大奥~牡丹の綻び~

翔子

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第四章 大奥入城

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 暑い夏の盛りには、人々は〈帷子かたびら〉と呼ばれる単衣ひとえ仕立ての麻の物を召した。透けるように薄く、軽いため、夏の時期には重宝された。

 大奥へ奉公する御目見得以上の女中たちは、たとえ暑くても打掛を脱ぐ事は決してなかった。それは、身分の差を将軍・御台所に御目文字叶わぬ女中らに指し示すためであった。
 どうしても暑い場合には、腰巻姿になった。打掛を脱がずに腰に巻き付ける着姿である。上半身を涼しく保ち、暑い夏を乗り切ったのである。

 先んじて江戸城へ送られた嫁入り道具の中にも、帷子や単衣、夏用の打掛から堤帯まで用意されている。無論、季節ごとの着物も母・淑子としこが調達してくれた。

────────────────────

 安久あんきゅう十年(1901)七月一日、それは珍しく暑い夏の日であった。

 祖母万寿子ますこが倒れた事を知る由も無く、藤子は東海道を下り、今ようやく辿り着くべき場所、江戸城大奥を目指し、駕籠の人となった。まだ見ぬ夫、徳川家正との婚儀は翌月の八月二十五日と決められており、一月ひとつき近く早い江戸入りとなる。

 行列の先頭は、将軍家正の名代として、大奥から出迎えに来た、大奥総取締・東崎局とうさきのつぼねが務めた。その次に、藤子の乳母で上臈御年寄として大奥に入る、龍岡たつおか。そしてその他、都から連れ立った小上臈候補の公家の娘たち二人、大奥から来た女中たちと行列が続いた。
 
 東海道の道中は京の三条大橋から江戸の日本橋とを繋ぐ幾多の宿場が連なり、厳重な警備が敷かれた。ご公儀のめいで修繕が加えられた各所道筋の御用御殿に滞在・休息を取りながら、一週間半が過ぎて行った。

 四十もの御殿を経た一行は、小田原御殿に停留した。しとねにどっと座り込んだ藤子は脇息に寄りかかり小さく息を吐いた。龍岡は心配そうに膝を進めた、

「宮さん、もう少しの御辛抱ですぞ」

 そう言って龍岡は藤子の手を摩ってあげた。藤子は龍岡に手にそっと自分のを重ねた、

「大丈夫じゃ……龍岡こそ、少しは休んだらどうじゃ? わたしのことは気にせずとも良い」

「なんの! 私は胸が高鳴っておるのですぞ! まさか五十にもなって、京を出る事となろうとは。道中、駕籠の中から移り変わる景色が素晴らしいものにて」

 藤子は思わず笑みがこぼれた、

「さすがは、な龍岡じゃな」

 京から小田原の間、幾度の困難が藤子たちに降りかかった。しかしこうして、辛苦の末に腰を落ち着かせられる度、ここまで付き従ってくれた者たちに感謝しつつ、ほっと胸を撫で下ろす日々だった。

 互いに笑い合いながら、ささやかな幸福しあわせを噛み締めていると、先触れがあり、東崎が藤子の部屋を訪ねて来るとのことだった。藤子は脇息から腕を離し、身を正した。すると間もなく、東崎が下段に座り両手を付いた、

「姫宮様。ここまでの旅路、御疲れ様でございました。間もなく幾日もすれば藤沢御殿へ到着する由、今しばらく御辛抱くださりますよう御願い奉ります」

 毎度毎度、各地の御殿に身を置いては東崎はこうして挨拶をしに来てくれる。藤子は初めて労いの言葉を下した、

「大儀である。東崎殿も江戸と京の行き来、疲れておることでしょう。そのほうもゆるりと休まれよ」

 藤子なりの言葉であった。が──、

「恐れながら姫宮様。たとえ大奥総取締である私に対しても、情けを御掛けになられるのは御無用に願いたく存じます」

 予想だにしなかった言葉が返された。有難がる所か否定的な言葉を言ってきたのだ。

「姫宮様におかれましては、来月には御婚礼の儀が御済み次第、御台様となられまする。江戸城大奥の高みにおわす御方が、下々に労いの御言葉を述べ続ければ、大奥の風紀は乱れる元と成り得るかと存じまする」

