さくらのきのした

syonanoka

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「……俺が殺したのはね、かあさん」
 頭の中のどこかに、セノはきっとそう答えると予想していた自分がいた。彼の声音が真っ直ぐで、真剣に発された言葉である事実に、心臓を冷えた手で掴まれたような心地になる。この瞬間、仮定の人殺しは、実在する殺人者となった。それでも、俺はその事実を素直に受け入れようとしている。
「なんで、殺したんだ」
 恐る恐る問う俺とは対照的に、あっけらかんとした態度で、彼は口を開く。特に修飾に悩む様子もない、素直な事実を述べる。
「母さんがヒス起こしちゃってさ、ま、それはいつものことなんだけど。そのときはいつもと違って包丁持ち出してきて」
 セノの母が包丁を握りしめているのを想像する。おそらく場所はキッチンで、きっと彼女の手は突沸した怒りでガタガタ震えていた。
「本気で殺そうとしてるって、目でわかるんだよ。そこからは俺のことを殺したい母さんと死にたくない俺で取っ組み合いになってね。包丁の刃が何度も掠ったけど、アドレナリンが出てたのか気になんなかった」
 セノの語り口はあくまでも淡々としていた。そして、その単調さがかえって彼の語る経緯にリアリティを付与していた。だから、当時の状況を想起するのは容易かった。壮年の女性と健康な男子高校生がお互いに必死で取っ組み合った場合、母親が力で敵うことはなかっただろう。おそらく包丁はセノの手に渡った。
「それで、俺はなんとか母さんのこと押し倒してさ、手には包丁があって。母さん、顔は真っ青なのに、でも笑うんだよ。俺が殺さないと思ってるから。なんで、自分は殺そうとしてたのに、相手には殺されないだなんて思い込めたんだろうね」
 レジ袋から缶チューハイを取り出して、プルタブを起こしたセノがごくりとアルコールを嚥下する。彼の表情にはうすらかな嘲りが霧のようにまとわりついている。
「包丁をさ、両手で持って振り上げた瞬間、今までの仕打ちが全部走馬灯みたいに頭に脳みそに流れ込んできたの。可笑しいよね、死にかけてるのは母さんなのに。……で、気付いたら包丁を突き立ててた。我に帰ったときには、目の前に滅多刺しになった母さんの死体があって」
 そう言って、セノは一つ大きく息を吐いた。その瞬間を思い出しているような眼差しは宙に固定されている。チューハイをごくりと飲み下す音がした。彼は小さく息継ぎをし、続きを訥々と語りだす。
「必死で考えて、まず死後硬直が始まる前に小さく丸まるみたいにさせた母さんを遠足用のブルーシートで包んで縛った。そのあとは修学旅行用の大きいボストンバッグになんとか詰め込んで。キッチンの血液は、洗剤をつけた濡れタオルで何度も何度も擦って落としたよ」
 そう告げる彼の声音は淡々としており、ただ事実を開示していくフラットな喋り方だった。今更ながら、俺は本当に人を殺したにんげんの隣に座っているのだと強く実感する。セノとは幼い頃からずっと付き合ってきた親友だからこそ、彼がまるで別のいきものになってしまったかのように感じた。
「まぁその後もいろいろあったけど、無事に近所の山に埋めて、それでおしまい。……で、母さんの死体を埋めたところにさ、ちょうど桜の木が植ってたんだよね」
「……桜の樹の下には死体が埋まっている、を本当にやる奴がいるかよ」
「ハハ。そんでね、俺は命日になったら毎年その桜を見にいくんだ。本当に綺麗に咲くのかなって。本当は今年も行こうと思ってたんだけど」
 そこで一呼吸、区切って。
「キタガワがいたから」
 その言葉が、ひどく歪んで聞こえる。撓み、揺れ、膨らむ。脳内に存在する架空のコップに溜まっていた水が、飽和し、ついに溢れる。右耳で誰かが叫んでいる。左耳に硬いものと硬いものがぶつかる鈍い音が響く。しかし、唐突に聞こえた幻聴の漣が、全てを流してくれた。
