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第十章 奈桜藤の苦悩
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火事が起きる以前、揚屋町にあった「夕風屋」を含む四軒の遊女屋は京町一丁目へと一堂転居した。空き地と化した区域には吉原で必要な日用品を扱う店や湯屋などが建てられることとなった。
新花魁・奈桜藤のお披露目は新見世開業と同じ、八月に行われ、「夕風屋」は目の回る忙しさだった。見世々々の楼名主への挨拶、夕顔太夫の客だった馴染みのお大尽や上客との対面、「夕風屋」と親身にしている行商との目見えなどが続き、ようやく身体を落ち着かせられたのは八日過ぎた後のことであった。
頃は、蝉時雨降る夏。
団扇が手放せない日々がこの所多く、お客からの呼出が無い昼見世の時間の間、奈桜藤は肩と乳を出しながら一服して過ごすことが常となった。その姿を見た松枝や遣り手は、白い目を飛ばして注意してくるが、奈桜藤はことごとく突っ放している。暑くて倒れるくらいなら人目を憚らずにもろ出しになる方がマシだというのが、弱冠十七歳の若手座敷持ち花魁の考えなのだ。
火種が消え、次の煙草を詰めていると、痛々しい足の傷が目に入り、辛かったあの三か月の日々をふと思い返していた。
それは七か月前のこと。【太夫選出】において、晴れて座敷持ち花魁に選ばれた奈桜藤は息つく暇もなく、新たな課題が舞い込んで来た。花魁としての教育を受けるため、郭内にある稽古所で学ぶようにと、松枝が突然告げて来たのだ。
『そんなこと言われたって、稼ぎはどうすんだい! 稽古所に住み込んで、くだらねえ芸事を学んで、借金を返せるとでも!?』
「そうカリカリするんじゃないよ奈桜藤。分かってると思うけど、太夫……あ、いや、花魁は、大尽級のお客を相手にしなければならないんだ。いままでのように、長屋住まいの男たちがお前と寝るわけじゃないんだよ」
憤然やるかたない面持ちの奈桜藤を見つめたまま、松枝が宥めるように言った。息を弾ませながら煙管に唇を付ける奈桜藤に向かって女将は続けた、
「加えて、お前みたいに禿の時分に切見世にいた身じゃ、無知で笑われるだろう。昔っから上の女郎ってのは、茶や和歌、華の嗜み、囲碁や将棋などの勝負事、三味線や筝などの芸事を身に付けなければならないんだ」
『そんなこと出来なくったって、書き物ぐらいは出来るさ。源氏の物語なんて何度も読み返してんだ』
煙を吐きながら奈桜藤は頬を赤らめた。松枝が言ったすべての事を奈桜藤は習得していないことは事実であるので、恥ずかしく思ったのだ。
「漢詩は読めるのかい? 論語は?」
言い訳を述べる奈桜藤に向かって、女将は捲くし立てた。すかさず、奈桜藤は反論する、
『お、おっかさんこそ、空で言えるってのかい?』
「学則不固」
『……は?』
「学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし」
『な、なにを……』
意味の分からない言葉を次々に聞かされ、奈桜藤は狼狽えた。松枝はその言葉の意味に解釈を加え始めた。すべて、論語から来ている言である。
「本を読みあさるだけで自分の思慮を怠ると、物事の道理が身につかず、何の役にも立たない。逆に思いを巡らすのみで本を読んで学ばなければ、独断的になり危険だ、という意味だ。さっきの学則不固は、学問をし、物の道理を弁えて意固地になるなって意味だよ」
器量良しと認められた禿は早くから花魁教育を施され、嫌でも真摯に学びに向き合い、習得して行った。
「大生屋」にいた頃は、ひらがなの修練に励んでいたが、姐女郎たる太夫からは見放され、次期太夫候補にと見込まれておらず、文を送るための読み書きしか学んで来なかった。
更に詳しく話を聞けば、これは、花魁として相応しい女郎になれるようにと「松坂屋」の楼主が手配した措置らしかった。自分を推薦してくれた「松坂屋」の親父様の考えならと、奈桜藤は仮宅を離れ、稽古所に向かうことを渋々決意したのだった。
仮宅を離れる日がやって来た。ところが荷物を風呂敷に詰めていざ見世の入口で別れの挨拶を皆に述べていると、奈桜藤の禿として勤める事となったしず葉が、直前になって駄々をこね始め、それを宥めるのに苦労した、
「嫌だい、嫌だい!! 奈桜藤姐さんが居なくなるなんて嫌だぁい!!」
『我儘を言わないでおくれよ、しず葉……。何度も言ったろう? しばし見世を空けるだけ。夏には戻るからさ──』
七か月の期間が奈桜藤に設けられていた。当初は、一年の期間は欲しいところだと「松坂屋」の楼主は条件を出して来たのだったが、高尾花魁だけのお職では心配だという松枝の強い希望が聞き入れられ、五か月短くなったのだ。
しかしそれは、奈桜藤が食事と寝ること以外芸事や学びに勤しむことしか出来ないということを意味していた。
「それでも嫌だい! 姐さんのいない節分と花見なんて嫌だぁい!!」
袖を振り回しながら今にも泣きだしそうなのを、松枝が首根っこを掴んで止めさせた、
「しず葉!! 折檻されたいのかい? この間の選出の場に乗り込んだことも含めて、水責めにしちまうよ!」
「ひっ……」
強烈な一言で脅され、しず葉の涙はピタッと止んだ。
後ろ髪を引かれる思いで一刹那、仮宅を後にし、奈桜藤は松枝と大助と共に吉原へと向かった。【太夫選出】で選ばれた引込経らずの花魁という事で仲之町を通る間中、通り過ぎる人々からひたすらに注目を集めた。しかし一行は堂々とした足取りで、茶屋としても役割を持つ、「双葉楼」に辿り着いた。
