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第四十九話:二つの医学が手を取り合う「統合医療」
しおりを挟む長く続いた雨が嘘のように上がった七月のある日、世界は圧倒的な光と熱を取り戻した。梅雨の間に溜め込んだ湿気は、強烈な太陽の光を浴びて、むっとするような草いきれとなって立ち上り、空気そのものが生命の匂いで満ちているようだった。東堂漢方クリニックの庭では、それまで静かに雨音を聞いていた蝉たちが、まるで堰を切ったように、命の限りを尽くして鳴き交わしていた。ジィィィ、と鼓膜を揺らすその声は、夏という季節の到来を宣言する、力強いファンファーレだった。
研修医の本田未来(ほんだみらい)は、その生命力に満ちた光景を、以前よりもずっと穏やかな心で眺めていた。数週間前から始めた「養生」は、彼女の心と体に、ささやかだが確かな変化をもたらしていた。自分の体の声に耳を澄まし、その声に応えるように日々の暮らしを整える。その丁寧な営みは、梅雨の鬱々とした季節を乗り切るための支えとなっただけでなく、彼女に、自分自身を慈しむという、これまで知らなかった感覚を教えてくれた。
西洋医学の最前線である大学病院と、この古びた漢方クリニック。二つの全く異なる世界を行き来する日常は相変わらずだが、未来の心の中では、かつてのような戸惑いや葛藤は消え、それぞれの医学が持つ価値と役割を、冷静に、そして敬意をもって受け入れられるようになっていた。
その日、未来の運命の歯車が、また一つ大きく動き出すことになる出来事が起きた。大学病院で、彼女が最も尊敬する医師の一人である、消化器内科の渡辺教授に呼び出されたのだ。渡辺教授は、難病治療の権威でありながら、常に患者の立場に寄り添う温かい人柄で知られ、未来にとっても目標とする存在だった。
教授室の重厚な扉を開けると、渡辺教授は、山積みの論文の向こうから、少し疲れたような、しかし真摯な眼差しで未来を見つめた。
「本田君、君が研修でお世話になっている、東堂漢方クリニックの東堂宗右衛門先生に、私の患者を一人、診ていただけないだろうか」
その言葉は、未来にとってあまりに意外なものだった。西洋医学の権威である渡辺教授が、町の漢方医に、患者の紹介を?
「これは、君にしか頼めない。君が、二つの世界の『架け橋』になってくれることを期待している」
渡辺教授はそう言って、一通の封筒を未来に手渡した。それは、東堂宗右衛門宛の、分厚い紹介状だった。
紹介された患者は、田中さんという二十四歳の若い男性だった。彼は、クローン病という、消化管に慢性の炎症や潰瘍ができる、原因不明の難病を長年患っていた。渡辺教授のもとで、最新の生物学的製剤や免疫抑制剤など、現代の西洋医学が持ちうる、ほとんどすべての治療法を試してきたという。
しかし、彼の病状は思うように改善せず、寛解と再燃を繰り返していた。治療の副作用による倦怠感や関節痛もひどく、度重なる入退院で大学も休学せざるを得ず、彼のQOL(生活の質)は著しく低下していた。
紹介状の最後は、こんな言葉で締めくくられていた。
『我々の治療は、彼の生命を繋ぎとめることはできても、彼から笑顔を奪い、青春を奪ってしまっている。もはや、我々の武器だけでは限界です。東堂先生の、東洋医学の叡智をお借りして、この若者のQOLを、ほんの少しでも向上させる手立てはないものでしょうか。何卒、お力添えを賜りたく、お願い申し上げます』
その謙虚で、患者を思う心に満ちた文面を読み、未来の胸は熱くなった。これは、西洋医学の「敗北宣言」などではない。患者を救いたいという一心で、あらゆる可能性に手を伸ばそうとする、真の医療者の姿だった。
数日後、未来は田中さんと共に、東堂クリニックの門をくぐった。夏の強い日差しを浴びたクリニックは、いつもと変わらず静かに佇んでいる。しかし、未来の心の中は、これから始まるであろう、歴史的な瞬への期待と緊張で、激しく波立っていた。
診察室に通された田中さんは、年齢よりもずっと幼く、そして疲弊して見えた。痩せた体に、生気のない青白い顔。その瞳の奥には、長年の闘病生活で培われた深い絶望の色が浮かんでいた。
東堂は、まず渡辺教授からの紹介状に、一言も発することなく、時間をかけて丁寧に目を通した。そこに並ぶ無数の検査データ、目まぐるしく変わる処方薬の名前。その一つ一つから、大学病院の医師たちが、いかに彼のために心血を注いできたかを、東堂は静かに読み取っていた。
「…そうか。渡辺先生も、田中さんも、大変な戦いを続けてこられたのだな」
やがて顔を上げた東堂の言葉には、深い敬意がこもっていた。
「未来先生、彼らは、彼らの戦場で、最新鋭の武器を手に、最善を尽くしてこられた。我々の仕事は、その最前線で傷つき、疲弊しきった兵士(田中さんの体)を、後方から支援することだ。決して、彼らのやり方を否定したり、我々のやり方と置き換えたりするものではない」
その言葉は、未来が抱いていた一抹の不安――二つの医学が対立するのではないか、という不安を、すっと溶かしてくれた。
