さくらのきのした

syonanoka

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 浴室に立っていた。目の前には湯の張られた浴槽がある。服を着たまま、浴槽に全身を沈めた。
 目を瞑ったまま少しだけ顔を上げて、鼻と口だけで呼吸をする。ずっとサイレンみたいな耳鳴りが聞こえていた。警報音。警戒音。警告音。輪郭の歪んだ救急車の悲鳴みたいなそれが、脳の中をずっと掻き回している。脳味噌の中でムカデが蠢いているような感覚。38℃。体温にほど近いぬるい湯の質量が、実際よりもやけに重い気がした。
 ある春の日、高校の通学路にあった公園のベンチに、彼はボーッと座っていた。始業の時刻が迫っていたのもあって声をかけてやったのがセノとの出会いだった。同じ制服を着ているからには同じ学校に通っているんだろうと思ったが。しかし学校内で彼を見かけたことはなかった。少なくとも彼を認識したことはなかった。しかしセノはありがとうね、キタガワくん、と言ったから、少々驚いたけれど。同じ学年のセノだよ、と言ってそして微笑まれた、あの笑顔が、瞼の裏に見えた。
 はっきりとした二重、目だけが弓なりに細まって、涙袋がぷくりと浮かぶ。黒目がちなせいでほとんど白目が見えない、真っ黒な笑み。実物を見た事も興味もなかったが、彼の瞳を見た瞬間、ブラックホールとはこういういろをしているのかと理解した。まるで線路の内側にいきなり突き飛ばされたみたいな恋だった。
 母親のしていた恋とは違う、穏やかな愛情を。それだけをいだいていた。それだけをいだきたかった。恋というよりは慈しみに近いと思うその感情を打ち明けたことはないけれど、彼も薄々察しているのではないかと思う。
 特定のにんげんにだけやさしくしようとするセノが好きだ。自分に自信がないから他人にやさしく接するのに、それを素直に褒められたとき、困ったような笑みを浮かべるあの顔が好きだ。失望と自嘲と嫉妬と諦念と嗜虐性をぐちゃぐちゃにまぜて、煮固めたみたいな彼の瞳が好きだ。あいつは、春のメタファーみたいな男だった。
 彼が笑うたび、ゾッとするようなエクボが浮かぶ。それは幻滅の直喩だった。物羨の直喩だった。諦観の直喩だった。加虐の直喩だった。嫋やかな笑み。鯨幕のような、遺影の縁取りのような深黒の笑顔は、見る者を不安にさせる。しかし、それこそが彼の魅力だった。人は分からないものを恐れ、同時に知りたいと考える。そういう絶妙な均衡の上に成り立つ引力に、周囲のにんげんは引き寄せられたのだと思う。
 歪む。肌色と、肉の色と、瞳の色と、髪の色と、骨の色と。精神障害児が描いた落描きみたいに、セノのすべてが歪む。体は暑いのか冷たいのか良くわからなかった。生理的な汗か冷や汗か、判断のつかない雫がこめかみを伝って浴槽に溶ける。俺はセノのことを好いている、俺はセノのことを好いている。繰り返し、繰り返し、極彩色の悪夢みたいなパースの狂った視界に言い聞かせた。サイレンは鳴り止まない。
 あの夜の海。血液の海。命が芽吹き生命が活動を始める季節に見た二つの海。自分の、自我の分岐点。それでも春は好きだ。セノと出会えた季節だから。セノは俺にとって春そのものだ。適当な環境の土壌に種を植えて水をやったら発芽するように。概ね花というものは開花する季節、時期が決まっているように。そして花は枯れたら落ちて腐敗するように。俺は、冬と春が繋がるようにセノのことを愛していた。
 自分と似たにんげんを愛することは自己愛なのだろうか。俺はただの陶酔と自己肯定のためのツールとしてセノを使っているだけなのだろうか。……これ以上は考えたくない。自分にほんの少しでも母と同じ部分があることを認めたくなかった。
 

 ――転換。


 なにか大きな生き物の口の中にいる。なまあたたかい腐敗臭が体を包んでいる。人一人が収まりきる体長からして、きっと鯨だろうと思った。
 ガスで大きく膨れた腹、その内臓の隙間に自分は体を横たえている。ガスや内臓はにんげんを害するはずなのに、不思議と自分は十全に健康だった。この環境はむしろ母親の胎内にいるかのような安心感を与えてくれた。緩やかな酩酊が脳を支配している。腐敗臭は芳醇で、体の芯がじんと痺れるよいかおりだった。ここが極楽で、死ぬのならばここがいいとさえ思えた。
 ずっとここにいられれば、きっと産まれずにいられる。そういう確信があった。だから、俺はここから抜け出すわけにはいかなかった。俺が産まれてことによって全ての不幸が始まったのならば、この世に産み落とされない事が周囲にとって唯一のさいわいなのではないだろうか。
 けれど、セノのことだけが気がかりだった。俺はきっと、セノのことを透明な糸でがんじがらめにしている。愛情という矛先を、常に彼へ向け続けている。それから解放されたら、セノはどんなふうに生きるのだろうか。この暗い空間では、彼のこれからなど見ることができない。
 セノに、一切すべてを謝りたかった。歪な愛慕を向けていることも、お前に救いを求めているのも、俺のことを守らせているのも。
 俺にとっては日向が闇で闇が日向だった。一人で行く極楽より、セノとともに地獄へ堕ちたい。そういう感情を抱いてしまっていること自体が、罪なのだと思う。恋は、愛は、罪悪だ。
 内臓に触れている皮膚が痺れた。望まぬ皮膚移植がおこなわれ、自分の体が鯨のそれと同化していくのがわかる。俺は出なくてはいけない。産まれなくてはならない。罪を償うために。ぬめる体内を掴み、なんとか閉じた口をこじ開ければ、一条の光が差し込んだ。擬似的な産道。懸命に鯨の体から抜け出す。
 そこにいたのはセノだった。こちらを無機質な目で眺めている。断罪の、断頭台の瞳がこちらを見つめている。
「キタガワ、なんで産まれたの」
 かくんと首を傾げ、本当に純粋な疑問であると言った様子で彼はこちらへ問いかける。
「お前に、会わなくちゃいけないと思ったから」
「ふふ、馬鹿だね。もうわかってるでしょ」
 彼は俺の頭を撫ぜて、ゆっくりとした動作で俺のことを抱きしめた。泣きそうになるほどあたたかな温度が、体に染みていく。彼は耳元に口を寄せて、囁くように。
「ねぇ。なんで俺を産んだの」
 
