12 / 15
12.とかく人の世は生きにくい、けれど
しおりを挟む
当然といえば当然だが、その本は、駅前の大型書店には置いていなかった。
帰ってネットで検索して、値段を見て、僕は一度ブラウザを閉じ、ため息をついた。
「十二万円……」
研究者向けの専門書。
論文をまとめたもので、一般向けじゃない。
新品で買うと、正直ちょっと痛い。しかも今後も多用するかというと、それもちょっと怪しい。
そんな本に、十万ちょっとは出せない。
「……大学の図書館にも、ないしな」
ぼやきながら、スマホをポケットにしまう。
今回の作品に必要なのは、
設定のための知識じゃなくて、
『裏付け』だった。
それらしく見える、じゃ足りない。
ちゃんと成立している、という感覚が欲しい。
でも、だからといって、
この金額を気軽に出せるほど、余裕があるわけでもない。
当然、この悩みは翌日も解消されることはなかった。
次の日。悩みながら、文学サークルの部室へ向かう廊下を歩いていると。
「何かお困り、ですか?」
控えめな声が、後ろからした。
振り返ると、黒井さんが立っていた。
いつも通り、前髪で片目が隠れている。
「珍しいですね、正人さんがそんなに背中を丸めて歩いてるなんて」
……見られてたか。
「まあ、うん。ちょっと欲しいものがあってね」
「欲しいもの?」
「うーん、欲しいものというか、一時的に必要なものというか。参考資料なんだけど」
何を書くためかは、伏せておく。
「書名は、覚えてます?」
「うん」
僕はタイトルを黒井さんに告げる。
「ああ、あれ……高いですよね」
即答だった。
少しだけ、心臓が跳ねる。
「……知ってるんだ」
「はい」
それだけ言って、彼女は一瞬、視線を落とした。
それから、小さく息を吸う。
「……あの」
「うん?」
「もし、よければなんですけど」
言葉を選ぶ間。
ほんの数秒。
でも、その沈黙は、
彼女にとっては長かったのだと思う。
「……私、持ってます」
予想より、ずっと小さな声だった。
「あります。家に」
僕の頭の中に、いくつかの可能性が浮かぶ。
でも、どれも口に出さなかった。
「よければ、貸します」
「え」
「条件、ありますけど」
黒井は、はっきり言った。
「どこで手に入れたか、とか、どうして持ってるのか、とか、一切聞かないでほしいんです」
まっすぐなお願いだった。
だから、僕は即答した。
「いいよ」
それだけ。
黒井さんは、目を瞬かせた。
拍子抜けしたような顔。
「……いいんですか」
「うん。どういう経緯で入手しようが、資料は資料だし」
彼女は、安堵したように笑った。
「……ありがとうございます」
次の日。
彼女は、本を一冊、丁寧に包んで持ってきた。
角が潰れないように。
水に濡れないように。
大事に扱われてきたのが、分かる。
「助かるよ。じゃあ一週間貸してね。一週間後のこの時間に、ここで返すよ」
そう言って受け取ると、
彼女の肩が、わずかに下がった。
本は、確かに良かった。
専門的で、理屈が通っている。
おかげで小説本文における、感情の流れも大分明確になった。執筆作業のほうも、大分スムーズに進めることが出来た。
一週間後。
「ありがとう。ほんと、助かった」
返却するとき、約束通りそれ以外のことは言わなかった。
黒井さんは、本を受け取りながら、少しだけ呆然としていた。
「……それだけ、ですか」
「うん」
「……聞かないんですね」
「聞いてほしかった?」
一瞬、間が空く。
「……いいえ」
首を横に振る。
「……それで、いいです」
――
正人さんと別れたあと。
私は、胸の奥に残った違和感を、
ゆっくりと言葉にしようとしていた。
怖かった。
詮索されるのが。
距離が変わるのが。
でも。
何も、起きなかった。
世界は、
本を貸す前と、同じままだ。
同じ距離。
同じ温度。
それなのに。
自分の中だけ、
ほんの少し、何かが変わってしまった。
安心してしまった。
信じてしまった。
……信じられた。
たった一言、
「助かったよ」
それだけで。
ノートを開く。
今日の考察は、なんだかうまく進まない。
ページの端に、
小さく、どうでもいい一文を書いてから、
私はペンを止めた。
――取越苦労。
でも、その四字熟語は、
なぜか消せなかった。
しばらくしてから、図書館を出て、家に帰る。
自宅正門前でインターホンに顔認証。音を立てて門が開く。
『図書館棟』で本を元の場所に戻し、屋敷に入る。
玄関ホールでは既にじいやが私を待っていて、荷物を持ってくれる。
「望お嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま、じいや」
「お友達から本は受け取りましたかな?」
「うん、約束通りきっちり返してくれたよ」
「そうですか……お友達……」
突然じいやが声を詰まらせる。
「ううっ……ついにまた、望お嬢様にお友達が……」
「やめてよじいや」
私は苦笑する。私が「友達関係」で苦労してきたのをしっているからこそ、私が「お友達に本を貸した」という出来事に感無量なのだろう。
「まだ……友達かもよく分からないし」
「いえ、今度こそきっと、いい人ですとも」
じいやが無根拠に言い切る。
私は苦笑いを浮かべながらも「今度こそ、そうかもしれない」というかすかな希望を持ったことも事実だ。
「で、いつ屋敷に遊びに来られるのですかな」
「いや、まだ……」
そうだ、うっかりしてた。まだ連絡先も交換してなかった。
「また、会えるかな」
またお話したいな。
しばらく大学図書館を覗いてみようか。
「ふふっ……」
「お嬢様、どうされました」
「なんでもないよ」
これって、これってまるで。
恋みたいだ。
帰ってネットで検索して、値段を見て、僕は一度ブラウザを閉じ、ため息をついた。
「十二万円……」
研究者向けの専門書。
論文をまとめたもので、一般向けじゃない。