東堂は、それからいつものように、時間をかけた四診を始めた。しかし、その内容は、これまで未来が見てきたものとは、少し次元が違っていた。
問診では、病気の症状だけでなく、田中さんが病を発症した時のこと、そのせいで諦めなければならなかった夢、友人関係の変化、そして将来への恐怖といった、彼の心の奥底に沈殿している、重く、暗い感情の物語に、ただひたすらに耳を傾けた。
そして、腹診。未来も、許可を得てそのお腹に触れさせてもらった。それは、これまで未来が学んできたどの腹証にも、はっきりと当てはまらない、複雑な状態だった。全体的に力なく、虚弱な印象(虚証)でありながら、下腹部には「瘀血(おけつ)」を示す、硬い抵抗と圧痛がある。みぞおちのあたりには、「水滞(すいたい)」を思わせる、ポチャポチャとした水の音がする。虚と実が、寒と熱が、複雑怪奇に入り組んでいる。まるで、長きにわたる戦乱で、すっかり荒れ果ててしまった大地そのもののようだった。
すべての診察を終えた東堂は、絶望の色を浮かべたままの若者に向かって、静かに、しかし力強く言った。
「田中さん。あなたの病気を、我々が今すぐ『治す』ことはできないかもしれません。ですが、あなたの体が、これ以上傷つかないように、そして、あなた自身が本来持っている『治ろうとする力』が、もう一度湧き上がってくるように、そのお手伝いをすることはできます」
東堂が処方したのは、病気の炎症を直接叩くような、強い「攻撃的」な薬ではなかった。彼の弱りきった消化器系(脾)と、生命力の源である(腎)を優しく補い、体全体のエネルギーを底上げしながら、血と水の滞りを穏やかに流していく、いわば「守り」と「補給」に重きを置いた漢方薬だった。
「西洋医学の治療は、あなたの命を守るために、絶対に必要なものです。それは、これからも渡辺先生の指示通り、きちんと続けてください。我々はその治療で疲弊したあなたの体を、大地に肥料をやり、水を与えるように、内側から支えていきます。焦らず、ゆっくりと、あなたの体自身が、もう一度立ち上がるのを待つのです」
その言葉は、田中さんの心に、どれほど届いたのだろうか。彼の表情は、まだ硬いままだった。
診察の後、東堂は渡辺教授に宛てて、返信の手紙を書いた。未来はその内容を、隣で見させてもらった。
『…貴院での治療は、彼の生命を支える大黒柱でございます。我々はその柱が、盤石の基礎の上に立ち続けられるよう、漢方治療にて、彼の全身状態を底上げすることでお手伝いしたく存じます。具体的には「補中益気湯(ほちゅうえっきとう)」と「桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)」を合わせ、彼の『気虚』と『瘀血』に対応しつつ、脾腎を立て直す所存です。治療方針につきましては、今後も密に連携させていただけますと幸いです』
その日の夕方、東堂クリニックの古い黒電話が鳴った。相手は、渡辺教授だった。二人の医師は、電話越しに、田中さんの治療方針について、専門用語を交えながら、しかし、互いの領域を深く尊重し合いながら、議論を交わしていた。
「先生、ステロイドの減量タイミングですが…」
「ふむ。彼の腹証から見るに、まだ『湿熱(しつねつ)』の所見が強い。急ぐと、かえって炎症が燃え上がりますかな…」
「なるほど。では、漢方の効果を見ながら、もう一ヶ月、現状維持でいきましょう」
未来は、そのやり取りを、固唾をのんで見守っていた。西洋医学の精密なデータと、東洋医学の全体的な身体観。ミクロの視点と、マクロの視点。その二つが、対立するのではなく、補い合い、一つの目標――患者を救うという目標に向かって、見事に融合していく。
これだ。これこそが、私が夢見ていた医療の姿だ。
異なる楽器が、それぞれのパートを完璧に演奏しながら、指揮者のもとで一つの美しいハーモニーを奏でるオーケストラのように。これが、「統合医療」という言葉の、本当の意味なのだ。
数週間後、クリニックに田中さんから電話があった。その声は、まだ弱々しかったが、以前のようなどんよりとした絶望感は消え、かすかな光が灯っているように聞こえた。
「先生…。下痢の回数が、少しだけ減りました。あと、夜、少しだけ、眠れるようになりました…」
それは、劇的な改善ではなかったかもしれない。しかし、暗闇の中に差し込んだ、一筋の確かな光だった。
未来は、受話器を置くと、夏の強い日差しが照りつける庭に出た。むせ返るような草いきれと、空気を震わせる蝉の大合唱が、彼女の全身を包み込む。それは、少し前まで、ただ暑苦しく、やかましいだけだと感じていた、夏の音と匂い。しかし、今の彼女には、その全てが、生きとし生けるものの、力強い生命力の賛歌のように感じられた。
西洋医学の橋と、東洋医学の橋。自分はその二つの橋を繋ぎ、患者が渡るのを手伝う、そんな医師になりたい。
夏の眩しい光を見上げながら、未来は、胸の奥から湧き上がってくる熱い決意を、強く、強く、握りしめていた。
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