さくらのきのした

syonanoka

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おまけ

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 六畳間、カーテンの閉め切れられた部屋。部屋の隅にある量販店で買ってもらった勉強机には、うっすらと埃が積もっていた。壁際には、使い古された受験勉強用のテキストや赤本がびっしり詰まった書棚が並んでいる。残されたスペースに配置されているのは黒いパイプベッド。グレーのシーツとグレーの毛布ら、俺はそれに挟まれていた。否、正確に言えばくるまっていた。カタツムリが自らの貝殻に閉じこもっている。アルマジロが腹部を守って丸まっている。
 俺は、すべてから目を逸らして、耳を塞いで、口も開かず。フラッシュバックする瞬間瞬間を殺したくて、瞼が痙攣するほどきつく目を瞑っている。握りしめた手に、今でもあの感触が残っていた。
 微かにカビた布のにおいがする擬似的なシェルター。そこに固着していたしじまは、ペタペタという間抜けなスリッパの足音で剥がされた。扉の開かれる音。次いで短く乾いた音。途端、二重になっている布を微かに透過した旭光に眉をひそめる。纏っていた温かな毛布を無理矢理に引き剥がされて。
「おはよう」
 部屋の空気が一瞬で変わった感覚。フラッシュを焚かれたかのような視神経を突き刺す眩しさに思わず顔をしかめた。カーテンが開け放たれた窓からは眩い朝日が差し込んでおり、目の前に立っているセノは輝かんばかりの笑みを浮かべている。昔から家同士の付き合いがあった幼馴染であるこの男は、最悪なことに、この家の合鍵を母から預かっていた。
「ずっと暗い部屋にいたら体調崩しちゃうよ」
「な、んで。」
 長らく使っていなかった声帯がうまく振動せず、掠れた声が口から落ちる。彼はあのリビングの惨状を見て来なかったのか。本来であれば、玄関の扉を開けた瞬間叫声を上げてしかるべきだ。彼は散歩でもするかのように、あの死体が浮いた血の海を歩いてきたとでもいうのだろうか。
 なにも言わず俺の手をやさしく握った彼の表情は、慈母のそれだった。親殺しになど到底向けられるべきではないその微笑みが、彼の異様さを一層助長していた。そのあたたかな温度が、ずっと強張っていた手をぬくめていく。
 一夜たった今でも消えない。母さんの腹に包丁を突き立てたときの、脂肪を、その先の、ショックで硬直した筋肉を切り開いていくあの感触が。包丁を引き抜いたあと。力なく上下する血に塗れた胸部と、気道から上がってくる血液のせいで、呼吸のたびに聞こえたごぽがぽという溺れたような水音が。ことが終わったあと。凄惨な緋色の絨毯が敷かれたようなフローリングと、刺殺体から立ちのぼる微かな鉄錆のにおいが。
「だいじょうぶだよ」
「なにが。一体なにが大丈夫なんだよ」
「キタガワはなにも悪くないよ」
 ね、そうでしょ? そう穏やかに言い放った彼の声音は、親の言うことを純粋に信じる幼子のそれであった。手を引かれ、半ば無理矢理に立ち上がらされる。ずっと同じ姿勢でいたせいで固まっていた筋肉が伸びて。しかしすぐにベッドへ腰掛けた。
「せっかくいい天気なんだし、外の空気でも取り込んでみる? 換気しよっか」
 からからと窓が開けられ、おだやかな風が春のかおりを纏って吹き込んでくる。嫌味なほどに清々しい朝。
「なんでとか、どうしてとか、聞かないわけ」
 セノの背中に言葉を投げかける。ゆっくりと左側から振り返った彼は、どうしようもない子どもを見るような目をしていた。
「聞いても意味ないでしょ。今ここにあるのは事実だけで、その前後なんて実在してないのと同義だよ」
 それから俺の隣に腰掛けたセノから、さくらのかおりがする。薄く汗ばんだ桜花の香気が、彼の体から漂っていた。ついさっき春風を浴びたせいか、自分の嗅覚が変に鋭敏になっているせいかは分からなかったけれど。
「震えてるの? 寒い?」
 振戦する俺の指先を見つめ、彼がそっと手に触れてくる。恐れからくる震えを、ただの生理現象であると誤認されている。しかし、ただ手が悴んでいるのだと思いこめば、少しは気が楽になった。しばらくあたたかな沈黙が流れる。静寂を埋めるように、どこか遠くで犬が鳴いている。その音もすぐに風にかき消され、ふたたび部屋の中はぼんやりとした沈黙に包まれた。セノは隣で静かに座っている。微かに軋むベッドのスプリングが、彼の存在を証明していた。
 このあたたかな沈黙にいつまでも浸っていたくて、されどそんな権利を自分は持ち合わせていないと同時に思う。そんな自責の念から漏れた言葉は、呟くという語義を歪めてしまうほど重く、どろついていた。質量と粘度をまとった声が、二人の間に落ちる。
「殺さなくちゃ、生きていけないと思ったんだ」
 喉の奥にずっと執念くひっかかっていたものが思わず唇からまろんだ、ような。ひとこと言ってしまえば、そのあとは早かった。懺悔でもするかのような俺の言葉を、セノは静かに聞いている。
「伝わるか、分かんないんだけど。……母さんがこっちに視線を向けるたび。なにか言おうと唇を開くたび。あの人の、普通なら気にならないような些細な仕草が視界に入るたび。よく研がれた包丁の切先が自分に向けられてるような心地がしてたんだ。そんなのが朝から晩まで四六時中続いて、俺は、多分キチガイにになったんだよ。だから、俺は、母さんを殺した」
