そして先日は、WHOという世界的な組織が、その山全体の価値を認め、新しい地図を作ろうとしていることまで知った。自分の立っている場所が、決して閉鎖的で時代遅れな場所ではないのだという確信は、未来に大きな勇気を与えてくれた。

その日の午前中、クリニックに一人の初診の女性が訪れた。キムさんという、六十代半ばの、朗らかで上品な佇まいの女性だった。長年、日本で暮らしているという。主訴は、数年前から続く膝の痛みと、時折起こる動悸だった。

東堂はいつものように、時間をかけて丁寧に四診を行った。問診では、症状だけでなく、キムさんが生まれ育った韓国での食生活や、ご両親の体質にまで話が及んだ。未来もその対話を興味深く聞いていた。

一通りの診察を終え、東堂が処方を考えている時だった。キムさんが、ふと思い出したように言った。

「そういえば、昔、韓国にいた母が私のことをよく『お前は太陰人(テウミン)だから、体を動かすのを面倒くさがっちゃいけない。もっと汗をかきなさい』なんて、口癖のように言っていましたわ。当時は何のことかさっぱり分かりませんでしたけれど」

「ほう。お母様は、四象医学をご存じだったのですな」

東堂が、感心したように相槌を打った。

「ささん…いがく?さあ、どうなんでしょう。昔の人の言うことですから。ただの言い伝えのようなものかもしれませんわね」

キムさんはそう言って、屈託なく笑った。

その「太陰人(テウミン)」という、呪文のような不思議な言葉と、それに対する東堂の反応が、未来の心に強く引っかかった。

キムさんが満足そうな顔で薬を受け取り、帰って行った後、未来は早速、東堂に質問した。

「先生。先ほどの患者さんがおっしゃっていた、『太陰人』というのは、一体何なのですか?先生は『四象医学』とおっしゃいましたが…」

「よくぞ聞いてくれた、未来先生。ちょうど良い機会だ。我々はこれまで、中国の中医学と日本の漢方医学を中心に学んできたが、東洋医学の広大な森には、他にも豊かで興味深い木々が育っている。その中でも、お隣の国、韓国で花開いた『韓医学(ハニハク)』、そしてその象徴ともいえる『四象医学(ササンウィハク)』は、我々とはまた違った視点から人間を見つめる、非常にユニークな体系なのだよ」

東堂は、火鉢の鉄瓶から湯呑に白湯を注ぎながら、楽しそうに語り始めた。春の温かい日差しが、立ち上る湯気を黄金色に染めている。

[cite_start]「四象医学はな、今から百年ほど前、朝鮮王朝時代の李済馬(イ・ジェマ)という傑出した医学者によって創始された、世界でも類を見ない独創的な体質医学だ」 [cite: 3]

「体質医学、ですか」

[cite_start]「そうだ。日本漢方も『証』という形で体質を重視するが、四象医学はさらに踏み込む。人間は生まれながらにして、決して変わることのない、四つの体質のいずれかに分類される、と考えたのだ。それが、『太陽人(テヤンイン)』『太陰人(テウミン)』『少陽人(ソヤンイン)』、そして『少陰人(ソウミン)』の四つだ」 [cite: 3]

未来は、その奇妙な名前に目を丸くした。まるで、古代の神話か、ファンタジー小説の登場人物のようだ。

「まるで、血液型占いみたいですね…」

「ははは。そう思うのも無理はない。だが、その根底には、我々が学んできた臓腑論に基づいた、しっかりとした医学理論がある。李済馬は、人間には生まれつき、臓腑の大きさに大小、つまり機能に強弱の偏りがある、と考えた。その『偏り』こそが、人の性格、体つき、かかりやすい病気、そして合う食べ物までを決定づける、と考えたのだ」

東堂は、指を折りながら、それぞれの特徴を解説し始めた。

「まず、『太陰人(テウミン)』。先ほどのキムさんのお母様が言っていたタイプだな。これは、五臓の中の『肝(かん)』が大きく、機能が充実しているが、逆に『肺(はい)』が小さく、機能が弱い体質だ。肝の機能が強いから、どっしりと落ち着いていて、忍耐強く、物事を着実に成し遂げる力がある。体格もがっしりとしていることが多い。だが、肺の機能が弱いから、気の巡りが滞りやすく、内に溜め込みやすい。一度欲望を持つと執着し、変化を嫌う頑固さもある。そして、呼吸器系や循環器系の病気にかかりやすい、とされる」

「次に、『少陰人(ソウミン)』。これは太陰人とは逆に、『腎(じん)』が強く、『脾(ひ)』、つまり消化器系が弱い体質だ。腎が強いから、物事を深く考え、繊細で、丁寧。見た目も華奢で、物静かな印象を与えることが多い。だが、脾が弱いから、消化機能が弱く、体が冷えやすい。そして、一度くよくよと考え始めると、嫉妬深くなったり、自分の殻に閉じこもってしまったりする傾向がある」

