官能小説家であることは絶対に隠したい大学生――好きな子にだけは純文学作家として胸を張って見せたい僕の、胸キュンと秘密だらけの毎日

すくらった

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8. 頼れる人の顔をして

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 大学の講義が終わり、キャンパスを出て駅へ向かう途中だった。

 夕方の空気は、まだ少しだけ温かい。
 人通りの多い歩道を歩きながら、スマホで次の締め切りを確認して――ふと、顔を上げる。

 向かい側の歩道。

 ぽてぽて、という表現がいちばんしっくりくる歩き方で、一人の女性が歩いていた。

 ――あ。

 綿野さんだ。

 イタリア書院の、綿野ツムギさん。
 出版社で顔を合わせることはあるけれど、こうして大学の外で見かけるのは初めてだった。

 よく見ると、様子がおかしい。

 歩幅は小さく、視線は下向き。
 肩が、いつもより少し内側に入っている。

 ……しょんぼりしてる。

 何かやらかした顔だ。
 しかも、たぶん仕事絡み。

「綿野さーん!」

 考えるより先に、声が出ていた。

 大きく手を振ると、彼女はびくっと肩を跳ねさせ、こちらに気づいた瞬間、前につんのめりそうな勢いでお辞儀をした。

 危ない。

 ちょうど車の流れが切れたタイミングで、車道を横断する。

「こんにちは」
「こ、こんにちは……!」

 顔を上げた綿野さんは、やっぱりしょんぼりしていた。

「すみません、声をかけていただいたのに……こんな顔で」

「いや、気にしなくていいですよ、どうしたんです?」

 そう聞くと、彼女は一瞬だけ口を開いて、
 それから、閉じた。

「あ、いえ……その……」

 言葉を探している。
 たぶん、まだ自分の中で整理できていない。

「……ケーキでも、食べますか?」

 思いつきで、そう言った。

「え?」

「近くに喫茶店あるし。僕が奢るから」

 綿野さんは、目を丸くする。

「で、でも……大学生に奢ってもらうなんて……お金……」

「いや、僕、作家でちょっとは収入あるんで」

 車が一台、通り過ぎる。

「あ、そっか」

 納得したように、そう言われてしまった。

 ……いや。
 この人なんで僕と知り合いになったと思ってるんだろう。

 内心で苦笑しながら、喫茶店に向かう。


 店内は静かで、落ち着いた雰囲気だった。
 平日の夕方ということもあって、客はまばらだ。

 ショーケースを前に、綿野さんは少し迷ってから、苺のショートケーキを指差した。

「……これ、いいですか」

「もちろん」

 席に着いて、しばらくは他愛もない話をした。
 天気のこと。
 最近、忙しいこと。

 ケーキが半分ほど減った頃、彼女がぽつりと言う。

「私……なんで、イタリア書院に入ったと思います?」

 聞き返す代わりに、首を横に振る。

「海外の絵本が、好きだったんです」

 少しだけ、声が弾んだ。

「子どもの頃から。
 外国の絵本って、色使いとか、間の取り方とか、日本と全然違って」

 でも、その声はすぐに落ち着く。

「出版社だし、名前に国名も入ってるし……
 ここなら、関われるかなって」

 フォークを持つ手が、止まった。

「入ってみたら、全然関係なかったんですけど」

 苦笑いを浮かべる綿野さん。

「でも、出版業界なことに変わりはないから……
 経験には、なるかもしれないって」

 それは、投げやりな言い方じゃなかった。
 自分を納得させるための言葉だ。

「……でも、わたし、え、えっちぃのは、に、苦手で……」

 急に顔が赤くなり、声が小さくなる。

「彼氏も、できたことないですし」

 その告白に、僕は一瞬だけ言葉を失った。

 同情でも、欲情でもない。
 別の感情が、胸の奥で動いた。

 不器用で、遠回りで、それでも投げ出さずに頑張っている。

 ……なんだこれ。

(これが、庇護欲というやつか……?)

 自分の心の動きに、少し驚く。

 ラムネを欲しくなるような衝動とは、明らかに違う。
 ただ、放っておけない。

 そんな感覚。

 しばらくして、彼女はぽつりと呟いた。

「でもオラ……ちょっともう、田舎に帰りてぇだよ」

 一瞬の沈黙。

「あっ……」

 自分で気づいたらしく、慌てて口を押さえる。

「す、すみません。変な言い方……」

「いや」

 思わず、笑ってしまった。

「いいと思います」

 その瞬間、彼女の肩から、少しだけ力が抜けた気がした。

 妙な空気を誤魔化すように、
 僕は残っていたケーキを口に放り込む。

 甘さが、舌に広がる。

 ……ダメだ。
 この感覚は、別の意味で危険だ。

 店を出たあと、駅の前で別れた。

「今日は、ありがとうございました」

 深く頭を下げてから、彼女は小さく手を振る。

 見送ってから、僕はひとり、立ち止まった。

 性的な興奮じゃない。
 創作について話すときの高揚感でもない。

 それでも、胸の奥が、妙にざわついている。

 頼れるお兄ちゃんの顔をしている間は、きっと、この気持ちについては深く考えないでいられる。

 ……それが、一番厄介なのかもしれないが。
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