 藤子は呆気に取られた。龍岡が異を唱えようとすると、東崎は両手を付いて畳みかける様に締めの挨拶を述べた、

「では、私はこれにて御免仕りまする。御出立の際は改めて御声掛けさせて頂きまする」

 茶鼠色の打掛を捌きながら、東崎は立ち去って行った。重たい空気だけが辺りに残った。

「なんて愛想のない! これが大奥なのでございますのんか?」

 訛りが漏れ出て来てしまうほどに衝撃の展開を目の当たりにした龍岡は肩を震わせて嘆いた。藤子は再び脇息に寄りかかった。先ほどよりも大きな溜息が出た。

「お祖母さまは、自信を持てと仰せであった……それでも通じぬということなのか」

「宮さん……」

 藤子は、祖母が今この瞬間傍にいてくれたなら、どれほどの剣幕で論争を繰り広げてくれたのかと思うと、懐かしさと、やり切れない思いに駆られた。


江戸城・大奥 ───────

 七月十一日。更に一週間の時を経て、浜御殿を経由し一行は江戸城内に入った。

 藤子は駕籠に乗ったまま、御広敷の御錠口から大奥へと入った。男性の担ぎ手から女性の〈女六尺おんなろくしゃく〉と呼ばれる御目見得以下の御末に駕籠が引き継がれ、しばらく室内を移動した。やがて、藤子の住まいである【新御殿】の前で駕籠が停められた。

 龍岡が、駕籠の引き戸と屋根を開けると、藤子はゆっくりと大奥に足を踏み入れた。
 過去十数人の御台所が生活して参ったこの御殿は、鷹司家の屋敷はおろか万寿御殿ますごてんとも違う華やかさがあった。御殿の前の廊下、縁側、次之間にも大勢の女中が平伏している。これほど幅の広い廊下を見た事がなかった藤子は驚きを隠せなかった。そこはまさに〈江戸の華〉であり、その堂々たる優美さに圧倒されさえいた。

「ここが、江戸城大奥……」

「素晴らしいものにございますね……」

 藤子と龍岡は部屋中を歩き回った。
 欄間、鴨居、掛け軸、床脇の違い棚の隅々に至るまで、細やかでたくみな装飾が施されている。徳川家の葵御紋あおいのごもんが一つひとつに配置されており、小さな調度から大きな調度まで、すべてから威厳を感じさせられた。調度と言えば、母が自ら選りすぐった婚礼道具はすでに届いて置かれており、上段のしとねにも見覚えがあった。

 ここが自身の部屋であると実感が沸くのに時が掛かりそうだった。

 庭を縁側から眺めていると、東崎が新御殿へと歩いて来るのが見えた。御台所付きの女中たちの挨拶と紹介を行うことを、先刻、浜御殿を出立する前に言われていたのだ。
 龍岡は下段、そして藤子が上段に静かに着座すると、東崎と後ろにぞろぞろと従えた奥女中たちが一斉に下段の下座に座り、両手を付いた。

「道中、御疲れ様にございました」

 東崎の透き通るような労いの言葉に、藤子は応えた、

「大儀である」

 その一言で、下段に控える奥女中たちが再度平伏した。東崎は両手をついたまま顔を上げ、藤子の御付きとなる女中の紹介をし始めた、

「こちらに控えしは、姫宮様付きの上臈御年寄、飛鳥井にございます」

「飛鳥井にございます」飛鳥井という 女おなごは濃い化粧をしており、老齢なのか再度名乗った声が嗄れている。

「御年寄、松岡にございます」

「松岡にございます」松岡という晩嬢ばんじょう女性にょしょうが再度自身の名を名乗り、平伏した。

「そして、中年寄、中臈、小姓などなどが姫宮様に御仕え致します」

 東崎の後ろに控えている妙齢の【中年寄】と呼ばれる女中二人と、年頃の【御中臈】四人、そして、髪を稚児髷に結っている幼い【御小姓】の二人が低頭した。

「ここにおりますのは主立った者のみにございます。その他にも、公方様、公方様の御母君たる大御台様に御仕えする女中たちだけで、およそ三百人。これに端女中たちを加えますと、大奥の女子衆おなごしゅうの数は千人を超えまする」

 藤子は、千人という言葉に縮み上がりそうになった。公家ではありえない程の数の女中を抱え、一体いくら掛かるのかとつい考えてしまった。

「ここからは大奥の慣わしに従って頂きまする。故に、御理解くださいますよう御願い申し上げまする」

 東崎はそう言って懐から奉書を取り出し、広げた、

「まずは、朝の御起床についてでございます。朝御目覚めになられましたらば、御床おとこから起き上がらずに、御中臈の声掛けを御待ちください。『御目覚めになって御宜しゅうございます』と、御声掛け致しますので、『益々ごきげんよう』と御応えくださりませ」
 
 もはや手に持った紙を見もせず、まっすぐと藤子を見つめ、はっきりとした声色で説明していた。しかし、総取締が滔々とうとうと語られる習わしの類は、京で、すでに万寿子から幾度も聞かされていたことばかりだった。
 そのためか、朝早くから移動して、うつらうつらと眠りかけたが、下段の女中たちがじっとこちらを凝視するのでなんとか耐えた。

「続きまして、御不浄の御作法についてでございますが──」

「お待ちくだされ! そ、その様な事を……ここで申されるのですか?」

 皆がいる場所で、沽券にかかわるような話をし始めた東崎に思わず龍岡は口を挟んで中断させた。しかし、東崎は冷たく蔑んだ目を龍岡に向けて、淡々と「これが慣わしにございます」と一蹴した。

「では続けます──」

 東崎による大奥の心得や注意事項は昼まで続けられた。

────────────────────

京 ───────

 万寿子が倒れた。

 その場にいた家族は余りの突然の出来事に狼狽した。行列の先頭はすでに鴨川の橋に差し掛かっていて、呼び戻すことも出来ない。そもそも、そのようなことが出来るはずもなかった。

 九日が経っても、万寿子の容態は悪くなる一方で回復の見込みは薄かった。熱は下がらず、水を飲むことすら困難な様子で、辛そうに荒い息を吐き続けている。万寿子の傍らに置かれた氷室は、空しく暑さで溶けて行った。

 周煕ちかひろは母の看病で毎日のように万寿御殿を訪れ、必死で扇で煽ぎ、氷の冷気を送り続けた。

「たあさん……しっかりしいや! まだ、もうさんとこへ逝かれるんは早うおます」

 唸り続ける母の赤い顔にただ扇を振り続ける周煕は何もできない己の不甲斐なさに何度も泣いた。数刻前に帰った医者は「冷やして安静にするように」としか言ってくれず、もはや成す術も無い状況だった。

 淑子と佐登子さとこも万寿御殿へ看病に訪れていた。正子はいなかった。

「おたあさん、お祖母さんはこれからどうなるんえ? 早う藤子に報せんと!」

「報せてどうないするつもりです? あの子は今、あずまの徳川さんとこに向こうてはるんや。今さら連れ戻すことなんて出来ひん」

 万寿子が倒れた事を、すぐさま藤子に報せてやりたいというのが淑子の本音だった。しかし、運命に従って歩もうとしている藤子に余計な心配を掛けさせたくないというのも事実だ。今はただ、万寿子が本復することを祈ることしか出来ないのだった。

 しばらくすると、仏間に周煕が入って来た。佐登子の方を見て「佐登子、たあさんが呼んではる」と言って来た。

 部屋に入り、佐登子が駆け寄った。

「お祖母様……佐登子でございますよ」

 孫の声を聞き、万寿子は微かに目を開けた。いつも気丈な姿しか見たことがなかった佐登子にとっては、赤い顔の祖母の姿に心苦しく思った。

「周煕……立ち去れ……」

 掠れた声でそう命じた。だが、周煕は躊躇って立ち去ろうとしなかった、

「せ、せやけど……」

「……早う!!」

 ぐずる周煕に万寿子が声を上げると、周煕は慌てて立ち去って行った。急に大声を出したことで辛そうに咳をしながら起き上がろうとする祖母を佐登子は支えた。上背によらず身体が細いのに驚いた。

「佐登子……そなたに……頼みがあるのじゃ」

「なんでございますか? なんでも仰ってくださいませ」

「そなた……大奥へ上がれ……」

 佐登子は雷に打たれたように驚いた。万寿子は今際の際に喉に力を込めた、

「大奥へ上がり……藤子を助けよ。私はもう……無理じゃ」

「お祖母さま……なりませぬ! 然様に気弱な事を申されては! 来月には藤子の婚礼の儀に参られるのでしょう? 藤子が悲しみまする……しっかりしてくださいませ!」

 佐登子は滂沱ぼうだの涙を流しながら衰弱していく祖母を元気づかせようとした。しかし、万寿子は次第に意識が遠のいて行くようで、痙攣し始めていた。

「私は行けぬ……私の代わりに……藤子を……頼むぞ」

「お祖母さまっ……」

 安久十年(1901)七月十日──、鷹司万寿子が六十七年の生涯を閉じた。

 思い半ばでこの世を去り、威厳と心意気を失って衰弱するという万寿子の無念の最期を受けて、万寿子を知る人々は悲しみに暮れた。
 御台所の肉親が逝去した事実は、将軍家のめでたき日に喪に服す事になることを避けるため、報告を受けたご公儀の役人は婚儀が終わるまで伏せる事となった。





「中宮さん、折り入って話がございます」

 佐登子は御所に参内していた。

「どうしたんえ? そないに改まりなさって。鷹司家の大方さんが亡うなったいうんに、こうやって密かに参内してまで話すことがあるのです?」

 佐登子は両手を膝に置き、恐れ多くも中宮の目を直視した。万寿子の最期の遺言を果たすために九年間勤めた女官人生に幕を下ろす覚悟を決めたのである。

────────────────────

 祖母の死を知らされぬまま、藤子は大奥で驚き続きの毎日を送っていた。

 着替えは一日に三度、式日には五度にも及び、脱いだ着物や打掛には二度と袖を通す事はなかった。足袋でさえ履いた後は捨てるという贅沢さであった。
 着付けは自身ですることはなく、貴人に手を煩わせまいとして、身の回りの世話をする御中臈がすべてしてくれた。

 御台所が自らの手でする事と言えば、食事をする時と、香や茶の湯のたしなみ事、書物を読む時ぐらいであった。しかし、食事についても藤子は目の回るほどの衝撃を受けた。

 料理に一箸つけるだけで、松岡の「おかわりを」という一言で下げられ、新しい料理に取り換えられた。御台所は二箸までしか料理につける事は許されず、それ以上は下品とされ、例え好物でも二箸つけたら下げられてしまう。

 言わずもがな、鷹司家ではすべて自身で行なった。贅は無くとも自由に暮らしていた頃とはまるで違い、しばらくの間は気が休まることはなかった。

大奥・新御殿ノ庭 ───────

 ある日、藤子は庭にある小さな橋に手を掛けながら、ゆらゆらと泳ぐ金魚を眺めていた。唯一安らげるこの場所に気が緩んだのか、思わず溜息をついた。

「宮さん? どない遊ばしたんです?」

 側に控えていた龍岡が不安そうに訊ねた。
 龍岡は、寂しくならないようにと、二人きりの折には出来るだけ京言葉で話しかけることを努めたのだ。藤子は池に目線を落としたまま呟いた、