新品で買うと、正直ちょっと痛い。しかも今後も多用するかというと、それもちょっと怪しい。
そんな本に、十万ちょっとは出せない。
「……大学の図書館にも、ないしな」
ぼやきながら、スマホをポケットにしまう。
今回の作品に必要なのは、
設定のための知識じゃなくて、
『裏付け』だった。
それらしく見える、じゃ足りない。
ちゃんと成立している、という感覚が欲しい。
でも、だからといって、
この金額を気軽に出せるほど、余裕があるわけでもない。
当然、この悩みは翌日も解消されることはなかった。
次の日。悩みながら、文学サークルの部室へ向かう廊下を歩いていると。
「何かお困り、ですか?」
控えめな声が、後ろからした。
振り返ると、黒井さんが立っていた。
いつも通り、前髪で片目が隠れている。
「珍しいですね、正人さんがそんなに背中を丸めて歩いてるなんて」
……見られてたか。
「まあ、うん。ちょっと欲しいものがあってね」
「欲しいもの?」
「うーん、欲しいものというか、一時的に必要なものというか。参考資料なんだけど」
何を書くためかは、伏せておく。
「書名は、覚えてます?」
「うん」
僕はタイトルを黒井さんに告げる。
「ああ、あれ……高いですよね」
即答だった。
少しだけ、心臓が跳ねる。
「……知ってるんだ」
「はい」
それだけ言って、彼女は一瞬、視線を落とした。
それから、小さく息を吸う。
「……あの」
「うん?」
「もし、よければなんですけど」
言葉を選ぶ間。
ほんの数秒。
でも、その沈黙は、
彼女にとっては長かったのだと思う。
「……私、持ってます」
予想より、ずっと小さな声だった。
「あります。家に」
僕の頭の中に、いくつかの可能性が浮かぶ。
でも、どれも口に出さなかった。
「よければ、貸します」
「え」
「条件、ありますけど」
黒井は、はっきり言った。
「どこで手に入れたか、とか、どうして持ってるのか、とか、一切聞かないでほしいんです」
まっすぐなお願いだった。
だから、僕は即答した。
「いいよ」
それだけ。
黒井さんは、目を瞬かせた。
拍子抜けしたような顔。
「……いいんですか」
「うん。どういう経緯で入手しようが、資料は資料だし」
彼女は、安堵したように笑った。
「……ありがとうございます」
次の日。
彼女は、本を一冊、丁寧に包んで持ってきた。
角が潰れないように。
水に濡れないように。
大事に扱われてきたのが、分かる。
「助かるよ。じゃあ一週間貸してね。一週間後のこの時間に、ここで返すよ」
そう言って受け取ると、
彼女の肩が、わずかに下がった。
本は、確かに良かった。
専門的で、理屈が通っている。
おかげで小説本文における、感情の流れも大分明確になった。執筆作業のほうも、大分スムーズに進めることが出来た。
一週間後。
「ありがとう。ほんと、助かった」
返却するとき、約束通りそれ以外のことは言わなかった。
黒井さんは、本を受け取りながら、少しだけ呆然としていた。
「……それだけ、ですか」
「うん」
「……聞かないんですね」
「聞いてほしかった?」
一瞬、間が空く。
「……いいえ」
首を横に振る。
「……それで、いいです」
――
正人さんと別れたあと。
私は、胸の奥に残った違和感を、
ゆっくりと言葉にしようとしていた。
怖かった。
詮索されるのが。
距離が変わるのが。
でも。
何も、起きなかった。
世界は、
本を貸す前と、同じままだ。
同じ距離。
同じ温度。
それなのに。
自分の中だけ、
ほんの少し、何かが変わってしまった。
安心してしまった。
信じてしまった。
……信じられた。
たった一言、
「助かったよ」
それだけで。
ノートを開く。
今日の考察は、なんだかうまく進まない。
ページの端に、
小さく、どうでもいい一文を書いてから、
私はペンを止めた。
――取越苦労。
でも、その四字熟語は、
なぜか消せなかった。
しばらくしてから、図書館を出て、家に帰る。
自宅正門前でインターホンに顔認証。音を立てて門が開く。
『図書館棟』で本を元の場所に戻し、屋敷に入る。
玄関ホールでは既にじいやが私を待っていて、荷物を持ってくれる。
「望お嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま、じいや」
「お友達から本は受け取りましたかな?」
「うん、約束通りきっちり返してくれたよ」
「そうですか……お友達……」
突然じいやが声を詰まらせる。
「ううっ……ついにまた、望お嬢様にお友達が……」
「やめてよじいや」
私は苦笑する。私が「友達関係」で苦労してきたのをしっているからこそ、私が「お友達に本を貸した」という出来事に感無量なのだろう。
「まだ……友達かもよく分からないし」
「いえ、今度こそきっと、いい人ですとも」
じいやが無根拠に言い切る。
私は苦笑いを浮かべながらも「今度こそ、そうかもしれない」というかすかな希望を持ったことも事実だ。
「で、いつ屋敷に遊びに来られるのですかな」
「いや、まだ……」
そうだ、うっかりしてた。まだ連絡先も交換してなかった。
「また、会えるかな」
またお話したいな。
しばらく大学図書館を覗いてみようか。
「ふふっ……」
「お嬢様、どうされました」
「なんでもないよ」
これって、これってまるで。
恋みたいだ。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
婚約者の番
ありがとうございました。さようなら
恋愛
私の婚約者は、獅子の獣人だ。
大切にされる日々を過ごして、私はある日1番恐れていた事が起こってしまった。
「彼を譲ってくれない?」
とうとう彼の番が現れてしまった。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる