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13.彼女はやっぱり、プロだった(前編)
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原稿を人に渡す前は、いつも少しだけ手が重くなる。
それが『純文学作品』なら、なおさらだ。
百ノ木ハチト名義で書いた原稿なら、腹はくくれる。
評価されても、されなくても、「そういう仕事だ」と割り切れる。
でもこれは違う。
これは、僕が本当に書きたかったものだ。
「……綿野さん、これ」
大学近くの喫茶店。
湯気の立つカフェオレの向こうで、綿野さんは目をぱちぱちさせた。
「はい、では約束通り、読ませていただきますね」
僕が本当に、それで食べていきたいと思っている純文学。文学サークル用の作品執筆で煮詰まっていた僕は、図々しくも「この間話を聞いたお礼」として、綿野さんに、サークル活動用の官能なし作品を批評してほしいと頼んだのだ。
なので綿野さんはここにわざわざ来てくれて、僕からの原稿を受け取ったというわけだ。
彼女が恐る襲う両手で受け取る姿は、いつも通りだ。
少し猫背で、ページを傷つけないように、やけに慎重で。
ぽやぽやしていて、
少し目が潤みやすくて、
どこか放っておけない。
――だから、正直。
(まあ、感想は優しめだろう)
そんな甘えが、どこかにあった。
綿野さんは、その場でページをめくり始めた。
最初の数行。
導入。
登場人物の会話。
そして、五分。
十分。
彼女は、そこで読むのをやめた。
「……先生」
顔を上げる。
その表情は、いつもの柔らかさとは少し違っていた。
「正直に言って、いいですか」
「……どうぞ」
心臓が、少し早くなる。
「これは売れません」
即答だった。
一切、間を置かない。
「……え」
「商品としては売れないです。ごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を下げながら、
言っている内容は容赦がなかった。
「理由、言いますね」
彼女は原稿を指で軽く叩く。
「この話、山場がありません」
「……」
「だらだらと会話が続いて、雰囲気はいいんです。でも、それだけなんです」
僕は、言葉を失ったまま聞いていた。
「『えろりーにょ』では、官能シーンが山場になっていますよね」
そのタイトルを、ためらいなく口にする。
「読者は、そこを目指してページをめくる。でも、この話には、それに代わる『目的地』がないんです」
ツムギさんは、少しだけ声を落とした。
「官能シーンを抜いた瞬間、先生はストーリーが盛り上がる瞬間を一緒に外しちゃってます」
核心だった。
思わず、息を呑む。
「純文学だから盛り上げなくていい、じゃないんです」
彼女は、はっきり言った。
「純文学でも、感情のピークは必要です。
静かでもいい。派手じゃなくてもいい。
でも、『ここだ』っていう一点は、絶対に要ります」
その手が、少し震えているのに気づく。
「正直に言って、この原稿は、
ちゃんと書ける人が、甘えで書いてる文章です」
痛いほど、正確だった。
僕は、笑うことも反論することもできなかった。
「……でも」
綿野さんは、そこで一度、言葉を切った。
そして、少し笑う。
「文体、すごく綺麗です。
読みやすいし、会話も自然で、文章書ける人だって一発で分かります」
それから、少しだけ泣きそうな目で続けた。
「だから、もったいないんです」
その一言で、胸の奥がぎゅっと締まった。
「先生は『官能しか書けない』わけじゃないですよね」
「……」
「官能で山場を作れるなら、他の方法でも作れるはずなんです。ただ、慣れてないだけ」
彼女は、原稿をそっと返してきた。
「編集者として言うなら、今は『商品として出せません』。
でも、純文学作家としての百ノ木ハチト先生にも、私、将来性を感じます」
しばらく、言葉が出なかった。
ただ、思った。
(この人、泣き虫で、ぽやぽやしてて、頼りなさそうなのに、ちゃんと、プロなんだ)
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
彼女は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかった……怒られるかと思いました」
「怒るわけないでしょ」
「でも、正直に言うの、すごく怖かったんですよ?」
そう言って、少しだけ照れたように笑う。
その笑顔を見ながら、僕は原稿を胸に抱え直した。
売れない。
でも、間違ってもいない。
そして何より、ちゃんと『次に進むための言葉』を、もらった。
この人に見せて、よかった。
心から、そう思った。
「っていうか、あっ!」
綿野さんが、手で口を押さえる。
「どうしたんです?」
「先生が私にお願いしたのって、『大学サークルの同人誌向けの作品』を批評してって話でしたよね?それを私、最高に厳しい視点で商品として売れるかどうかだなんて……批評のレベルを間違えました……ごめんなさい。傷つけちゃいました、よね」
僕は微笑んだ。
「いや、そのくらいのレベルで見てほしかったんで、ありがたいです」
「そうですか?」
綿野さんはそれでも申し訳なさそうだ。
「じゃあ、もう一回、もう一回だけ書き直してくるんで、同じくらいの厳密さで批評をください」
綿野さんは「こんなんで、いいんでしょうか」と言いながらペコペコと頷く。
