さくらのきのした

syonanoka

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 俺はリビングの椅子に座っていた。母の声には架空の蝿がたかっている。罵詈雑言に不可視の蝿がたかり、青蝿のいくつかは母の耳から脳に侵入していく。卵が産み付けられ、彼女の脳味噌に蛆虫が湧く。とっくに母の精神は壊れているんだと思った。そして、俺の精神も。
 破砕音。甲高い、華奢な尖った音が耳に突き刺さる。それからうわずったヒステリックな叫び声。悲鳴にも似ている。鼓膜への刺激にどくと心臓が跳ねて、呼吸が荒くなる。床に散らばったグラスの死骸を見つめながら、プラスチックに買い替えておけばよかったな、と冷静な自分の声を聞く。なにか投げつけられるものを探してさまようまっちろな腕を見たのは何度目だろうか。
 俺と、母さんは別のにんげんである。それが自分の肉親だろうと、他人の感情を背負い込む必要はない。きちんと境界線を引いて、混ざった自分と他者を切り離して、自分のことを一番大切にするように。
 ……ゆっくり吸って。
 母さんは病気だから、脳の分泌物質かなにかのせいで興奮状態にあるだけで。
 ……ゆっくり吐く。
 母さんは父さんを愛していて、執着していて、依存しているから。それもある種の病気だから、父さんを求めて時折精神状態がひどく悪化するだけ。
 何回か深呼吸を繰り返せば、ぼやけていた自分の手足の感覚が遅々とした速度で収束していくのがわかる。そう、部屋に戻って、勉強をしなければならない。模試で少し点数が悪かった数学と、重要科目の英語。冷たい階段の一段一段を踏む。体温が馴染む前に足が離れる。二階に上がってすぐの扉を開ければ、いつも通りの部屋がある。階下の騒動から隔離された、俺だけの場所が。自分の好きな書籍や音楽雑誌、CDで埋まった本棚。卓上に広げたノートと青チャート。アイボリーのマグカップ、半分残ったぬるいカフェオレ。毛布が丸まったまんまのベッド。自分の部屋の匂い。
 スマートフォンでポモドーロタイマーをセットし、勉強に取り掛かる。模試での成績が少し下がると罵詈雑言と人格否定が浴びせられる。つまり、自分の精神健康を保つためにも勉強をしなくてはならない。第一志望は今のところB判定で、第二、第三志望がA判定。この第一志望校をA判定にすることが目下の目標である。
 もし第一志望校に受からなかったら、母さんはなんて言うだろうか。もしかしたら殺されるかもしれないという硬質な恐怖がある。それほど、母は俺の教育もとい学歴に固執している。母はあまり偏差値の高くない滑り止めの大学にしか受からなかった。それがコンプレックスなのか、防衛機制として同一視をおこない、自身の子どもである俺に投影しているのだ。
 ノートと参考書を開いても目が滑るようにして文字が読み取れない。受験勉強に打ち込まなければならないのに、今までできていたはずのことができない。急に音に敏感になって、できないことが増えていく焦りばかりが募り、夜もなかなか寝付けない。そしてたまに、声が聞こえる。頭の中に、誰かがいる。
 