 ――フラッシュバック。春宵の海、波打ち際、ママとふたりで海水をかけ合って遊んだ。ママは、あなたは本当にどうしようもない子ね。と微笑んでくれた。塩水を拭ったあとの少し冷たい白魚が髪を撫ぜて、春の吐息に撫でられたようなあたたかな心地がした。いつもは強く触れる手のひらが、そのときだけはゆりかごの様相を呈していた。眺める海面は、ひとつの美しい黒を彫刻刀で削ったかのようで。そこに月明かりのきらめきが耿々と散っている。
 母さんが、ママが、それを、みだす。初春の海水は冷たかった。鼻に、目に入る海水は神経を突き刺して鋭く痛んだ。海水が全身を抱きしめる。自分の口や鼻から漏れるあぶくがゆっくりと海面へ登っていくのが、ぼんやりとした視界の中で見えた。ずっと首を包んでいた手のひらが離されて、反射的に体を起こし、息を吸おうとして大きく咳き込む。喘鳴とともに息を荒らげている俺のことを見て、あの人は笑って、帰ろっか、と言った。その表情は、聖母のようなあたたかさと、異常なまでの純真さを纏っていた。しかし、そのどこまでも清らかな笑みにはどこか法悦が混ざっていて。そういう倒錯こそが、母に異様な魅力のようなものを持たせていた。
 ママがおかしいはずがない。ママが間違っているはずがない。ぼくがちゃんとできれば、ママのいう役目をきちんとできたら、ママは褒めてくれるんだよ。幼い自分の声が聞こえる。ぼくはママを大好きなの。ママが笑ったから、ぼくも笑った。服はびしょ濡れで寒かったけれど、なにも気にならなかった。
 脳が痒い。脳みその皺の中を虫が這いずりまわっている。かゆい、頭をかきむしる。あぁ、蛆虫だ、と直感で気付いた。その途端、ブゥン、ブゥーンと音がする。蝿が蛹を破った。鼻から、口から、耳から、生まれたばかりの青蝿が飛び出してくる。そして一斉にある一点へ向かって飛んでいき、そこにあるなにかにたかる。そう、なにかの、死体に、たかっている。俺はそれを土に埋めなくてはいけない。考えるより先に理解した。群飛する蝿らを手で、腕ではらって、穴を掘る。硬い土にシャベルは容易には刺さらない。それでも穴を掘る。がり、と音がして、小石にあたった振動が手を強く痺れさせた。それでも穴を掘る。額にはじんわりと汗が浮かび、持ち手を握り続けている手が痛い。それでも穴を掘る。何十分、何時間、何日かかったのだろうか。出来上がった簡素な墓穴は、ぽっかりと空いたブラックホールのようだった。そこにかたい体を横たえる。開いたままの濁った瞳が、こちらを見ているような気がする。否、こちらを凝視している。わずかに震える手でシャベルを手に取り、覆い隠すように土をかけていった。ある程度土をかけたらならして固めて、また土をかけて。それを片手で数えるには少し足りないほど繰り返せば、そこには墓石もない手製の墓が出来上がった。落ち葉で埋めた辺りを覆い隠せば、死体が埋まっていると場所とそうではない場所の判別もつかない。呆気ない終わりだった。
 時が進めば、季節が巡る。土から萌芽が生える。青草が茂る。周囲の植物が栄養を吸い取って、有機物は土に還ってゆく。青虫が育った葉を食む。それはやがて蛹になり、幼虫は蛹の中で一度すべて溶ける。そう、かくあるべきだ。
 そう思うのと同時に、俺の頭蓋の中で脳味噌がどろどろと溶けた。今までの全てがとける。融解する。経験が、人格が、自己が曖昧になる。それがただしいことなのだ。無謬で、至当で、唯一のせいかいだ。
 だってそうしなくちゃ困るでしょう。せっかくひとりになったのにね。お前は生まれ変わるんだよ。


 ――転換。
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