「いや……お祖母さまから聞いてはおったが、大奥がこれほど疲れる所だとは思わなんだと思うてのう……」

 ふと空を仰ぎ見ると、自由に羽ばたいていく鳥を羨ましく思い、何度なってみたいと願ったかしれない。しかし、未だ夫となる家正と相対していない今、弱音を吐くわけには行かなかった。

「早う家正様にお目に掛かりたいのう……」

「その、公方様にございますが……ご婚礼の日までお目文字が叶わんと、東崎殿が申しておりましたなぁ。大奥の慣わしといえど、お式の日が最初のお目文字とは、いかがなものでございましょうな」

 先日、御座之間で大御台所・泰子との対面の日取りを東崎から聞かされた折、藤子がふいに家正との面会はいつか、と訊ねると、相変わらずの無愛嬌な態度で返事をされ、二人は愕然としたのだった。

 将軍と御台所となる姫君が初めて顔を合わせるのは婚礼の日まで待たなければならず、それまではお互いが相まみえる事は固く諫められていた。

「しかしながら、まこと……この大奥は煌びやか過ぎて、私はいささか疲れましたわぁ」龍岡は縁側に控える松岡と御中臈に聞こえぬよう声を潜めた。「それに、おなごばかりの世界にございます故、どことなく、意地汚く、たぎらせん想いを隠し持っているのが、ひしひしと伝わります」

 初めは、大奥とはどの様に美しい場所であろうかと、胸躍らせる思いで参った二人だったが、広い部屋と広い廊下、加えて、奥女中の胸に秘めた野心と嫉妬による空気の澱みが、京とがらりと違って、息が詰まる思いであった。
 
 まさに万寿子の言葉、「江戸のおなごは恐ろしい」「大奥には冷淡で心の通っていない者ばかり」その通りだった。

大奥・御対面所 ───────

 翌日、藤子は身なりを整え、将軍生母にして大御台所である泰子ひろことの初の対面の日を迎えた。嫁と姑という身分の差を明らかにするため、泰子が上座、藤子は下座に座り、挨拶が交わされた。

「御初に御目にかかります、鷹司藤子にございます。宜しく御見知り置きの程、御願い申し上げます」

 堅実な江戸言葉での挨拶に、泰子は驚き入った様子であった。万寿子の教育の賜物か、一度も言葉を詰まらせずに言えたことに満足した。

「泰子と申します。こちらこそ、宜しゅうお願い致します。それにしましても……京の姫君さんやと聞いておりましたさかい、久々に京言葉が聞けるんと思いましたよって、なんと流暢な江戸言葉にて」

 藤子の方を見やりながら、泰子は挨拶した。大御台所という大奥の上にいる立場にいながら、その威厳たるものが感じられず、まるで幼女のように唇を尖らせている。藤子はすかさず、両手を付いて述べた、

「恐れながら今の世の中は、恐れ多くも帝が折々に江戸へと下られ、御城にて勅認の儀を執り行われる際、ゆったりとした都言葉を嫌う江戸の方々に御気を御遣い遊ばされたと伺いました。それゆえ、江戸へと下る以前、習得致しましてございます。されど──」

 藤子は居直り、笑みを湛えた、

「もしお望みであらしゃれば、大御台所さんとお話する折は、京言葉に改めますえ」

 藤子の屈託のない気遣いに泰子は笑みをこぼした、

「これは嬉しいお心遣いやなぁ。ほんなら、二人になった時は京の言葉で話しまひょか」

「はい、喜んで」

 泰子の申し出に、藤子は笑顔で応えた。泰子に対して気遣いを欠かせない言葉掛けに、下段で聞いていた龍岡は誇らしく思った。
 そして泰子は先ほどまでの陽気な表情から、真剣な眼差しで藤子に身体を向けた、