【太夫選出】で場を借りた「朝霞楼」と一、二を争うであろう広い敷地を持ち、稽古所としての場と茶屋としての場の間には広大な庭で隔てあった。三人が稽古所の入口を上ると、長身の若い女将が、にこやかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「ようこそ、いらっしゃいました。皆様。どうぞお上がりくださんせ」
座敷へ通されると、そこには、「松坂屋」の楼主が、茶を啜りながら待ち構えていた。思いがけない再会に、奈桜藤は心から喜んだ。一堂下座に座し、両手を付いて甲斐甲斐しく挨拶をすると、「松坂屋」は愉快そうに笑った、
「【選出】以来じゃなあ。今日は激励に参った。これから夏までの間、修練に励むが良いぞ」
『わざわざのお出向き、お見世がお忙しいのにも関わらず、あちきなんかの為においでくださり、誠にありがとうござんす。精一杯学ばせて頂きんす故、どんぞ、お見守り下されば嬉しゅうござんす』
丁寧に、しかし謙虚に挨拶を述べる奈桜藤に松枝は思わず吹き出しそうになった。あんなに嫌がっていたのにも関わらず、さすがに大見世の楼主の前ではしっかりとした言葉遣いで話す様に感心すらしたのだった。
「松坂屋」は満足そうに笑いながら、傍近くに座っている白麻の小袖に紗の黒羽織を来た女人を紹介した、
「こちらの方は「双葉楼」の大女将で、稽古所の師範であられる、白蘭殿だ」
白蘭という、顔に刻まれた数多の皺の割には髪は黒々と輝き、勝山に結ってこちらを真っ直ぐ見据えて軽く会釈をした。
「奈桜藤花魁」
『あい……』
急に呼ばれ、奈桜藤は戸惑った。
「白蘭殿はとても厳しいお方だからのう、余り怒らせるような真似はするでないぞ?」
『は、はい……』
緊張気味に応えると、「松坂屋」は空気を裂くような笑い声を上げて、松枝と大助も同様にビクつかせた。何故笑ったのか? 冗談か否かもわからぬまま、「松坂屋」は松枝に声を掛け、共に連れ立って座敷を去って行った。
奈桜藤が振り向くと、女将はちらっとこちらを見つめ、「頑張るんだよ」と励ましの言葉を掛けた。ふと立ち上がりがけの大助を見ると、一言「逃げんなよ」と残し、二人の後を追って行った。
ここから、奈桜藤の修練づくめの日々が始まった。
元来、学ぶことが好きな性分であった奈桜藤は、特に苦労する事もなく、大女将からの厳しい扱きにも難無く耐え、色々なことを吸収して行った。
茶や和歌、華に漢詩、三味線に筝、囲碁に将棋と、松枝が言っていた物らの他に、古典や琴、漢書なども学んだ。
凄まじい勢いで会得していく新人花魁に、白蘭は感服する思いだった。
「あの子は随分と根性が据わった女郎だ。逃げ出そうともしなんだ」
「しかし、あれに耐えられるでしょうか」
「見てのお楽しみだ。三年、女郎によっては五年は掛かる苦労だからねぇ」
奈桜藤が眠りについていた真夜中、表の茶屋を任されている白蘭の義娘である若女将との会話を当の本人は知る由もなかった。
若女将が言うあれとは、翌朝「双葉楼」の庭に置かれた、三枚歯の黒漆の高下駄のことだった。
仮宅を後にしてから二か月が経ったが、呑み込みが早かったため、【道中】の修練を前倒しで始めようと、白蘭は開口一番に言うのだった。
憧れの【道中】の練習に一瞬胸が躍った奈桜藤だったが、その思いは脆くも崩れ去った。乗るのにも一苦労で、一歩を踏み出すのすら簡単ではなかった。下駄自体がとても重く、自身の体重では支えられずに、足が下駄を離れ、何度地面に転げ落ちたことか。
その日は【道中】の修練を手始めに、午後から芸事や習い事を開始したが、それ以降は夕方からの道中練習に切り替わった。手習いのし過ぎで頭がぼうっとする中で身体の均衡を保ちながら手の空いた若い衆の肩を借りて練り歩く。しかし、その動作ははぎこちない事この上なかった。
茶屋で待つお客を迎えに行く【花魁道中】、その歩き方は【外八文字】と決まっている。足首が折れるのではないかと思うほどに脚を斜め横に滑らせ、右足、左足と弧を描いて前で勢いよく止まる。頭では分かっているものの、体が言うことを聞かず、上半身を真っ直ぐにすることが出来ず、若い衆に覆いかぶさるように落ちるのだった。
更に二か月経っても上達することはなく、白蘭は何度も奈桜藤を怒鳴った、
「何度やったら気が済むんだい!! あとひと月しかないよ! 約束は守ってくれなきゃ、あたしの面目が丸つぶれだよ!」
『申し訳ござんせん……』
優しかった白蘭が鬼の形相でこちらを見つめて来た。体罰まではいかないが、既に心が壊れそうだった。何十回、何百回とやっても真っ直ぐと背筋を正して一歩を踏み出すことが出来なかった。
白蘭自身も胸が痛む思いで激昂した。気持ちが焦っているというのもあるが、そもそも、外八文字を五か月で習得することは不可能だ。己も太夫だった為、はっきり分かる。白蘭は四年掛かった。新造の頃から毎夜と練習を重ね、次期太夫として選ばれた時には身体が慣れて行った。
正直に言って、期間が短い奈桜藤を哀れに思った。
そして二日経ったある日、とうとう奈桜藤が稽古所を抜け出した。若い衆らは探し出そうと言い出したが白蘭は急に消極的になった。心にぽっかりと穴があいたような気持ちになり、奈桜藤の思いを汲み取り、若い衆らを引き止めた。
奈桜藤はひたすらに歩き続けた。時折通行人にぶつかりながら、「双葉楼」から離れた町内を果てなく歩いた。幸いなことと言えば、五月の晴れ間だということぐらいだ。
