官能小説家であることは絶対に隠したい大学生――好きな子にだけは純文学作家として胸を張って見せたい僕の、胸キュンと秘密だらけの毎日

すくらった

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7. これは考察であって感想ではない

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 講義の空き時間に大学図書館の閲覧席に座り、書架から本を数冊取ってくる。

 隣に座った学生が、僕の机の上を、ちら、と見た。

 正確には……
 本を、だ。

 一冊目。
『睡眠薬の基礎知識』

 二冊目。
『洗脳とは何か――心理操作の構造』

 三冊目。
『悪魔の言葉 人にイエスと言わせる話法』

……我ながら、何を持ってきてるんだ。

 執筆用の参考資料とはいえ、
 こうして並べると、完全に危ない人である。

 聖奈ちゃんや京子に見られたら困るラインナップだが、締め切りが近い。期限に間に合わないのはもっと困る。この時間である程度書き進めないと。

 他人に見えないように、少し本の位置をずらした。が、遅かったらしい。

「あの……」

 控えめな声。

 振り向くと、前髪で片目がほとんど隠れた、小柄な女子学生が立っていた。

 低身長。
 少しふくよかな体つき。
 姿勢は、どこか遠慮がち。

「あ、変なこと言ってたら……無視してください」

 前置きしてから、彼女は続ける。

「その……その本の組み合わせ、ちょっと気になって」

 やっぱりか。

「普通、同時に読む人、あまりいないので」

 視線は責めていない。
 ただ、純粋な好奇心。

「……参考文献、だよ」

 咄嗟に、半分だけ本当のことを言った。

「文を書くのに、使ってて」

 彼女は、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 それから、そっと息を吐く。

「やっぱり」

……何が、やっぱりなんだ。

「私も、同じです」

 そう言って、鞄から一冊の大学ノートを取り出した。

 表紙には、几帳面な字でこう書かれている。

〈考察ノート〉

「ネット小説の、ですけど」

 彼女はそう付け加える。

「えっと……ジャンルは、その……
 大人向け、です」

 小声で言って、軽く頬を染める。

「私、直接的な場面より、
 そこに至るまでの心理とか、
 身体描写とかを考察するのが好きで」

……なるほど。

 それで、
 睡眠薬。
 洗脳。
 話術。
 
 こいつを取ってきた僕に反応したのだ。

「もしかして」

 彼女は少し迷ってから、続けた。
 指がノートの端をなぞる。

「……お好きなんですか。ネット小説の『えろりーにょ』。最近そっちの方のテーマが扱われてますよね」

 えろりーにょ。

 その単語だけ、彼女は限界まで声を落とす。

 心臓が、どくんと大きく拍動するのがわかった。

「もし何のことか分からないなら……」

「えろりーにょ、嫌いじゃ、ないよ」

 そう答えると、彼女はほっとしたように肩を落とした。

「ああよかった……」

 名前を名乗られる。

「私、黒井です。黒井望。経済学部2年生」

 それから、ノートを開いて見せる。

 中は、びっしりと文字で埋められていた。

 台詞の引用。
 心理描写の分析。
「ここで触れないのが逆に官能的」と赤字で書かれた行。

 官能を、“心理構造”として見ている。できれば借りてじっくり見てみたいほどの考察力だ。

「この書き手さん、読者を興奮させたいというより、納得させたい人ですよね。通常は起こり得ないシチュエーションというのを、催眠や洗脳、話法なんかを直接的や間接的に使って成立させているところが『えろりーにょ』の面白いところで……」

