「なんとなく不調」の正体 ~気・血・水で読み解く自分の体質~

Gaku

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第四十三話:WHOも認めた伝統医学*

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二月も下旬に差し掛かると、あれほど厳しく肌を刺した冬の空気も、その輪郭を少しずつ和らげ始める。東堂漢方クリニックの庭を吹き抜ける風は、まだ冬の名残を色濃く宿して冷たいが、その中に、ごく僅かながら湿り気と生命の息吹が感じられるようになった。暦の上ではとうに春。人々が「三寒四温」という言葉を口にし始める、期待と忍耐が入り混じる季節だった。

研修医の本田未来(ほんだみらい)は、クリニックへと続く小径を歩きながら、ふと足を止めた。庭の隅に立つ一本の梅の古木。黒くごつごつとした枝ばかりが目立っていたその木に、昨日までは気づかなかった数輪の、淡い紅色の花が開いている。まるで、厳しい冬を耐え抜いた証のように、凛として咲くその姿に、未来は思わず息を呑んだ。風がふわりと通り過ぎるたび、どこからか、まだはにかむような、しかし確かに甘い香りが漂ってくる。

「…春、なんだ」

無意識にこぼれた呟きは、白い息となって空に溶けた。このクリニックに通い始めてから、もうすぐ一年が経とうとしている。西洋医学こそが唯一絶対の「医学」だと信じて疑わなかった自分が、今では、この古びたクリニックの門をくぐり、漢方薬の匂いを嗅ぐと、まるで故郷に帰ってきたかのような安らぎを覚えるようになっていた。

気・血・水、陰陽五行、臓腑、経絡。そして、日本漢方の真髄である「方証相対」。一つ一つの概念は、今もってその全貌を掴みきれたとは言えないほど奥深い。だが、目の前の患者の苦しみに、病名というラベルを貼るのではなく、その人まるごとの「証」を見つめ、心と体のバランスを整えようとする東堂宗右衛門(とうどうそうえもん)の医療を目の当たりにするうち、未来の中で「医学」という言葉の意味そのものが、静かに、しかし確実に変容しつつあった。

しかし、一歩クリニックの外、つまり彼女が本来所属する大学病院に戻ると、その価値観は容赦なく揺さぶられた。

つい先日のことだ。医局の休憩室で、数人の同僚と昼食をとっていた時のことだった。未来が、研修先である東堂クリニックでの症例について、興奮気味に話してしまったのがきっかけだった。

「…それで、東堂先生は腹診で『胸脇苦満(きょうきょうくまん)』を見つけて、大柴胡湯(だいさいことう)を処方されたんです。そうしたら、あれだけ検査しても原因が分からなかった長年の頭痛と肩こりが、すっかり良くなって…」

そこまで話した時だった。一人の外科の先輩医師が、箸を止め、面白がるような、それでいて少し侮蔑の色を含んだ声で言った。

「本田、お前、すっかり染まったな。漢方なんて、ただの気休めだろ?科学的根のこんきょ、エビデンスはあるのかよ、エビデンスは」

周りにいた他の研修医たちも、くすくすと笑っている。未来はカッと顔が熱くなるのを感じた。

「エビデンスは…あります。ちゃんと論文も出ていますし、作用機序も少しずつ解明されてきて…」

「解明されつつある、ねえ」
先輩は鼻で笑った。
「こっちは、ダブルブラインドのランダム化比較試験(RCT)で有効性が証明された薬しか使わないんだ。そんな、腹を触って『気の流れがー』とか言ってるような、前近代的な医療と一緒にしてくれるなよ。ま、患者さんが満足してるなら、お守りみたいなもんだろうけどな」

返す言葉が見つからなかった。悔しかった。何百年、何千年という臨床経験の蓄積が、その先輩の言葉の中では、まるで非科学的な「おまじない」のように扱われている。違う、そうじゃない。目の前で、西洋医学では救われなかった人々が、確かに癒されていく姿を、自分はこの目で見てきたのだ。

だが、どう反論すればいいのか分からなかった。「経験の蓄積」や「方証相対の哲学」を語ったところで、彼らには「ポエム」のようにしか聞こえないだろう。西洋医学の土俵で語れる、誰もが認めざるを得ない「何か」がなければ、この壁は崩せない。未来は、唇を噛みしめることしかできなかった。

その日の午後、クリニックの診察室は、午後の柔らかな日差しに満たされていた。障子を透かした光が、畳の上に淡い影を落とし、鉄瓶から立ち上る湯気がきらきらと光の粒子のように舞っている。

患者が途切れ、東堂と二人でお茶をすする静かな時間。未来は、数日前の悔しい出来事を胸に秘めたまま、思い切って口を開いた。

「先生…。漢方医学というのは、やはり世界的に見れば、特殊で、まだ公には認められていない医療、ということになるのでしょうか…」

その問いに含まれた、かすかな翳りと悔しさの色を、東堂は見逃さなかった。彼は湯呑を静かに置くと、未来の目をまっすぐに見つめた。

「未来先生。もし君が、漢方医学を、日陰の存在だとか、世界の主流から外れたローカルな民間療法だと思っているのなら、その認識は、もう改めた方がいいかもしれんな」

「…と、言いますと?」

「むしろ、逆だ。世界の方が、我々の持つこの知恵の価値に、ようやく気づき始めたのだよ」

東堂は、ゆっくりと立ち上がると、診察室の隅にある書棚から、一冊の、というよりは分厚い報告書のような冊子を取り出してきた。表紙には「ICD-11」というアルファベットと数字が印刷されている。

「これを知っているかな?『国際疾病分類』だ。君たち西洋医学の医師が、診断書に病名を記す時に使う、世界共通の分類コードだな」

「はい、もちろん。医学生なら誰でも知っています」
未来は頷いた。

[cite_start]「この国際疾病分類は、定期的に改訂される。そして、二〇一九年に世界保健機関、つまりWHOが発表したこの最新版『ICD-11』で、歴史が動いたのだよ」 [cite: 1, 3]

東堂は、報告書の特定のページを開いて、未来に示した。そこには「Traditional Medicine Conditions(伝統医学の状態)」という章題が、はっきりと記されていた。

[cite_start]「この改訂で、史上初めて、この国際疾病分類に『伝統医学』の章が加えられたんだ」 [cite: 1, 3]。

未来は、その文字を信じられない思いで見つめた。WHOが。世界中の医療のスタンダードを定める、あのWHOが、公式の疾病分類に「伝統医学」を位置づけた?

「これはいったい、何を意味するのか。それはな、未来先生、これまで『気のせい』だとか『科学的根拠がない』と片付けられてきた我々の診断、つまり『肝気鬱結(かんきうっけつ)』だとか『脾気虚(ひききょ)』といった『証』が、国際的な医療の枠組みの中で、一つの『状態(Condition)』として、正式にその存在を認められた、ということなのだよ」

衝撃だった。大学病院の先輩医師が一笑に付した、あの「気の流れ」の世界が、今やWHOの公式文書に記されている。それは、未来が想像していた現実とは、まるで正反対の出来事だった。

「で、でも、なぜ今になって、WHOが…?」

「理由は一つではないだろうな」
東堂は椅子に腰を下ろし直し、再び湯呑を手に取った。
「まず、単純な事実として、世界人口のあまりに多くの人々が、日々の健康を伝統医学に頼って生きている、という現実がある。その実態を無視して、世界の健康は語れない。だが、もっと大きな理由は、西洋医学がその輝かしい発展の影で、新たな壁に突き当たっていることにあると、私は思う」

「壁、ですか?」

「そうだ。急性疾患や感染症、外科手術の領域で、西洋医学が成し遂げた功績は計り知れない。それは、先日の鈴木さんの件でも我々が学んだ通りだ」。
東堂は、以前、急性腹症の患者をためらわずに大学病院へ送った時のことを引き合いに出した。
[cite_start]「しかし、現代社会が抱える病は、もはやそれだけではない。高齢化に伴う、一つの病名では割り切れない複雑な慢性疾患。ストレス社会が生み出す、検査では異常が見つからない心身の不調。アレルギーや自己免疫疾患のような、体質そのものが関わる病。これらは、特定の病原体を叩いたり、臓器を切り取ったりするだけでは、なかなか解決しない」 [cite: 3]