「松坂屋」の楼主に見つかりでもしないかと冷や冷やしながら、当てどない旅路を歩んだ。囲いの中を許しなく抜け出すことは足抜けと見做されるため仮宅に戻ることも出来ない。松枝にも、自分が抜け出した報せが行っていることだろう。
何刻か経ったろうか……。外八文字の影響で足に鋭い痛みが走り、歩くのにも苦痛が伴った。
茶屋と茶屋の間の細長い裏路地に入り、壁に寄りかかりながら時が経つのをひたすらに待った。このまま野垂れ死んで消えてしまえばいい、そう思い始めるようになっていた。松枝にも顔向け出来ない。このままどうすればよいのか考えあぐねていると、突如、男の声がした、
「おーい、こんな所で何やってんだよ」
振り向くと、大助が裏路地の入口に立っていた。捕まるまいと立ち上がりかけた奈桜藤だったが、もはや動く力は残っていなかった。
狭い路地に身体をねじらせながら大助は奈桜藤に近付いた。
「女将さんに言われて「双葉楼」に行ってみりゃあ、逃げ出したって言うから……探しに行けばこのザマか。孔雀から鼠にでも成り下がったか?」
掃除も行き届いていない泥だらけの地面に座り込んでいる奈桜藤を大助は鼻で笑った。
『うっせえ! 番頭ってのは暇なのかい? こんな所で油売ってていいのかねえ』
「相変わらず言葉遣いがなってねえな。厳しいという噂の「双葉楼」の女将の前ではいい子ぶりを発揮してんだな」
奈桜藤は、悪態をつくことに関しては一丁前であった。白蘭や「双葉楼」の若女将に対し丁寧な口調で話していたからか反動が溢れ出てしまい、大助のわざとらしい煽りに唾をお見舞いしてやろうと思った。しかしそれすらも力が出なかった。
「ただ、大門から出なかったことは褒めてやる」
大助は、奈桜藤の隣にしゃがみ込み、乱れ切った頭を撫でて来た。何故か、胸が一瞬脈打った。
すると、遠くで金属音が鳴り響いた。仲之町の方面からだった。その音を聞き付け、大助は俄かに立ち上がり、奈桜藤の腕を引いた、
「始まったか。ほら、よし! 立て」
痛い足を引きずりながら、大助に引かれるがまま仲之町に向かった。茶屋沿いには大きな人だかりが出来ていた。
『なんなんだよ! 急に走り出すんじゃねえよ……』
腕を振り払い、奈桜藤は足首を摩った。
「しっ! 文句は後にしろ。とりあえず……見てみろ」
顔を上げると、大見世「糸菊屋」の薄雲花魁の道中が始まった。箱提灯を持った男衆の掛け声と共に、金棒引きが音鳴らし、ゆっくりと行進して行った。
奈桜藤は、足の痛みなど忘れてしまうほどに薄雲花魁の道中に魅入っていた。華麗にしかし威厳を保ちながら、重いであろう黒漆塗りの三枚歯下駄が地面の砂を蹴った。花魁の上半身を見れば、白蘭が言っていたようにまったく振れもせず前をただひたすら見つめている。
どうすればあんな優雅に歩けるのか、奈桜藤は食い入るように見つめた。やがて、大助は語り出した、
「花魁ってのは、ただ大尽と寝て金を落としてもらうだけの存在じゃねえんだ。この狭い囲いの中で、女が天下を取れる唯一の頂点なんだよ」
『何が天下じゃ……。親父が見世を牛耳ってるじゃねえか』
「お前から見て親父っさんが天下を取っているように思えるだろうが、その親父っさんは見世の主でしかなく、花魁たるお前の力で言い負かせることも出来るようになる。客のみならず、女郎からの羨望の眼を集め、都の御上が如く崇め奉られるようになんだ」
奈桜藤は薄雲花魁が茶屋に消えていくのを見送りながら、大助の言葉に胸が高鳴るのが分かった。あの頑固な遊佐を言い含めることが出来れば、どれほど清々しいことか。思わず笑いだしそうになった。
大助は、奈桜藤の肩に手を置き、振り向かせた、
「お前には……そんな天下を取れる素質がある。だから、逃げるな。体中が痣だらけになっても、傷だらけになっても歯を食いしばって立ち向かえ! 花辺の女将さん、大見世の女将、そして、夕顔太夫の期待を裏切るのか!? 女将さんと俺に、お前の晴れ姿を見せてくれ。比類なき花魁になるんだ」
衝撃が心を覆った。
そうだ、誰かの思いや期待を背負って、花魁になりたいと願ったのではないか? こんな所でへこたれて堪るものか。数刻前に、野垂れ死にたいと願った自分を呪ってやりたかった。
大助に送られ、「双葉楼」に戻ると、白蘭が稽古所の入口で待ち構えていた。奈桜藤は、敷石に平伏し謝罪を述べた。謝す奈桜藤の後頭部を見つめ、白蘭は静かに口を開いた、
「「松坂屋」様からお前さんのことを頼むと言われた時は、正直気が進まなんだ。しかし、呑み込みが早く、熱心に挑み続ける姿に、あたしは心を打たれた。……それに──」
そう言った後、白蘭は奈桜藤の肩に触れて顔を上げさせた、
「お前さんは若い頃の夕顔にそっくりだとも思うた」
知られざる真相を耳にし、奈桜藤は目を丸くした、
『ね、姐さんを知っているのでござりんすか?』
「あの子を教えたのはあたしだからね。禿の頃から振新になる時まで、良う良う教えてやった。夕顔の妹女郎であるお前さんのように、懸命に頑張っておった。そして、晴れて太夫になった。お前さんの大事な姐女郎のためにも、もう逃げだしたりしないと誓えるかえ?」
『はい! どうか、またご教示くださいなんし!』
決心をした奈桜藤の後ろ姿を見つめながら、大助は一言も残さず、仮宅へと戻って行った。
大助に背中を押され、間近で見た薄雲花魁の道中を参考にし、寝る間も惜しんで外八文字の練習に励んだ。そして、足に肉刺ができる程の奮闘の日々を乗り越え、七か月期間の一日を目前にして、外八文字の歩き方を見事会得したのであった。