「藤子さん。御台所さんとして大事なる話がありますよって、良う心得ときやす」

「はい」

 藤子は居住まいを正して耳を傾けた。

「何よりも大事なんは、お世継ぎさんを授かはる事や。もちろんの事ながら、公家の娘は殿方さんを知らぬ……私もそやった。昔の大奥ならいざ知らず、今は御台所さんでもお世継ぎさんをお産み遊ばすことは可能や。御台所さんとしての大事な務めに、一層お励みさん遊ばすように」

 藤子は突然のお世継ぎの話をされて顔を赤らめて、少し俯いたが、再び身を正して両手を付いた、

「必ずや、この手に……公方様との御子を、抱いてみせまする」
 
 泰子は今度は安堵した心持ちになり、再び幼女のように笑った。藤子は実の母の淑子とは違う、もう一人の母を得た気持ちになった。
 
 母と娘の証として、泰子には京から持参した西陣織三まき、白羽二重三びき、京随一の銘菓の類を土産品として贈呈し、藤子たちは新御殿へと戻った。

 この後、藤子は泰子が住まう【壱ノ御殿】を度々訪れ、歌詠み、琴の饗宴などを楽しんだ。家正に会えぬ間にも僅かな平安なひと時を過ごした。泰子も藤子をまことの娘の様に慕ってくれている様子であった。

────────────────────

 夏真っ盛りとなった八月。

 藤子は御付きの女中らを連れ立って、【吹上ノ庭】へと訪れた。広い庭というものを見た事が無かった藤子にとって、駈け回りたい気持ちに突き動かされたが何とか堪えた。蝉の鳴く声が響き、夏の花が咲き誇り、陽に照らされた池のなんとも輝かしいこと。藤子は眼福の栄を得た心持ちだった。

 各々限りあるひと時を過ごすようにと、藤子が命じると、松岡と御中臈の二人は藤子から離れて行った。藤子は龍岡と二人きりになりたかったのだ。やはりどうしても、関東の人間は何を考えているかいま一つ掴めなかった。

「お義母上様から、家正様のお人となりをそれとなく訊ねてみた」

 藤子が、泰子と二人きりで菓子を食した時の事を龍岡に話して聞かせた、

「大御台さんは、なんと仰せにならしゃりました?」

「とてもお優しいお方じゃとしか仰せにならなかった……」

 藤子は愚かであると思いながらも、どうしても夫となる家正の事を知りたかった。ただ”優しい”だけならなんとでも言える。それだけは分からぬではないか、と内心合点が行かなかった。しかし、そのおかげで藤子は、夫となるお人に会いたい思いを強くさせた。

「幾日もすれば、ご婚礼の日を迎えます。それまで、お楽しみになさいませ」

 龍岡は藤子を元気付けさせようとしたのだが、藤子はぎこちなく微笑みを返しただけだった。

 道なりに続く東屋あずまやの方へと進むと、そこには先客がいた。茂みの陰から見える足許に藤子は仰天した。袴を着けていたのだ。

「殿方……?」

 袴を着ける者は大奥にはいない。弓や薙刀に秀でる女中がいたとしても、この吹上で一休みする理由が無い。着替えるはずだ。男性だと分かると、藤子と龍岡は慌てて引き返そうとした。

「待て!」

 急に呼び止められ、藤子は飛び上がりそうになった。
 父意外の男性に声をかけられたことが無かった藤子からすれば、見知らぬ殿方の声が恐ろしく思えた。しかし、よくよく考えてみると、その呼び方の口調がご公儀の役人ではないように感じた。役人であるなら、吹上ノ庭で悠々と過ごすはずが無い──とすると。

「そなた、鷹司の姫宮であろう。初めて会うのう」

 藤子は恐る恐る振り返った。凛々しい眉に、少し高い鼻筋と優しそうなをした男性が徳川葵御紋が細かく織り込まれた羽織袴を着ている。藤子は直感的に、この男性こそが家正公その人だと分かった。

 思いがけなかった、二人の初めての対面だった。


つづく

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