「なんとなく不調」の正体 ~気・血・水で読み解く自分の体質~

Gaku

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第四十八話:未来のセルフケア「養生法」

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六月。世界は分厚い雨雲に覆われ、音のない、しかし執拗な雨が、何日も降り続いていた。東堂漢方クリニックの庭も、その景色を一変させていた。陽光の代わりに、シトシトと降り注ぐ雨が主役となり、木々の葉は濡れて深く沈んだ緑色に、土は黒々と湿り、そこかしこに生えた苔は、まるでビロードのように生き生きとした光沢を放っていた。

空気は重く、肌にまとわりつく湿気が、体の芯から気力を奪っていくようだった。時折聞こえるのは、屋根の瓦を打つ雨垂れの単調な音と、庭の池から聞こえてくるカエルの合唱だけ。それは、すべてが停滞し、内へ内へと沈み込んでいくような、静かで、少し物憂げな季節だった。

研修医の本田未来(ほんだみらい)は、先日の「自分の体との対話」を経て、この鬱々とした季節を、これまでとは全く違う思いで迎えていた。彼女の体質、「気虚(ききょ)」と「血虚(けっきょ)」。エネルギーと栄養が共に不足している、いわばガス欠でオイルも足りない車のような状態。そして、この梅雨の「湿邪(しつじゃ)」は、そのただでさえ動きの鈍い車に、さらに重い荷物を積むようなものだった。

以前の自分なら、「梅雨だから仕方ない」と、だるさや気分の落ち込みを季節のせいにして、栄養ドリンクやコーヒーで無理やり体に鞭を打っていたことだろう。しかし、今の未来は違った。これは、自分の体と向き合い、その声に応えるための、絶好の機会なのだ。

「自分の体を、自分で手当てする」。その静かな決意を胸に、未来は雨に煙るクリニックの引き戸を開けた。

「先生、おはようございます。今日は、私の『養生法』について、具体的に教えていただきたいんです」

診察室に入るなり、未来は強い意志を込めて東堂宗右衛門(とうどうそうえもん)に告げた。その真剣な眼差しに、東堂は満足そうに頷いた。

「いい顔になったな、未来先生。医者が患者を治すのではない。患者が自ら治るのを、医者が手伝うのだ。その第一歩は、日々の暮らしを整える『養生』にある。君の体質は『気虚』と『血虚』が基本だったな。ならば、テーマは明確だ。『足りないものを補い、無駄な消耗を避ける』。これに尽きる」

東堂は、難しい理論を語るのではなく、まるで暮らしの知恵を授ける祖父のように、穏やかな口調で語り始めた。

「まず、食事だ。薬も大切だが、毎日口にする食べ物こそが、我々の体を作る、何よりの薬なのだからな。君のように『気』が足りない者は、まず、エネルギーを生み出す『脾(ひ)』(消化器系)を元気にすることが肝心だ」

「脾、ですか」

「そうだ。脾は、冷えと湿気を何よりも嫌う。だから、この梅雨の時期は特に、冷たい飲食物は厳禁だ。君が好きなアイスコーヒーも、しばらくはお休みだな。冷蔵庫から出したての飲み物も、常温に戻してから口にするように。それだけでも、脾の負担は大きく減る」

未来は、毎朝のように飲んでいたアイスコーヒーの、キリリとした冷たさと苦みを思い出し、少し残念な気持ちになった。しかし、東堂の言葉は続く。

「そして、『気』を補う食材を、意識して摂ることだ。米やもち米といった穀物、そして、山芋や長芋、さつまいもなどの芋類は、脾を養い、気を補う代表的な食材だ。鶏肉やかぼちゃ、きのこ類も良い。特別な料理を作る必要はない。いつもの味噌汁に、かぼちゃやきのこを足してみる。ご飯に、すりおろした山芋をかけてみる。その程度でいいのだよ」

次に、東堂は「血虚」に話を移した。

「『血』は、夜、眠っている間に、肝(かん)で作られる、と我々は考える。だから、血虚の人間にとって、夜更かしは何よりの毒だ。どんなに忙しくても、日付が変わる前には、必ず布団に入る習慣をつけること。眠りの質も大切だ。寝る前にスマートフォンを見るのはやめて、温かいお茶でも飲みながら、静かな時間を持つことだ」

「血を補う食べ物も、分かりやすいぞ」と東堂は笑った。「赤いもの、黒いものだ。ほうれん草や牛肉の赤身、レバー。そして、なつめやクコの実、黒ごま、黒豆、ひじき。これらは皆、血を作る良い材料になる。鉄分をサプリメントで摂るのも一つの手だが、食べ物から摂る栄養は、もっと優しく、深く、体に染み渡る」

未来は、その言葉を一つ一つ、心に刻むように聞いていた。それは、医学生時代に学んだ栄養学とは全く違う、もっと温かく、生活に根差した知恵の言葉だった。

その日の帰り道、未来はいつものコンビニではなく、スーパーマーケットに立ち寄った。カートを押しながら、東堂の言葉を反芻する。鶏肉、かぼちゃ、長芋、ほうれん草、そして乾物コーナーで、黒ごまとなつめを見つける。いつもなら素通りするような、地味な食材ばかりだ。

大学病院の近くにある、狭いワンルームマンションのキッチン。これまでは、お湯を沸かすくらいにしか使っていなかったその場所で、未来は慣れない手つきで包丁を握った。鶏肉とかぼちゃ、それに冷蔵庫の残り物の人参と玉ねぎを、コトコトと煮込んでスープを作る。ほうれん草を茹でて、醤油と黒ごまを和える。炊きたてのご飯には、すりおろした長芋をたっぷりとかけた。