未来は、黙って頷いた。大学病院の外来には、まさにそうした「原因不明」の苦しみを抱えた患者が、毎日のように訪れる。そして、その多くが、有効な治療法を見つけられないまま、いくつもの科をたらい回しにされていた。

[cite_start]「世界中の医療関係者が、その壁の前で悩み始めているのだよ。そして、その突破口を探す中で、我々東洋医学が何千年も前から当たり前のように実践してきた考え方に、光が当たり始めた。それが、『未病治(みびょうち)』という思想だ」 [cite: 3, 4]

「病気になる前に、治す…」
未来は、その言葉を反芻した。

[cite_start]「その通り。病気がはっきりと形になる前の、ほんの些細なバランスの乱れを捉え、大病に至るのを防ぐ。この究極の予防医学の考え方こそ、高齢化社会における医療費の増大という、世界共通の課題に対する、一つの答えになり得ると気づき始めたのだ」 [cite: 3, 4]

東堂は続けた。
「ICDに伝統医学の章が加わったのは、ただ『お墨付き』を与えた、という単純な話ではない。世界中の『気虚』や『血(おけつ)』のデータを集め、その状態が将来どのような病気に繋がりやすいのかを統計的に分析する。そして、どの治療法が有効なのかを、国際的な基準で評価する。そのための、世界共通の『ものさし』を作ろう、という壮大なプロジェクトの始まりなのだよ。それは、東洋医学を非科学的だと切り捨てるのではなく、むしろ科学の光を当て、その価値を正しく評価しようという、誠実な試みなんだ」

未来は、全身の血が熱くなるのを感じていた。悔しさで強張っていた心が、じわりと溶けていく。自分が信じ始めたこの医学は、日陰の存在などではなかった。むしろ、世界の医療が新たな未来を模索する、その最前線で、静かに、しかし力強く花開こうとしているのだ。

「もちろん」
東堂は、未来の興奮を察したように、穏やかに付け加えた。
「これで全てが解決するわけではない。我々、現場の臨床家がやるべきことは、何も変わらん。目の前の患者さん一人ひとりの声に耳を傾け、その身体が発するサインを丹念に読み解き、苦しみを和らげるために最善を尽くす。ただ、それだけだ。だがな、未来先生」

東堂の目が、ふっと優しく細められた。

[cite_start]「これで、君のような若い世代の医師たちが、偏見や先入観なく、東洋医学というもう一つの扉を開けるきっかけが、少しだけ増えたのかもしれない。西洋医学と東洋医学、二つの強力な武器を手にすることができれば、救える患者はもっと増えるはずだ。それを、統合医療と呼ぶのかもしれないし、中国で言うところの『中西医結合』なのかもしれないがね」 [cite: 1]

対話が終わり、診察室には再び静寂が戻った。しかし、未来の心の中は、先ほどまでとは全く違う、明るく、力強い光に満たされていた。大学病院の先輩に言われた言葉は、もはや彼女を傷つける棘ではなかった。それは、世界の大きな潮流を知らない、小さな世界の言葉に過ぎなかったのだ。

未来は、もう一度、窓の外の梅の木に目をやった。午後の日差しを浴びて、朝よりもさらに多くの蕾がほころび、その花びらを誇らしげに開いている。冷たい風が吹くたびに、枝はしなやかに揺れるが、花々は決して散ることなく、むしろその香りを遠くまで運んでいるようだった。

あの梅の花のように。東洋医学もまた、何千年という厳しい風雪の時代を耐え、今、世界という大きな空の下で、その価値を静かに花開かせようとしている。

そうか、自分はその歴史的な瞬間に立ち会っているのかもしれない。過去の遺物を学んでいるのではない。未来の医療を、今、この場所で学んでいるのだ。

冷たい診察室の空気の中に、障子を開けた隙間から、梅のほのかで甘い香りが、確かに流れ込んできた。それは、もうすぐそこまで来ている、新しい時代の香りだった。未来は、深く、深く、その春の息吹を吸い込んだ。
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