数日後にもう一度原稿を見てもらう約束を取り付け、僕らはカフェを出た。
それが『純文学作品』なら、なおさらだ。
百ノ木ハチト名義で書いた原稿なら、腹はくくれる。
評価されても、されなくても、「そういう仕事だ」と割り切れる。
でもこれは違う。
これは、僕が本当に書きたかったものだ。
「……綿野さん、これ」
大学近くの喫茶店。
湯気の立つカフェオレの向こうで、綿野さんは目をぱちぱちさせた。
「はい、では約束通り、読ませていただきますね」
僕が本当に、それで食べていきたいと思っている純文学。文学サークル用の作品執筆で煮詰まっていた僕は、図々しくも「この間話を聞いたお礼」として、綿野さんに、サークル活動用の官能なし作品を批評してほしいと頼んだのだ。
なので綿野さんはここにわざわざ来てくれて、僕からの原稿を受け取ったというわけだ。
彼女が恐る襲う両手で受け取る姿は、いつも通りだ。
少し猫背で、ページを傷つけないように、やけに慎重で。
ぽやぽやしていて、
少し目が潤みやすくて、
どこか放っておけない。
――だから、正直。
(まあ、感想は優しめだろう)
そんな甘えが、どこかにあった。
綿野さんは、その場でページをめくり始めた。
最初の数行。
導入。
登場人物の会話。
そして、五分。
十分。
彼女は、そこで読むのをやめた。
「……先生」
顔を上げる。
その表情は、いつもの柔らかさとは少し違っていた。
「正直に言って、いいですか」
「……どうぞ」
心臓が、少し早くなる。
「これは売れません」
即答だった。
一切、間を置かない。
「……え」
「商品としては売れないです。ごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を下げながら、
言っている内容は容赦がなかった。
「理由、言いますね」
彼女は原稿を指で軽く叩く。
「この話、山場がありません」
「……」
「だらだらと会話が続いて、雰囲気はいいんです。でも、それだけなんです」
僕は、言葉を失ったまま聞いていた。
「『えろりーにょ』では、官能シーンが山場になっていますよね」
そのタイトルを、ためらいなく口にする。
「読者は、そこを目指してページをめくる。でも、この話には、それに代わる『目的地』がないんです」
ツムギさんは、少しだけ声を落とした。
「官能シーンを抜いた瞬間、先生はストーリーが盛り上がる瞬間を一緒に外しちゃってます」
核心だった。
思わず、息を呑む。
「純文学だから盛り上げなくていい、じゃないんです」
彼女は、はっきり言った。
「純文学でも、感情のピークは必要です。
静かでもいい。派手じゃなくてもいい。
でも、『ここだ』っていう一点は、絶対に要ります」
その手が、少し震えているのに気づく。
「正直に言って、この原稿は、
ちゃんと書ける人が、甘えで書いてる文章です」
痛いほど、正確だった。
僕は、笑うことも反論することもできなかった。
「……でも」
綿野さんは、そこで一度、言葉を切った。
そして、少し笑う。
「文体、すごく綺麗です。
読みやすいし、会話も自然で、文章書ける人だって一発で分かります」
それから、少しだけ泣きそうな目で続けた。
「だから、もったいないんです」
その一言で、胸の奥がぎゅっと締まった。
「先生は『官能しか書けない』わけじゃないですよね」
「……」
「官能で山場を作れるなら、他の方法でも作れるはずなんです。ただ、慣れてないだけ」
彼女は、原稿をそっと返してきた。
「編集者として言うなら、今は『商品として出せません』。
でも、純文学作家としての百ノ木ハチト先生にも、私、将来性を感じます」
しばらく、言葉が出なかった。
ただ、思った。
(この人、泣き虫で、ぽやぽやしてて、頼りなさそうなのに、ちゃんと、プロなんだ)
「……ありがとう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
彼女は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかった……怒られるかと思いました」
「怒るわけないでしょ」
「でも、正直に言うの、すごく怖かったんですよ?」
そう言って、少しだけ照れたように笑う。
その笑顔を見ながら、僕は原稿を胸に抱え直した。
売れない。
でも、間違ってもいない。
そして何より、ちゃんと『次に進むための言葉』を、もらった。
この人に見せて、よかった。
心から、そう思った。
「っていうか、あっ!」
綿野さんが、手で口を押さえる。
「どうしたんです?」
「先生が私にお願いしたのって、『大学サークルの同人誌向けの作品』を批評してって話でしたよね?それを私、最高に厳しい視点で商品として売れるかどうかだなんて……批評のレベルを間違えました……ごめんなさい。傷つけちゃいました、よね」
僕は微笑んだ。
「いや、そのくらいのレベルで見てほしかったんで、ありがたいです」
「そうですか?」
綿野さんはそれでも申し訳なさそうだ。
「じゃあ、もう一回、もう一回だけ書き直してくるんで、同じくらいの厳密さで批評をください」
綿野さんは「こんなんで、いいんでしょうか」と言いながらペコペコと頷く。
数日後にもう一度原稿を見てもらう約束を取り付け、僕らはカフェを出た。
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