 一つ一つ、言葉にすることで事実を確認していくように。自身の正気を、狂気であるという正気を担保するために、第三者への告白を。少しつっかえながら吐き出された俺の告解をなにも言わずに聞いていた、彼はサナトリウムの眼差しでこちらを見つめて。
「キタガワは、狂ってなんかないよ」
 セノはそう言った。その声は、祈りにも似た落ち着きを持っていた。言葉の端にすら迷いはなく、まるで世界の根底にそれが真理として存在しているかのようだった。
「俺が保証する。世界中の全員が君のことを気が狂ってるって言っても、俺だけはそれを絶対に否定する。だから。少なくとも、この部屋の中では、キタガワはキチガイなんかじゃないよ」
 しんからそう言っていることが分かる、不可視の説得力を孕んだ言葉。このひとときに限れば、彼の言うことがなんでも真実になるような気さえした。しかし、俺は狂っていなければいけなかった。そうでなければ、そうでなければ俺は正気のまま自分の母親を殺したことになる。なにも言えず黙り込んでいる俺をセノが見ているのが感覚だけで分かった。もし今彼の眼球を指でなぞったら、底なしの慈愛が指紋にこびりつく。
 不意に、鼻腔をなにかのにおいが刺激する。最初は単なる春の湿った土の匂いかと思った。しかし、風に混じってくるそれは、どこか生臭く、鈍い甘やかな酸味を帯びていた。最初の違和感が次第に身体へ浸潤し、やがて、どうしようもない事実に気付いた。なにかを考える前に、そちらへ視線が移動する。
 そこには、窓の外には、膨らんだにんげんがあった。そしてそれと、目が合った。乾き、くぼんだ眼窩の奥。鈍く濁った黒がこちらを凝視していた。それの皮膚には緑と紫がまだらに浮かび、骨の陰影が皮の下から透けている。頬は沈み、口元からは黒ずんだ体液が乾きかけた筋を描いて流れている。腹部は内部で発生したガスによって膨張し、衣服のボタンがひとつ弾け飛んでいる。かつて平坦だったはずの体表には、内圧に負けた皮膚が破れ、黄褐色の浸出液が滲んでいた。しかし、そう呼ぶには躊躇うほどの死体に、確実に見覚えがあった。衣服に染み込んでいる血液の根源。その場所、数。全てに、見覚えがあった。母さんだ。死んだ母が、窓の外に立っている。
 絶句。ひきつったように痙攣する心臓と、乱れる呼吸。俺のことを差し置いて、セノが立ち上がり、窓辺に歩み寄っていく。窓の前に立った彼の背中は、陽光に照らされて輝いていたが、その目線は確かに、目の前に現れた腐乱死体に向けられていた。そして、こちらへゆっくりと振り返る。彼の輪郭を麗らかな春の日差しと腐臭が縁取って。
「どうしたの? ひどい顔してるよ」
 彼の声は、いつものようにおだやかで、俺をしんから心配していることが嫌でも伝わってくる。セノの顔には、少しも動揺の色がない。目の前にあの母親の腐乱した姿が立ち尽くしているというのに、彼は、世間話でもするみたいに。
「だ、だ……って」  
 軽度の吃音から動揺を読み取ったセノが、不思議そうに首を傾げる。
「変なことなんてなにもないでしょ」
 彼の言葉を消化する前に。唐突に、死んだはずの母が、窓の外で動いた。ガクンと膝が曲がり、一歩。足を踏み出すたびに、股間のあたりがグジュッと湿った音を立て、その動きに合わせて軋んだように体が揺れた。冒涜的な奇形のしかばねは、着実にこちらへと向かってくる。セノはそれを眺めながらゆるやかに微笑んで。
「怖くないよ」
 セノの視線が移動し、俺の眼球に固着する。ひたと真っ直ぐにこちらを見つめて。カラスって黒いよね、と言うのと同じような声音で言葉を発す。
「ねぇ。だって、君が会いたがってたんだよね」
 その言葉が、信じられないほど穏やかに発せられた瞬間、全てが止まった。架空の凝固した空間の中、セノだけが動いている。彼は静かにその腐乱死体に手を伸ばした。まるで古びた人形に触れるときみたいに、腐った母の顔をそっと指で撫ぜる。その触れた指先が、徐々に、硬直した腐敗した頬にゆっくりと溶け込んでいく様子が、何故か恐ろしいほど鮮明に見えた。
 眼球が乾く。思わず、ひとつまばたきをして、目を開ける。瞬間、ゾッと背筋を悪寒が駆け上がり。その原因はどうしようもなく確かに目の前に存在していた。
 母の顔とセノの顔が、そっくり入れ替わっている。膨れ上がった腐乱死体の輪郭に、彼の微笑が埋もれている。どどめの浮いた頬、乾ききった唇、どろと濁った眼、全てがセノのいろをしている。腐敗したおだやかな笑みがこちらを向いていた。そして緩慢な動作で腕を上げ、腐った母の体をを矯めつ眇めつしたのち。母さんの頭がついた自分の体を窓越しに抱きしめて。
「やっとわかった!」
 心底嬉しそうな声でセノが笑った。二重の視線がこちらを向いている。自分が息を吸う音が鋭く空間を震わせた。……あ、だめだ。すべてが、この瞬間に完結したという直感、構築されたおしまいを彼の手ずから渡されようとしているという錯覚。
 セノは、母の死を、そして俺の狂気を。それらを一緒に抱きしめて、無理矢理ひとつに纏め上げていた。奇形児できたパッチワーク。腐敗した彼の唇が、黒色の液体をこぼしながらゆっくりと開いていくのが見える。子どものように無垢で、やさしさだけでできている彼の声が、にこやかに言葉を紡ぐ。
「キタガワは、自分を壊したくて、お母さんを使ったんだね」
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