――転換。


 俺はキッチンに立っていた。目の前には母さんがいる。母さんはいつも通り俺に悪態をついている。
「寄生虫が一丁前ににんげんみたいな顔してんじゃねぇよ。お前は本当になんの役にも立たないね」
 給食の費用をもらうために頭を下げに来たときのことである。俺はほこりがうっすらと積もったフローリングに額を付けて土下座をしていてた。母さんの口から発せられる罵詈が頭上から降ってくるのを、反論することもなく受け止める。バン、とシンクを思い切り叩く音に肩が跳ねた。
「お前がいるせいで私がどれだけ苦労してると思ってるの。分かる? なぁ。分かってないだろ。だからそんな顔して生きてられんだよ。あの人を繋ぎ止めるために産んだのに、なんの役にも立ちゃしない。お前なんて産まなきゃよかった。そしたらあの人について行けたのに」
 父に逃げられたことに、母さんは十五年経ってもいまだ執念く固着している。一生ものの恋だったそうだ。恋や愛という言葉では足りないほどの、その言葉の定義を変えてしまうほどの恋だったと、言っていた。コンドームに穴を開けてつくられた俺のおかげで結婚までは漕ぎ着けたらしい。しかし母のこびりつくような執着と激情に近い愛に耐えかねて、父は俺が二歳のときに家を出ていってしまった。離婚調停の裁判に父は訪れなかった。代理人の弁護士が離婚を求める理由をつらつら並べ立て、多額の慰謝料と養育費の振り込みを約束し、調停はなされた。そして、父母は夫婦という呼称を失った。
「子は鎹なんて言うけどさ、私にとってお前はただの足枷だよ。申し訳ないと思わないの? 謝れよ。謝れ。今すぐ!」
 フローリングに頭を擦り付けて、いつものせりふを口に出す。
「産まれてきて、ごめんなさい」
 そう言ったあと、自分の発した言葉が宙に浮いているような錯覚。謝っている自分を第三者視点で眺めているような。ゲームの中の自分を操作しているような感覚に陥る。
「そうだよ、全部お前のせいなの。私がこんなになったのも。私のこと奴隷か何かだと思ってるんでしょ、ねぇ」
「そんなこと」
「いいですよ、私はATMで、ノータリンの面倒も見てやって。なのにあの人に見捨てられて、私はどうすればよかったっていうの?」
 母の瞳が暗く澱む。抑鬱と激情と憎悪をごちゃ混ぜにした液体が、ガラス体の代わりに彼女の眼球に満ちていた。
「私は今でもあなたのこと愛してるのに。私のこと好きだって言ったくせに!」
 頭を掻きむしり、う゛ーともあ゛ーともつかない甲高い声が彼女の口をついて出る。
「私のこと大事にしてくれるった言ったじゃない!! なのに、お前は私のことなんて捨ててどっかにいってさぁ。私何か悪いことした? ァアーー! うるさい、うるさい、私が間違ってるわけないでしょ!!」
 ヒステリックに叫び散らして、母さんがテーブルの椅子を蹴り飛ばしひっくり返す。俺が反抗しないことを熟知しているから。振り翳された椅子の脚は背中に直撃し、硬く鈍い痛みが骨の髄まで染みる。ごと、と音を立てて椅子が乱雑にフローリングの上に放られる。母さんは、一際深いため息をついて。異様な沈黙が場を支配する。十秒、二十秒、三十秒。
「……あーーーーぁ。もうどうでもよくなっちゃった。」
 母がつかつかとキッチンに歩み寄り、収納扉が開く音がする。思わず顔を上げれば、母が出包丁を手に取っている。母が包丁を持つときは、料理をするときじゃなくて、俺のことを脅すときだけだ。
 思わず後退り、立ち上がる。それがさらに母の癪にさわったようで、切先は真っ直ぐ俺に向けられた。濁った目。明確な殺意。今までとは違う。心臓が嫌に跳ね、呼吸が不規則になる。
「お前が死ねば。全部解決するよね」
 奇妙にあたたかな声だった。こちらへ歩いてくる母は包丁を振り上げる。腹を狙って振り下ろすのを間一髪で回避し、包丁を取り上げるために腕を狙う。だくだくと心臓が暴れている。妙なアドレナリンが出て、本来感じるはずの恐怖は薄れていた。包丁を取られまいとする母との攻防は取っ組み合いの様相を呈し、かすり傷が無数にできる。しかし痛みは感じない。生命の危機に瀕しているから、脳内麻薬が分泌されている。
 膠着状態を突破し無理矢理に肩を強く押して彼女の体に乗ったとき、包丁は転がって母の手の届かないところにあった。それを手を伸ばして掴み、大きく振り上げる。母は笑っていた。俺が母さんを殺せないと確信しているから。でもどうして、自分は殺そうとしたのに相手に殺されることは考えていないのか。
 幼少期、常に手をあげられていた記憶。ママと呼んだ日には、痛みで立てなくなるほど打擲された。ろくに食料も与えられず、給食だけが満足に食べられる食事だった。家は掃除がなされないからゴミの山ができており、それを捨てるのは小学生低学年から俺の役目だった。産まなきゃよかった。そればかりを何度も聞かされて、真っ当に人格が形成されるはずもなかった。幼い頃は愛情が欲しくて努力もしたが、それはなんの意味もなさなかった。だって俺は鎹として産まれたのだから、父が出ていった時点でもう二度と母から愛されることはない。
 殺すのは自分の側なのに、走馬灯のようなものが脳裏を駆けていた。両手でしかと握った包丁を、思い切り振り上げる。そこまで来て自分が殺されるのかもしれないと気付いたらしい母が何かを言う前に、腹部へ一撃。ずぶ、と薄い脂肪や内臓に刃が突き刺さる湿った衝撃が柄を握っている自分の手にまで伝わってくる。なんとも表せない血液のにおいが鼻腔を刺激した。
「ア、ぎ」
 次いで間を置かず二撃目。胸の辺りに突き立てるも、肋骨に当たったのかガツンと硬質な音を立てて刃が止まる。粘着質な水音を立てながら包丁で胸部をかき混ぜれば、肺を切ったのか母の口からごぽごぽと鮮血が漏れ出る。もう声を発することもできない彼女の肢体は暴れているが、失血のせいで弱々しいそれを抑え込むのは簡単だった。
 気が付いたら彼女は絶息していて、刺した箇所は両手の指で数えるのには足りないくらい。案外重労働だったけれど、あっけない終わりだった。静かになった彼女は、俺によくわからない安心感を与えてくれた。母親にハグされたときってこんな気持ちなんだろうか。もう一生母さんにハグされることなんてないけれど。本当に、あっけない終わり。
 

――転換。
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