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蒸し暑い生風が顔に張り付き、じわじわと汗が滲み出てくるのを煩わしく思いながら、団扇を手に扇いでいると、大助が徐に部屋を訪ねて来た。奈桜藤は、恥じらいを見せるでもなく片方の乳を出したまま番頭に顔を向ける、
「花魁。「梅原屋」からの呼出でごぜえやす。今宵の準備を抜かりなく……」
奈桜藤は大助が表情を一つも変えず、真顔でいるのを残念に思った。切見世時代、身体を重ねた間柄だっただけに、久しぶりに目の当たりにするであろう奈桜藤の白い柔肌を見ても動じないその姿勢に、もうかつての燃え上がった頃は遠い過去の話にしてしまっているように感じた。
もっとも、仮宅に戻って来てから面と向かって話をすることは無くなった。こうして、お客の事を報告するだけ。寂しい思いが何故か込み上げてくるのだった。
念願の花魁道中。そして奈桜藤にとって初めてのお客からの呼出。髪を櫛で整え、簪を幾本も挿し、選出の折に着た物と同様の引き摺りとし掛けを見に纏い、いざ見世を出た。
苦節五か月で得た外八文字。難なく一歩を踏み出すことが出来た。大勢の見物客の眼差しを受けながら、ただ前を見据え、お客の待つ茶屋へと迎えに出向く。均衡を崩すことなく、優雅に仲之町の花を飾った。
夕顔太夫が歩んで参った道を進み行くにつれ、奈桜藤は胸が高鳴った。
橙色に光らされた仲之町を我が物顔で往来する。それを新造としてではなく、己が中心に立ち、幇間や芸者、金棒引き、若い衆、新造、禿、遣り手を引き連れて練り歩ける日がようやく成就された事に、今までの苦労が報われたような気がした。
「これは、これは花魁。ようこそおいでなんした」
黒引きを着た「梅原屋」の女将が頭を垂れて、一行を出迎えた。見世構えにある椅子に腰かけ、奈桜藤は労いの言葉を掛けた、
『梅原のおっかさん、お気張りんす。して、旦さんはどちらへおいでなんしぇ?』
「広間に居られるざんす。ちょいとお待ちくださんし」
もう一度頭を下げ、女将が立ち去ると、道中に従って来た「夕風屋」の遣り手が耳元で囁いて来た、
「花魁、言うまでもないが、決して旦那様に声を掛けてはならない。分かっておろうな」
『わ、分かっておりんす……』
「笑みも見せるでない。頬を緩ませる事無く、ただただ前を見続けるんだよ」
『分かってると言ってるでありんしょう!」
廓に住む者に加え、通りを渡る客、同じく小さな道中をする女郎らに注意される姿を見られるのはどうも気が引けた。奈桜藤がそのことを隠しながら突っかかると、遣り手は帯に手を入れたままこちらを睨んだ、
「それなら宜しゅうござりんす」
廓の古いしきたりは先刻承知している。
一度目にお客と相対する、いわゆる【初会】では、花魁はお客とは離れた所に座り、口を利かず飲み食いもせず、ただじっと座る。この間に花魁はお客を注視し、自身に相応しい良客であるかどうかを見極める。気に入れば二度目に応じ、合わないと判断すれば袖にする。主に新造や禿、芸者や幇間がお客の相手をし花魁は他人事のように、目を合わせないのが規則だ。
二度目たる【裏】では、まさに「裏を返す」。少しの言葉を交わす事が出来、お客はようやく花魁の声が聞ける。それ以外は初会と同様である。
三度目の【馴染み】でようやくお客と夫婦固めの盃を交わし、床入りする事が叶うのだ。ここまでお客は三度の登楼をし、多額の金子を支払っている。
しばらくして、「梅原屋」の女将に手引きされたお客が、姿を現した。
覗色の着流しに縹色の紗羽織を召したその出で立ちに、奈桜藤はその人物に気品さを感じた。花魁の姿を捉えるとお客は優しく微笑み、軽く会釈をして来た。そのふとした一瞬のあどけなさに、奈桜藤は好感を持てた。
奈桜藤は遣り手の言う通りにし、言葉を掛けず徐に立ち上がり「夕風屋」へ向け、お客を先導した。
松枝から手厚く歓迎を受けたお客は、大店の商家の若旦那で、名を直孝といった。座敷では芸者によるお囃子が催され、室中が一気に賑やかさを見せた。
「旦さん、どんぞ」
芸者の踊りが披露されると夕華が銚子を手に、盃を持たせようとした。しかし、直孝は手でそれを制した、
「悪いが、私は下戸でね。君が代わりに飲みたまえ」
「あら! お気の毒でおありんす。なら、旦さんからのお勧めなら断る訳には参りんせんなぁ。頂戴致しんす」
銚子と盃を交換すると、直孝は夕華の持つ盃になみなみ注ぎ入れた。それを美味そうに飲み干す顔を見て、直孝は「梅原屋」の玄関で見た時と同様、優しく微笑んでいた。じっとその様を眺めていると、ふっとこちらを見返して来、奈桜藤はゆっくりと前を向いた。
そのまま見られてることを意識しながら、口を真一文字に結び、片膝立ちで堂々と構え、心を無に染めた。お客に見つめられることに慣れてはいたものの、目の前にいる男の目付きはどこか悲しげで、欲にまみれたお客のする、舐めるような眼差しでは無いように見受けられた。
奈桜藤は隣に座るしず葉に命じて、煙管を受け取りそれを吹かした。
それから数刻が経ち、直孝は花魁と言葉を交わすことなく、一括で揚げ代を支払った後、大門を出た。
「奈桜藤、直孝様を振ったりすんじゃないよ? きっとあの方は上客になるはずさ」
見世に戻った後、玄関で待ち構えていた松枝の忍び笑いに一瞥するだけであえて返事をしなかった。二階の部屋に引き返し、女郎とお客の喘ぎ声を聞きながら禿たちと歌留多遊びに興じた。
女将にどう言われようが、花魁はお客の選別が出来る決まりだ。
ただ、直孝の悲しげで優しい微笑みが、奈桜藤の脳裏に深く焼き付いて離れなかった。
新造だった頃、二度と登楼しなくなった悠一郎への想いはすでに消えていた。間夫を作らないと誓ったために、この感情が間夫への想いとどう違うのか、奈桜藤にはまだ分からずにいた。教えてくれる夕顔はとうに灰になり果て、この世に存在しない。
残るはもう一人の花魁の高尾であるが、奈桜藤にとって、どうも苦手な存在であった。
新花魁・奈桜藤のお披露目は新見世開業と同じ、八月に行われ、「夕風屋」は目の回る忙しさだった。見世々々の楼名主への挨拶、夕顔太夫の客だった馴染みのお大尽や上客との対面、「夕風屋」と親身にしている行商との目見えなどが続き、ようやく身体を落ち着かせられたのは八日過ぎた後のことであった。
頃は、蝉時雨降る夏。
団扇が手放せない日々がこの所多く、お客からの呼出が無い昼見世の時間の間、奈桜藤は肩と乳を出しながら一服して過ごすことが常となった。その姿を見た松枝や遣り手は、白い目を飛ばして注意してくるが、奈桜藤はことごとく突っ放している。暑くて倒れるくらいなら人目を憚らずにもろ出しになる方がマシだというのが、弱冠十七歳の若手座敷持ち花魁の考えなのだ。
火種が消え、次の煙草を詰めていると、痛々しい足の傷が目に入り、辛かったあの三か月の日々をふと思い返していた。
それは七か月前のこと。【太夫選出】において、晴れて座敷持ち花魁に選ばれた奈桜藤は息つく暇もなく、新たな課題が舞い込んで来た。花魁としての教育を受けるため、郭内にある稽古所で学ぶようにと、松枝が突然告げて来たのだ。
『そんなこと言われたって、稼ぎはどうすんだい! 稽古所に住み込んで、くだらねえ芸事を学んで、借金を返せるとでも!?』
「そうカリカリするんじゃないよ奈桜藤。分かってると思うけど、太夫……あ、いや、花魁は、大尽級のお客を相手にしなければならないんだ。いままでのように、長屋住まいの男たちがお前と寝るわけじゃないんだよ」
憤然やるかたない面持ちの奈桜藤を見つめたまま、松枝が宥めるように言った。息を弾ませながら煙管に唇を付ける奈桜藤に向かって女将は続けた、
「加えて、お前みたいに禿の時分に切見世にいた身じゃ、無知で笑われるだろう。昔っから上の女郎ってのは、茶や和歌、華の嗜み、囲碁や将棋などの勝負事、三味線や筝などの芸事を身に付けなければならないんだ」
『そんなこと出来なくったって、書き物ぐらいは出来るさ。源氏の物語なんて何度も読み返してんだ』
煙を吐きながら奈桜藤は頬を赤らめた。松枝が言ったすべての事を奈桜藤は習得していないことは事実であるので、恥ずかしく思ったのだ。
「漢詩は読めるのかい? 論語は?」
言い訳を述べる奈桜藤に向かって、女将は捲くし立てた。すかさず、奈桜藤は反論する、
『お、おっかさんこそ、空で言えるってのかい?』
「学則不固」
『……は?』
「学びて思わざれば、すなわちくらし。思いて学ばざれば、すなわちあやうし」
『な、なにを……』
意味の分からない言葉を次々に聞かされ、奈桜藤は狼狽えた。松枝はその言葉の意味に解釈を加え始めた。すべて、論語から来ている言である。
「本を読みあさるだけで自分の思慮を怠ると、物事の道理が身につかず、何の役にも立たない。逆に思いを巡らすのみで本を読んで学ばなければ、独断的になり危険だ、という意味だ。さっきの学則不固は、学問をし、物の道理を弁えて意固地になるなって意味だよ」
器量良しと認められた禿は早くから花魁教育を施され、嫌でも真摯に学びに向き合い、習得して行った。
「大生屋」にいた頃は、ひらがなの修練に励んでいたが、姐女郎たる太夫からは見放され、次期太夫候補にと見込まれておらず、文を送るための読み書きしか学んで来なかった。
更に詳しく話を聞けば、これは、花魁として相応しい女郎になれるようにと「松坂屋」の楼主が手配した措置らしかった。自分を推薦してくれた「松坂屋」の親父様の考えならと、奈桜藤は仮宅を離れ、稽古所に向かうことを渋々決意したのだった。
仮宅を離れる日がやって来た。ところが荷物を風呂敷に詰めていざ見世の入口で別れの挨拶を皆に述べていると、奈桜藤の禿として勤める事となったしず葉が、直前になって駄々をこね始め、それを宥めるのに苦労した、
「嫌だい、嫌だい!! 奈桜藤姐さんが居なくなるなんて嫌だぁい!!」
『我儘を言わないでおくれよ、しず葉……。何度も言ったろう? しばし見世を空けるだけ。夏には戻るからさ──』
七か月の期間が奈桜藤に設けられていた。当初は、一年の期間は欲しいところだと「松坂屋」の楼主は条件を出して来たのだったが、高尾花魁だけのお職では心配だという松枝の強い希望が聞き入れられ、五か月短くなったのだ。
しかしそれは、奈桜藤が食事と寝ること以外芸事や学びに勤しむことしか出来ないということを意味していた。
「それでも嫌だい! 姐さんのいない節分と花見なんて嫌だぁい!!」
袖を振り回しながら今にも泣きだしそうなのを、松枝が首根っこを掴んで止めさせた、
「しず葉!! 折檻されたいのかい? この間の選出の場に乗り込んだことも含めて、水責めにしちまうよ!」
「ひっ……」
強烈な一言で脅され、しず葉の涙はピタッと止んだ。
後ろ髪を引かれる思いで一刹那、仮宅を後にし、奈桜藤は松枝と大助と共に吉原へと向かった。【太夫選出】で選ばれた引込経らずの花魁という事で仲之町を通る間中、通り過ぎる人々からひたすらに注目を集めた。しかし一行は堂々とした足取りで、茶屋としても役割を持つ、「双葉楼」に辿り着いた。
【太夫選出】で場を借りた「朝霞楼」と一、二を争うであろう広い敷地を持ち、稽古所としての場と茶屋としての場の間には広大な庭で隔てあった。三人が稽古所の入口を上ると、長身の若い女将が、にこやかな笑みを浮かべて迎えてくれた。