 
 ――転換。


 七階建てのマンション、その屋上に立っていた。
 階下を見ると、覚悟をしたはずなのにどうも身が竦む。春一番、びゅうと吹く春風が、微かに甘い香りを運ぶ。で体を撫ぜる。
 朝起きると、お前は罪を犯しているのに未だのうのうと生きている、早く、すぐ、今日死ねと言われる。眠るときには、お前は死ぬべきにんげんであるにも関わらず今日も死ななかったと言われる。朝起きてから眠るまでずっと、そんな言葉が脳の中でこだまする。ずっと聞こえる幻聴は、ただでさえ鈍麻している思考を完全に麻痺させ、洗脳に近い形で俺に影響を与えた。
 もういい加減にこの幻聴から解放されたくて、自分を殺してしまおうと思った次第である。死の先に何があるのかは知らないが、少なくとも自分は死とイコールで結ばれるものは無だと考えている。この期に及んで生からの解放を求める自分の浅ましさに吐き気がした。それでも、俺は逃げることを選んだ。声に従うことを選んだ。
 屋上のフェンスを掴み、足をかけ、手をかけ、振戦する手足のせいで遅々とした速度でフェンスを乗り越える。三十センチばかりの足場、一歩踏み出せば俺は途端に重力にしたがって落下し、物言わぬ肉塊になることだろう。全身が震えている。心臓は未だかつてない速度で脈打っており、呼吸は大きく乱れ息は荒い。一際強い風が吹いて、思わずフェンスにしがみつく。未だに生に執着しているところがどうしようもなく醜く、穢い。どうしようもない。救いようがない。
 ……謝らなければ。不意に、謝らなければいけないと思った。もう電話の繋がらない母へ最期に謝らなくちゃいけないと思った。あなたの望んだ通りの子どもになれなくてごめんなさいと、産まれてきてしまってごめんなさいと。スマートフォンを取り出し電話をかけれど、当然応答があるはずもない。留守電サービスに繋がったところで、口を開く。
「母さん。今までずっと母さんの望む子供になれなくてごめんなさい。愛されたいと願ってごめんなさい。重荷になって、あなたの足枷になってごめんなさい。産まれてきてしまってごめんなさい。俺はもういなくなるので、幸せになってください」
 掠れたみっともない声で、謝罪を連ねる。届かないことはわかっていた。それでも。
 ぶれる視界、通話を切り、一つ深く深呼吸を。そして、一歩を踏み出した。
 

 ――転換。
 
 
 桜の花びらが舞っていた。俺は車椅子に座っている。俺は一人で、隣にセノの姿はなかった。
 中庭。あたたかな春の日差しが体をぬくめている。ここは公園でもないし、ベンチも酒の缶もつまみもない。どうして、と思い。どうして、と思う自分に疑問を抱いた。とっくに、なにもかもを理解していた。
 どこまでいっても俺は一人で。セノは、いなくなってしまった。彼はどこにもいない。戸籍もない。セノなんて人物は実在しない。大昔、母に買ってもらったぬいぐるみのことを、俺はセノと名付けて呼んでいた。彼は俺のイマジナリーフレンドで、幻覚。
 飼っていた犬の名前が一緒なのも。母親の行動や心理が同じなのも。セノと出会った時期や関係性がコロコロと変わったのも。全て、俺が作り出した幻覚だから。セノは、俺の解離による第二人格だった。つまるところ、俺はセノを包括している。
 あのあと、俺は七階の屋上から飛び降りた。しかし、途中でマンションに隣接する二階建ての集会所に落下。近隣住民が音に気付いて救急車を呼び、幸か不幸か俺は命を繋ぐこととなった。あれだけ望んだ死は、あんなに近くにあった死は、下半身付随になったせいで手が届かなくなった。
 俺のことを精神科の閉鎖病棟に入れたのは、他でもない母さんだった。母さんは確かに生きていた。今も、生きている。俺が殺したと思っていたのは幻覚の母親で、記憶が混濁し、本当に殺して埋めたと誤認していたわけである。セノは、健忘と誤認をしている事実を伝えるために、深層心理から現れた人格であると、主治医が言っていた。びゅうとなまぬるい風が吹いて、あおられた桜の花から花弁が離れ、木の周囲でひらひらと舞う。
 定期的に事実を思いだしては、しかしまた妄想と健忘に取り憑かれ、セノが現れる。そのループを、俺はどれだけ繰り返してきたんだろうか。……それでも。あの悪夢のようなフラッシュバックと、誤認による架空の殺人とを繰り返し精神を苛まれるのだとしても。俺はまたセノに会いたいと、しんから思っていた。彼に恋をしていた。心臓にこびりつく執着と依存。俺がそれを愛と呼ぶことをたとえ世界のすべてが否定しても、俺の中ではそれこそがただしさだった。
 俺は、今になってようやく、母の気持ちを理解できたような気がした。
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