出来上がったのは、見栄えのしない、質素な夕食だった。しかし、その湯気からは、優しい、滋味深い香りが立ち上っていた。

一口、スープをすする。鶏肉の出汁と、かぼちゃの自然な甘さが、疲れた体にじんわりと染み渡っていく。コンビニ弁当の、濃くて画一的な味とは全く違う、素材そのものの味がした。美味しい、と素直に思った。自分の体を労わるために、自分の手で作った食事。その行為そのものが、空っぽだった心と体に、温かいエネルギーを注ぎ込んでくれるようだった。

次の日から、未来の「養生生活」が始まった。

朝、目覚めの一杯は、アイスコーヒーから、なつめを数粒入れた温かいほうじ茶に変わった。なつめのほのかな甘みと、ほうじ茶の香ばしさが、まだ眠っている胃を優しく起こしてくれる。

大学病院での昼食も、これまでの菓子パンやカップ麺をやめ、家から持ってきた、鶏そぼろと炒り卵を乗せた小さなお弁当にした。同僚からは「どうしたんだ、急に女子力高くなったな」とからかわれたが、午後の眠気が以前よりずっと軽くなったことに、未来自身が一番驚いていた。

生活にも、変化が訪れた。

どんなに疲れていても、シャワーで済ませず、湯船に浸かるようにした。好きな香りの入浴剤を入れ、じんわりと汗をかくまで体を温める。こわばっていた肩や腰が、湯の中でゆっくりとほどけていくのが分かった。

そして、夜は0時までにベッドに入る、というルールを自分に課した。もちろん、急患の呼び出しで守れない日もある。だが、そうでない日は、意識的に仕事を切り上げ、家に帰った。これまで、だらだらと見ていた医療系の動画やSNSを断ち、寝る前の一時間は、本を読んだり、静かな音楽を聴いたりする時間に充てた。スマホを枕元から遠ざけるだけで、寝つきが驚くほどスムーズになった。

運動も変えた。気虚の人間が無理に走ると、かえって気を消耗してしまう、という東堂の教えに従い、朝のランニングをやめ、寝る前の15分間のストレッチと、呼吸を意識した簡単なヨガに切り替えた。汗をだらだら流す爽快感はない。しかし、自分の体と対話するように、ゆっくりと筋肉を伸ばし、深い呼吸を繰り返していると、日中の興奮や緊張がすうっと鎮まっていき、心と体が穏やかに着地していくような、新しい心地よさを発見した。

養生を始めて二週間が経った頃、未来は、自分の心身に、小さな、しかし確かな変化が起きているのを感じていた。朝、目覚まし時計が鳴る前に、自然と目が覚める日が増えた。鏡に映る自分の顔から、以前のような生気のない青白さが薄れ、ほんのりと血色が戻ってきた気がする。何より、あれほど悩まされていた気分の浮き沈みが減り、以前よりずっと穏やかな気持ちで、患者や同僚と接することができている自分に気づいた。

だが、良いことばかりではなかった。大学病院の過酷な日常は、未来のささやかな養生生活に、容赦なく牙を剥いた。

手術が長引き、帰宅が深夜になった日。疲労困憊で、キッチンに立つ気力など湧いてこない。結局、帰り道で買ったお惣菜で夕食を済ませながら、「ああ、またできなかった」と自己嫌悪に陥った。上司に誘われた飲み会を断りきれず、冷たいビールと揚げ物を口にしながら、「せっかく続けてきたのに」と罪悪感を覚えた。

「先生、私、ダメです。養生を続けようと思っても、仕事が忙しいと、どうしても完璧にはできなくて…。かえって、それがストレスになってしまいます」

雨足が強まったある日の午後、未来は東堂に弱音を吐いた。すると、東堂は、咎めるどころか、実に楽しそうに笑った。

「当たり前じゃないか、未来先生。養生は、修行ではないのだよ。ストイックな苦行になってしまったら、それこそ本末転倒、新たな『気滞』を生むだけだ」

彼は、雨に濡れる庭の紫陽花に目をやりながら言った。
「100点満点を目指す必要など、どこにもない。60点で上出来。30点の日があったっていい。大切なのは、点数ではない。『自分の体を労わろう』と、今日もまた思えたこと。その気持ちそのものが、何より優れた養生なのだよ。できなかった日があっても、自分を責めるな。ただ、『明日は、もう少し優しくしてあげよう』と思えれば、それで十分なんだ」

その言葉に、未来の心にかかっていた重い雲が、すうっと晴れていくのを感じた。完璧でなくてもいい。自分を責めなくていい。ただ、慈しむ気持ちを、持ち続けること。

その日の夕方、降り続いていた雨が、ふと止んだ。雲の切れ間から、西日が差し込み、クリニックの庭を幻想的な光で照らし出した。雨粒をたっぷりとまとった紫陽花の花が、赤、青、紫と、まるで宝石のように、七色にきらきらと輝いている。

うっとうしいと思っていた梅雨の景色。しかし、雨に洗われた木々の緑は、息を呑むほどに鮮やかで、雨粒を湛えた紫陽花は、この季節にしか見せない、儚くも凛とした美しさを放っていた。

その光景を眺めながら、未来は、健やかに生きるということの本当の意味を、体全体で理解した気がした。それは、不快なものを無理やり排除することではない。うっとうしい雨の季節があるからこそ、植物は命を育み、雨上がりの光は、これほどまでに美しい。自分の体の弱さや不調もまた、憎むべき敵ではなく、自分という人間の一部なのだ。それとどう付き合い、どう労わりながら、日々の暮らしを丁寧に紡いでいくか。

雨上がりの澄んだ土の匂いを深く吸い込みながら、未来は、自分の体という、かけがえのないパートナーとの、新しい関係が始まったことを、確信していた。
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