「ようこそ、いらっしゃいました。皆様。どうぞお上がりくださんせ」
座敷へ通されると、そこには、「松坂屋」の楼主が、茶を啜りながら待ち構えていた。思いがけない再会に、奈桜藤は心から喜んだ。一堂下座に座し、両手を付いて甲斐甲斐しく挨拶をすると、「松坂屋」は愉快そうに笑った、
「【選出】以来じゃなあ。今日は激励に参った。これから夏までの間、修練に励むが良いぞ」
『わざわざのお出向き、お見世がお忙しいのにも関わらず、あちきなんかの為においでくださり、誠にありがとうござんす。精一杯学ばせて頂きんす故、どんぞ、お見守り下されば嬉しゅうござんす』
丁寧に、しかし謙虚に挨拶を述べる奈桜藤に松枝は思わず吹き出しそうになった。あんなに嫌がっていたのにも関わらず、さすがに大見世の楼主の前ではしっかりとした言葉遣いで話す様に感心すらしたのだった。
「松坂屋」は満足そうに笑いながら、傍近くに座っている白麻の小袖に紗の黒羽織を来た女人を紹介した、
「こちらの方は「双葉楼」の大女将で、稽古所の師範であられる、白蘭殿だ」
白蘭という、顔に刻まれた数多の皺の割には髪は黒々と輝き、勝山に結ってこちらを真っ直ぐ見据えて軽く会釈をした。
「奈桜藤花魁」
『あい……』
急に呼ばれ、奈桜藤は戸惑った。
「白蘭殿はとても厳しいお方だからのう、余り怒らせるような真似はするでないぞ?」
『は、はい……』
緊張気味に応えると、「松坂屋」は空気を裂くような笑い声を上げて、松枝と大助も同様にビクつかせた。何故笑ったのか? 冗談か否かもわからぬまま、「松坂屋」は松枝に声を掛け、共に連れ立って座敷を去って行った。
奈桜藤が振り向くと、女将はちらっとこちらを見つめ、「頑張るんだよ」と励ましの言葉を掛けた。ふと立ち上がりがけの大助を見ると、一言「逃げんなよ」と残し、二人の後を追って行った。
ここから、奈桜藤の修練づくめの日々が始まった。
元来、学ぶことが好きな性分であった奈桜藤は、特に苦労する事もなく、大女将からの厳しい扱きにも難無く耐え、色々なことを吸収して行った。
茶や和歌、華に漢詩、三味線に筝、囲碁に将棋と、松枝が言っていた物らの他に、古典や琴、漢書なども学んだ。
凄まじい勢いで会得していく新人花魁に、白蘭は感服する思いだった。
「あの子は随分と根性が据わった女郎だ。逃げ出そうともしなんだ」
「しかし、あれに耐えられるでしょうか」
「見てのお楽しみだ。三年、女郎によっては五年は掛かる苦労だからねぇ」
奈桜藤が眠りについていた真夜中、表の茶屋を任されている白蘭の義娘である若女将との会話を当の本人は知る由もなかった。
若女将が言うあれとは、翌朝「双葉楼」の庭に置かれた、三枚歯の黒漆の高下駄のことだった。
仮宅を後にしてから二か月が経ったが、呑み込みが早かったため、【道中】の修練を前倒しで始めようと、白蘭は開口一番に言うのだった。
憧れの【道中】の練習に一瞬胸が躍った奈桜藤だったが、その思いは脆くも崩れ去った。乗るのにも一苦労で、一歩を踏み出すのすら簡単ではなかった。下駄自体がとても重く、自身の体重では支えられずに、足が下駄を離れ、何度地面に転げ落ちたことか。
その日は【道中】の修練を手始めに、午後から芸事や習い事を開始したが、それ以降は夕方からの道中練習に切り替わった。手習いのし過ぎで頭がぼうっとする中で身体の均衡を保ちながら手の空いた若い衆の肩を借りて練り歩く。しかし、その動作ははぎこちない事この上なかった。
茶屋で待つお客を迎えに行く【花魁道中】、その歩き方は【外八文字】と決まっている。足首が折れるのではないかと思うほどに脚を斜め横に滑らせ、右足、左足と弧を描いて前で勢いよく止まる。頭では分かっているものの、体が言うことを聞かず、上半身を真っ直ぐにすることが出来ず、若い衆に覆いかぶさるように落ちるのだった。
更に二か月経っても上達することはなく、白蘭は何度も奈桜藤を怒鳴った、
「何度やったら気が済むんだい!! あとひと月しかないよ! 約束は守ってくれなきゃ、あたしの面目が丸つぶれだよ!」
『申し訳ござんせん……』
優しかった白蘭が鬼の形相でこちらを見つめて来た。体罰まではいかないが、既に心が壊れそうだった。何十回、何百回とやっても真っ直ぐと背筋を正して一歩を踏み出すことが出来なかった。
白蘭自身も胸が痛む思いで激昂した。気持ちが焦っているというのもあるが、そもそも、外八文字を五か月で習得することは不可能だ。己も太夫だった為、はっきり分かる。白蘭は四年掛かった。新造の頃から毎夜と練習を重ね、次期太夫として選ばれた時には身体が慣れて行った。
正直に言って、期間が短い奈桜藤を哀れに思った。
そして二日経ったある日、とうとう奈桜藤が稽古所を抜け出した。若い衆らは探し出そうと言い出したが白蘭は急に消極的になった。心にぽっかりと穴があいたような気持ちになり、奈桜藤の思いを汲み取り、若い衆らを引き止めた。
奈桜藤はひたすらに歩き続けた。時折通行人にぶつかりながら、「双葉楼」から離れた町内を果てなく歩いた。幸いなことと言えば、五月の晴れ間だということぐらいだ。
「松坂屋」の楼主に見つかりでもしないかと冷や冷やしながら、当てどない旅路を歩んだ。囲いの中を許しなく抜け出すことは足抜けと見做されるため仮宅に戻ることも出来ない。松枝にも、自分が抜け出した報せが行っていることだろう。
何刻か経ったろうか……。外八文字の影響で足に鋭い痛みが走り、歩くのにも苦痛が伴った。