 独り言みたいに言ってから、
 はっとしてこちらを見る。

「あ、すみません。独りで語っちゃって」

「……いや」

 自然と、口が動いた。

「分かる気がする」

 その瞬間。

 黒井さんの表情が、ほんの少しだけ、柔らいだ。

「ちょっと、出て話そうか」

 それから、しばらく。

 ベンチでノートを持ちながら、冷静にそして熱く語った。

 僕のネット小説「えろりーにょ」について。

 彼女は、踏み込まない。
 作者像にも、現実にも。

「これは、創作なので」

 その一線を、きっちり守る。

……安全だ。

 そう思えた。

 別れ際。

「今日は、ありがとうございました」

 深く頭を下げてから、

「また……考察、付き合ってもらえたら、嬉しいです」

 連絡先は、聞かれなかった。
 次の約束も、しなかった。

 それなのに。

 彼女が去ったあと、
 僕はしばらく、席を立てなかった。

 再確認できた、創作に対する色々な思い。
 そしてそれを邪魔するようにむくむくと湧き上がる彼女のふくよかな体に対する想いを鎮めるため、僕はラムネを一粒口に含んだ。

 ――

 学部棟を出たところで、私は足を止めた。

 理由は単純。
 視界の先に、あの人の姿が見えたからだ。

 正人先輩。

 中庭のベンチ。
 そこに、誰かと並んで座っている。

「……へぇ」

 思わず、声が漏れた。

 別に、珍しい光景じゃない。
 先輩はサークルの人とも、学科の人とも、
 男女問わず普通に話す。

 なのに。

 足が、止まった。

 相手は、知らない人だった。

 小柄で、黒髪。ふくよかな体。
 前髪が長くて、片目がほとんど隠れている。
 服装は地味で、色も落ち着いている。
 正直、印象に残りにくいタイプ。

 でも。
 私の中の何かがアラートを鳴らす。

 私は、少し距離を取ったまま、
 植え込みのレンガに腰掛ける。
 盗み聞きするつもりはない。
 本当に、ただ見ているだけ。

 正人先輩は、いつも通りだった。
 話している途中で、相手の反応を待つ癖。

 ……ああ、あの聞き方だ。

 相手に合わせて、間を空ける。
 急かさない。決して理解を急がせない。

「ああいうところが好きなんだよね」
 思わず呟く。

 そして問題は、隣の子だった。

 彼女、喋りすぎない。

 相槌は打つけど、頻繁じゃない。
 笑うときも、声を出さない。
 正人先輩が話すたび、ほんの一瞬だけ反応が遅れる。小首をかしげるのが、悔しいけど可愛い。

 受け取って、しっかり考えてるのがわかる。

「……なるほど」

 私は、口の中で呟いた。

 この子、タイプが違う。

 私みたいに踏み込まない。
 聖奈先輩みたいに、急にバン、と
 核心をつくタイプにも見えない。

 距離が、一定。

 一定すぎる。

 正人先輩が何か言って、少し困ったように笑う。
 すると、彼女は首を横に振って、短く何か返した。

 正人先輩が、ほっとした顔をする。

 ……あー。

 これ、やだな。

 胸の奥に、ちくっとしたものが走る。

 別に、仲良さそうってほどじゃない。
 恋人感もない。
 修羅場感なんて、もちろんゼロ。

 なのに。

「安全圏、か……」

 私は、思わず苦笑した。

 あの子、攻めない。
 選ばせようとしない。
 奪おうともしない。

 それなのに、
 正人先輩が、あんな顔をする。

 信頼してる顔。

 それは、私が一番欲しくて、
 一番簡単には手に入らないものだ。

 正直に言えば。
 割り込もうと思えば、割り込める。

「先輩ー!」って声をかけて、
 何でもない顔で近づいて、
 適当に会話に入ってしまえばいい。

 でも。

 ここで声をかけたら、鴨下京子の負けだ。

 割り込む理由もないし、
 割り込む必要もない。

 それに……
 割り込んだところで、あの距離感は壊れない。

 そういう種類の人だ。

 しばらくして、彼女は立ち上がった。

 彼女が軽く会釈して、先に去る。
 正人先輩は、それを追わない。
 呼び止めもしない。

 見たところ連絡先も、交換してない。

 それを見て、私は少しだけ目を細めた。

「なるほどね」

 危険じゃない。
 今は。

 でも。

 ああいうタイプが、一番厄介だ。

 ゆっくり来て、
 何も壊さず、
 誰とも争わず、
 気づいたときには、いちばん近くの理解者になっている。

「……先輩は、私だけ見てればいいのにな」

 誰に言うでもなく、そう呟いてから。

 私は何事もなかった顔で、歩き出した。
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