「なんとなく不調」の正体 ~気・血・水で読み解く自分の体質~

Gaku

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第五十話:エピローグ - 明日への扉

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あれから、季節は一巡りした。
厳しい冬を越え、生命が芽吹く春が、再びこの町に訪れた。

研修医、本田未来(ほんだみらい)は、クリニックへと続く桜並木の道を、一年前とは全く違う思いで歩いていた。あの日、初めてこの道を通った時は、不安と、少しばかりの反発心で、固くこわばっていた心。満開の桜さえ、どこか他人事のようにしか見えなかった。

だが、今はどうだろう。
未来の目に映る桜は、ただ美しいだけの花ではなかった。厳しい冬の寒さに耐え、自らの内に力を蓄え、時が満ちるのをじっと待って、今、こうして見事に咲き誇っている。その花びら一枚一枚に、生命の循環の神秘と、耐え抜いた末の輝きが宿っているように見えた。

風がふわりと吹くたび、薄紅色の花びらが、まるで祝福のように未来の肩に舞い落ちる。春の柔らかな陽光が、枝々の隙間から木漏れ日となって、足元にちらちらと光の模様を描いていた。ほのかな花の香りと、雨上がりの土の匂いが混じり合った、生命感あふれる春の空気。未来は、そのすべてを、感謝と共に深く、深く、吸い込んだ。

今日が、東堂漢方クリニックでの、一年間の研修の最終日だった。

からり、と音を立てて引き戸を開ける。一年前、異世界への扉のように感じられたその戸の音も、今ではすっかり耳に馴染んだ、心安らぐ響きだ。

「おはようございます、先生」

「おお、未来先生。おはよう。見事な桜だな。君がここへ来た日も、ちょうどこんな日だった」

診察室の奥で、東堂宗右衛門(とうどうそうえもん)が、文机から顔を上げて微笑んだ。その穏やかな表情も、部屋に満ちる漢方薬の香りも、しゅんしゅんと湯気を立てる鉄瓶の音も、何もかもが一年前と同じ。しかし、それを受け止める未来の心は、全く違うものになっていた。

漢方薬の香りは、得体の知れない匂いではなく、心と体を癒す故郷の香りに。古びた調度品の数々は、ただ古いだけのガラクタではなく、幾多の患者の物語を見守ってきた、知恵と歴史の証人に。そして、目の前の老医師は、時代遅れの医者ではなく、西洋医学とは別の、広大で豊かな山脈の頂きに立つ、偉大な師に見えていた。

その日の午前診療は、未来にとって、この一年間の学びの集大成となった。

更年期のほてりと不安感に悩む女性には、問診と舌診から「気逆(きぎゃく)」と「血虚(けっきょ)」が背景にあると見立て、「加味逍遙散(かみしょうようさん)」が適しているのではないか、と自分なりの考えを述べる。東堂は、黙って深く頷いた。

長年の頭痛に苦しむ男性の腹を診て、肋骨の下にある抵抗感(胸脇苦満)を正確に捉え、「これは柴胡剤(さいこざい)の証ですね」と呟く。東堂は、「その通りだ」と目を細めた。

もはや彼女は、ただの研修医、見学者ではなかった。患者の言葉に耳を傾け、体に触れ、その背景にある物語を読み解こうと努める、一人の医療者として、そこにいた。

診療の合間には、以前この物語に登場した患者たちが、まるで示し合わせたかのように、その後の経過報告に顔を見せた。

「先生方のおかげで、夜、ぐっすり眠れるようになりました」。そう言って、晴れやかな顔で微笑んだのは、大学病院で「異常なし」と診断され、泣きじゃくっていた若い女性だった。

「お腹の調子もすっかり良うなって、今度の休みには、孫と旅行に行く約束をしてるんですわ」。そう言って、深々と頭を下げたのは、難治性の自己免疫疾患に苦しんでいた、あの若い男性だった。西洋医学の治療と漢方治療の連携は、彼のQOLを確かに向上させていた。

一人ひとりの感謝の言葉が、未来の胸に、温かい光となって降り積もっていく。ここで学んだことは、机上の空論などではなかった。目の前で、確かに人の心を、体を、そして人生を、良い方向へと導いていた。

やがて、最後の患者が帰り、診察室には、西日を受けた埃がキラキラと舞う、静かな時間が訪れた。東堂は、いつものように二つの湯呑に白湯を注ぐ。この一年、数えきれないほどの対話が、この湯呑を間に挟んで交わされてきた。