茶屋と茶屋の間の細長い裏路地に入り、壁に寄りかかりながら時が経つのをひたすらに待った。このまま野垂れ死んで消えてしまえばいい、そう思い始めるようになっていた。松枝にも顔向け出来ない。このままどうすればよいのか考えあぐねていると、突如、男の声がした、
「おーい、こんな所で何やってんだよ」
振り向くと、大助が裏路地の入口に立っていた。捕まるまいと立ち上がりかけた奈桜藤だったが、もはや動く力は残っていなかった。
狭い路地に身体をねじらせながら大助は奈桜藤に近付いた。
「女将さんに言われて「双葉楼」に行ってみりゃあ、逃げ出したって言うから……探しに行けばこのザマか。孔雀から鼠にでも成り下がったか?」
掃除も行き届いていない泥だらけの地面に座り込んでいる奈桜藤を大助は鼻で笑った。
『うっせえ! 番頭ってのは暇なのかい? こんな所で油売ってていいのかねえ』
「相変わらず言葉遣いがなってねえな。厳しいという噂の「双葉楼」の女将の前ではいい子ぶりを発揮してんだな」
奈桜藤は、悪態をつくことに関しては一丁前であった。白蘭や「双葉楼」の若女将に対し丁寧な口調で話していたからか反動が溢れ出てしまい、大助のわざとらしい煽りに唾をお見舞いしてやろうと思った。しかしそれすらも力が出なかった。
「ただ、大門から出なかったことは褒めてやる」
大助は、奈桜藤の隣にしゃがみ込み、乱れ切った頭を撫でて来た。何故か、胸が一瞬脈打った。
すると、遠くで金属音が鳴り響いた。仲之町の方面からだった。その音を聞き付け、大助は俄かに立ち上がり、奈桜藤の腕を引いた、
「始まったか。ほら、よし! 立て」
痛い足を引きずりながら、大助に引かれるがまま仲之町に向かった。茶屋沿いには大きな人だかりが出来ていた。
『なんなんだよ! 急に走り出すんじゃねえよ……』
腕を振り払い、奈桜藤は足首を摩った。
「しっ! 文句は後にしろ。とりあえず……見てみろ」
顔を上げると、大見世「糸菊屋」の薄雲花魁の道中が始まった。箱提灯を持った男衆の掛け声と共に、金棒引きが音鳴らし、ゆっくりと行進して行った。
奈桜藤は、足の痛みなど忘れてしまうほどに薄雲花魁の道中に魅入っていた。華麗にしかし威厳を保ちながら、重いであろう黒漆塗りの三枚歯下駄が地面の砂を蹴った。花魁の上半身を見れば、白蘭が言っていたようにまったく振れもせず前をただひたすら見つめている。
どうすればあんな優雅に歩けるのか、奈桜藤は食い入るように見つめた。やがて、大助は語り出した、
「花魁ってのは、ただ大尽と寝て金を落としてもらうだけの存在じゃねえんだ。この狭い囲いの中で、女が天下を取れる唯一の頂点なんだよ」
『何が天下じゃ……。親父が見世を牛耳ってるじゃねえか』
「お前から見て親父っさんが天下を取っているように思えるだろうが、その親父っさんは見世の主でしかなく、花魁たるお前の力で言い負かせることも出来るようになる。客のみならず、女郎からの羨望の眼を集め、都の御上が如く崇め奉られるようになんだ」
奈桜藤は薄雲花魁が茶屋に消えていくのを見送りながら、大助の言葉に胸が高鳴るのが分かった。あの頑固な遊佐を言い含めることが出来れば、どれほど清々しいことか。思わず笑いだしそうになった。
大助は、奈桜藤の肩に手を置き、振り向かせた、
「お前には……そんな天下を取れる素質がある。だから、逃げるな。体中が痣だらけになっても、傷だらけになっても歯を食いしばって立ち向かえ! 花辺の女将さん、大見世の女将、そして、夕顔太夫の期待を裏切るのか!? 女将さんと俺に、お前の晴れ姿を見せてくれ。比類なき花魁になるんだ」
衝撃が心を覆った。
そうだ、誰かの思いや期待を背負って、花魁になりたいと願ったのではないか? こんな所でへこたれて堪るものか。数刻前に、野垂れ死にたいと願った自分を呪ってやりたかった。
大助に送られ、「双葉楼」に戻ると、白蘭が稽古所の入口で待ち構えていた。奈桜藤は、敷石に平伏し謝罪を述べた。謝す奈桜藤の後頭部を見つめ、白蘭は静かに口を開いた、
「「松坂屋」様からお前さんのことを頼むと言われた時は、正直気が進まなんだ。しかし、呑み込みが早く、熱心に挑み続ける姿に、あたしは心を打たれた。……それに──」
そう言った後、白蘭は奈桜藤の肩に触れて顔を上げさせた、
「お前さんは若い頃の夕顔にそっくりだとも思うた」
知られざる真相を耳にし、奈桜藤は目を丸くした、
『ね、姐さんを知っているのでござりんすか?』
「あの子を教えたのはあたしだからね。禿の頃から振新になる時まで、良う良う教えてやった。夕顔の妹女郎であるお前さんのように、懸命に頑張っておった。そして、晴れて太夫になった。お前さんの大事な姐女郎のためにも、もう逃げだしたりしないと誓えるかえ?」
『はい! どうか、またご教示くださいなんし!』
決心をした奈桜藤の後ろ姿を見つめながら、大助は一言も残さず、仮宅へと戻って行った。
大助に背中を押され、間近で見た薄雲花魁の道中を参考にし、寝る間も惜しんで外八文字の練習に励んだ。そして、足に肉刺ができる程の奮闘の日々を乗り越え、七か月期間の一日を目前にして、外八文字の歩き方を見事会得したのであった。
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蒸し暑い生風が顔に張り付き、じわじわと汗が滲み出てくるのを煩わしく思いながら、団扇を手に扇いでいると、大助が徐に部屋を訪ねて来た。奈桜藤は、恥じらいを見せるでもなく片方の乳を出したまま番頭に顔を向ける、
「花魁。「梅原屋」からの呼出でごぜえやす。今宵の準備を抜かりなく……」