未来は、自分の周りの人々の顔を思い浮かべていた。確かに、そんなタイプの人がいるような気がする。

「そして、『少陽人(ソヤンイン)』。これは脾が強く、腎が弱い体質。脾の消化吸収能力が高いから、エネルギッシュで、行動的。明るく快活で、物事に熱中しやすい。正義感も強い。だが、腎の機能が弱いため、下半身が弱く、落ち着きがない。熱しやすく冷めやすい面があり、物事を最後までやり遂げるのが苦手だったり、計画性に欠けたりする」

「最後に、『太陽人(テヤンイン)』。これは肺が強く、肝が弱い体質だ。肺が強いから、発想が独創的で、カリスマ性があり、人々を引っ張っていく力がある。しかし、肝が弱いので、人との協調が苦手で、時に独善的で攻撃的になりやすい。この太陽人は、四つのタイプの中で最も数が少なく、非常に稀な存在だとされている」

太陽、太陰、少陽、少陰。陰陽の組み合わせから生まれた四つの象徴。それは、人を単純に分類するだけでなく、それぞれの長所と短所、つまり光と影の部分を、的確に描き出しているように未来には思えた。

「四象医学の面白いところは、治療方針が非常に明確なことだ」と東堂は続けた。
「病気の原因は、その人が持つ臓腑のアンバランス、つまり『体質の偏り』にあるのだから、治療の目的は、その偏りを是正することになる。弱い臓腑の機能を補い、強すぎる臓腑の機能を抑える。そのために、体質ごとに使うべき漢方薬も、食べるべき食物も、全く違うと考えられている」

「食べ物まで、ですか?」

「そうだ。例えば、体が冷えやすく消化器が弱い少陰人には、体を温め、消化を助ける生姜やネギ、鶏肉などが良いとされる。逆に、体に熱がこもりやすい少陽人には、体の熱を冷ますきゅうりや豚肉、緑豆などが合う、という具合だ。その人の体質に合わないものを食べると、それが毒となって病気を引き起こすとさえ考えられている。キムさんのお母様が言っていたのは、まさにこのことだよ。『肝』が強く、内にこもりやすい太陰人は、もっと発散する力を持つ『肺』の機能を高めるために、体を動かして汗をかくことが、何よりの養生になるのだ」

未来は、深い感銘を受けていた。それは、日本漢方が「今のあなたの状態(証)」を重視するのに対し、四象医学は「あなたはそもそもどういう人間なのか(体質)」という、もっと根源的な問いから出発しているように思えた。アプローチは違うが、どちらも人間を深く洞察しようとする、叡智の体系であることに変わりはない。

「先生のクリニックでは、この四象医学は使わないのですか?」
未来は、素朴な疑問を口にした。

「良い質問だ」
東堂は微笑んだ。
「私自身、四象医学の理論には深い敬意を持っているし、人間を理解する上での素晴らしい視点だと思っている。だが、私は日本の漢方家だ。この国の気候風土の中で、我々の先達が、日本人の体を診るために、身を削るような思いで築き上げてきた『方証相対』と『腹診』という実践知を、何よりも信頼している。それは、どちらが優れているという話ではない。フランス料理と懐石料理に優劣がないのと同じで、文化と歴史に根差した、アプローチの違いなのだよ」

東ako, 彼は続けた。
「大切なのは、一つの考え方に凝り固まらないことだ。東洋医学という大きな山には、様々な登り口がある。中国の緻密な理論の道、韓国の体質を見極める道、そして我々日本の、腹の声を聴く道。どの道から登っても、頂から見える『人間を癒す』という景色は、きっと同じように尊いはずだ。だからこそ、我々は隣の登山道を歩む人々にも、常に敬意を払わねばならんのだ」

未来は、静かにその言葉を噛みしめていた。東洋医学の多様性。それは、そのまま人間の多様性そのものだった。誰もが違う顔、違う性格、違う人生を生きている。だから、人を癒す医学もまた、一つであるはずがないのだ。

ふと窓の外に目をやると、春の柔らかな光の中で、庭の花々がそれぞれの色と形で、誇らしげに咲き乱れていた。真っ白な木蓮、淡い桃色の桜、鮮やかな黄色の水仙。どれ一つとして同じではないが、その全てが調和して、美しい春の庭という一つの世界を作り上げている。

その風景が、今の未来には、東洋医学の世界そのもののように見えた。中国、日本、韓国。それぞれの場所で、それぞれの花を咲かせてきた叡智。そのどれもが等しく美しく、尊い。

自分の視野が、また一つ、大きく、そして豊かに広がっていくのを、未来は感じていた。春の風が、たくさんの花の香りを乗せて、診察室の中を優しく吹き抜けていった。それは、多様性を受け入れることの喜びを告げる、希望の香りだった。
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