それが、今日で最後になる。

「先生」
未来は、こみ上げてくる万感の思いを、言葉に紡いだ。
「一年間、本当に、ありがとうございました。私は…私はここで、医学とは何かを、もう一度、学び直した気がします」

湯呑を両手で包み込みながら、未来は続けた。
「大学病院では、病気を、いかに正確に診断し、いかに効率的に治療するかが全てでした。病気はデータであり、敵でした。でも、先生は教えてくださいました。医学は、病名をつけるだけじゃない。人を、その人の人生を、まるごと見ることなんだ、と」

彼女の脳裏に、この一年で出会った、たくさんの患者の顔が浮かんでいた。

「病気は敵ではなく、体からの必死のメッセージ。その声に、どう耳を澄ませばいいのか。人は、自然の一部であり、心と体は分かちがたく繋がっていること。そして、病気になってしまってから治すのではなく、そもそも病気にならないように、健やかに生きる知恵を授けること…。私がここで学んだのは、西洋医学とは違う、もう一つの、広大で、どこまでも人間臭くて、温かい医学でした」

それは、未来が、自分の言葉で掴み取った、一年間の学びの答えだった。

東堂は、黙って未来の言葉を聞いていた。その深い瞳は、どこまでも優しかった。やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。

「君は、素晴らしい『聴診器』を手に入れたようだね、未来先生」

「聴診器…?」

「そうだ。人の心臓の音を聞く、あの聴診器だ。君は、西洋医学という、微細な雑音さえも聞き分けることができる、極めて鋭敏な電子マイクを持っている。そしてこの一年で、君は、東洋医学という、持ち主の心の震えまでをも感じ取ることができる、温かい木の聴診器をも手に入れた。その二つを、場面に応じて使いこなし、時には同時に患者の体に当てることができれば、君はきっと、多くの人を救える、本当に良い医者になるだろう」

東堂は、そこで言葉を切ると、強い光を宿した目で、未来を見つめた。

「最後に、一つだけ。これからの長い道のりで、迷うことがあったら、この言葉を思い出しなさい。我々が見ているのは、決して『病気』ではない。我々が見ているのは、いつでも、目の前で苦しみ、悩み、それでも懸命に生きようとしている、かけがえのない『人』だ。その一点さえ忘れなければ、君は道を誤ることはない」

それは、師から弟子へ贈られる、最もシンプルで、最も深遠な、餞の言葉だった。

「…はいっ!」

未来は、涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪えながら、力強く頷いた。そして、立ち上がると、この一年間の、すべての感謝を込めて、深く、深く、頭を下げた。
「先生…本当に、本当に、ありがとうございました!」

もう、言葉にはならなかった。

夕暮れの光が差し込む診察室。未来は、名残を惜しむように、そのすべてを目に焼き付けた。そして、ゆっくりと振り返り、一年前、あれほど重く感じた引き戸に、そっと手をかけた。

からり、と戸を開け、外に出る。最後にもう一度振り返ると、逆光の中に立つ東堂が、穏やかに、小さく手を振っていた。未来も、涙で滲む視界の中、精一杯の笑顔で手を振り返した。

さよなら、ではない。きっと、また会える。
そう信じて、未来は、桜並木の道を、大学病院へと続く道を、歩き始めた。

一年前とは全く違う、力強く、確かな足取りだった。
彼女の胸の中には、もはや不安はない。西洋医学と東洋医学、二つの翼を携えて、これからどんな患者と出会い、どんな物語を紡いでいくのだろう。その胸躍る未来への希望が、彼女の足取りを、さらに軽くしていた。

春の風が、強く吹いた。
数えきれないほどの桜の花びらが、一斉に舞い上がり、未来の行く手を、まるで祝福するように、薄紅色の吹雪となって包み込んだ。

その桜吹雪の向こうに、輝く明日への扉が、確かに見えた。

――東堂漢方クリニックの庭では。
東堂宗右衛門が、遠ざかっていく愛弟子の小さな背中を、いつまでも見送っていた。やがて、その姿が桜並木の向こうに見えなくなると、彼は空を見上げた。

空には、数えきれない花びらが、光を浴びて舞っている。

「行け、未来先生。君の時代を、君らしく、咲き誇りなさい」

老医師の呟きは、春の風に溶けて、天高く舞い上がっていった。
それは、一つの物語の終わりであり、そして、新たな物語の、希望に満ちた始まりだった。


【了】
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