奈桜藤は大助が表情を一つも変えず、真顔でいるのを残念に思った。切見世時代、身体を重ねた間柄だっただけに、久しぶりに目の当たりにするであろう奈桜藤の白い柔肌を見ても動じないその姿勢に、もうかつての燃え上がった頃は遠い過去の話にしてしまっているように感じた。
もっとも、仮宅に戻って来てから面と向かって話をすることは無くなった。こうして、お客の事を報告するだけ。寂しい思いが何故か込み上げてくるのだった。
念願の花魁道中。そして奈桜藤にとって初めてのお客からの呼出。髪を櫛で整え、簪を幾本も挿し、選出の折に着た物と同様の引き摺りとし掛けを見に纏い、いざ見世を出た。
苦節五か月で得た外八文字。難なく一歩を踏み出すことが出来た。大勢の見物客の眼差しを受けながら、ただ前を見据え、お客の待つ茶屋へと迎えに出向く。均衡を崩すことなく、優雅に仲之町の花を飾った。
夕顔太夫が歩んで参った道を進み行くにつれ、奈桜藤は胸が高鳴った。
橙色に光らされた仲之町を我が物顔で往来する。それを新造としてではなく、己が中心に立ち、幇間や芸者、金棒引き、若い衆、新造、禿、遣り手を引き連れて練り歩ける日がようやく成就された事に、今までの苦労が報われたような気がした。
「これは、これは花魁。ようこそおいでなんした」
黒引きを着た「梅原屋」の女将が頭を垂れて、一行を出迎えた。見世構えにある椅子に腰かけ、奈桜藤は労いの言葉を掛けた、
『梅原のおっかさん、お気張りんす。して、旦さんはどちらへおいでなんしぇ?』
「広間に居られるざんす。ちょいとお待ちくださんし」
もう一度頭を下げ、女将が立ち去ると、道中に従って来た「夕風屋」の遣り手が耳元で囁いて来た、
「花魁、言うまでもないが、決して旦那様に声を掛けてはならない。分かっておろうな」
『わ、分かっておりんす……』
「笑みも見せるでない。頬を緩ませる事無く、ただただ前を見続けるんだよ」
『分かってると言ってるでありんしょう!」
廓に住む者に加え、通りを渡る客、同じく小さな道中をする女郎らに注意される姿を見られるのはどうも気が引けた。奈桜藤がそのことを隠しながら突っかかると、遣り手は帯に手を入れたままこちらを睨んだ、
「それなら宜しゅうござりんす」
廓の古いしきたりは先刻承知している。
一度目にお客と相対する、いわゆる【初会】では、花魁はお客とは離れた所に座り、口を利かず飲み食いもせず、ただじっと座る。この間に花魁はお客を注視し、自身に相応しい良客であるかどうかを見極める。気に入れば二度目に応じ、合わないと判断すれば袖にする。主に新造や禿、芸者や幇間がお客の相手をし花魁は他人事のように、目を合わせないのが規則だ。
二度目たる【裏】では、まさに「裏を返す」。少しの言葉を交わす事が出来、お客はようやく花魁の声が聞ける。それ以外は初会と同様である。
三度目の【馴染み】でようやくお客と夫婦固めの盃を交わし、床入りする事が叶うのだ。ここまでお客は三度の登楼をし、多額の金子を支払っている。
しばらくして、「梅原屋」の女将に手引きされたお客が、姿を現した。
覗色の着流しに縹色の紗羽織を召したその出で立ちに、奈桜藤はその人物に気品さを感じた。花魁の姿を捉えるとお客は優しく微笑み、軽く会釈をして来た。そのふとした一瞬のあどけなさに、奈桜藤は好感を持てた。
奈桜藤は遣り手の言う通りにし、言葉を掛けず徐に立ち上がり「夕風屋」へ向け、お客を先導した。
松枝から手厚く歓迎を受けたお客は、大店の商家の若旦那で、名を直孝といった。座敷では芸者によるお囃子が催され、室中が一気に賑やかさを見せた。
「旦さん、どんぞ」
芸者の踊りが披露されると夕華が銚子を手に、盃を持たせようとした。しかし、直孝は手でそれを制した、
「悪いが、私は下戸でね。君が代わりに飲みたまえ」
「あら! お気の毒でおありんす。なら、旦さんからのお勧めなら断る訳には参りんせんなぁ。頂戴致しんす」
銚子と盃を交換すると、直孝は夕華の持つ盃になみなみ注ぎ入れた。それを美味そうに飲み干す顔を見て、直孝は「梅原屋」の玄関で見た時と同様、優しく微笑んでいた。じっとその様を眺めていると、ふっとこちらを見返して来、奈桜藤はゆっくりと前を向いた。
そのまま見られてることを意識しながら、口を真一文字に結び、片膝立ちで堂々と構え、心を無に染めた。お客に見つめられることに慣れてはいたものの、目の前にいる男の目付きはどこか悲しげで、欲にまみれたお客のする、舐めるような眼差しでは無いように見受けられた。
奈桜藤は隣に座るしず葉に命じて、煙管を受け取りそれを吹かした。
それから数刻が経ち、直孝は花魁と言葉を交わすことなく、一括で揚げ代を支払った後、大門を出た。
「奈桜藤、直孝様を振ったりすんじゃないよ? きっとあの方は上客になるはずさ」
見世に戻った後、玄関で待ち構えていた松枝の忍び笑いに一瞥するだけであえて返事をしなかった。二階の部屋に引き返し、女郎とお客の喘ぎ声を聞きながら禿たちと歌留多遊びに興じた。
女将にどう言われようが、花魁はお客の選別が出来る決まりだ。
ただ、直孝の悲しげで優しい微笑みが、奈桜藤の脳裏に深く焼き付いて離れなかった。
新造だった頃、二度と登楼しなくなった悠一郎への想いはすでに消えていた。間夫を作らないと誓ったために、この感情が間夫への想いとどう違うのか、奈桜藤にはまだ分からずにいた。教えてくれる夕顔はとうに灰になり果て、この世に存在しない。
残るはもう一人の花魁の高尾であるが、奈桜藤にとって、どうも苦手な存在であった。
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